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14X-mas2.インマヌエルのイエス様

mas2, インマヌエルのイエス様, 2014年クリスマス特集第2講(新聖歌75番)インマヌエルのイエス様御言葉:マタイの福音書1:18−25要 節:マタイの福音書1:231.マリヤは、ヨセフとどんな関係にありましたか, 。マリヤは、何によって身重になったことが、分かりましたか, 18b,ルカ1, 。「聖霊によって身重になった」ことは、イエス・キリストが、どんな方であることを語ってくれるのでしょうか, ルカ1, 。2.マリヤが身重になったことが分かった時の、ヨセフの心境はどうだったのでしょうか, 。なぜヨセフは、彼女を内密に去らせようと決めたのでしょうか, 19,申22, 。夢の中で、ヨセフに現れた主の使いは、ヨセフをどのように助けてくれましたか, 。3.また、主の使いは、生まれてくる男の子に、どんな名前をつけるようにと、命じましたか。この方は、何をするために、お生まれになったのでしょうか, 21,ルカ2, 。4.このすべての出来事は、どんな預言の言葉が成就するためだったのでしょうか, 22,イザ7, 。「インマヌエル」とは、どんな意味でしょうか, 。「神は私たちとともにおられる。」ことは、私たちにとって、どれだけ大きな恵みなのでしょうか, ヨハ1, 。5.眠りから覚めたヨセフは、どのようにして、その妻を迎え入れましたか, 。ヨセフが、このことを真剣に信じていたことが、何によって示されているのでしょうか, 。私たちが素晴らしい救い主の誕生を迎えるためには、どうしたら良いのか、話してみましょう。

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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

14Matthew16.あなたのみこころのように

14matthew16, あなたのみこころのように, 2014年マタイの福音書第16講(200)あなたのみこころのように御言葉:マタイの福音書26:31−56要 節:マタイの福音書26:391.イエス様は、弟子たちがどうなる、と言われましたか, 31,ゼカリヤ13, 。イエス様と弟子たちは、どこで再会するようになりますか, 。ペテロと弟子たちは、イエス様の預言に対して、どうだと言い張りましたか, 。しかし、イエス様は彼らの裏切りについて、どのように断言されましたか, 。2.ゲツセマネに行かれたイエス様は、悲しみもだえながら、弟子たちに何を頼まれましたか, 。それから、すこし進んで行って、どのように祈られましたか, 。「この杯」とは、何を意味しているのでしょうか。イエス様はなぜ、これほどまでに祈らなければならなかったのでしょうか。3.イエス様の祈りは、さらにどのように進展していきましたか, 。寝ていた弟子たちには、どのように警告されましたか, 。三度目の祈りが終わると、イエス様の心はどのように変えられましたか, 。私たちが、目を覚まして祈らなければならない理由は、何でしょうか。4.十二弟子の一人であるユダは、誰と一緒にイエス様を捕えに来ましたか, 。彼らは、イエス様をどのように捕えましたか, 。この光景を見ていたペテロは、どんな行動に出ましたか, 。イエス様は、ペテロをどのように、お叱りになりましたか, 。また、群衆たちには、イエス様が捕えられたのが神様の御旨であることを、どのように説明されましたか

14Matthew12.心から兄弟を赦しなさい

14matthew12, 心から兄弟を赦しなさい, 2014年マタイの福音書第12講(343)心から兄弟を赦しなさい御言葉:マタイの福音書18:15−35要 節:マタイの福音書18:351.もし、兄弟が罪を犯した場合、どうすれば良いのでしょうか, 。兄弟のために、地上で心を一つにして祈ることは、どれだけ大切なことなのでしょうか, 。2.兄弟が自分に対して罪を犯した場合、どこまで赦すべきでしょうか, 。主人は、一万タラントの借りのあるしもべの借金を、どのように免除しましたか, 。3.ところが、一万タラントの借金を免除してもらったしもべは、自分に百デナリの借りのある仲間を、どのように扱いましたか, 。彼の問題は、何だったのでしょうか, 。4.彼は、主人からどのような罰を受けることになりましたか, 。私たちが、心から兄弟を赦さなければならない理由は、何でしょうか

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14x-mas3.この上もない喜びのクリスマス

