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m14easter2.よみがえりといのち

m14easter2, よみがえりといのち, 2014年イースター修養会主題講義第2講よみがえりといのち御言葉:ヨハネの福音書11:1−44要 節:ヨハネの福音書11:25,26「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」 私たちは、昨日の御言葉を通して、イエス・キリストの十字架の恵みについて、学びました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架の上で死なれました。しかし、聖書に記されている通りに、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、私たちの罪は赦されました。そして、長い間私たちを苦しめていた死の勢力から解放されました。セレブレイト ジーザス。主の御名を褒め称えます。 今日学ぶ御言葉は、ヨハネの福音書に出て来る七つの奇跡の中で、一番最後の奇跡にあたります。イエス様は、死んだラザロをよみがえらせることによって、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを明らかにされました。誰でも、このイエス様を信じるなら、イエス様のようによみがえる望みが与えられます。この時間、聖書の御言葉を通して、一人一人が、よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れる中で、復活信仰の上に堅く立てられますように、お祈りします。?.この病気は死で終わるだけのものではない(1―18) エルサレムから3km離れた所にベタニヤという町がありました。その町に、ラザロとマリヤ、その姉妹マルタが住んでいました, 。このラザロが病気にかかりました。危篤状態にあり、生死の境をさまよっていました。一刻の猶予も許されない緊急事態でした。しかし近くには救急病院もありませんでした。その時、マリヤとマルタはどうしたのでしょうか。 3節をご覧ください。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」彼女たちには、「イエス様ならきっと直してくださる」という確信がありました。それですぐにイエス様の所に使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」  では、イエス様はどのようにされたのでしょうか。4節をご覧ください。「イエスはこれを聞いて、言われました。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」一般的に病気はつらく、悲しいものです。まして、愛する兄弟ラザロが病気にかかり、死んでいく姿をそばで見ているマリヤとマルタは、どれだけつらい思いをしているのでしょうか。もちろん、イエス様も彼女たちのつらい気持ちを理解してくださいました。彼らを愛しておられるからです, 。しかし、イエス様は神様の観点からご覧になりました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」では、イエス様はどのようにして、神様の栄光を現わそうとされたのでしょうか。 6節をご覧ください。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」なぜイエス様は、すぐにラザロのもとに行かれず、そのおられた所になお二日とどまられたのでしょうか。3節に出てくる「愛」は、ギリシャ語では「フィレオ」(友情)となっています。マリヤやマルタは、イエス様との関係を、単なる友情としてとらえていました。ところが、5節に出て来る「愛」はそれとは違っていました。ギリシャ語で「アガぺ」、すなわち神様の絶対的な愛で表現されています。ラザロとマリヤ、その姉妹マルタに向けられたイエス様の愛は、条件のない、絶対的な愛、完全なものでした。イエス様は死んだラザロをよみがえらせることによって、彼女たちに「復活信仰」を植えようとされました。彼女たちがさらに一歩、霊的に深い世界に踏み出すことを願っておられました。そのことを通して、イエス様は神様の子の栄光を現わそうとされました。 7節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」それを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、死を恐れていました。死ぬと終わりだと考えているからです。弟子たちだけではなく、ほとんどの人が死を恐れていると思います。しかし、イエス様は違います。 11節をご覧ください。イエス様は言われました。「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様にとって、死は「眠り」です。それで、使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章で、「死んだ」という言葉の代わりに、「眠っている」という単語が使っています。死は恐怖を与えますが、「眠り」は安らぎを与えます。どんなに疲れていても、一晩眠ると、心もからだもリフレッシュします。同様に死は、イエス様を信じる人にとっては、安息となります。 ヨハネ5:24節で、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」誰でも、イエス様の御声を聞くなら、その人はいのちを受けます。そして死からいのちへ移されます。さばきから永遠のいのちへ移されるのです。それで、私たちは主にあって、死を恐れる必要はありません。?.「よみがえり」と「いのち」, 19節をご覧ください。