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14X-mas1.神様に見捨てられたイエス・キリスト

mas1, 神様に見捨てられたイエス・キリスト, 2014年クリスマス特集1, 私たちを救うために、神様に見捨てられたイエス・キリスト御言葉:マタイの福音書27:11−66要 節:マタイの福音書27:461.イエス様は、ピラトの尋問とユダヤ人たちの告訴に対して、どのようにされましたか, 。ピラトはなぜ、イエス様を釈放しようとしましたか, 。しかし、群衆はピラトに、イエス様をどうするように、求めましたか, 。2.結局、ピラトはどんな判決を下したのですか, 。イエス様は、どのようにあざけられましたか, 。総督の兵士たちは、誰に、イエス様の十字架をむりやりに背負わせましたか, 。3.イエス様は、なぜ苦みを混ぜたぶどう酒を飲もうと、されなかったのでしょうか, 。兵士たちはイエス様を十字架につけてから、何をしましたか, 。イエス様の頭の上には、どんな罪状書きが掲げられましたか, 。4.人々は、何と言って、イエス様をののしりましたか, 。十二時から三時まで、全地はどのようになりましたか, 。イエス様は、何と言って叫ばれましたか。それを聞いた人々は、どんな誤解をしましたか, 。イエス様はなぜ、神様から見捨てられなければならなかったのでしょうか, イザヤ53, 。5.イエス様が息を引き取られた時、神殿ではどんなことが起こりましたか, 。その出来事には、どんな意味があるのでしょうか, ヘブル10, 。そして、地上ではどんなことが起こりましたか, 。6.百人隊長はどんな告白をしましたか, 。誰が、イエス様の死を、見守っていましたか, 。アリマタヤのヨセフは、イエス様のために、何をしましたか, 。宗教指導者たちはなぜ、番兵にイエス様の墓の番をさせたのでしょうか

14Matthew16.あなたのみこころのように

14matthew16, あなたのみこころのように, 2014年マタイの福音書第16講(200)あなたのみこころのように御言葉:マタイの福音書26:31−56要 節:マタイの福音書26:391.イエス様は、弟子たちがどうなる、と言われましたか, 31,ゼカリヤ13, 。イエス様と弟子たちは、どこで再会するようになりますか, 。ペテロと弟子たちは、イエス様の預言に対して、どうだと言い張りましたか, 。しかし、イエス様は彼らの裏切りについて、どのように断言されましたか, 。2.ゲツセマネに行かれたイエス様は、悲しみもだえながら、弟子たちに何を頼まれましたか, 。それから、すこし進んで行って、どのように祈られましたか, 。「この杯」とは、何を意味しているのでしょうか。イエス様はなぜ、これほどまでに祈らなければならなかったのでしょうか。3.イエス様の祈りは、さらにどのように進展していきましたか, 。寝ていた弟子たちには、どのように警告されましたか, 。三度目の祈りが終わると、イエス様の心はどのように変えられましたか, 。私たちが、目を覚まして祈らなければならない理由は、何でしょうか。4.十二弟子の一人であるユダは、誰と一緒にイエス様を捕えに来ましたか, 。彼らは、イエス様をどのように捕えましたか, 。この光景を見ていたペテロは、どんな行動に出ましたか, 。イエス様は、ペテロをどのように、お叱りになりましたか, 。また、群衆たちには、イエス様が捕えられたのが神様の御旨であることを、どのように説明されましたか

14Matthew12.心から兄弟を赦しなさい

14matthew12, 心から兄弟を赦しなさい, 2014年マタイの福音書第12講(343)心から兄弟を赦しなさい御言葉:マタイの福音書18:15−35要 節:マタイの福音書18:351.もし、兄弟が罪を犯した場合、どうすれば良いのでしょうか, 。兄弟のために、地上で心を一つにして祈ることは、どれだけ大切なことなのでしょうか, 。2.兄弟が自分に対して罪を犯した場合、どこまで赦すべきでしょうか, 。主人は、一万タラントの借りのあるしもべの借金を、どのように免除しましたか, 。3.ところが、一万タラントの借金を免除してもらったしもべは、自分に百デナリの借りのある仲間を、どのように扱いましたか, 。彼の問題は、何だったのでしょうか, 。4.彼は、主人からどのような罰を受けることになりましたか, 。私たちが、心から兄弟を赦さなければならない理由は、何でしょうか