mas3, この上もない喜びのクリスマス, 2014年関東地区聖誕礼拝この上もない喜びのクリスマス御言葉:マタイの福音書2:1−12要 節:マタイの福音書2:101.イエス様はいつ、どこでお生まれになりましたか, 。この時、東方の博士たちがエルサレムに来た目的は何でしょうか, 。なぜ、ヘロデ王とエルサレム中の人は恐れ惑ったのでしょうか, 。2.ヘロデは、どのようにして、イエス様がお生まれになる場所を知るようになりましたか, 。預言者の預言によると、この地でお生まれになるイエス様はどのようなお方ですか, 6,ミカ5, 。3.博士たちは、どのようにして幼子のおられる所まで、進んで行くことができましたか, 。星を通して、博士たちを幼子イエス様のところに導いてくださった神様について、話してみましょう。博士たちの喜びはどうでしたか, 。4.博士たちが幼子を見、ひれ伏して拝んだのにはどんな意味がありますか, 。彼らはなぜ、三つの贈り物をささげたのでしょうか, 。私たちは、今年のクリスマスをどのようにして、迎えたら良いでしょうか。5.博士たちは、なぜ別の道から自分の国へ帰って行ったのでしょうか, 。ここに、幼子イエス様を保護しておられる神様の御手の働きが、どのように現れているのでしょうか。

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Matthew06M  十二弟子をお遣わしになったイエス様

14Matthew06M , 十二弟子をお遣わしになったイエス様, 2014年マタイの福音書第6講 十二弟子をお遣わしになったイエス様御言葉:マタイの福音書10:1−33要 節:マタイの福音書10:1「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」 先週、私たちはイエス様がツァラアトに冒された人、中風やみの人、熱病の人を癒してくださったことを学びました。また、御言葉を持って悪霊どもを追い出し、病人の人々をみな癒されたことも学びました。イエス様には病人を癒し、悪霊どもを制する権威があったのです。今日の本文にはイエス様がその権威を12弟子にお授けになったことが記されてあります。それは12弟子たちを通しても悪霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すためです。結局、イエス様が遣わされた12使徒を通してイスラエルに神の国が伝えられ、やがて世界に伝えられて行きました。そして、今日も、神様は私たちにその権威をお授けになり、私たちを通してこの日本の47都道府県、アジア47か国、世界に神の御国が宣べ伝えられて行くことを望んでおられます。 そこで、今日は御言葉を通して12弟子に与えられた権威と力が自分に与えられているという認識をし、信じて行きたいと思います。また、12弟子のように、私たちもこのように遣わされていることを認識し、遣わされた者としての心構えと信仰を学びたいと思います。どうか、本文の御言葉を通してイエス様の弟子としての自分のアイデンティティと信仰を新たにすることができるように祈ります。 ?.12弟子に権威をお授けになったイエス様1節をご覧ください。「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやすためであった。」とあります。イエス様は宣教のために、十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになりました。12弟子とは、すでに神様に選ばれている人たちです。彼らには霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒すための権威が授けられたのです。従って神様に選ばれた人々は神様からの権威、力があると信じていなければなりません。「自分に力がある」と思って働く人と、「私にはそんなものはないからできない」という人の働きに違いがあります。私がイエス・キリストを信じる前は、自分にはなんの力もないと思っていました。今も信仰が弱くなると「自分に力量が足りない」と思ってしまう時があります。するとあれもこれもできないという人として生きるしかありませんでした。何もかも否定的に考えてしまいます。しかし、私に信仰がある時は違います。何でも神様から与えられると思います。自分には力があると思うのです。たまに、その思いが強すぎて高ぶり、注意されて高慢を悔い改める時もあります。ただ、確かに言えることは自分たちが持ってあると思うならば大胆に働くことができるということです。私は職場でも私にはできないと言わないで何でもやろうと思って来ました。すると、ほんとうにいろんなことができるようになりました。病人のために祈ることもできます。悪霊どもを追い出そうとします。すると悪霊は出て行きます。私は宣教師生活を始めた時、悪霊によって苦しめられる時がしばしばありました。なかなか眠れず体は衰えて行きました。耳からも黄門からも血が出る時もありました。でも聖書から教えられたとおりに、イエス・キリストの御名によって悪霊どもを追い出すことができました。ほんとうに神様から権威が与えられていると信じているといろんなことができるようになるのです。12弟子も最初から力ある人たちではありませんでした。もちろん、今日は、彼らが世界で20億を超えるクリスチャンだけではなく、一般の人々にも知られた有名人になっています。実際に彼らは力あるわざと不思議と奇跡を行ないました。でも、イエス様に選ばれる当時は、とても平凡な人たちだったのです。2, 4節をご覧ください。「さて、十二使徒の名は次のとおりである。