ラザロの死によって、ベタニヤはひどい悲しみにつつまれていました。愛する人、頼るべき人を失ったマルタとマリヤの心はどうだったのでしょうか。大勢のユダヤ人たちが、彼女たちを慰めるために集まっていました。故人を偲んで、涙を流し、大声を上げて泣いていました。日本では「香典」(お花代)を包みますが、灰色の筆ペンを使います。これは、「悲しみのあまり、涙で墨が薄れてしまった。」という意味があります。生前、あまり親しい間ではなくても、その人が死んでしまうと、悲しむことがエチケットとされています。ところが、マルタとマリヤは違いました。彼女たちは心の底からラザロの死を悲しんでいました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」, 。彼女たちはイエス様に助けを求めたのに、なぜイエス様はすぐに来てくださらなかったのか、と不満をもらしました。私たちも、イエス様に祈ったのに、すぐに祈りを聞いてもらえず、以前よりも状態が悪くなった時に、彼女たちと同じような気持ちになることがあるのではないかと思います。「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかったのに。」では、イエス様は何と言われたのでしょうか。23節をご覧ください。「あなたの兄弟はよみがえります。」深い悲しみと失意の中にいるマルタにとって、イエス様のこの御言葉は、なかなか受け入れがたいものでした。理解できないことでした。それでも、マルタは答えて言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」, 。彼女にとって、ラザロが生き返るのは、遠い未来のことのように思えました。彼女は聖書を通して、「復活」を信じていましたが、それが今起こることを知りませんでした。そこで、イエス様は彼女の抱いている復活信仰が確かなものになるように、助けてくださいました。 25,26節を皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。』」イエス様は、ご自分がよみがえりであり、いのちであることをはっきりと現わされました。そして、このイエス様を信じる者はみな、誰でもその力を受けると約束されています。 第一に、肉体の復活があります。25b節をご覧ください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあります。私たち人間は肉体のからだを持った弱い存在です。けがをしたり、病気にかかったりします。不慮の事故にあって、尊い命を失ったりもします。何気ない言葉によって傷ついたり、相手を傷つけてしまったりもします。何よりも、罪の誘惑を受けて、心ならず罪を犯してしまうこともあります。時には、このような自分のことを考えると、自分が自分で嫌になってくることもあります。しかし、イエス様のよみがえりによって、私たちクリスチャンたちに希望が与えられています。使徒パウロは言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」, ?コリ15, 。私たちが主なるイエス様と共に歩む時、主と共に死にます。主と共に墓に葬られます。そして、主とともに、死者の中からよみがえるようになります。私たちは初穂であるイエス様を仰ぎ見る時に、イエス様のように死者の中からよみがえる望みを持つことができます。そして永遠の都、天の御国に入る望みを持つことができます。私たちが天の御国に入るその日、卑しい、朽ちる弱い体を脱ぎ捨て、栄光ある朽ちることのない、強いものに変えられていくのです。肉体の体を脱ぎ捨て、御霊に属するからだによみがえります, 。 第二に、霊的な復活が起こります。26a節をご覧ください。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」とあります。もちろん主にあって、死は眠りです。いつかイエス様が起こしてくださるでしょう。それだけではありません。根本的に私たちのからだの中にあるたましいは決して死ぬことはありません。私たちがイエス様と共に歩む生活をする時、多くの苦難、迫害を受けることがあります。イエス様を信じているのに、なぜ苦しみを受けなければならないのか、と疑問に思うことがあります。それは、悪魔が私たちをイエス様から引き離すために妨害しているからです。しかしどんなに迫害されても、苦しめられても、私たちの主に対する思いは決してなくなることはありません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」, ロマ8, 。私たちが主につながっている生活をしている限り、私たちのたましいは滅びることがありません。マルタはイエス様に信仰告白をしました。27節をご覧ください。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」イエス様はマルタが復活信仰を持つように助けてくださった後、ラザロが眠っている墓に行かれました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました, 。そこで、イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい。」, 。 イエス様の御言葉を聞いて、マルタはすぐに現実の世界に連れ戻されてしまいました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」, 。常識で考えると、それは不可能なことのように思えました。しかしイエス様は、マルタの信仰が確かなものになるように助けてくださいました。40節をご覧ください。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」, 。イエス様の御言葉を信じて、マルタは信仰によって、墓をふさいでいた重い石を取りのけました。