14Genesis01M 神が天と地を創造した

14genesis01m, 神が天と地を創造した, 2014年創世記第1講神が天と地を創造した。御言葉:創世記1, 1−25要 節:創世記1, 1「初めに、神が天と地を創造した。」 先週、私たちは新年修養会を通して豊かな恵みを受けました。定期小会を通して去年のみわざの決算をし、今年の計画も立てました。去年も私たちが頼っていた御言葉の通りに「神の力の働き」を体験できたことを感謝します。そして新年も修養会を通して御言葉を深く受け入れることができたことを感謝します。御言葉に従って時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。 今週からは創世記の御言葉を学びます。「創世記」とは原語のヘブル語では「ベレシート」です。創世記の最初の言葉がそのままタイトルになっています。「初めに」という意味です。ギリシャ語では「genesis」と翻訳されました。英語の聖書ではギリシャ語のままタイトルとして使っています。それで英語では創世記がgenesisになっています。この創世記に現在私たちの周りに存在する全ての始まり(ルーツ)が記録されています。そこで、私たちは人類の始まり、罪の始まり、福音の始まり、救いの始まり、文化と言語の始まり、民族の始まりなどについて学ぶことができます。つまり、自分とかかわるすべてのルーツを知ることができます。それによって今の自分の存在を知ることでもあります。また、どのように生きて行くべきかと言う人生の目的も知ることができます。すると、私たちは癒されたり、生かされたりします。たとえば、私たちは仕事で失敗したり、人間関係で悩んだりして、自分なんかどうでもいい存在なのだ、と思う時があるでしょう。スランプの時、落ち込んでいるときがあるのです。そういう時に自分のルーツを知ると、なんともいえない有難い気持ちになります。自分のおじいちゃん、おばあちゃん、自分の両親とつないできてもらった命がいま自分の中にあると思うようになります。すると、そう思うだけで自分はどうでもいい存在ではなく、ご先祖さまに生かされている大切な存在なのだ、と思えるようになります。何よりも私たちクリスチャンは「私の創造者であられる神様に生かされている大切な存在なんだ」と思えるようになります。それによって落ち込んでいた心が癒され、元気づけられて強くたくましく生きられるようになるのです。その上、私を造られた方は、どんなに大きな偉大な方なのかを知れば知るほど心強く、偉大な人生を生きるようになります。そういう意味で、私たちが創世記を通して私たちの周りに存在するすべてのルーツを知り、そのすべてを始められた神様を学ぶことはとても大切であると思います。どうか、私たちが創世記の御言葉を通して自分のルーツ、自分の原点を知り、その始まりを始められた神様はどんな方を深く学ぶことができるように祈ります。1節をご一緒に読んでみましょう。「初めに、神が天と地を創造した。」この御言葉は驚くべき宣言です。ここには何の説明も、弁明も、論理の展開も、説得もありません。初めに神様が天と地を創造したことはあまりにも確実な真理だからです。「初めに、神が天と地を創造した」という事実は、人間の力で説明できるような領域ではありません。たとえば、ここにあるピアノを作った人はそれをいつ、どのように造ったかを説明することができます。でも、造られているピアノは自分がいつ、どのように作られたかを説明することはできないでしょう。私は私の両親を両親として知っていたし、自分が52年前生まれたことも知っています。それは誰かが科学的に、論理的に説明してくれたからではありません。ただ、両親を信じることによって自分のルーツ、自分の存在について知っているのです。同様に、私たちは信仰によってのみ、神様が天と地を創造したことが分かります。それでヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と言っています。私たちは「初めに、神が天と地を創造した。」という宣言を信じる信仰によって神様の創造を悟るのです。それによって聖書全体に対する霊的な目も開かれます。「神が天と地を創造した。」何と厳粛で神秘なひびきの言葉でしょうか。人類歴史上、最も多くの人々に愛読された一文であるでしょう。私たちも毎週使徒信条を通して「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。「神が天と地を創造した。」という事実が分かった時、数え切れない人々が高潔な人に造り替えられました。落ち込んでいる人々は慰められ、励まされ、光を照らされました。若い日に創造者を覚えた人は希望と将来が与えられました。創造者の神様を信じることによって聖書に記された多くの奇蹟も信じて体験することができました。神様が紅海を渡らせることも、岩から水を出させることも、死んだ人を生き返らせることも知り、信じて体験することができました。どうか、神様が私たち一人一人に創世記1章1節に関する確信を与えてくださるように祈ります。ローマ9, 21節を見ると「しかし、人よ。神に逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。」とあります。私たち人間はなかなか神様の主権的な働きを素直に受け入れようとしません。神様に逆らって不満を抱き、つぶやいたり、反発したりします。しかし、この世界は神様が主権的に造られた神様のものなのです。形造られた者が形造った者に対して文句を言えません。それは陶器師が陶器を作ることに例えることができるでしょう。陶器師には、同じ土のかたまりから尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っています。そのように私たちのすべてのもの、人生そのものに対して権利を持っている方は私たちを造られた神様なのです。したがって、私たちはすべてのことにおいて神様の主権を認めて神様に感謝し、神様を礼拝する生活をしなければなりました。そうする時こそ、神様からもっとすばらしい祝福をいただくことができます。私たちが素直に天と地を創造した神様を信じるなら大きな偉大な神様の力と栄光が私たちの生活の中にも現わされます。黙示録4, 11節を見ると「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」とあります。ここで「自分の冠」とは自分が受ける栄光ある報い、自分のプライドや功績などを意味します。それらを御座の前に投げ出してしまうほどに二十四の長老は神様を信じきっていました。そういう信仰を通して自分の生活に現われる神様の栄光と誉れと力を感じ、知ることもできて神様を賛美しているのです。私たちも信仰によってすべてのことを神様に頼り、日々新しく生まれさせる創造の力を体験して行きますように祈ります。では初めに神様が天と地を創造した時の地球はどういう状態でしたか。 2節をご覧ください。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もありませんでした。人が住める場所ではりませんでした。この後、神様は最初の3日間で、この宇宙に秩序を造り、形を造って行かれます。この状態は先ほど話した陶器師が素晴らしい陶器を作ろうと準備している状態です。粘土の塊をとって、それをロクロの上に置いた状態です。神様が天と地を創造した時の地球はロクロの上に置かれた粘土の塊のような状態だったのです。ところが、神の霊、聖霊が地球の上を動いていました。現代語訳によると「神の霊が水の表面をおおっていた。」とあります。そして、「おおう」という言葉はヘブル語ではニワトリが翼をひろげて、卵をおおい、愛育しているという意味を持っています。つまり、, ニワトリが翼をひろげて卵を覆って孵化するようなことです。神の霊はまるでひよこが出て来るまで卵を覆っているニワトリのように、この地上を温かい愛によって覆っていました。それからいろいろ造り始められます。3節をご覧下さい。「, 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神様が「光があれ」と仰せられると、光がありました。この光は太陽の光ではありません。太陽はまだ現われず、月も星もまだ現われない前のことです。永遠の暗黒を破る神様の荘厳, そうごん, な言葉によって地球に光の世界が始まりました。神様は創造の第一日に光を造って、新しく生まれようとしている天地を祝福されたのです。 第二日目の働きは、大空を造ることでした。これは宇宙と、無数の星を意味します。また地球を地球たらしめる物質の「水」を創造されました。