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14Genesis 5M神様の哀れみと祝福

14genesis, 5m神様の哀れみと祝福, 2014年創世記第5講 神様の哀れみと祝福御言葉:創世記4:1〜5:32要, 節:創世記4:25, 26「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」先週、私たちは人間が神様の愛を拒み、罪を犯してしまったにもかかわらず、その人間を捜し求め、救いの道を約束してくださった神様の愛を学びました。神様はその愛のゆえにアダムの子孫皆が救われることを望んでおられます。ところがアダムの二人の子どもは二つの道に分かれて行きました。彼らはどのような道を歩んで行ったでしょうか。皆さんと共にカインの道、アベルの道について学びたいと思います。そして「私たちは、はたしてどちらの道を歩み続けているのか」を考え、自分を省みてみることができるように祈ります。その中で、神様は私たちに望んでおられる道を知り、神様の御前で信仰の決断ができるように祈ります。?.カインとアベル, 1節をご覧ください。「人は、その妻を知った。彼女はみごもってカインを、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。」とあります。アダムとエバに最初の子が与えられました。アダム夫妻の喜びはどんなに大きかったでしょうか。エバは「私は、主によってひとりの男子を得た。」と告白しています。それからまたエバは弟アベルを産みました。子宝と言いますが、子どもたちに恵まれるのは幸せです。兄弟が互いに助け合い、愛し合う時、それを見ている親はとても幸せになります。先週、私の長女は誕生に兄から「誕生日おめでとう」という一行のメールが届いたことだけでも非常に喜んでいました。妹からの手紙を読む時は顔が赤くなるほど嬉しがっていました。そんな姿を見るだけでも私は幸せを感じました。おそらく、カインとアベルも仲良し兄弟だったでしょう。ところが、親から独立して大人になり、それぞれの職業を持つと、お互いに助け合い、協力し合う協力関係は崩れてしまいました。兄のカインは農業を営む者となりました。弟のアベルは羊の群れを飼う者となりました。そして、ある時期になると、カインとアベルはそれぞれ主への「ささげ物」を持って来ました。カインは、地の作物から持って来ました。アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持ってきました。主はこのアベルとそのささげ物とに目を留められました。しかし、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。それに対するカインの反応はどうですか。「それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。」とあります。このカインの気持ちはわかるでしょう。私も長男のひとりとして彼の気持ちが理解できます。弟のアベルが神様に顧みられ、長男である自分は完全に無視されてしまったと思うと気持ち良くないでしょう。後から来て、自分よりも劣っていると思う者がちやほやされ、早くから来てずっと苦労してきた自分が認められないと思われる時、皆さんはどうしますか。大抵の人は、それに耐えられず、嫉妬や憎しみの情を募らせて行きます。ところで、聖書には意外にも、後から来た者が先にいる者を追い越す例がたくさんあります。創世記を通してみると神様は長男より次男が好きなのかなあと思われます。イシュマエルとイサク、エサウとヤコブもそうです。ヤコブがヨセフの子どもを祝福する時も、長男のマナセではなく、弟エフライムを祝福するのです。後に、イスラエル民族が出エジプトをする時、神様はエジプトの初子をことごとく撃ちます。長男ばかりが死ぬのです。ですから、カインのような人は神様を非難します。なんとかして神様の不条理を発見して怒り、自分の正当性を主張しようとします。カインだけではなく、世間一般の人も、自分なりの価値観を持ち、人々も自分の価値観で自分を判断してくれることを願います。たとえば、うちの学校では父兄が先生を評価しますが、自分が低く評価されると、それは父兄の価値観が間違っているからだと考える人もいます。何でもかんでも人のせいにします。神様に対してもそうです。自分なりに「長男が先に生まれたから自分より優先でなければならない。次男のものは受け入れられたのに、長男のものが受け入れられないようなことがあってはいけない。」と言うような自分の考え方を神様にも要求するのです。しかし、ささげ物を受け入れるかどうかは神様の判断基準に従わなければなりません。それは神様の一方的なあわれみの自由です。新約聖書を見ると、世間では無視されている放蕩息子や収税人や異邦人が神様には招かれています。ぶどう園に朝から来て働いた人にも、夕方5時に来てたった一時間しか働かなかった労働者にも同じ1デナリオンの賃金が払われています。神様はご自分の計画と哀れみの自由によって哀れむべき者を哀れまれ、受け入れるべき者を受け入れてくださるのです。だから私たち人間は、その良し悪しを言う立場にはないのです。どうして神様がそうなさったかと言うのではなく、神様がなさったから正しいのです。ところが、カインは神様がなさったことが不公平だと思いました。自分の思いとは違っていたからです。このように自分を中心に思うその思いにサタンが働きます。感謝するところに聖霊の働きがありますが、自分の思いから不平不満を抱き、つぶやく人の心の中にはサタンが働くのです。結局、アベルと比較して妬みと憎しみの奴隷になってしまいました。8節をご覧ください。カインは弟アベルに語りかけました。「野に行こうではないか。」心の中にある怒りや妬み、殺意を押し隠して、一見散歩に誘うかのように優しげに語りかけたのです。そして、ふたりが野にいた時、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺しました。ここに、自分の思いが100%正しいとしたため、自分の弟さえ殺してしまったひとりの人間が描かれています。そしてこの姿は、まさにカインからの遺伝子を受け続けている人間、私たちひとりひとりの姿でもあります。自分の思いだけが正しいと主張し続ける人は多くの人々を傷つけ、殺して行きます。謙遜に神様の御声に耳を傾けず、悔い改めなければカインのように、人を殺すことまでもしてしまうのが人間なのです。惨めな人間の姿です。ところが、それでも神様は人間を捨ててしまわれませんでした。主は再びカインとお会いになりました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われました。神様はもちろん、カインが殺人の罪を犯したことを知っておられました。ですから、この質問は、決してカインを尋問するためのものではありません。神様は彼の父にアダムが罪を犯した時も同じような語りかけをしておられます。「あなたは、どこにいるのか。」という言葉です。その時のように、神様はカインに悔い改めの機会を与えたのです。本来なら二人はかけがえのない絆で結ばれた兄弟です。切っても切れない血の繋がりがあります。互いに愛し合う務めがありました。だから神様はわざと「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問いかけられたのです。ところが、カインのことは全く期待はずれでした。彼は「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」と答えています。これに対し、主はついにカインの罪を直接指摘されました。10節をご覧ください。「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。」次いで主は、カインの罪に対するさばきを宣告されました。11、12節をご覧ください。「今や、あなたはその土地にのろわれている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」彼は一つ所に安住して安定した生活を送ることができなくなりました。家と土地を捨て、慣れ親しんだ故郷を離れ、さすらいの人となります。15節をご覧ください。主は彼に仰せられました。「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」そこで主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さいました。主は殺人者であり、嘘吐きであり、神様の主権に逆らったカインでさえ見捨てることなく、保護してくださいました。主は罪を犯したカイン、悔い改めないカインでさえもなお見捨てることなく、守ってくださるのです。それは、彼が「さすらい人」として地上をさまよい歩く中で自分の弱さを認め、主にこそ、本当の安息があることを認めて、主に立ち返るためでした。神様は罪に対しては厳しく裁かれますが、罪人は本当に愛してくださいます。