まず、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとイエスを裏切ったイスカリオテ・ユダである。」とあります。この12人はほとんどが漁師出身です。学校に行ったことがない田舎者です。ひとりとして立派な経歴や地位がある人は誰もいません。この世の取るに足りない者や見下されている者です。イエス様は、この十二人をイスラエルに遣わしました。「遣わす」とはギリシャ語で「アポステロー, αποστελλω, 」です。「ある特殊な任務を与えて権限を委ねる」という意味があります。国の特殊な任務を与えられ、大統領の権限が委ねられている大使のことです。イエス様は12弟子に汚れた霊どもを制する権威を授けて大使として遣わされたのです。そこで、弟子たちはイエス様から授けられた権威と力を受けとって行きます。彼らは「自分には神様からの力がある」と信じて働くようになります。実際に彼らが遣わされて行くと、ほんとうに偉大な働きができました。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられるようになったのです, かつて、彼らは平凡な人、無学の人たちでした。しかし彼らがイエス様から権威が授けられていることを信じた時、イエス様のような働きができたのです。使徒の働きに記されている通りに、彼らは今日までも続けられている世界宣教の土台を築き上げる歴史の主役として働くことができました。では、イエス様が12人を使徒として遣わされる時に何を教えてくださいましたか。?., 使徒派遣の時に教えられたイエス様の命令(5, 33)5a節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。」とあります。イエス様は12使徒を遣わす時、彼らに命じられたほどに強調して教えてくださったことは何でしょうか。ここで、私たちはイエス・キリストの弟子、伝道者として使命と信仰を学ぶことができます。第一に、近い所から遠くに、継続的に伝道すること, 。5b, 8節をご覧ください。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町にはいってはいけません。イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。行って、『天の御国が近づいた。』と宣べ伝えなさい。, 病人をいやし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者を清め、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」とあります。異邦人はユダヤ人以外の人々をさす言葉です。サマリヤ人と言うのはユダヤ人ですけれども、狭い意味ではユダヤ人とは区別されています。外国までは言えませんが、ほぼ外国に近い扱いをされていました。ですから、イエス様はまず異邦人の所に行くな、サマリヤ人の所にも行くなと言われたわけです。ただ、イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさいと命じられました。このようにサマリヤ人とイスラエル人を分けることはイエス様の全体的な教えからも、キリスト教精神全体から言っても矛盾しています。どうしてイエス様はこういうことを言われたでしょうか。それは伝道の原則を言ったのではなく、むしろ具体的な伝道方策を示したものだと思います。具体的な伝道対策です。「近きより遠きに及ぼす」という言い方があります。初めから近い所も遠い所も平等に考えるというのは、方法としては具体性を欠きます。近い所から始めて、遠くへ及ぼさなければなりません。そう言うわけでイエス様は使徒たちを派遣する時に、かなり具体的な方策のことを教えてくださったのです。私たちも、まずは自分の身近にいる人々に伝道する方策を持つことは大事だと思います。○○牧者は息子から始め、家族の救いのために祈って来ました。私が知っている限り、誰よりも家族のために熱心に祈っておられますが、それはイエス様が教えてくださる伝道方策なのです。もちろん、私たちは家族だけではなく、近い親戚、友人、日本人、世界の人々に伝道しなければなりません。宣教師たちは全く知らなかった人々を救うために地の果てにまで行きます。ただ、伝道方策としてはまず近くにいる人から伝道するということです。主にキャンパス宣教を使命にしている私たちは近くにある早稲田大学を始め、東京都内のすべての大学、日本の四十七都道府県、アジア47カ国、そして全世界の大学へ出て行くことを望んでいます。私たちが26年前に日本宣教を始めるとき、教会の近くに東京外国語大学がありました。それで、東京外大に行って伝道しましたが、外大出身のマリ・ロペス宣教師がアメリカに遣わされて行きました。私たちが家族を始め、近くにいる人々から伝道して行くうちに福音が世界に広がることを信じます。遣わされた弟子たちが伝道する内容は「神の国」です。まず、「行って、『神の御国が近づいた。』と宣べ伝える」ことです。私たちが神の御国の福音を宣べ伝えると、受け入れず、迫害する人々もいますが、素直に受け入れる人々がいます。神様は私たちに権威を授けてくださったからです。