第三日目の働きは、天の下の水を集めて海を造り、乾いたところを陸とされたことです。また様々な植物も、種類にしたがって創造されました。第四日目に、太陽と月と星を創造されたことが記されています。これは、地球の自転と公転が始まったことでしょう。また地球を太陽の光がより強く差し込むようになった状態を表わしているのでしょう。第五日には、空の鳥と海の生きものを造られました。神様は光合成によって酸素がどんどん増えて動物の住める環境を造ってから空には多数の鳥、海には無数の魚が生きるようにしてくださいました。また、これも種類にしたがって創造されました。そして第六日には、地上に色々な動物が種類にしたがって造られたのです。そして、人間もこのとき創られました。人間創造に関しては来週学ぶことになります。以上で六日間の創造の御業を学びました。この神様の創造のみわざから四つのことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。第一に「夕があり、朝があった, 5、8、13、18、23、31, 」ということです。神様が六日間を創造された間、毎日、「夕があり、朝があった」と記されています。一般的に、私たちが一日を言うとき、朝起きてから夜眠るまでを言います。朝が新しい一日の始まりなのです。この間、静岡に行った時、ラジオ体操に参加しましたが「新しい朝が来た, 希望の朝だ喜びに胸を開け・・・」と歌も流れました。本当に朝は、さわやかで、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方はどうでしょう。一日の終わりが近づいて来ているイメージです。私たちの人生にも朝のように出発しますが、夕方のようにだんだん暗くなっていくものです。ところが、創世記は、「朝があり、夕があった」ではなく、「夕があり、朝があった」と記しています。これはどういうことを示唆しているでしょうか。, 「夕があり、朝があった」と記されていることには意味があると思われます。私はここに、聖書の真理、希望のメッセージがあると思います。「十字架の夕方がありますが、復活の朝がある」ということです。創造主の神様を信じる人の人生は夕があり、夜が来て終わるのではありません。復活の朝があります。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙するそんな一日もあります。いつもさわやかでいたいと思っても、そうはなかなかいきません。疲れも出てくるし、辛いこともあります。寺崎アブラハム牧者はアジア支部長修養会に招かれたことを大変喜んでいました。ところが、会社で休暇を取ることができなかったことを聞きました。そのことを伝えるアブラハム牧者の目は涙が出そうになっていたと聞きました。このように、目の前が真っ暗になるときもあります。しかし、私たたちの人生は夜で終わるのではありません。夕があり朝があるのです。涙のあとには、喜びがあります。もちろん、新しい朝、希望の朝が続くのではありません。また夕方になる時が来ます。私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙の時もあるのです。しかし、神様が夕があり朝があることを通して、私たちが常に希望を持って生きることを望んでおられると思われるのです。今、疲れていても、ちょっと辛くてもそれが永遠に続くのではありません。さわやかな朝が来るのです。そして人生の最後を迎える夕があり、この世を離れて行くと永遠に輝く朝になります。永遠に新鮮で明るい朝です。そこで主は私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ですから、私たちは常に希望を持って生きることができます。第二に神様は「種類にしたがって造られた。」ということです, 11、12、21,24、25, 。聖書に「おのおのその種類にしたがって」という言葉が何度も繰り返されています。, 種類にしたがって、動物植物がつくられているのです。学校では進化論を教えています。でも、その進化論は仮説です。たとえば、進化論では、魚類から両生類、次にハ虫類、そして鳥や哺乳類に進化したと主張します。しかし、化石をどれだけ調べても進化の途中にあたる生物は、一切発見されません。突然変異で進化するという説もありました。しかし、遺伝学が進んで、突然変異は次の世代に遺伝されないことがわかりました。また、生命が生まれるために必要なタンパク質が自然発生するためには、偶然が何億回も重ならなければなりません。万が一奇跡的にタンパク質ができたとしても、それが単細胞生物になる確立も微小です。たんぱく質ができる確立も単細胞生物になる確立も無視して、6千億年前の単細胞が、人類の体の1兆個の細胞に進化したとすれば、6千億年は219兆日ですから、219日に一回ずつ進化しないと人類に進化できません。そんな激しい進化がなされるなら、現代の生物も一年に一回は進化してないとおかしいことになります。 また人類は猿から進化した、あるいは猿と共通の祖先から進化したという仮説があります。ネアンデルタール人とかクロマニヨン人とかの骨の化石が発見され、猿から人間に進化する途中の猿人の化石だと言われてきました。しかし、現代の科学でその化石の遺伝子を調べると、それらの猿人の化石といわれてきたものは、猿と人間の骨が混じったものだったり、絶滅した大型の猿の骨だったりすることがわかりました。猿から人間に進化する途中ではないことがわかりました。皆さんが学校で学だ進化論は、絶対に正しい真理ではなく、一つの仮説なのです。犬と猫のあいのこはできません。チワワとセントバーナードならできます。種類が同じ犬だからです。ということは、他の種類に進化する生物進化はありえないのです。 神様がおのおの種類に従って造られたからです。真理は、それぞれの種頻にしたがって植物や動物が造られたのです。すべての生物は種類別に存在意味があるのです。第三に御言葉の力です, 24; 7, 。1章を見ると「神は・・・仰せになった。」という御言葉と「するとそのようになった。」という御言葉が繰り返されています。これは神様が御言葉によってすべてを創造されたことを教えてくれます。見えるものも、見えないものも神様の御言葉によって創造された被造物です。神様の御言葉と関係が無いものは何もありません。神様が仰せられると万物が創造されました。神様が仰せられると、万物の位置が定まり、秩序が立てられました。私たちは神様の被造物です。神様の被造物として最も大切なことは神様の御言葉に耳を傾け、聴き従うことです。神様の御言葉を聞くときに自分の位置が把握され、自分の道が見えます。私の所有者が神様であることを忘れずに神様の御言葉の力を体験して行くことができます。神様の御言葉には無から有を創造する創造の権能があります。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。この世のもので人を根本的に変えることはできません。しかし、神様の御言葉はどんな人でも変えることができます。むなしく、つまらない人生を生きている人でも根本的に変化させて意味あり価値ある人生に変える力があるのです。どうか、私たちが御言葉を聞いて御言葉にとどまることに励みましょう。そして御お言葉を宣べ伝えましょう。私たちが足りなくても、今の時が悪くても御言葉を宣べ伝えると、御言葉が一人一人のうちに働きます。御言葉を聞き、読むことだけでも私たちのうちに新しい創造の働きが始まります。再創造の働きが起こり、新しい人に変えられるのです。第四に神様が造られたものを見てよしとされたことです(10、12、18、21、25)。つまり、神様のなさることはすべてが最善であるということです。, 神様はご自分が創造されたすべてのものを見て良しとされたのです。神様が創造された時点で、この世界は人間もあわせて最善なものだったのです。神様は一番いいことしかされません。みなさんにも何とかして一番いいことをしてあげようとしておられるのです。しかし、人間の側がそれを受け取らなかったり、台無しにしたりしているのです。どうか、素直に、神様は「初めに、神は天と地を創造した。」という事実を信じてください。去年最後の礼拝の時に神様は私たちに言われました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。私たちが天地万物を創造された神様を覚えて信じましょう。創造者の神様を信じる時、私たちの人生の基礎は堅くなり、秩序が立てられます。この神様を信じる時、今の生活の中でも創造の力を体験し、平安と喜びと愛に満ちた人生を送ることができます。何よりも御言葉を信じて御言葉によって動かされ、御言葉によって新しく変えられて行きますように祈ります。