神様は今も一人でも滅びることを望まず、すべての人々が悔い改めに進むことを望んでおられます(ペテロ第二3, 9)。?.新しいアダムの子孫セツとアベル(4, 32) 16, 24節まではカインの子孫について記されています。16節をご覧ください。カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みつきました。カインは最初に神なき文化を始めました。また、カインの子孫の中には天幕に住む者、家畜を飼う者、立琴と笛を巧みに奏する者の先祖となった人々もいました。また、青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋もいました。彼らは神様に頼るのではなく、神様を抜きにした文明に頼って自分の生活を豊かにし、自分の生活を守ろうとしました。彼らは物が先という思想を持っていました。しかし、このような生き方をする人々はいくら多くの富みを得たとしてもその生活には不安とあせりが絶えません。カインの子孫の中で神なき文化の代表者としてレメクと言う人がいました。レメクの名は、「強い者」という意味です。まさに彼はその名の通りの人物で自分の力を誇り、神様なき文化の代表者のような存在です。彼は二人の妻をめとりました。神様の御心は「男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる」(2, 24)ということでしたが、レメクは二人の妻をめとったのでそのどちらとも「一体となる」ことはできませんでした。だから彼にとって結婚は人格的な結びつきではなく、ただ欲望を満足させるだけのものでした。また、レメクは彼の妻たちの前で復讐の歌を歌いました。「レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」彼は単に傷を受けたというだけで1人の人を殺しました。カインが犯した罪は彼の子孫によって段々広がり、世の中は戦争、殺人、姦淫、暴力などが絶えず起こりました。このようなカインの子孫だけを見ると、この世には希望が見えません。しかし、いつも神様には希望があります。私たち人間に対する神様の哀れみと祝福が消えませんでした。25、26節をご一緒に読んでみましょう。「アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」あわれみ深い神様は死んだアベルの代わりにセツを子孫としてお与えになりました。神様はアベルの信仰を受け継ぎ、彼の使命を果たすべき者としてセツを授けてくださったのです。そして、彼によって新しい御業が始まりました。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めたのです。その結果、アダムの子孫の中からもカインだけではなくアベルの子孫として神様と共に歩む人、主の御心にかなった人々が現われてきます。ではまず神様と共に歩んだ人は誰でしょうか。5章にはアダムの子孫の系図が出ています。この系図は信仰の人の系図です。セツの子孫の中から将来、人類を罪と死から救うキリストがお生まれになります。セツの子孫の中で代表的な信仰の人はエノクです。22, 24節をご覧ください。「エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」21節を見ると、エノクは65年生きて、メトシェラを生んでいます。彼が生まれてからメトシェラを生むまで65年間はどのように生きていたでしょうか。私はよく分かりません。ただ、彼にカインの遺伝子はなかったとしても神様に罪を犯したアダムからの遺伝子は繋がっていたはずです。生まれながら完璧な人ではなかったのです。アダムが自分の犯罪をエバのせいにしたように、何でもかんでも人のせいにする、人間同士が憎み合うという原罪から離れていなかったと思われるのです。しかし、彼はメトシェラを生んだ時、信仰の決断をしたようです。アベルのように神様に最上のものを持って行く感謝の生活、セツの子どもが生まれた時から始まった祈りの生活をしようと決断し、神様と共に歩む生活を始めたのです。そして、その決断を300年間も守り通しました。三日坊主ではなく、300年間です。金ヨハネ宣教師は毎年「300日以上教会で夜明けの祈りを捧げる。」ことを祈りの課題にしていますがそれも簡単ではないでしょう。ところが、エノクは300年間神様とともに歩んだのです。そのおかげでしょうか。彼の子どもメトシェラは人類歴上最も長生きした人として彼の一生は969年でありました。彼のひ孫であるノアは神様の御心にかなった人、全き人として神様と共に歩みました。大洪水後は人類の新しい先祖となりました。 以上で、私たちはアダム以後、カインとアベル、アベルの代わりに神様から授けられたセツとセツの子孫の歩みを学びました。皆さんはカインの末裔でしょうか。アベルの末裔でしょうか。カインは自分の行動が認められない時、ひどく怒り、憤っていました。自己中心の人生、不信仰の人生を生きて神様も自分のように評価するだろうと思ったからです。年上が先に認められるべきだと思ったようです。だから、正しく行っていないと神様から指摘されるとそれを受け入れることができませんでした。それは弟のせいだと思って自分の弟を憎しみ、殺してしまいました。主は彼に「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」と問いかけて悔い改める機会を与えましたが、悔い改めませんでした。むしろ、知らないふりをしていました。その結果彼が耕す土地は呪われてしまいました。彼はその土地から追い出され、神様の御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となってしまいました。しかも、弟を殺した彼は殺される不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。彼は「私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」と言っています。神様はご自分の哀れみのゆえに「一つのしるしを下さった」ので生き残りましたが、祝福された人生になりませんでした。しかし、アベルはどうでしたか。神様の御前で謙遜でした。彼が神様にささげ物をささげる時「初子の中から、それも最上のものを持って来た」と言う言葉に彼の心が表れています。彼の心は神様への感謝がいっぱいになっているのです。このことに対してヘブル人への手紙は「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。, 」と解説しています。神様は心をご覧になるお方です。アベルの人生は短かったけれども信仰によって生きたのです。神様は彼の人生を祝福してくださいました。信仰によって生きた彼の人生を受け継がせるセツを授けてくださったのです。そして、彼の子孫から人々は主の御名によって祈ることを始めました。さらに、その子孫の中からエノクが生まれ、彼は神様とともに歩みました。そして、その子孫からノアが生まれ、ノアを通して人類の歴史は新しく始まりました。何よりもその子孫から信仰の先祖アブラハムが生まれ、アブラハムの子孫から私たちの救い主イエス・キリストが生まれました。 したがって私たちは自分の力によって自分中心に生きたカインの末裔ではなく、信仰によって生きたアベルの末裔です。一般的に、人々は自分がカインの末裔だと思っています。自分が本性的に行動し、罪を犯してしまうのはカインの末裔だからしようがないと思います。夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩も当たり前だと思います。しかし、この世にもアベルの末裔がいます。最近、私がインターネットから研修を受けていますが、講師の崔博士はアメリカのカートマン博士が35年間3, 000組以上の夫婦と調べ、追跡してみると夫婦喧嘩も、兄弟喧嘩もない家庭も多かったと言いました。崔博士自身も両親が夫婦喧嘩するような場面を見たことがなかったと言いました。意外にそういう家庭も多くあるのです。すべては神様から与えられたと信じて神様に最上のものをささげようと思うほどに神様に感謝する人はアベルの末裔として生きていることです。アベルの末裔は自分の思い通りにならないことで不平不満を抱き、つぶやくのではありません。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい, 箴言3, 」と信じてすべてのことにおいて神様に感謝し、祈る人です。神様と交わりながら神様とともに歩む人です。祝福そのものだった信仰の先祖アブラハムのように祝福された人生を生きて行く人です。どうか、私たちがアベルの末裔である自覚を持って信仰によって生きることができるように祈ります。300年間神様と共に歩んだエノクのように信仰の決断をしましょう。今まではどのように生きて来たとしてもこれから神様と共に歩もうと決断すれば、神様に喜ばれるでしょう。共に歩むということは完璧に生きるということではありません。それよりも神様に感謝し、祈りながら神様と交わる生活ができるということです。300年ではなくても、金ヨハネ宣教師のように毎年300日でも信仰の決断をして守って行くことができますように祈ります。