そして福音を心から受け入れさえすれば神様の支配を受けるようになります。神の御国の民になるのです。そうすると、病人が癒され、死人が生き返らされ、ツァラアトに冒された者がきよめられます。従って、イエス様から遣わされた弟子たちは大胆に『神の国が近づいた。』と宣べ伝えなければなりません。しかも、ただで受けたのだから、ただ与える生活をしなければなりません。宣教はイエス様から受けた無償の愛をイエス様のように伝えていくことです。ただで、神の国を宣べ伝え、人々を助けるなら、, その人に必要なものは神様が満たしてくださいます。「働く者が食べ物を与えられるのは当然だからです。」神様は宣教する人を迎え入れ、仕える人も備えてくださいます。この間、ドイツの国際修養会に参加した時に、宣教師たちとの交わりの中で印象的に残っている言葉があります。アジア人が伝道することを無視し、迫害する人々が多いですが、心の優しい人々もいたということです。アジア人にも優しく、受け入れてくれる良きサマリヤ人のような人々がいるのです。だから、金曜日にアブラハム李宣教師が報告したようにケルンUBFでは主日礼拝に斬新な学生たちが50名も超えるみわざが起こっているでしょう。 ですから、伝道者はどんな町や村にはいっても、そこでだれが適当な人かを調べて、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまらなければなりません。ここでの「適当な人」は、神の国の福音を受け入れそうな人のことです。その人の家にはいる時には平安を祈るあいさつをしなければなりません。その家がそれにふさわしい家なら、その平安はきっとその家にきます。しかし、もしふさわしい家でないなら、その平安は平安を祈る人のところに返ってきます。では迫害をする人たちに対してはどうすればいいでしょうか。16節をご一緒に読んでみましょう。「いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」この世の人々は狼のようであり、12弟子たちは羊のようであることが分かります。弟子たちは狼の群れの中に投げ込まれた羊のように弱い存在なのです。とても厳しく、絶望的な状況です。私たちも弱くて狼のように強い人々に伝道することはやさしくありません。だからこそ、私たちには「蛇の賢さ、知恵」と「鳩の素直さ」を上手に使い分ける能力が必要です。ではどのようにして蛇の賢さ、鳩の素直さを身につけることができるでしょうか。19、20節をご覧ください。「人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。」とあります。聖霊が私たちを助けてくださるということです。聖霊によって私たちは知恵を賢明に用いることができます。聖霊に従うことによって鳩のような素直さを保つことができます。聖霊は、私たちに知恵を与えられ、私たちを助け、守ってくださいます。聖霊は狼の群れの中にいる羊のような弱い私たちに知恵と素直さを与えられます。聖霊は私たちが迫害を恐れることなく、宣教を続けることができるようにしてくださるのです。ですから、私たちはどんなに迫害されても宣教を続けることが大切です。先週、金曜日に私たちはアブラハム李宣教師の所感発表の後に長男結婚式のビデオも見ました。ほんとうに祝福されているんだなあと思いましたが、サラ李宣教師の一言が心にちんと伝わって来ました。サラ李宣教師はあまりにも小さい時にお父さんが亡くなられたのでお父さんの存在すら知らずに育ちました。中学生になってからお父さんとお祖父さんが共産党の人によって同じ日に殺されたことが分かりました。どんなに悲しかったでしょうか。暗くて運命的な人生を生きるしかありませんでした。しかし、聖書勉強を通してイエス様に出会い、救われて笑う人に変えられました。ドイツの宣教師になりました。看護師としての働きながらドイツの学生たちに伝道し、弟子養成をすることは決してやさしくありませんでした。多くの方が離れて行きました。でも、困難があっても信仰の中心を守り、宣教を続けたときに、大いに祝福されました。宣教の実が結ばれ、二人の子どもたちも大いに祝福されました。サラ宣教師は神様が信仰の中心を守らせてくださったと言いましたが私たちの宣教活動が継続すると、そのうちに神様の愛を体験し、神様の報いを受けるようになります。第二に、人を恐れず、神様を恐れること, 。24節をご覧ください。「弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。」とあります。このことばは当時のことわざです。意味は、弟子が教師に勝ることは無いというものです。イエス様はこのことばによって、師である私と同じ働きをする者は、私以上の扱いを迫害者から受けることがないと明言されたのです。これを言い替えるなら、弟子たちはその師であるイエス様ほどには憎まれることはない、またイエス様と同じ苦しみを経験することはあっても、それ以上に苦しむことはないということになります。だから、迫害されても迫害する彼らを恐れてはいけません。すべての真理は神様が必ず明らかにされます。私たちがまことに恐れなければならないのは人ではありません。28節をご覧ください。