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14x-mas3.この上もない喜びのクリスマス

mas3, この上もない喜びのクリスマス, 2014年関東地区聖誕礼拝この上もない喜びのクリスマス御言葉:マタイの福音書2:1−12要 節:マタイの福音書2:101.イエス様はいつ、どこでお生まれになりましたか, 。この時、東方の博士たちがエルサレムに来た目的は何でしょうか, 。なぜ、ヘロデ王とエルサレム中の人は恐れ惑ったのでしょうか, 。2.ヘロデは、どのようにして、イエス様がお生まれになる場所を知るようになりましたか, 。預言者の預言によると、この地でお生まれになるイエス様はどのようなお方ですか, 6,ミカ5, 。3.博士たちは、どのようにして幼子のおられる所まで、進んで行くことができましたか, 。星を通して、博士たちを幼子イエス様のところに導いてくださった神様について、話してみましょう。博士たちの喜びはどうでしたか, 。4.博士たちが幼子を見、ひれ伏して拝んだのにはどんな意味がありますか, 。彼らはなぜ、三つの贈り物をささげたのでしょうか, 。私たちは、今年のクリスマスをどのようにして、迎えたら良いでしょうか。5.博士たちは、なぜ別の道から自分の国へ帰って行ったのでしょうか, 。ここに、幼子イエス様を保護しておられる神様の御手の働きが、どのように現れているのでしょうか。