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14x-mas3.この上もない喜びのクリスマス

mas3, この上もない喜びのクリスマス, 2014年関東地区聖誕礼拝この上もない喜びのクリスマス御言葉:マタイの福音書2:1−12要 節:マタイの福音書2:101.イエス様はいつ、どこでお生まれになりましたか, 。この時、東方の博士たちがエルサレムに来た目的は何でしょうか, 。なぜ、ヘロデ王とエルサレム中の人は恐れ惑ったのでしょうか, 。2.ヘロデは、どのようにして、イエス様がお生まれになる場所を知るようになりましたか, 。預言者の預言によると、この地でお生まれになるイエス様はどのようなお方ですか, 6,ミカ5, 。3.博士たちは、どのようにして幼子のおられる所まで、進んで行くことができましたか, 。星を通して、博士たちを幼子イエス様のところに導いてくださった神様について、話してみましょう。博士たちの喜びはどうでしたか, 。4.博士たちが幼子を見、ひれ伏して拝んだのにはどんな意味がありますか, 。彼らはなぜ、三つの贈り物をささげたのでしょうか, 。私たちは、今年のクリスマスをどのようにして、迎えたら良いでしょうか。5.博士たちは、なぜ別の道から自分の国へ帰って行ったのでしょうか, 。ここに、幼子イエス様を保護しておられる神様の御手の働きが、どのように現れているのでしょうか。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis3M エデンの園と人間の幸せ

14genesis3m, エデンの園と人間の幸せ, 2014年創世記第3講エデンの園と人間の幸せ御言葉:創世記2:4−25要 節:創世記2:15, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。” 先週、皆さんは張パウロ宣教師を通して人間を創造された神様を学んだことでしょう。最後に人間が創造されて天地創造が完成されました。そのとき、神様は非常に喜ばれました。他の被造物にも存在価値があり、意味がありますが、人間創造は特別だったのです。人間の創造が終わると、なさっていたわざの完成を告げられました。結局、六日間なさっていたすべてのわざは人間のためだったことが分かります。そして、今日の本文では人間のために幸福のエデンの園を設けてくださった神様の愛、愛する人間が永遠に幸せに生きることを願っておられる神様の御心がよく示されています。この時間、御言葉を通して私たち人間がどんなに愛されているかを知り、その愛に答えて幸福のエデンを自分のものにして行くことができるように祈ります。4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。」とあります。この「経緯」という言葉は創世記の他の部分では「系図」と訳されています。これには「ストーリー」(物語)あるいは「ヒストリー」(歴史)といった意味があります。つまり、著者は人間の系図の一番目になるアダムの創造の時に、人間の歴史の中に働いておられる神様について書き記しています。それによって人間がいかに神様から愛されているか。どんなに祝福された存在なのか。示しています。そして天と地が創造された時の経緯を通して神様は愛する人間が幸せになることも示しています。では、人間が神様から愛されている証拠、祝福された存在である証拠は何でしょうか。第一に人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在に造られたことです。5‐7節をご覧ください。地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していませんでした。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからです。地球は創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していました。その時、神様は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。そこで、人は、生きものとなりました。こうして人間は他の被造物とは違って神様のいのちを持つ存在になりました。神様との交わることができる特別な存在になったのです。被造物として神様と交わりができる存在は人間しかありません。神様は人間を愛した余り、永遠にご自分の交わる存在にしてくださったのです。神様との交わりのために人間だけに霊的なものを知る知識、道徳的な価値を判断できる能力も与えてくださいました。だから、私たちは祈りもできるし、神様への賛美もできます。他の動物とは違います。動物も生きていける知恵が与えられているので敵が現れると身を隠したり、逃げたりします。それでゴキブリなどは、厳しい環境の中でも生き延びることができます。ゴキブリは核戦争があっても生き残るだろうと言われるほどです。また猿やゴリラなどの動物にも知恵が与えられていて、棒を使ってバナナを叩き落とすことができます。その棒を蜂蜜のつぼの中に入れて棒についた蜂蜜をなめることもできます。しかし、どんなに知恵があっても、動物は道徳的により良いものを目指すことはしません。日曜日ごとに礼拝することもしません。人間だけが快楽や安楽を捨ててでも価値あるものを求めます。損得を越えて正しいことを守り通そうとします。真の礼拝を求めます。それは神様からいのちの息が吹き込まれて神様との交わりができる霊的存在として造られたからです。第二に、人間のために素晴らしい環境を与えてくださったことです。8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。エデンとはスメル語では「平地」と意味する言葉ですが、ヘブル語では「喜び、楽しみ、幸せ」という意味を持つ言葉だそうです。つまり、神様は人間のために幸せの園(garden)を与えてくださったのです。神様は愛する人間が永遠に幸せに生きられるように幸せの園を設けてくださいました。その園には、見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木がありました。川の水もありました。エデンの園には川があって園全体を潤していました。そのおかげで、そこにはさまざまな木が豊かに実を実らせていました。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけていたことでしょう。毎月新しい実が出て来るのです。何を食べても賞味期限を確認する必要もありません。いつでも新鮮で美味しい自然食品を食べることができました。手を伸ばせばすぐに食べることができたのです。また、この川はピション、ギホン、ティグリス、ユーフラチスという四つの川の源流になっています。ピションの川沿いのハビラには良質の金とベドラハとしまめのうと言った宝石がありました。神様が人間に与えてくださった土地は農作物ばかりでなく、宝石も豊かにある土地だったのです。こうして「地球はいのちの星、宝の星」と言われるようになりました。神様は人間のために最も美しく素晴らしい環境を備えてくださったのです。第三に幸せな家庭を造ってくださったことです。どんなに素晴らしい環境に住んでいても、神様がご覧になると、ひとりでいるのは良くありませんでした。そこで神様は家庭を造ってくださいました。18節をご覧下さい。「神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人間の創造の時、人がひとりでいるのは良くないと思われました。事実、人は男一人でも、女一人でも、ひとりだけいるのは良くなく見えるものです。つまり、人は男か女一人だけでは何か足りないということです。人がどんなに強く、たくましく見えてもひとりだけでは足りません。結婚している方は分かるでしょう。家に帰った時に奥様がいないとどうでしょうか。なんかさびしく、家の空気も冷たく感じるのではないでしょうか。どこかに出かける時もひとりでいるのは良くありません。寂しさだけではなく何か忘れ物があるように感じるし、落ち着きません。奥さんも旦那さんがいないと寂しく感じるでしょう。ある奥様は「夫は家にいるだけでも安心できるし、力になる存在だ」と言いました。つまり、夫は妻の存在が、妻には夫の存在が必要だし、お互いに助け合うことが必要だということです。聖書を見るとソロモンには何人もの妾, めかけ, がいましたが、自分を真実に愛し、助けてくれるひとりの妻がいませんでした。それで彼の所有は多かったけれでも、彼の人生は光りませんでした。一方、イサクはちょっと足りないような人でした。しかし、リベカと言う立派な信仰の女性が妻であったお蔭で彼はアブラハムの信仰を受け継ぐことができました。