その時、イエス様は神様に祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」, 。そして墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」, 。ラザロは、イエス様の御声を聞いてすぐに手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様はマルタとマリヤの姉妹のもとに、ラザロを帰らせてくださいました。悲しみと絶望が喜びと希望に変えられた瞬間でした。この日、ユダヤ中に賛美が満ち溢れました。この時間も、イエス様は言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 私は、一昨年前の会社での健康診断で「逆流性胃炎」と診断されました。ちょうどそのころから右目の様子がおかしく、パソコンの画面がかすんで見える日が続きました。そして毎年、この時期になると、ひどい花粉症に悩まされていました。このような状態の中で、イースター礼拝のメッセージを準備して証しすることに、少しためらう気持ちもありました。その頃、パソコンの画面がかすんで見え、仕事に支障をきたし始めました。その時、マリヤ宣教師から医者に行くようにと言われました。それで、意を決して、眼科で受診した結果、右目は末期の白内障で手術が必要であり、左目も初期の白内障であると診断されました。最初状況がうまく飲み込めず、放心状態になりました。あまり実感がわきませんでした。ところが、「手術」という言葉に、絶望するしかありませんでした。自分がそんな深刻な病気にかかっていたなんて、到底信じられませんでした。し、状況をうまく説明できませんでした。それでも、神様の憐れみが私の上に臨まれました。この2−3年の間、私は左目だけで生活したことになりますが、特に、これといった支障もありませんでした。それで私が白内障の手術を受けるようになったことを会社に話した時、会社の人々はみな驚いていました。「よく仕事ができるね。」「大丈夫」 また、神様はヤコブの手紙5:15節の御言葉で、私を力づけてくださいました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」そして今この時間も、神様は私の祈りを聞いてくださることを信じ、確信するようになりました。すると、神様は私の心を強くしてくださいました。どんな時にも、心から神様を賛美できるように助けてくださいました。6月の中旬には、手術を受ける予定ですが、そのことを通して、メッセージを証しするのに、支障がないように助けてくださいました。 よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今この時間も私と共にいてくださいます。イエス様の奇跡は今でも起きると信じています。このイエス様に頼る時、恐れや不安がありません。今よりもよく見えるようになるという望みがあるだけです。そのことを思うと喜びで満たされるようになります。イエス様はまず、閉ざされていた私の霊的な目を開いてくださいました。そして肉体の目も開いてくださることを信じ感謝します。私によくしてくださったイエス様の御業を証しで来ますように、お祈りします。もう一度、25、26節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今も私たちのうちに、語りかけてくださいます。そしてこのイエス様を信じる者は、だれであっても、死の勢力から抜け出し、永遠のいのちへと移って行きます。死の勢力に打ち勝ち、喜びで満たされる人生を過ごすことができます。この時間、一人一人が復活信仰の上に堅く立ち、喜びに満ち溢れる人生を歩んでいくことができるように祈ります。「唄おう声を合わせてイエスを祝うために勝利に胸躍らせイエスの誉れを見よイエスは, よみがえられた輝くその姿喜び賛美しようとこしえまで共におられる主イエスを

14Genesis16M イサクの結婚

14genesis16m, イサクの結婚, 2014年創世記第16講 イサクの結婚御言葉:創世記24, 67要 節:創世記24, 44その人が私に、「どうぞお飲みください。私はあなたのらくだにも水を汲んであげましょう。」と言ったなら、その人こそ、主が私の主人の息子のために定められた妻でありますように。』 先週、私たちはアブラハムが神様の命令に従って最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげたことを学びました。実際に全焼のいけにえとして捧げたのは神様が備えられた雄羊でしたが、神様はそれをアブラハムが自分のひとり子を惜しまずにささげたことにしてくださいました。アブラハムの信仰の忠実さと神様を恐れ、愛し、第一とする心が認められたのです。さらに、それは「主の山の上には備えがある。」という信仰へつながって行きました。今日、学ぶ24章でもアブラハムは最愛の息子イサクの結婚において神様が彼の妻も備えておられると信じていたことが分かります。ここで、息子の結婚に関するアブラハムの信仰、アブラハムからイサクの妻を見つける任務を命じられたしもべの祈りと忠実さ、イサクの妻として迎えられるリベカの信仰と内面性を学びたいと思います。24章1節をご覧ください。「アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。」とあります。先週も学んだようにアブラハムの人生は決して平坦ではありませんでした。生まれ故郷を離れて行くことからチャレンジであり、一つの冒険でした。信仰の危機も、失敗もありました。信仰の体験もありました。そうこうしているうちにアブラハムは年を重ねて老人になっていました。ではさまざまな試練の中でも信仰を守り通したアブラハムの人生はどうなっていましたか。