14Genesis8M 人類の歴史とバベルの塔

14genesis8m, 人類の歴史とバベルの塔, 2014年創世記第8講人類の歴史とバベルの塔御言葉:創世記9, 18−11, 26要, 節:創世記11, 「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」先週、私たちは大洪水の後に箱舟から出たノア、ノアに与えられた契約のしるしについて学びました。神様はご自分が創造した世界ですが、人が肉に過ぎないほどに堕落した時、大洪水によってさばかれました。でも愛と希望の神様は地球を完全に捨ててしまうことはなさいませんでした。地球という本体を壊さなかったのです。大洪水の後、かわききった地をリカバリします。箱舟から出て来たノアの家族を通して新しい人類の歴史を始められるのです。ではどのようにして人類の新しい歴史が始まったでしょうか。また、どのようにして人類に異なる言語が存在するようになったでしょうか。ここで、私たちはなかなかなくならない人間の罪、人間の高慢をさばかれる神様について学ぶことができます。?.新しい人類歴史(9:18−10:32) 9章18、19節をご覧ください。「箱舟から出て来たノアの息子たちは、セム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。この三人がノアの息子で、彼らから全世界の民は分かれ出た。」とあります。ここで、私たちはノアの3人の息子たちから全世界の民は別れ出たことが分かります。この3人はどのような人格を持っていましたか。 20、21節をご一緒に読んでみましょう。「さて、ノアは、ぶどう畑を作り始めた農夫であった。ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。」 ここにはノアの失敗が記されてあります。酔っぱらって裸になっていることは醜態です。ぶどう畑で働く農夫だったノアがぶどう酒を飲むことは自然なことでしょう。ぶどう酒を飲んだことには問題がなかったと思います。ところが酒を一杯、二杯と飲んでいくうちに酔ってしまいました。判断力を失い、裸になっていました。これは本当に恥ずかしいことでした。だれにも見られてはいけないような姿です。ではこのノアの醜態に対する息子たちの反応はどうでしたか。 22節をご覧ください。「カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。」とあります。ここで「告げた」ということは嘲笑したことです。ハムは裸になっている父の醜態を見て嘲笑ったのです。「あれが信仰人の姿なのか。」と軽蔑しました。それに対し、セムとヤペテはどうしましたか。23節をご覧ください。「それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。」とあります。彼らはハムを通して父の恥ずかしい行動が分かった時に嘲笑いませんでした。そのままにして置くこともしませんでした。彼らは父の醜態に後ろ向きとなって行動しました。しかも、彼らは父の裸をおおいました。彼らは顔をそむけて、父の醜態を見ませんでした。彼らは父の弱さに同情し、父の恥をかばってあげたのです。これは息子として当然なことです。子どもは父を尊敬し、父の弱さをかばわなければならないでしょう。父親だけではなく、人の弱さに付けこむことはよくありません。私たちクリスチャンは神様の愛によって弱い人の手助け、フォローし、味方をするように気をつけていなければなりません。吉野弘さんの祝婚歌の中に「正しいことを言うときは/少しひかえめにするほうがいい/正しいことを言うときは/相手を傷つけやすいものだと/気づいているほうがいい。」とあります。ほんとうにそうだと思います。ハムが「ノアが裸になっている」と告げるのはウソを言ったのではありません。正しいことです。でもそれが見られたことで恥かしく思う人を傷つけやすいものだと気付いていなければならないのです。ところが、そういう人より人の弱さに付けこむ人が多いです。人間は自分が完璧でもないくせに、他人には完璧な行動を要求します。他人の欠点、弱点をすぐに暴き立てようとします。 時々私は本屋で立ち読みをしていますが、週刊誌の記事はほとんどが告げ口です。人の失敗や弱さに同情し、かばってあげるような記事はほとんどありません。人の罪と失敗さらけ出して辱めようとしているような感じです。それはほとんどの人々が人のうわさや告げ口に興味を示すからでしょう。このような世の中で自分だけが人の弱さをかばい助けることはやさしくありません。人々の多くは強いものには良くあわせ、弱い者には厳しくなる傾向があるからです。しかし、私たちクリスチャンだけでも、人の弱点や欠点をすぐに暴き立てるようなことをしないように気をつけているべきだと思います。なぜなら私たちを愛しておられる神様の愛は多くの罪をおおうからです。ハムのように、人の罪と咎をあざ笑うものではありません。神様の愛は、セムとヤペテのように人の弱さをかばい助けることです。聖書に「愛は多くの罪をおおうからです(?ペテロ4:8)。」とあります。また、聖書に「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストのうち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです(?ペテロ2:24)」とあります。神様は私たちの罪と咎をさらけ出すようなことをなさいませんです。罪に定めない愛によって私たちの罪と咎をおおってくださいました。イエス・キリストはご自分の十字架の死によって私たちのすべての罪と咎を担ってくださったのです。私たちがセムとヤペテのように神様の愛を実践して行きますように祈ります。人の弱さを咎め立てるのではなく、人のために祈り、その弱さをかばい助ける愛の人に変えられて行きますように祈ります。10章はノアの息子、セム、ハム、ヤペテの歴史です。大洪水の後に、彼らに子どもが生まれました。最初にヤペテの子孫が書かれています。彼らは主にヨーロッパに住んでいる民族になりました。特に5節をご覧ください。「これらから海沿いの国々が分かれ出て、その地方により、氏族ごとに、それぞれ国々の国語があった。」とあります。この表現が10章に何度も記されてあります。当然なことですが、ノアの3人の息子は同じ言語を話していました。ですから、その子孫も一つの民であり、一つのことばを話していたのです。そのまま、続いてきたらどんなに良かったでしょうか。ところが、残念なことに、11章を見ると分かるようにそのまま、続くことができませんでした。6節から20節まではハムの子孫が書かれています。ノアはハムを呪われましたが、彼の子孫の中から神様に反抗する動きが出ます。ハムの子孫の中ではニムロデに焦点が当てられています。10章8、9節をご一緒に読んでみましょう。「クシュはニムロデを生んだ。ニムロデは地上で最初の権力者となった。彼は【主】のおかげで、力ある猟師になったので、「【主】のおかげで、力ある猟師ニムロデのようだ」と言われるようになった。」「ニムロデ」とは、「反抗者、敵対者」という意味です。彼は地上で最小の権力者、力ある猟師ですが、学者たちはこのニムロデが中心になってバベル等を建てたと言っています。10節に「彼の王国の初めは、バベル、エレク、アカデであって、みな、シヌアルの地にあった」とありますし、12節に大きな町を建てたことが記されてあるからです。ハムは父ノアに反抗的になっていましたが彼の子孫の中に反抗的であり、高慢なニムロデが生まれていることが分かります。私たちの人格が私たちの子孫に影響を及ぼすことが分かります。実際にセムの子孫からは信仰の先祖アブラハムが生まれます。そしてアブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれます。今の私の信仰と人格が私の子孫にも影響を及ぼすのです。私たちが自分からでも人の弱さに付けこむのではなく、すべての罪と咎をおおい助けることができるように祈ります。そうすると私たちの子孫にも良い影響を及ぼすことができるようになります。最後に、21節から30節までにセムの子孫が列挙されています。神様は、この子孫から救いのみわざを行われます。