イサクだけではなく、数え切れない夫たちが妻の助けによって立派な人生を生きることができました。去年放送されたnhk大河ドラマ「八重の桜」の八重さんも素晴らしい助け手のひとりです。新島嬢さんキリスト教に根ざした学校を作ろうとしても偏見を持つ人々の反発に遭いました。そこで葛藤する夫を支えたのは八重さんでした。「ならぬものはならぬ」の精神を持った八重さんが夫の新島さんを支えたのです。そういう八重さんの助けが同志社英学校の開校にもこぎつけます。その後も、二人の夢が一つになって同志社大学設立へと向かいます。このように、社会的にも霊的にもひとりだけではなく、互いの足りなさを補ってくれる信仰の同労者が必要です。そして、そういう家庭をつくることは大きな祝福であるのです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると男性は土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。つまり、女性の位置は上でも下でもなく男性のわきです。男女は平等であるということです。22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。結婚は自分が好きな人を選んで嫁にするするとか、旦那にするようなことではありません。自分のところに連れてきてくださった神様の導きを感じて悟り、神様が連れて来られたと信じて受け入れる結婚こそ聖書的な結婚なのです。では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。親にも、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。アダムの奥さんや幸せを感じたことでしょう。実際に、夫は妻から認められ、尊敬される言葉を聞くと幸せになりますが、妻は夫からほめられると、幸せになるそうです。夫なる方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。you are wonderful!」と。女性をほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。夫が自分の妻こそ神様の傑作品であると認め、告白することが家庭に平和と幸福をもたらすのです。24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とありまするのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになることによって幸せな夫婦になります。そのために信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じである必要があるでしょう。だから、クリスチャンはノンクリスチャンではなく、クリスチャンと結婚するし、同じクリスチャンでも同じ教会の人と結婚しようとするのです。結婚してから幸せな夫婦であり続けるためには互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。結婚によってふたりは一体となるのに、まだ心が父母を離れず、妻の料理より母の味噌汁が美味しかったというようなことを言ってはいけません。妻や夫が恥ずかしく思うようなことを言ってはいけないのです。本当に幸せな夫婦は二人の間に何も恥ずかしいことがありません。25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。以上で、私たちは神様がいかに人間を愛してくださったかを学ぶことができました。神様は人間の鼻にいのちの息を吹き込んで神様との交わりができる存在にしてくださいました。エデンの園という素晴らしい環境を与えてくださいました。そして、ひとりでいるのは良くないので家庭を作ってくださいました。これらが私たち人間に対する神様の愛のしるしですが、私たちにとっては大きな祝福です。私たちがこの祝福の中で生き続けるためにはどうすればいいでしょうか。15節をご一緒に読んでみましょう。, “神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。”神様は私たちのために与えてくださった環境を耕せました。「耕す」(カルチベイト)は「文化」(カルチベイション)に通じています。人間は産業、芸術、教育などを通して文化を生み出すことで神様の愛を感じ、体験する存在として造られたのです。だから、私たちは神様から与えられた環境の中で文化活動を通して神様の恵みを味わい、神様の愛を体験することができます。それによって神様の形に造られた人として生かされている喜びを覚えることもできます。「またそこを守らせた。」とあります。「守る」とは自然を管理することであり、神様が与えられた御言葉を守ることです。神様が立てられた家庭の秩序を守ることでもあります。それを通して神様の形に似せて造られた人間、いのちの息が吹き込まれた人間として神様との交わり続けることができます。何よりも私たち人間は神様の御言葉を守る時に幸せに生きることができます。16、17節をご覧ください。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」とあります。私たち人間が最初に守るべき御言葉はこの2節だけでした。しかも、無限の自由と祝福の中でただ一つ善悪の知識の木からは取って食べてはならない」と言うことです。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と、許可を与えてくださいました。何と恵み深いことでしょう。エデンでは毎日がご馳走のフルコースです。採るも自由、食べるも自由のバイキング状態だったのです。エデンの園での生活を想像すると、毎日が楽しく、心地よく、快適であったかと思わされます。ただ、「善悪の知識の木」だけが、食べてはいけないと命じられました。そして「食べたら、あなたは必ず死ぬ」と警告されました。なぜでしょうか。それは「人間が神様ではない、神様の命令のもとに生きるべき存在だ」ということをわきまえさせるためだったと思います。人間は神様から特別に愛される存在でした。人間は神様の創造の中心、文化を創造し、自然を守る使命を頂きました。エデンの園というすばらしい住まいにも恵まれました。すべて神様に造られたものの中で、人間は何から何まで特別扱い、特別待遇でした。しかし、そうであっても人間は神様ではないのです。善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様の被造物にすぎない存在であることを覚え、神様を恐れよという命令だったのです。私たちの前に善と悪の道があります。神様に信頼し、神様の言葉に従うことが善です。神様が与えてくださった環境を守り、家庭を守ることが善です。夫婦関係、親子関係を守ることが善です。それこそ幸いの道でもあります。そして、神様に背き、神様から離れることは悪です。自分が地球の支配者であるかのように振る舞い、神様の造られた世界を汚し、壊すことは悪です。神様抜きにものごとを考え、判断し、神様抜きで正しく行動できる、神様抜きでも幸せになると思うことは悪です。それらは悪であって、滅亡と死へ道です。こういう知識の木から取って食べることは善悪の基準を無くしてしまうことになります。それは絶対にあってはいけません。善と悪をわきまえることは子どももできることだからその基準を覚えることは無視してしまいがちです。学校でも数学や英語を学ぶ時間は多くても倫理や道徳の時間はほんの少しです。しかし、それを無くしてしまってはいけないのです。ところが、人間はその善悪の木から取って食べてしまいます。エデンの園という最高、最善の環境におかれたのに、神様の愛と祝福を忘れてしまいます。神様を離れることが悪と知りながら神様抜きの人生を選んでしまうのです。本当に残念なことです。このことに関して来週に勉強します。私たちはイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復すことができます。信仰によって救われると神様との交わりができ、神様の御言葉を守るようになるからです。どうか、私たちが神様の御言葉を守ることによってエデンの園を通して示してくださった幸福を自分のものにして行くことができるように祈ります。無限に与えられている神様の恵みと祝福の中で神様の愛を経験しながら神様から与えられた御言葉もよく守って行きますように祈ります。

14Genesis14M 約束されたとおりに行われた神様 