聖書に「主は、あらゆる面でそのアブラハムを祝福しておられた」と記しています。アブラハム人生はあらゆる面で祝福されていたのです。これが私たちクリスチャンの人生ではないでしょうか。若い時は挑戦と冒険を経験します。神様を信じている私たちにも、さまざまな心配、不安、思い煩い、そして恐れがあります。仕事で失敗しないだろうか。仕事を失ったらどうしよう。病気になったら。人間関係がこじれてしまったら。飛行機や船、電車の事故が怒ったら…などいう恐れがあります。実際に失敗もあります。自分の不信仰や怠けが原因であっても失敗は私たちを落胆させます。アブラハムのように結婚して25年間も子どもが生まれないような試練もあり得ることでしょう。ところが、そのような時にも信仰から離れないならどうなりますか。祈り、望みえない時に望みを抱いて信じるなら神様を体験することができます。さまざまな出来事の中で神様の深い哀れみと愛、力と不思議な導きを体験して行くことができるのです。結局、年を重なっていて見ると、ほんとうにあらゆる面で神様から祝福されていることが分かるようになります。年を重ねているおびただしいクリスチャンは言っています。「私はイエス・キリストを信じてからあらゆる面で祝福された」と。私はubf教会でも数多くの先輩から聞いています。私自身も告白できます。私は田舎者で人々からも田舎者として卑しく見られていると思い、自分自身も自信感を無くしていました。しかし、年を重ねてきた今は人々から愛され、尊敬されていると感じる時があります。先月は弟子から頼まれて500人位が集まった結婚式の司式もやって来ました。「あらゆる面で祝福されているんだなあ」と感じております。もし、現在は、何もかもうまく行かないと思っている方がいるかも知れません。毎日が辛い、苦しいと思われる試練の中に置かれている方がいるかも知れません。でもあきらめてはいけません。若い時はアブラハムのように信仰によってチャレンジし、冒険して行くものです。どんな時にもアブラハムのように祈り、感謝し、礼拝する生活をしてください。きっと神様はあらゆる面で祝福してくださいます。2, 4節をご一緒に読んで見ましょう。「そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私が一緒に住んでいるカナン人の娘の中から私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」とあります。年を重ねて老人になっているアブラハムにとって息子イサクの結婚のことを考えなければならなりませんでした。アブラハムにとって人生の最後に残された重大な仕事は、信仰の後継者である息子にふさわしい妻を見つけることでした。そこで、アブラハムは息子の結婚を長年忠実に仕えてきた最年長のしもべに命じました。このしもべが誰なのかは分かりませんが聖書学者たちは15章2節に記されているエリエゼルだと言っています。アブラハムはエリエゼルに天の神、地の神である主にかけて誓わせています。何を誓わせましたか。一つ目は、カナン人の娘の中から息子の妻をめとってはならないということです。アブラハムの生まれ故郷に行き、親族の中からイサクの妻を選ぶことです。つまり、神である主を信じる信者の中から選ばなければならないということです。カナンには神様を信じる娘たちがいませんでした。しかしイサクの妻になるリベカの家族は主を信じる信者でした。リベカの兄と父親は「主に祝福された方、主から出たこと」と言っています, 31、50, 。そして、22章20, 23節を見ると、アブラハムにはアブラハムの兄弟ナホルから子どもたちが生まれたことが伝えられていました。ですから、アブラハムは必ず神様を信じる信者の中から息子の妻を見つけなければならないと命じたのです。二つ目は、息子は約束の地カナンにいさせることです。しもべはアブラハムに「もしかして、その女の人が私についてこの国へ来ようとしない場合、お子をあなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」と質問しました。それに対してアブラハムは「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」」と言いました。つまり、約束の子イサクが約束の地を離れてはいけないということです。ではどうやってアブラハムはしもべにこのようなことを誓わせることができたでしょうか。7節をご一緒に読んでみましょう。「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。」とあります。アブラハムは自分の信仰生活を通して神様を体験し、確信していたことが分かります。彼は神様の御心を第一にして従うなら、必ず神様が働いてくださると信じました。したがって彼はしもべに「天の神、地の神である主にかけて誓わせ」ることができました。アブラハムは神様の御心を第一にして従うなら、必ず天の神、主は御使いを遣わして助けてくださると確信していたのです。ここで、私たちは息子の結婚でも自分の心ではなく、神様の御心を第一にしているアブラハムの信仰を学ぶことができます。私たちは大切なことほど神様の御心を求めなければなりません。人生において最も大切な結婚だけではなく、就職や進学など重要な決断をする時も、神様の御心を考え、従うことです。そして結婚、就職、進学などの大事なことを決断する時に神様の御心を第一にするなら必ず神様が助けてくださると確信することです。神様は私たちの前に御使いを遣わしてくださいます。私たちのために道を備えられ、助けてくださるのです。特に、私たちの人生の中で結婚ほど大切なこともないと思います。だからこそ、神様の御心を求めべきですし、自分の恋愛感情や親の心よりも神様の御心を第一にして決断するべきです。神様は私たちの結婚が愛と喜びと幸せが満ちていることを望んでおられます。私たちの結婚生活が潤され、私たちの心も満たされることを望んでおられます。