21節に「セムはエベルのすべての子孫の先祖であって」と記されてありますが、ここの「エベル」から「へブル」という言葉が出てきています。ここからイスラエル人はよく、「へブル人」と呼ばれているのです。以上が、その国々にいるノアの子孫たちの歴史です。大洪水の後にこれから、諸国の民が地上に別れ出たのです。これが10章の要約です。そして、どのようにして諸国の民が地上に別れ出るようになったのかについて記されているのが11章です。?.バベル塔(11:1−26)11章1、2節をご覧ください。「さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。」とあります。ニムロデが王国を立てたシヌアルの地に、人々は定住しました。そこで、彼らは互いに言いました。『さあ、れんがを作ってよく焼こう。』彼らは建築に石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いました。瀝青とはアスファルトのことです。レンガとアスファルトの開発は、当時として革命的な技術でした。レンガとアスファルトを用いると天の頂までの高層ビルを建てられるという確信を持つようになりました。そこで、彼らは一階、二階、レンガを積み上げて行こうとしました。では、なぜ人々はそれほど高い塔を立てようとしたでしょうか。それは人々の心にノア時代の大洪水に対する不安があったからだと思います。2011年3月11日に想定外の津波を経験した日本が不安になって想定外も想定していることと同じです。彼らは洪水が起こっても自分たちの町を守る方法を考えました。そこで彼らは天まで届く塔を立てようとしたのです。また、シヌアルの地に快適な街を作ったので、今までの生活が変わることを恐れました。バラバラに散らされてしまうと、新しい土地を開拓して生きて行かなければなりません。来週、崔ヨセフ宣教師家族を福岡に派遣する礼拝をささげますが、新しい土地を開拓して行くことは決してやさしくありません。だから、人々は散らされてひとりぼっちになることを恐れ、みんなが塔の周りに集まって住もうとしたのです。特に、彼らはレンガとアスファルトという革命的な技術によって高ぶっていました。自分たちの力でユートピアが現実になると思ったようです。そうして彼らは神様の命令に背きました。神様はノアとその家族に、「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。」と命じられました。ところが、その子孫は、この祝福の命令を「散らされる」と否定的にとって、故意に神様の命令に背いてしまったのです。そこで、主は、彼らをさばかれます。5, 8節をご覧ください。「そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りてこられた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられる事はない。さあ、降りていって、そこで彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。」とあります。先ほど話しましたが、今もなお全世界が一つの民として一つのことばで話すならどんなに良かったでしょうか。私たちは外国語を学ぶ必要がなかったのです。すべての人が日本語、あるいは韓国語だけを使うならどんなにいいでしょうか。英語勉強をしなくてもいいし、英語のためにストレスを受けるようなこともありません。ところが、バベルと言う町において、人間が高ぶって神様に反抗したので、神様は彼らの言葉を混乱させました。そのため、ノアの3人の息子から出て来た子孫は、違う言葉を話すようになりました。異なる民族を形成するようになりました。9節をご一緒に読んでみましょう。「それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。【主】が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、【主】が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」 この混乱は、ヘブル語で、「バラル」と発音するそうです。すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたのでばらばらに散らされて行きました。結局、シヌアルで人間が自分の力で自分を守り、自分の名を有名にしようと建て始めたバベルの塔は失敗しました。ここで、私たちは大切な教訓を得ることができます。私たちのうちにもバベル塔を建てようとする野望があるからです。ノンクリスチャンと比べれば素朴に謙遜に生きていると思われるかも知れません。でも、私たちのうちにもシヌアルの人々のような心の持ち主がいあるでしょう。ような東京の平地で安定的な生活をしながら地位も名誉もある生活をしたがる要素があるのではないでしょうか。年の初めには「時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えよう」と決心しましたが、いつの間にか、霊的な望みよりも現実的な生活に縛られている時はないでしょうか。自分のためにいろいろ計画を立てて自分の力で一階、二階…とバベル塔を建てあげて行くのです。神様に頼って祈り求めるのではなく、自分の知恵を尽くして自分の計画、自分の目標に向かって行くのです。私たちは日々謙遜に神様に頼って祈り、洪水以前のノアのように神様とともに歩んでいるでしょうか。シヌアルの人々のように自分の力でバベル塔を建てているでしょう。神様がご覧になっておられます。そして、決定的なときに神様は降りて来られます。ノアのように救われるか、シヌアルの人々のようにバベル塔が倒れ、混乱してしまうかは私たちが神様の御前でどのような態度で生きているかにかかっています。、先週、日ごとの糧を通してアサ王を通して謙遜と傲慢の結果をはっきりと見ることができました。アサ王の人生の朝は非常に良かったんです。彼は人生の朝にその神、主に叫び求めていました。心を尽くして主を求めました。すると神様は彼に平安をくださいました。彼に勝利をくださいました。預言者を通して彼が信仰によって生きるように激励してくださいました。彼に会ってくださいました。彼だけではなく、彼の回りにも平安をくださいました。しかし、彼が祝福されて安定した時、祈る代わりに、主の祝福によって与えられた主の宮と王宮の宝物倉から銀と金を取り出してアラム王に送り届けて人の助けを求めると彼の国に悲劇が始まりました。神様は予見者ハナニを通してアラムを鳴らし、悔い改める機会を与えましたが、その時も悔い改めませんでした。結局、彼は両足とも重い病気にかかって死にました。傲慢は滅びに行ったのです。結局、私たちが神様に祝福されてどこに行っても勝利することは常に謙遜になっていることです。ハムのように人の失敗を指摘し、正しさを主張する前に謙遜になって人の弱さも失敗もかばい助けるのです。神様の祝福によって安定的な生活ができる時に気をつけるべきは傲慢になってバベル塔を建てることです。もちろん、自分の力でもいろんなことができるでしょう。スカイツリーよりも高いビルを建てることもできるでしょう。私たち人間にはそういう力があります。でも、私たちが傲慢になっていると、神様はどう思われます。神様はこの地に下りて来られ、混乱させます。すると、傲慢は滅びに至ります。神様がバベル塔を建てようとして人々を混乱させましたが、それでも人間に対する希望は捨てませんでした。神様は決して人間にあきらめたりされませんでした。神様は、民族として互いに分れてしまった人間を、どのように祝福されるか考えられました。そこで、神様は、まったく新しい民族をご自分の手で造り出される計画を立てられたのです。神様により頼み、神様に仕える民族を生み出し、世界に散らされた民族を、その新しい民族によって祝福する計画を立てられました。それが、イスラエルであり、そのイスラエルの先祖がアブラハムです。26節をご覧ください。神様は、セムに与えられた祝福のことばを、このアブラハムによって実現されます。このことは来週から学びます。どうか、今日の御言葉を通して神様の愛を実践する者、謙遜に神様に頼って生きる者として変えられて行きますように祈ります。私の子孫に良い影響を及ぼすことができる人格を形成して行きますように祈ります。