14genesis14m 約束されたとおりに行われた神様 , 2014年創世記第14講                               約束されたとおりに行われた神様御言葉:創世記20, 1−21, 34要, 節:創世記21, 1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」 先週、私は福岡ubf開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。2, 13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12, 20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。ローマ8章31, 37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21章1, 2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3, 5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました, 。以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis16M イサクの結婚

14genesis16m, イサクの結婚, 2014年創世記第16講 イサクの結婚御言葉:創世記24, 67要 節:創世記24, 44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はubf教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。2, 4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています, 31、50, 。そして、22章20, 23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。12, 14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい, マタイ5, 。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。  15, 20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました, マルコ1, 。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。, ?コリント4, 」と言いました。私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Matthew8M 安息日の主であるイエスキリスト

14matthew8m, 安息日の主であるイエスキリスト, 2014年マタイの福音書第8講安息日の主であるイエスキリスト御言葉:マタイの福音書12, 1−21要 節:マタイの福音書12, 「人の子は安息日の主です。」先週、私たちはイエス様が「すべて、疲れた人、重荷を負っている人」をご自分のところに招かれ、休ませてくださることを学びました。そして月曜日には金サムエル宣教師を通して備えられた秋ヶ瀬公園で素晴らしい休みの時間を過ごすこともできました。神様が私たちを憩いの場に導かれ、休ませてくださったことを感謝します。今日は「安息日の主であるイエス・キリスト」を学びます。安息日とはユダヤ教で一週の七日目の土曜日です。キリスト教では日曜日を意味します。これは、イエス様が金曜日に処刑され、三日目の日曜日に復活したことに由来しています。イエス様が復活した日曜日を主日、安息日として守っているのです。イエス様はこの安息日の主であることを宣布されました。その意味は何でしょうか。イエス様の教えを通して安息日の意味、その精神を深く学ぶことができるように祈ります。また、安息日の主であるイエス・キリストはどのようなお方なのかについても学ぶことができるように祈ります。?.安息日の主であるイエス・キリスト, 1−8, 1、2節をご覧ください。そのころ、イエス様は、安息日に麦畑を通られました。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めました。農村では普通にあることでした。私も友達と一緒に麦の穂を摘んで食べたことがあります。惜しかったのですが、私の田舎でもそれ位は許されました。特に聖書には「貧しい人や旅人は、麦畑に入って麦を摘んで食べても良い, レビ記19, という教えがあります。弟子たちは麦畑から穂を摘んで麦を食べることは普通にあることだったのです。でもパリサイ人たちは、その日が安息日であったことに注目してイエス様を攻撃しました。ユダヤ人にとって安息日の戒めは非常に厳しいものであって、いっさいの労働が禁じられます。たとえば、麦の穂を取ったことは収穫です。麦の殻を取ったことは脱穀です。殻を落としたことは振り分けた仕事をしたことになります。弟子たちが麦の穂を摘んで食べたことは安息日の戒めを何個も破ったことになるのです。そこで、パリサイ人たちはイエス様に「あなたの弟子が安息日にしてはならないことをしています。」と言ってイエス様を非難し、攻撃しました。それに対してイエス様は二つのことを指摘されました。    第一に、イエス様は彼らが最も尊敬しているダビデの場合もひもじくなった時に祭司のほかは食べてはならない供えのパンを食べたことを指摘されました。3、4節をご覧ください。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。神の家に入って、祭司のほかは自分も供の者達も食べてはならない供えのパンを食べました。」とあります。これは?サムエル21, 1−6にあります。ダビデが青年時代にサウルに追われ逃げて行きました。その間にダビデと供の者は食糧がなくて、飢え死に一歩寸前まで迫られました。すると、ダビデは祭司の家に逃げ込み、食べ物を求めました。すると、この祭司は大胆なことをしました。今手元にパンがないから宮に供えたパンをあげましょうと言いました。それでダビデは神の家に入って、祭司のほか、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたのです。それは供えのパンに関する律法を破ったことになります。それでもダビデは咎められませんでした。彼を罪に定めたことは聖書のどこにも記されてありません。そこで、イエス様はパリサイ人たちに「ダビデが何をしたかを知らないのですか。読んだことがないのですか。」と問い詰めたわけです。イエス様はダビデの事を通して弟子たちを弁護してくださいました。それによって戒めよりいのちが大切であることも教えてくださいました。第二に、イエス様は祭司たちが宮にいる間に安息日の戒めを犯しても罪にならないことを指摘されました。それによって祭司よりも大きい弟子たちの霊的な身分も示唆してくださいました。5,6節をご覧ください。「また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日の神聖を冒しても罪にならないということを、律法で読んだことはないのですか。あなたがたに言いますが、ここに宮より大きな者がいるのです。」」とあります。宮にいる祭司たちは安息日にも仕事をしました。供えのパンを替え、犠牲の小羊を殺すこともします。注ぎの捧げ物や、穀物の捧げ物をささげることもします。そのような仕事で神聖を冒しても罪になりません。同様に、宮より大きいイエス様と一緒にいる弟子たちが仕事をすることは罪にならないのです。ここで、イエス様は弟子たちが宮にいる祭司たちよりも大きい者であることも示唆してくれました。ところが、パリサイ人たちは、律法も、律法の精神もよく知りませんでした。それは、聖書の教えを表面的な意味だけで捉えていたからです。彼らは「あれはいけない。これもいけない。このようにしなければならない。あのようにしなければならない。」というようなことばかりを言っていました。イエス様は彼らに何と言われましたか。7節をご一緒に読んでみましょう。「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者達を罪に定めはしなかったでしょう。」イエス様はホセア書6章6節を通してパリサイ人たちの無知を指摘されました。いけにえは宗教的な熱心を意味します。パリサイ人たちは律法を破る人々を見つけために熱心な人たちでした。彼らは人々を憐れむことよりも罪に定めることに熱心でした。しかし、神様は宗教的な熱心よりも哀れみを好んでおられます。律法の知識を持って人をさばくのではなく、人の状態を理解し、哀れむことです。私たちも人の状態、状況を把握する前に表面的なことで判断し、議論をしやすいです。先週、私たちの定期小会の時間はとても短くなりました。幸いなことです。ところが、教会も集まって教会のわざについて論ずるときにも評論家的議論をしやすいです。そして互いにさばき合い始めた時、教会は崩れます。家庭もさばき合うことによって崩れると、三浦綾子さんを言いました。家族が互いの評論家になった時、家庭の交わりは、もはや存在しないのです。教会も同じです。どうか、私たち一人ひとりがパリサイ人のように人の過ちを見つけ出して批判し、攻撃するのではなく、イエス様のような哀れみの心を持って生きるように祈ります。