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。私たちが神様を恐れると、神様が私たちを守ってくださいます。29, 31節をご覧ください。「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」とあります。当時は、雀が最も安く売られている食物でした。神様はその雀の一羽をも守ってくださいます。その神様が、必ず私たちを顧み守ってくださいます。以上を通してイエス様が12弟子たちにお授けになった権威、遣わされる弟子たちに命じられたイエス様の教えを学びました。12弟子たちに授けられた権威はイエス・キリストを信じて救われた私たちにも授けられています。どうか、今日、私たち一人一人がその権威を信じて受け取りましょう。神様がその権威を「使いなさい」と言われるときに、病人を癒し、悪霊どもを追い出すために使いましょう。そのために日々の生活の中で神様から授けられた権威について意識することは大切だと思います。それから、日々主の御前で祈り、御言葉をいただいて信じることです。すると、私たちにその権威が授けられていることを感じ、上からの権威と力を体験することができます。どうか、人を恐れることなく、神様を恐れる人として生きるように祈ります。さらに、私たちの髪の毛さえも数えられている神様の愛と守りを堅く信じて神の御国を宣べ伝える生活ができるように祈ります。

14Genesis20M ヤコブを大いに祝福された神様

14genesis20m, ヤコブを大いに祝福された神様, 2014年創世記第20講ヤコブを大いに祝福された神様御言葉:創世記29, 30章要, 節:創世記30:43「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」 先週、私たちはヤコブがベテルでいつもともにおられる神様に出会ったことを学びました。私たちはヤコブが神様に出会ったような経験をすることはできないかも知れません。でも心から神様と出会いたいという願いを持って生きましょう。日々神様と出会って神様の愛と力を感じ、神様と交わることを心から願うのです。すると、神様の力を見、神様がおられることを悟るようになります。そこから神様と交わり、神様とともに歩む生活が始まります。 今日はヤコブが長い旅を続けて目的地に辿り着いた時のことを学びます。ここで私たちは愛の力、ヤコブを訓練し、大いに祝福される神様を学ぶことができます。?.愛に力があります。, 1〜20,  29章1節をご覧ください。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。」とあります。ベテルの野で一夜を過ごしたヤコブは、旅を続けてようやく目的地である東の人々の国へやって来ました。つまりベエル・シェバからハランまで旅を続けて母リベカの親戚が住んでいる国にたどり着いたのです。ふと彼が見ると、野に一つの井戸がありました。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、交わりの場です。私は子どもの時に田舎では村の中にある井戸が情報交換の場所でした。特におばさんたちが水を汲み、洗濯をしながら交わる所でした。だから、小学生の時に隣の村に行って友だちに会うためにまず井戸の所に行って尋ねました。だからヤコブも井戸が見えると、その地域の情報を得ることができると思ったことでしょう。やはり行ってみると、その井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していました。それでヤコブはそこにいる羊飼いたちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねました。すると、彼らはハランの者であることと、ラバンの娘ラケルが羊を連れて来ていることを教えてくれました。そこでヤコブはその娘と二人きりで会いたいと思ったでしょうか。ヤコブは羊飼いたちに「羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」と言いました。しかし、彼らは「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」と言いました。結局、ヤコブがまだ彼らと話しているとき、父の羊の群れを連れてやって来たラケルと出会いました。ヤコブは、その羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませました。それからヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣きました。ヤコブが行き成りに人の娘に口づけしているようですが、先ほど羊飼いたちからラバンの娘であることを聞いていたからでしょう。ほんとうの自己紹介をしてから口づけするものですが、ヤコブはラケルに口づけしてから自己紹介をしました。すると、ラケルはヤコブのことを父ラバンに告げました。するとラバンはすぐ、走って行って彼を迎え、彼を抱いて、口づけしました。ヤコブは自分がここまで来た事の次第のすべてをラバンに説明しました。