14Matthew15.良い忠実なしもべ

14matthew15, 良い忠実なしもべ, 2014年マタイの福音書第15講良い忠実なしもべ御言葉:マタイの福音書25:1−30要 節:マタイの福音書25:211.花婿を出迎える十人の娘は、それぞれどのように分かれましたか, 。花婿はいつ来ましたか, 。愚かな娘たちは、賢い娘たちに、何を頼みましたか, 。なぜ愚かな娘たちは、賢い娘たちから油を分けてもらうことができなかったのでしょうか, 。2.十人の娘の中で、婚礼の祝宴に参加できたのは、どの娘たちでしたか。ほかの娘たちは、どうなりましたか, 。花婿であるイエス様が再臨されることを待ち望んでいる人々は、どのような姿勢を持つべきでしょうか, 。3.主人は、自分の財産を、しもべたちに、どのように預けましたか, 。タラントを預かったしもべたちは、それで何をしましたか, 。ここで、「タラント」とは何を意味するのでしょうか。4.しもべたちの主人は帰って来て、何をしましたか, 。五タラント預かった者と、二タラントを預かったしもべたちは、商売をした結果、どうなりましたか, 。主人は、彼らをどのように賞賛し、どんな報いを約束しましたか, 。5.一タラントを預かっていた者は、どんなことを言いましたか, 。主人は、彼のどんな点を咎めましたか, 。結局、彼はどんな罰を受けるようになりましたか

14Genesis14M 約束されたとおりに行われた神様 

14genesis14m 約束されたとおりに行われた神様 , 2014年創世記第14講                               約束されたとおりに行われた神様御言葉:創世記20, 1−21, 34要, 節:創世記21, 1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」 先週、私は福岡ubf開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。2, 13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12, 20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。ローマ8章31, 37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21章1, 2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3, 5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました, 。以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。