特に安息日にはひもじくなっている人のことをよく理解し、哀れんでくださるイエス様の御心を学ぶことができるように祈ります。では、安息日とイエス様との関係はどうですか。 8節をご一緒に読んでみましょう。「人の子は安息日の主です。」ここで「人の子」と言うのは二つの意味があります。一つはイエス様がご自分のことを言われる時に代名詞の場合があります。もう一つは人間一般です。ここの「人の子」は両方にとれます。イエス様は安息日よりも大きい、イエス様が上位を占めているという解釈です。ご自分が安息日の主であることを宣言されました。実際にイエス様は安息日を創設された神様です。また、安息日の戒めを与えられた神様です。そして、安息日を創設されたのも、安息日の戒めを与えられたのも人間のためです。そこで、もう一つの意味は、安息日が人の子である人間のためにあるのだということです。つまり、人間が安息日のためにあるのではなく、安息日が人間のためにあるのです。このことは安息日に片手のなえた人を癒されたことによって明らかになっています。どちらにしても安息日はイエス様中心、人間中心になります。安息日は、六日間働いて一日休み、神様を礼拝する日です。もし、人間が六日間働いてから1日を休むことも、神様を礼拝することもしなければ、人間は人間らしさを失ってしまいます。ですから、六日間働いたら一日を休んで神様に礼拝をささげ、賛美をささげるようにしてくださったのです。それによって私たち人間が人間らしく過ごしていけるように安息日を創設し、安息日の戒めも与えられたのです。私たちはよく「忙しい、忙しい。」と言いますが、一日も休まずに過ごしていけるでしょうか。自分を省みる余裕もなく、神様を思う時間もない生活を続けるならどうなるでしょうか。疲れた人、重荷を負っている人として生きるしかならなくなってしまいます。人間として生きることができなくなってしまうでしょう。だから「安息日」は神様が私たちを休ませ、安らぎを与える日であって人間の幸せのためにあるのです。つまり、人が安息日のためにあるのではなく、人のために安息日があるのです。安息日の戒めによって人間を縛るためではないのです。従って私たちは安息日である主日は休み、安息日の主であるイエス・キリストを礼拝する日として過ごさなければなりません。「安息日を守りなさい。」という戒めに縛られるのではなく、「安息日」の意味を考え、心からイエス・キリストを礼拝するのです。そして、イエス様のようにひもじくなっているような人々を理解して哀れみ、助けることも大切です。パリサイ人のように人を攻撃し、責めるようなことを悔い改め、イエス様のように人を哀れみ、助けるのです。そう意味で霊的にひもじくなっている兄弟姉妹たちとの1, 1聖書勉強はとても素晴らしいと思います。私たちが安息日の主であるイエス様と交わり、イエス様を中心に過ごして行きますように祈ります。?.あわれみ深いイエス様(9ー21) 9,10節をご覧ください。イエス様は麦畑を去って、会堂にはいられました。そこに片手のなえた人がいました。片手が使えないことは深刻な問題です。片手が全く使えない時の不便さは大きいでしょう。哀れみ深い人なら、「片手が萎えて大変だなあ、どんなに苦労して来ただろうかなあ。」と思うでしょう。ほんとうは、パリサイ人たちも宗教指導者として片手のなえた人深く哀れみ、助けてあげようとしなければなりませんでした。ところが、彼らは片手のなえた人を憐れむどころか、イエス様を訴え、攻撃する道具にしか見ませんでした。そこで、彼らはイエス様に質問して「安息日にいやすことは正しいことでしょうか。」と言いました。彼らの質問に対するイエス様のお答えはどうですか。 11、12節をご覧ください。「あなたがたのうち、誰かが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。人間は羊より、はるかに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」とあります。昔も、今も人は自分のものを大切にします。もし、自分の羊が穴に落ちたら、その日が安息日であってもそれを引き上げるのです。人々は誰でも自分の羊は尊く思います。しかし、羊よりも人間のいのちが大切です。人間は羊と比べられない尊い存在です。人間は神様の形に似せて造られた尊い存在です。イエス様は片手のなえた人も、全世界よりも貴く思ってくださいました。だから、ご自分が訴えられる危険があったにもかかわらず、彼をあわれんでくださいました。 13節をご覧ください。イエス様はその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われました。彼が手を伸ばすと、手は直りました。もう一方の手と同じようになりました。イエス様のあわれみによって彼は癒されて新しい人生を送ることができるようになりました。両手をあげて「ハレルヤ!ハレルヤ!」と賛美することもできるようになりました。ところがパリサイ人たちの反応はどうですか。14節をご覧ください。「パリサイ人は出て行って、どのようにしてイエスを滅ぼそうかと相談した。」とあります。高慢なパリサイ人の心に変化は起こりませんでした。むしろ、彼らの心は以前よりもっとかたくなになってしまいました。パリサイ人たちは片手のなえた人の苦しみ、悲しみに同情することも、そのいやしを喜ぶこともできませんでした。むしろ、どのようにしてイエス様を滅ぼそうかと相談しました。イエス様はそれを知って、そこを立ち去られました。すると多くの人がついて来たので、彼らをみないやしました。そして、ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められました。心優しくへりくだっておられるイエス様の姿です。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためでした。18, 19節をご覧ください。「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」神様はイエス様の上に神の霊を置き、神の霊によって異邦人に公義を宣べ伝えるようにされました。ですから、イエス様は義務感や事業的な動機から福音を宣べ伝えられたのではなく、神の霊によって福音を宣べ伝えられました。一度も感情的になることがなく、聖霊に満たされて伝道活動をなさいました。争うこともなく、叫ぶこともされませんでした。ではこのようなイエス様はどんな方でしょうか。20、21節をご一緒に読んでみましょう。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。異邦人は彼の名に望みをかける。」葦は弱いものの象徴です。いたんだ葦はさらに弱いものです。私たち人間の弱さを象徴的に表しているのが、この「葦」なのです。また、私たちの心はロウソクや石油ランプの「燈心」のように弱いです。ちょっとした風が吹いて来ると消えてしまいます。三日坊主と言われていますが、強く決心してもちょっとした風が吹いて来るとその決断は崩れてしまいます。 時々、私たちの信仰の炎も、揺らいで弱くなります。その光は、燃え盛る炎ではなく、試練の大きいときなどは、微, かす, かに点, とも, る灯, ともしび, となる場合があります。しかし、イエス様は、そのような私たちを打ち拉, ひし, ぐことなく、力づけてくださるのです。イエス様は、弱い者を無視したり、見捨てたりはなさいません。弱い私たちをあしらうことなく、理解して支えてくださるのです。, この20節の御言葉に、私たちは、イエス様の愛と労りの思いを感じることが出来ます。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」とは、何という恵みでしょうか。私たちのように、肉体的にも人間的にも信仰の面から霊的にも、弱さを持っている者たちです。ところが、憐れみ深いイエス様「いたんだ葦」のような弱い私たちを折れないように労り、強くして下さいます。消えそうになって「くすぶる燈心」のような私たちにも、信仰の炎が燃え上がるようにしてくださいます。そのおかげで私たちは成長して行きます。そして、私たちがそのようなイエス様を見習って行くうちにあわれみ深い人として成長して行きます。できる人ではなくも、できた人として成長して行きます。 ここで、渡辺和子さんの言葉を紹介します。「いつも、いつも、勝っていて負けを知らない人を、私たちは、『あの人は出来る人だ』と評価します。それに対して、私たちが、『あの人は出来た人だ』と言うとき、それは、人間的に円熟した人、包容力のある人、ある意味で負けることの大切さを知り、時に応じて、進んで相手の人に勝ちを、勝利を譲ることが出来る人を言う」と言うことです。そうですね。人格的にすばらしい人を指して、「できた人」というのではないでしょうか。 皆さん!「できる人」になりたいでしょうか。「できた人」になりたいでしょうか。私は、「出来る人」にならなくてもいいと思います。できれば、「出来た人」になって行きたいと思います。そして、「できた人」とはイエス・キリストを学ぶことを通してなれると思います。イエス様は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」、愛と労りの思いに満ちた御方です。痛んだところに手を差し伸べ、必要ならば触れて下さいます。なえているところを癒して下さいます。, 私たち自身の罪のために暗くなり傷ついている魂に触れて下さいます。私たちの罪と咎を赦して下さいます。そうして、いたんだ葦のように弱い人でも神様の子どもとして下さることによって、新しい存在に生かして下さいます。また、限りない哀れみと愛によって私たちを導かれ、成長させてくださいます。どうか、今週も、このようなイエス様との交わりをもっともっと深めていきたいと思います。私たちが安息日の主であるイエス・キリストのあわれみ深さを学び、それを実践することができるように祈ります。