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言いました。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在しました。その間にラバンはヤコブが非常に有益な人であることが分かったようです。ラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と言いました。これは単なる好意から出た言葉ではありません。後で彼が何度もヤコブを騙していることから考えてみると、彼はヤコブの有能さと誠実さを見込み、彼を手放したくないと思っていたと思われます。でもヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていなかったようです。ただ、一目惚れしているラケルに関心がありました。ラバンにはレアとラケルと言う二人の娘がいましたが、ヤコブはラケルを愛していたのです。それは姉のレアの目は弱々しかったのですが、ラケルは姿も顔だちも美しかったからです。ヤコブも美人には弱い男でしたね。結局ヤコブは愛するラケルと自分の妻にするためにラバンと雇用契約を結びました。彼は「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言っています。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言いました。そこでヤコブはラケルのために七年間仕えました。ヤコブはその七年間をどのような思いで過ごしたでしょうか。20節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」ヤコブはラケルを愛していたので七年間仕えてもほんの数日のように思われたのです。ヤコブが七年間仕えても楽な仕事ばかりしたのではありません。31章38節によると、ヤコブは「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。」と告白しています。それでもヤコブにはその七年間がほんの数日のように思われたのです。ここで私たちは愛の力を見つけることができます。この間、勉強会の時に、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師を愛するようになった時、40ページの所感を書いてもほんの一ページしか書かなかったように思われたことを告白してくださいます。ほんとうに愛には不思議な力があります。第一に愛には、人に仕え、人のために働く力があります。愛しているなら、気持ちよく仕えることができます。夫婦が愛して子どもが産まれると、夫婦は子どもに仕える生活が始まります。オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげます。掃除や洗濯もしてあげます。ありとあらゆることで子どもに仕えます。それは子どもを愛しているからです。愛から始まっているから嫌々しながらではなく喜んで仕えることができるのです。子どもがそこそこ大きくなったからと言って、仕えることが終わるのではありません。立派に成長し、大人になるまで、子どものために働きます。職場では上司の無理な要求にも耐えながら一生懸命に働きます。それは子どもを愛し、家族を愛するからできることです。もし、何もかも嫌になっているなら愛が冷えているからでしょう。愛が燃えているなら何をしても疲れを感じないでしょう。ヤコブはラケルを愛していたので、その愛のゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。愛から始まっていたので、仕えることができたのです。イエス様も弟子たちを愛し、私たちを愛しておられるからこそ仕えてくださいました。さまざまな問題を持ってくる人々に仕えることはやさしくありません。でも、イエス様は人々を癒し、慰め、励まし、教える働きを続けられました。弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで私たちのために仕えてくださいました。ほんとうに何をしても愛から始まるなら、7年間仕えることも数日のように思われるほどになるのです。第二に愛には、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ力があります。子どもを育ててみれば分かりますが子どもの成長は時間がかかるものです。オムツを替え、風呂に入れてお世話さえして置けば、後は放っておいても大丈夫なのではありません。確かに、子どもが2,3歳頃より10歳、20歳になると細かく仕えることは少なくなるでしょう。でもそれぞれの年齢に応じて、仕える形が違うだけです。子どもを愛する親はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。その愛の中で子どもはすくすく成長し、立派な大人になって行きます。しかし、愛がなければ忍耐できなくなる場合もあります。子どもと一緒に家にいることさえ嫌がるようになります。実際に自分の子どもを手放してしまう親もいます。