14Genesis12M あなたを多くの国民の父とする

14genesis12m, あなたを多くの国民の父とする, 2014年創世記第12講, 李ヨシュア)あなたを多くの国民の父とする御言葉:創世記17:1〜27要, 節:創世記17:5 「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」 , 今年も桜の季節がやってまいりました。東京でも、パンパンになっていた桜の蕾が、春の暖かい陽気で一気に咲き始めました。江戸時代後期に日本を訪れたイギリスの植物学者ロバートフォーチュン, robert, fortune、1812, 1880, は、綺麗な八重桜を目にして、「どこの国でも春は美しいが、日本の春は格別だ」と書き記したそうです。人は誰でも桜のようにいつも綺麗で美しく生きたいものです。また桜のような華々しい花を咲かせる人生になれば、と願っているはずです。今日の御言葉の個所には、アブラハムとサラに対する神様の願いが記されています。神様は15章8節で彼と契約を結びましたが、17章でも、もう一度神様は契約を結ばれます。この契約によって、アブラハムの人生は大きく変わるだけでなく、彼の人生において節目となる祝福の御言葉を受け取ります。この箇所以降から彼は「多くの国民の父」として相応しい信仰の持ち主として成長しつつ、信仰の父と呼ばれるようになります。まるで多くの人々に愛されている満開の桜のように、彼の信仰は多くの人々に受け継がれ、そして愛されるようになるのです。私たちも神様の御言葉を信じ、多くの国民の父及び母となりますよう、願いつつ、祈って行きましょう。1節をご覧ください。主がアブラハムに現れて再び契約を立てられたのは、アブラムが99歳の時でした。主の約束の子でもないイシュマエルが生まれてから、すでに13年の年月が流れてしまいました。アブラムは「天を見上げ、星を数えることが出来るなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになる。」と言われた主を信じ、義と認められました。それなのに、13年もの間「首を長くして」ずっと待ち続けても、約束の子供はなかなか与えられませんでした。それで彼は、「主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。」, 詩13:1, 、と心の中で叫んでいたかもしれません。そして、この時はもう諦めてしまっていたはずです。そう思います。でも、そんな時に、神様はアブラムに現われたのです。主である神様は真実な方ですので、決して約束を忘れたり破ったりはしません。主は約束されたものは必ず守る方なのです。その主はアブラムに何と言われたのでしょうか。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」, 。主はご自身を「全能の神である」と言われました。「全能の神」とは、ヘブル語では「エール・シャッダイ」であるが、「シャッダイ」とは「乳房」という意味も持っています, イザヤ60:16, 。つまり主である神様は、全知全能の神であると共に、祝福を注ぎ出す源でもあるのです。この方の前でアブラムはどう生きていくべきでしょうか。主はこう言われます。「わたしの前を歩み、全き者であれ」, と。これは全能の神の前に完全な者、欠点のない者となれ、という意味ではありません。もしそうであるならば不可能です。なぜなら、「義人はいない。ひとりもいない」からです, ローマ3:10, 。ですから、私たちは自分の弱さや罪深さを謙遜に認め、主だけを頼り信仰によって歩んでいくべきなのです。2節では、主は「わたしの契約」と言われます。それはこの契約が主ご自身の計画によるものであることを示しています。しかも神様のほうから手を差し伸べて、不完全な人間と契約を結ばれたのです。この契約は永遠に変わらない契約ですので、いつまでも有効なのです。それでは、なぜ全能の神様はご自分とアブラムとの間に契約を立てられたのでしょうか。ここからはその契約の内容や意味について、考えてみたいと思います。第一に、神様はアブラハムとサラが、「多くの国民の父と母」になることを願っておられるということです, 。5節ご覧ください。神様はアブラムに言われました。「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである」と。ここで「アブラム」は、「アブラハム」と呼ばれるようになります。アブラムは「高められた父」を意味しますが、アブラハムは「多くの国民の父」を意味します。また、15, 16節を見ますと、神様はアブラハムの妻「サライ」の名も「サラ」と変えてくださいます。サライとは「私の女王」という意味があるそうですが、おそらくサライは生まれた時から美しく、他の女性とは異なった気品を感じさせる人だったのかもしれません。65歳になった彼女に対して「見目麗しい女だ」, 12:11, 、「その女は非常に美しい」, 12:14, 、といった人々の言葉がそれを物語っています。しかし、サライがいくら美貌をもつ女性だとしても、いつかは老いて死んでしまいます。そのようなサライを神様は「多くの国民の母」という意味のある「サラ」に改名してくださったのです。名はその人の実体, 人格, を表わすと言われます。古代の中東においては、人の名前には意味があり、家系, 家門, のしきたりに従って名をつけるのが一般的でした。日本では一般庶民が名字を名乗ることを許されたのは1870年頃で、それ以前までは出身地や職業、自然、身体上の特徴などを通称として用いていたそうです。明治以後の法令によって庶民も全員、名字をもたざるを得なくなったので、次々と新しい名字が誕生したといいます。例えば、「一二三 ○・」, ひるみ・まるちょん, とか、「平平 平平」, ひらたいら・へいべい, とか、・・・。現代日本では「響きの良し悪し」で名前をつけるという風潮がありますが、ちなみに昨年の赤ちゃんの名前のランキングトップ3は、男の子が「大翔」, ひろと, 、「蓮」, れん, 、「悠真」, ゆうま, 。女の子が「結菜」, ゆいな, 、「陽菜」, ひな, 、「葵」, あおい, の順だったそうです。私たち自身の名前も、私たちの親の子に対する願いが込められているだろうと思います。では、アブラハムとサラの願いはどんなものだったのでしょう。アブラハムは、イシュマエルの父として、また一家の家長として、そしてサライの場合は子供が産めないこともあり、夫アブラムに愛される一人の女性として、2人とも毎日一家団欒での楽しいひと時を過ごしたいくらいしか思っていなかったのではないでしょうか。しかし、アブラハムとサラに対する神様の願いは違いました。神様は彼らが「多くの国民の父」「多くの国民の母」となることを願っておられたのです。ここに神様の大きな希望があるわけです。自分では変ろうとしても変えることができない自己を、主は完全に変えてくださるのです。主によって寺崎平八郎さんの名が「寺崎アブラハム」に変えられました。名前が変わるということは単に形式的なことではありません。名前が変えられるということは、内容も中身も変化するということであり、生き方も変わるということなのです。ところで、親のつけた名前を、今日からあなたは「アブラハム」と、あなたは「サラ」と呼ばなければならないと言われたら、恐らく“いや、今のままがいいです”という人も多いでしょう。勿論クリスチャンだからといって、クリスチャンネームに変える必要はないと思います。生まれてからずっと親しみを持っていた名前で主の御業に仕えることができれば、それもいいことでしょう。ですから、クリスチャンネームを好み、“はい、そのように呼ばれたいです”と願えることも、神様の恵みではないでしょうか。なぜかというと、神様の願いには全人類の救いの意味合いが込められているからです。神様が私たち一人ひとりを通して、この国に願っておられることは何でしょうか。それは、この国の多くの人々がキリストを信じ、全世界の国民の父と母となることでしょう。きっとそれが主の願われるジビョンであるはずです。先々週はこの教会に2人の方が訪れました。聖也さんと彼の祖母です。主にあって出会い、一緒に礼拝を捧げられたことは、本当に嬉しいことです。聖也さんの家族は敬虔なクリスチャン家族で、多くの人にキリスト教を知ってもらいたいと願って、よくチャリティー活動をしているそうです。彼に対する祖父母や両親の願いが何であるかは、機会があれば直接に聞いてみたいのですが、恐らく自分の孫や子供が信仰の持ち主になってほしい、と祈っていることでしょう。私はサラ宣教師から聖也さんの祖母の信仰の話を聞き、主が百人隊長に言われた御言葉が思い浮かびました。マタイ8章10節です。「・・・わたしはイスラエルのうちの誰にも、このような信仰を見たことがありません。」第二に、神様はアブラハムと関係を持たれることを願っておられるということです, 。主はアブラハム及びその子孫と代々にわたる永遠の契約を結んでから、その契約を守るように言われました, 。それから、主はその契約のしるしとして「あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい」と命じられました, 。「割礼」とは男性の性器の包皮を切り取るということですが、そのような儀式はイスラエル民族だけのものではありません。しかしイスラエルにとって、割礼は「神によって命じられた、神との契約のしるし」でした。「しるし」とは、それを見て主の契約を民が思い起こすためのものであり、また、主ご自身がそれをご覧になってご自身の契約を思い起こすためのものです。後に割礼は形式化し、割礼そのものが特権とされて行きます。しかし、主はこう言われます。「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」と, 申30, 。つまり「心の割礼」は、心砕かれて、心から主に信頼するようになることなのです。スイスの哲学者・文学者であるアンリ・フレデリック・アミエル(henri, fr?d?ric, amiel, 、1821, 1881)の『アミエルの日記』にはこういう内容が書いてあります。「心が変われば、態度が変わる。態度が変われば、習慣が変わる。習慣が変われば、人格が変わる。人格が変われば、人生が変わる」。16世紀のヨーロッパを席巻した宗教改革の精神は「聖書に帰れ」でした。この運動によって多くの人が聖書に帰り、聖書に親しみ、信仰による素晴しい救いを体験するようになりました。パウロはいつものように、当時、初代教会の聖書であった旧約聖書に帰り、神に喜ばれる生きた信仰の原点として、ユダヤ人が誇っていたアブラハムの信仰に注目させます。それは割礼を受ける前に、アブラハムは主を信じ、義と認められた, 創15:6, という御言葉です。「神様と正しい関係に入れられた」という中身を保証するしるしが外側の割礼でした。これによって、アブラハムは割礼を受けていない異邦人と割礼を受けたユダヤ人の両者にとって、すべて信じる者の「信仰の父」となったのです, ローマ4:11, 。第三に、神様はアブラハムが信仰を持ち続けることを願っておられるということです, 。15, 16節をご覧ください。主はアブラハムの妻サライの名もサラに変えてくださいました。それはアブラハムだけではなく、妻サラも共に祝福に預かるためでした。いくらアブラハムに強い信仰があっても、妻サラが不信仰に陥って足を引っ張るなら、主の御業はすべて水の泡になってしまいます。ですから、救いの御業に何よりも大切なものは、夫婦が一心になって祈り、協力し合うことです。16節をご覧ください。女性の方に読んでいただきましょう。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。主は一年後に「サラによって」、一人の男の子が生まれるとはっきりと言われたのです。その子の名は「イサク」です。しかし、彼はその神様の約束のことばを信じることができませんでした。彼は笑い、心の中で「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても九十歳の女が子を産むことができようか。」, と言いました。日本ではプロテスタント宣教開始から150年が過ぎた今でも、クリスチャンは全人口の1パーセントに満たないほど少数です。いくら伝道しても、何も手ごたえがないように思えることもしばしばです。しかし、アブラハムとサラも初めから信仰の持ち主になったわけではありません。ローマ人への手紙4章やヘブル人への手紙11章には、アブラハムの信仰がクリスチャンの鏡のように賞賛されていますが、この箇所を見ますと、アブラハムの信仰は、からし種一粒ほどの小さな信仰でした。私たちのように弱く不信仰な性質をもった人間でした。ところが、神様と交わっていくうちに、アブラハムとサラの信仰は強くなり、「多くの国民の父と母」となったのです。来月6日には福岡開拓礼拝が行われます。今日の礼拝には、竹下さんが参加するそうです。直美牧者は住み慣れていた東京から離れ、主の約束された福岡で新しい生活を始めたばかりですが、その彼女に主はこう言われます。「わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る」と。ハレルヤ!今年はイサクのような人が彼女から出て来られますように祈ります。またヨセフ宣教師に毎週力強いメッセージが与えられますように祈りましょう。最後に、皆様に一つの詩を紹介します。この詩には、直美牧者とブリスガ牧者に対する主の願いが含まれてあります。題目は「すごいのじゃ、あの方は」です。「・・・?.あの方は、おっしゃる。あなたは国々の母、あなたのふところには東京がある。日本がある。世界がある。/私はあなたの祈りがほしい。あなたのあたたかい心と涙がほしい。あなたの望みになりたい。/そして二人で手をつないでやりましょう。あなたのふところにある命を咲かせましょう。私の言葉は命を育むもとになるから、とおっしゃる。/あの方の望みを前にして、私の心はウキウキ、ときめいている。私は国々の母になれるのだ。私のふところにある命が見えて来る。子孫たちが近づいて来る。/これから後、どの時代の人々も私を幸せ者だと思うでしょう。/すごいのじゃ、あの方の望みは。」, 李リベカ