14Genesis01M 神が天と地を創造した

14genesis01m, 神が天と地を創造した, 2014年創世記第1講神が天と地を創造した。御言葉:創世記1, 1−25要 節:創世記1, 1「初めに、神が天と地を創造した。」 先週、私たちは新年修養会を通して豊かな恵みを受けました。定期小会を通して去年のみわざの決算をし、今年の計画も立てました。去年も私たちが頼っていた御言葉の通りに「神の力の働き」を体験できたことを感謝します。そして新年も修養会を通して御言葉を深く受け入れることができたことを感謝します。御言葉に従って時が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えることができるように祈ります。 今週からは創世記の御言葉を学びます。「創世記」とは原語のヘブル語では「ベレシート」です。創世記の最初の言葉がそのままタイトルになっています。「初めに」という意味です。ギリシャ語では「genesis」と翻訳されました。英語の聖書ではギリシャ語のままタイトルとして使っています。それで英語では創世記がgenesisになっています。この創世記に現在私たちの周りに存在する全ての始まり(ルーツ)が記録されています。そこで、私たちは人類の始まり、罪の始まり、福音の始まり、救いの始まり、文化と言語の始まり、民族の始まりなどについて学ぶことができます。つまり、自分とかかわるすべてのルーツを知ることができます。それによって今の自分の存在を知ることでもあります。また、どのように生きて行くべきかと言う人生の目的も知ることができます。すると、私たちは癒されたり、生かされたりします。たとえば、私たちは仕事で失敗したり、人間関係で悩んだりして、自分なんかどうでもいい存在なのだ、と思う時があるでしょう。スランプの時、落ち込んでいるときがあるのです。そういう時に自分のルーツを知ると、なんともいえない有難い気持ちになります。自分のおじいちゃん、おばあちゃん、自分の両親とつないできてもらった命がいま自分の中にあると思うようになります。すると、そう思うだけで自分はどうでもいい存在ではなく、ご先祖さまに生かされている大切な存在なのだ、と思えるようになります。何よりも私たちクリスチャンは「私の創造者であられる神様に生かされている大切な存在なんだ」と思えるようになります。それによって落ち込んでいた心が癒され、元気づけられて強くたくましく生きられるようになるのです。その上、私を造られた方は、どんなに大きな偉大な方なのかを知れば知るほど心強く、偉大な人生を生きるようになります。そういう意味で、私たちが創世記を通して私たちの周りに存在するすべてのルーツを知り、そのすべてを始められた神様を学ぶことはとても大切であると思います。どうか、私たちが創世記の御言葉を通して自分のルーツ、自分の原点を知り、その始まりを始められた神様はどんな方を深く学ぶことができるように祈ります。1節をご一緒に読んでみましょう。「初めに、神が天と地を創造した。」この御言葉は驚くべき宣言です。ここには何の説明も、弁明も、論理の展開も、説得もありません。初めに神様が天と地を創造したことはあまりにも確実な真理だからです。「初めに、神が天と地を創造した」という事実は、人間の力で説明できるような領域ではありません。たとえば、ここにあるピアノを作った人はそれをいつ、どのように造ったかを説明することができます。でも、造られているピアノは自分がいつ、どのように作られたかを説明することはできないでしょう。私は私の両親を両親として知っていたし、自分が52年前生まれたことも知っています。それは誰かが科学的に、論理的に説明してくれたからではありません。ただ、両親を信じることによって自分のルーツ、自分の存在について知っているのです。同様に、私たちは信仰によってのみ、神様が天と地を創造したことが分かります。それでヘブル人への手紙の著者は「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」と言っています。私たちは「初めに、神が天と地を創造した。」という宣言を信じる信仰によって神様の創造を悟るのです。それによって聖書全体に対する霊的な目も開かれます。「神が天と地を創造した。」何と厳粛で神秘なひびきの言葉でしょうか。人類歴史上、最も多くの人々に愛読された一文であるでしょう。私たちも毎週使徒信条を通して「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白しています。「神が天と地を創造した。」という事実が分かった時、数え切れない人々が高潔な人に造り替えられました。落ち込んでいる人々は慰められ、励まされ、光を照らされました。若い日に創造者を覚えた人は希望と将来が与えられました。創造者の神様を信じることによって聖書に記された多くの奇蹟も信じて体験することができました。神様が紅海を渡らせることも、岩から水を出させることも、死んだ人を生き返らせることも知り、信じて体験することができました。どうか、神様が私たち一人一人に創世記1章1節に関する確信を与えてくださるように祈ります。ローマ9, 21節を見ると「しかし、人よ。神に逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。」とあります。私たち人間はなかなか神様の主権的な働きを素直に受け入れようとしません。神様に逆らって不満を抱き、つぶやいたり、反発したりします。しかし、この世界は神様が主権的に造られた神様のものなのです。形造られた者が形造った者に対して文句を言えません。それは陶器師が陶器を作ることに例えることができるでしょう。陶器師には、同じ土のかたまりから尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っています。そのように私たちのすべてのもの、人生そのものに対して権利を持っている方は私たちを造られた神様なのです。したがって、私たちはすべてのことにおいて神様の主権を認めて神様に感謝し、神様を礼拝する生活をしなければなりました。そうする時こそ、神様からもっとすばらしい祝福をいただくことができます。私たちが素直に天と地を創造した神様を信じるなら大きな偉大な神様の力と栄光が私たちの生活の中にも現わされます。黙示録4, 11節を見ると「二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」とあります。ここで「自分の冠」とは自分が受ける栄光ある報い、自分のプライドや功績などを意味します。それらを御座の前に投げ出してしまうほどに二十四の長老は神様を信じきっていました。そういう信仰を通して自分の生活に現われる神様の栄光と誉れと力を感じ、知ることもできて神様を賛美しているのです。私たちも信仰によってすべてのことを神様に頼り、日々新しく生まれさせる創造の力を体験して行きますように祈ります。では初めに神様が天と地を創造した時の地球はどういう状態でしたか。 2節をご覧ください。「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。地は茫漠として何もありませんでした。人が住める場所ではりませんでした。この後、神様は最初の3日間で、この宇宙に秩序を造り、形を造って行かれます。この状態は先ほど話した陶器師が素晴らしい陶器を作ろうと準備している状態です。粘土の塊をとって、それをロクロの上に置いた状態です。神様が天と地を創造した時の地球はロクロの上に置かれた粘土の塊のような状態だったのです。ところが、神の霊、聖霊が地球の上を動いていました。現代語訳によると「神の霊が水の表面をおおっていた。」とあります。そして、「おおう」という言葉はヘブル語ではニワトリが翼をひろげて、卵をおおい、愛育しているという意味を持っています。つまり、, ニワトリが翼をひろげて卵を覆って孵化するようなことです。神の霊はまるでひよこが出て来るまで卵を覆っているニワトリのように、この地上を温かい愛によって覆っていました。それからいろいろ造り始められます。3節をご覧下さい。「, 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。」とあります。