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので7年間も仕えたのに、ほんの数日のように思えたのです。イエス様は弟子たちを召してから3年半といわれている期間に忍耐されることもしばしばでした。また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されました。そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。それらは、イエス様の愛のゆえです。愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛によって私たちは癒され、生かされています。私たちが何をしても七年間仕えることもほんの数日のように思ったヤコブのような愛を持ってするなら疲れないでしょう。そして、私たちに仕えるために来られ、十字架にかかって死なれるまでに私たちに仕えてくださったイエス・キリストの愛で愛するなら、どんな人でも愛することができるでしょう。すべての問題は愛があれば大丈夫です。愛は痛みも和らげます。カリフォルニア大学の心理学者アイゼンバーガー助教授が、痛みを感じたときの脳の動きと「愛」という抽象的なものとの関係を探るために行った実験で明らかになったものです。長期にわたって特定の相手と交際中である女性たちに、針で刺したかのような衝撃を与え、そのときの脳の反応をmriで観察しました。被験者には交際相手、知らない人物、蛇や蜘蛛などの写真を順番に見せ、それぞれの写真を見ているときに一度ずつ同じ痛みを与えていきました。そして、実際に感じた痛みの強弱を被験者に記録してもらったところ、交際相手の写真を見ているときがいちばん痛みが弱いという結果になりました。ほんとうに、愛には不思議な力あるのです。何をしても愛から始まると長く仕えることができるし、忍耐することもできます。家にいる時間が楽になるし、疲れた体も癒されるのは家族を愛しているからです。教会でも、学校でも、職場でもに隣人を愛するなら彼らに仕え、忍耐することができます。自分の愛では無理かも知れません。でもイエス様から愛をいただき、イエス様の愛で愛しようと思って愛するなら不思議な力が発揮されるのです。どうか、ヤコブがラケルを愛したように、自分の家族を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。?.神様の訓練と祝福, 21〜30, 29章21節をご覧ください。「ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻をください。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」とあります。いよいよ雇用期間も満了しましたので、ヤコブはラバンにラケルを妻として与えてくれることを求めました。ところが、ラバンはヤコブをだましてラケルの代わりに娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせました。騙す者が騙される者となりました。でもラバンはヤコブに騙したと言いません。彼は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」と言ってラケルをあげる代わり、もう七年間、仕えなければならない」と言いました。結局ラケルひとりを得るためにヤコブは14年間ラバンに仕えました。彼がそのように14年間仕えたことは無駄にはなりませんでした。ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしました。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神様の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生しました。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずです。彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。結局、四人の妻と12人の息子と一人の娘を得るようになりました。29, 24節まではレアとラケルが夫に愛されるために子供を産む競争をする内容です。ヤコブの家庭には静かな日々がなかったでしょう。二人の女性が激しい競争をしていたのでまるで戦争をするところのようだったと思います。レアは息子をよく産みましたが、夫に愛されないコンプレックスを持っていました。ラケルには夫に愛されましたが、息子を産めないコンプレックスがありました。彼女達はヤコブを間にして互いに自分たちのコンプレックスを解決するために競争する間、12人の息子たちが産まれました。このような中で神様は二つのことをなされました。第一に、ヤコブの強い自我を訓練されました。ヤコブは四人の妻の間で絶えず訓練を受けました。息子が産まれても自分が名前を付けることさえできなかったことを見ると、彼の強い自尊心が砕かれる訓練を受けたでしょう。