神様が「光があれ」と仰せられると、光がありました。この光は太陽の光ではありません。太陽はまだ現われず、月も星もまだ現われない前のことです。永遠の暗黒を破る神様の荘厳, そうごん, な言葉によって地球に光の世界が始まりました。神様は創造の第一日に光を造って、新しく生まれようとしている天地を祝福されたのです。 第二日目の働きは、大空を造ることでした。これは宇宙と、無数の星を意味します。また地球を地球たらしめる物質の「水」を創造されました。第三日目の働きは、天の下の水を集めて海を造り、乾いたところを陸とされたことです。また様々な植物も、種類にしたがって創造されました。第四日目に、太陽と月と星を創造されたことが記されています。これは、地球の自転と公転が始まったことでしょう。また地球を太陽の光がより強く差し込むようになった状態を表わしているのでしょう。第五日には、空の鳥と海の生きものを造られました。神様は光合成によって酸素がどんどん増えて動物の住める環境を造ってから空には多数の鳥、海には無数の魚が生きるようにしてくださいました。また、これも種類にしたがって創造されました。そして第六日には、地上に色々な動物が種類にしたがって造られたのです。そして、人間もこのとき創られました。人間創造に関しては来週学ぶことになります。以上で六日間の創造の御業を学びました。この神様の創造のみわざから四つのことを皆さんと一緒に考えてみたいと思います。第一に「夕があり、朝があった, 5、8、13、18、23、31, 」ということです。神様が六日間を創造された間、毎日、「夕があり、朝があった」と記されています。一般的に、私たちが一日を言うとき、朝起きてから夜眠るまでを言います。朝が新しい一日の始まりなのです。この間、静岡に行った時、ラジオ体操に参加しましたが「新しい朝が来た, 希望の朝だ喜びに胸を開け・・・」と歌も流れました。本当に朝は、さわやかで、朝日はとても心地よいものです。一方、夕方はどうでしょう。一日の終わりが近づいて来ているイメージです。私たちの人生にも朝のように出発しますが、夕方のようにだんだん暗くなっていくものです。ところが、創世記は、「朝があり、夕があった」ではなく、「夕があり、朝があった」と記しています。これはどういうことを示唆しているでしょうか。, 「夕があり、朝があった」と記されていることには意味があると思われます。私はここに、聖書の真理、希望のメッセージがあると思います。「十字架の夕方がありますが、復活の朝がある」ということです。創造主の神様を信じる人の人生は夕があり、夜が来て終わるのではありません。復活の朝があります。詩篇30篇5節には「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」とあります。私たちの人生には、夕暮れに涙するそんな一日もあります。いつもさわやかでいたいと思っても、そうはなかなかいきません。疲れも出てくるし、辛いこともあります。寺崎アブラハム牧者はアジア支部長修養会に招かれたことを大変喜んでいました。ところが、会社で休暇を取ることができなかったことを聞きました。そのことを伝えるアブラハム牧者の目は涙が出そうになっていたと聞きました。このように、目の前が真っ暗になるときもあります。しかし、私たたちの人生は夜で終わるのではありません。夕があり朝があるのです。涙のあとには、喜びがあります。もちろん、新しい朝、希望の朝が続くのではありません。また夕方になる時が来ます。私たちに喜びだけでなく、苦しみや涙の時もあるのです。しかし、神様が夕があり朝があることを通して、私たちが常に希望を持って生きることを望んでおられると思われるのです。今、疲れていても、ちょっと辛くてもそれが永遠に続くのではありません。さわやかな朝が来るのです。そして人生の最後を迎える夕があり、この世を離れて行くと永遠に輝く朝になります。永遠に新鮮で明るい朝です。そこで主は私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。ですから、私たちは常に希望を持って生きることができます。第二に神様は「種類にしたがって造られた。」ということです, 11、12、21,24、25, 。聖書に「おのおのその種類にしたがって」という言葉が何度も繰り返されています。, 種類にしたがって、動物植物がつくられているのです。学校では進化論を教えています。でも、その進化論は仮説です。たとえば、進化論では、魚類から両生類、次にハ虫類、そして鳥や哺乳類に進化したと主張します。しかし、化石をどれだけ調べても進化の途中にあたる生物は、一切発見されません。突然変異で進化するという説もありました。しかし、遺伝学が進んで、突然変異は次の世代に遺伝されないことがわかりました。また、生命が生まれるために必要なタンパク質が自然発生するためには、偶然が何億回も重ならなければなりません。万が一奇跡的にタンパク質ができたとしても、それが単細胞生物になる確立も微小です。たんぱく質ができる確立も単細胞生物になる確立も無視して、6千億年前の単細胞が、人類の体の1兆個の細胞に進化したとすれば、6千億年は219兆日ですから、219日に一回ずつ進化しないと人類に進化できません。そんな激しい進化がなされるなら、現代の生物も一年に一回は進化してないとおかしいことになります。 また人類は猿から進化した、あるいは猿と共通の祖先から進化したという仮説があります。ネアンデルタール人とかクロマニヨン人とかの骨の化石が発見され、猿から人間に進化する途中の猿人の化石だと言われてきました。しかし、現代の科学でその化石の遺伝子を調べると、それらの猿人の化石といわれてきたものは、猿と人間の骨が混じったものだったり、絶滅した大型の猿の骨だったりすることがわかりました。猿から人間に進化する途中ではないことがわかりました。皆さんが学校で学だ進化論は、絶対に正しい真理ではなく、一つの仮説なのです。犬と猫のあいのこはできません。チワワとセントバーナードならできます。種類が同じ犬だからです。ということは、他の種類に進化する生物進化はありえないのです。 神様がおのおの種類に従って造られたからです。真理は、それぞれの種頻にしたがって植物や動物が造られたのです。すべての生物は種類別に存在意味があるのです。第三に御言葉の力です, 24; 7, 。1章を見ると「神は・・・仰せになった。」という御言葉と「するとそのようになった。」という御言葉が繰り返されています。これは神様が御言葉によってすべてを創造されたことを教えてくれます。見えるものも、見えないものも神様の御言葉によって創造された被造物です。神様の御言葉と関係が無いものは何もありません。神様が仰せられると万物が創造されました。神様が仰せられると、万物の位置が定まり、秩序が立てられました。私たちは神様の被造物です。神様の被造物として最も大切なことは神様の御言葉に耳を傾け、聴き従うことです。神様の御言葉を聞くときに自分の位置が把握され、自分の道が見えます。私の所有者が神様であることを忘れずに神様の御言葉の力を体験して行くことができます。神様の御言葉には無から有を創造する創造の権能があります。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。この世のもので人を根本的に変えることはできません。しかし、神様の御言葉はどんな人でも変えることができます。むなしく、つまらない人生を生きている人でも根本的に変化させて意味あり価値ある人生に変える力があるのです。どうか、私たちが御言葉を聞いて御言葉にとどまることに励みましょう。そして御お言葉を宣べ伝えましょう。私たちが足りなくても、今の時が悪くても御言葉を宣べ伝えると、御言葉が一人一人のうちに働きます。御言葉を聞き、読むことだけでも私たちのうちに新しい創造の働きが始まります。再創造の働きが起こり、新しい人に変えられるのです。第四に神様が造られたものを見てよしとされたことです(10、12、18、21、25)。つまり、神様のなさることはすべてが最善であるということです。, 神様はご自分が創造されたすべてのものを見て良しとされたのです。神様が創造された時点で、この世界は人間もあわせて最善なものだったのです。神様は一番いいことしかされません。みなさんにも何とかして一番いいことをしてあげようとしておられるのです。しかし、人間の側がそれを受け取らなかったり、台無しにしたりしているのです。どうか、素直に、神様は「初めに、神は天と地を創造した。」という事実を信じてください。去年最後の礼拝の時に神様は私たちに言われました。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」(伝道者の書12:1)。私たちが天地万物を創造された神様を覚えて信じましょう。創造者の神様を信じる時、私たちの人生の基礎は堅くなり、秩序が立てられます。この神様を信じる時、今の生活の中でも創造の力を体験し、平安と喜びと愛に満ちた人生を送ることができます。何よりも御言葉を信じて御言葉によって動かされ、御言葉によって新しく変えられて行きますように祈ります。