神様は人の杖、人の子のむちを持って彼を懲らしめ、彼の強い人間性を砕かれ、多くの国々の父としての内面性を持つようにされました。第二に、イスラエルの12部族の基礎を置かれました。神様は二人の女性のねたみと競争心を用いられ、ヤコブが知らないうちに天の星のような子孫を与えるという約束を成し遂げておられました。このように四人の妻と多くの子供を得た後、ヤコブは財産に関心を持ち始めました。ヤコブは財産を儲けるためにラバンと契約を結びました。それはラバンの羊とやぎの中でぶち毛とまだら毛のもの、黒毛のものを自分の報酬とすることです。ラバンはその日、そのようなものを全部取り出して、自分の息子たちの手に渡し、ヤコブとの間に三日の道のりの距離をおきました。ヤコブは非常に不利な立場に立たされました。しかしヤコブはいつものように落胆せず、頭を使って不可能に挑戦し始めました。神様はこのような彼を助けてくださり、彼は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました, 。神様は約束のとおりにヤコブとともにおられ、彼を祝福してくださいました。ヤコブはラバンのところでラケルを得るために14年、財産を得るために6年、あわせて20年間仕えました。それでは20年間どんな姿勢で仕えましたか。31, 42節を見ると、彼は仕事に怠けたり、適当に働いたりしませんでした。ラバンが幾度も報酬を変えたのにもかかわらず、彼は力を尽くしてラバンに仕えました。彼は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないほどでした。彼は神様のしもべらしく心と力を尽くして働きました。その時、神様はヤコブを祝福してくださいました。30章43節をご一緒に読んでみましょう。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」ここでは「祝福」が物質的な意味で用いられているようです。もちろん祝福は物質だけではなく、心身の健康の意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」です。ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。以上で、愛の力と神様がヤコブを家族の人間関係において訓練し、祝福されたことを学ぶことができました。家族の人間関係の中に試練があることほど苦しいことはないでしょう。家族は逃れることのできません。生涯付きまとう関係です。ヤコブは、妻たちとの関係に悩み、義父ラバンとの関係に悩んで行きました。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするのがラバンでした。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」大切なのは、ヤコブは知恵を働かせたが、その知恵自体、あまり根拠のないことです。選択授精によっていくらかは成功したとはしても、なによりも神様がこれを祝福されたからできたことです。 多くの人は、苦労すること、訓練は悪いことだし、不幸なことだと考えます。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことです。だから苦労があっても本当は幸せであることができます。神様を信じるということは、常識を超えています。もちろん、それは非常識になることではなく超常識になることです。常識的に行動する中で、常識を超えた神様のみ業があることを期待して行くことが信仰です。結論的に愛には人を疲れさせない力があります。愛は奉仕の原動力です。神様はご自分の約束のゆえに私たちを祝福してくださいます。どうか、愛と神様の祝福を信じる信仰を持って人々に仕え、神様に祝福された生活ができるように祈ります。

14Matthew15.良い忠実なしもべ

14matthew15, 良い忠実なしもべ, 2014年マタイの福音書第15講良い忠実なしもべ御言葉:マタイの福音書25:1−30要 節:マタイの福音書25:211.花婿を出迎える十人の娘は、それぞれどのように分かれましたか, 。花婿はいつ来ましたか, 。愚かな娘たちは、賢い娘たちに、何を頼みましたか, 。なぜ愚かな娘たちは、賢い娘たちから油を分けてもらうことができなかったのでしょうか, 。2.十人の娘の中で、婚礼の祝宴に参加できたのは、どの娘たちでしたか。ほかの娘たちは、どうなりましたか, 。花婿であるイエス様が再臨されることを待ち望んでいる人々は、どのような姿勢を持つべきでしょうか, 。3.主人は、自分の財産を、しもべたちに、どのように預けましたか, 。タラントを預かったしもべたちは、それで何をしましたか, 。ここで、「タラント」とは何を意味するのでしょうか。4.しもべたちの主人は帰って来て、何をしましたか, 。五タラント預かった者と、二タラントを預かったしもべたちは、商売をした結果、どうなりましたか, 。主人は、彼らをどのように賞賛し、どんな報いを約束しましたか, 。5.一タラントを預かっていた者は、どんなことを言いましたか, 。主人は、彼のどんな点を咎めましたか, 。結局、彼はどんな罰を受けるようになりましたか