ですから、神様は神様の御心を第一にするアブラハムが息子の妻を見つけるために遣わしたエリエゼルの働きを助けてくださいます。ここで、私たちに自分に与えられた使命を忠実に果たしたアブラハムのしもべから、神様のしもべとしての姿勢を学ぶことができます。第一に、しもべは重大な使命を果たすことを祈りから始めました。12, 14節をご覧ください。「そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのラクダにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたががしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」とあります。さすがにアブラハムに長年仕えていたしもべですね。信仰の先祖アブラハムの影響を受けています。アブラハムの祈り生活を学んでいたことでしょう。アブラハムが祈ると、神様が彼に恵みを施してくださることを見て来たのです。だからこそ彼は何よりも先に祈りました。また、アブラハムのように具体的に祈っています。以前アブラハムがロトの救いのために祈る時、正しい人50人から10人まで減らして行きました。そのように、しもべも切に祈ったし、具体的なしるしを求めました。普通では起こらないようなことを求めて神様の働きを確かめようとしたのです。中東地域では旅人に水を飲ませることは、たいていの女性たちが行ないました。けれども旅人のラクダに水を飲ませることはしませんでした。しかも10頭のラクダに女性一人が水を飲ませるようなことは普通ではありません。でも、彼はわざと普通ではないことを求めて神様の働きを目撃し、御心を確認しようとしたのです。また、しもべは女性の外見上の美しさではなく、内面性を求めたことが分かります。彼は背が高い人を求めませんでした。目が美しい人を求めませんでした。心の美しい人を求めました。愛の豊かな女性、思いやりのある人、気配りのある女性を求めたのです。イエス様は山上の説教においてこう言われました。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい, マタイ5, 。この原理は夫婦生活でも同じです。夫か5回頼んだら、妻は10回従います。妻が5回要求したら、夫は10回答えます。このような態度で行なうならば、世が知らない隠れた力と従順の力が現われるでしょう。ですから、アブラハムの信仰生活を受け継いで行くイサクの妻にもそういう態度、内面性が求められます。そこでしもべは人のために最善を尽くして仕えることだけではなく、動物までも助け、仕えることができる人を祈り求めたのです。では祈りの結果はどうなりましたか。  15, 20節をご覧ください。エリエゼルがまだ言い終わらないうちにリベカが水瓶を肩に載せて出て来ました。彼女はブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘でした。彼女は非常に美しく、処女で男が触れたことがありませんでした。何よりも彼女は心の美しい女性でした。彼女は旅人のしもべに水を飲ませました。彼に水を飲ませ終わると、彼女はラクダのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言いました。井戸から水を汲んでラクダに水を飲ませることは決して簡単ではありません。私は子どもの時、牛に水を飲ませていましたが一度に20リトル以上も飲んでしまいます。ラクダは牛よりもいっぱい飲むでしょう。しかも10頭のラクダに水を飲ませることは大変な仕事です。ところが彼女は急いで水瓶の水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のラクダのために汲んだのです。しかも、隣にいたしもべは水を飲ませてもらうだけで何も手伝ってくれませんでした。彼は主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていました。一度に20リトルを運んだとしても20回も走りながら水を汲みに行ったり来たりしていたのに、隣の男は、ただ黙って彼女を見つめていたのです。それでもリベカは何も文句を言わず、黙々と働きました。何と素晴らしい娘でしょう。エリエゼルはリベカが祈り求めたとおりの女性であって主が自分の旅を成功させてくださったことが分かりました。彼女に尋ねて彼女がアブラハムの兄弟ナホルの孫であることも確認できました。そこで、エリエゼルはひざまずき、主を礼拝してアブラハムの神、主をほめたたえました。結局、エリエゼルが自分の仕事を神様に祈ることから初めた時に神様がそれを成功させてくださることを体験することができました。祈りが成功の出発点であり、成功の近道だったのです。イエス様も一日一日の仕事をまだ暗いうちに起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈ることから始められました, マルコ1, 。私たちも何かをする時、具体的に祈ることから始めるなら神様がそれを成功させてくださることを見ることができます。素晴らしい神様の働きを体験する基礎となるものは祈りです。すべての問題の解決のカギも祈りです。どうか、私たちが日々の生活の中で切に祈り、具体的に祈ることを通して自分の仕事を成功させてくださる神様を体験することができるように祈ります。第二に、しもべは自分に与えられた任務に忠実でした。しもべは神様が彼の旅を成功させてくださったのでリベカの家の中にはいりました。ラクダの荷は解かれ、ラクダにはわらと飼料が与えられました。しもべの足と、その従者たちの足を洗う水も与えられました。それから、しもべの前に食事が出されました。先ほど水だけを飲ませてもらった彼としてすぐにでも食べたかったでしょうか。しかし、彼はまず何をしましたか。33節をご一緒に読んでみましょう。「それから、その人の前に食事が出されたが、その人は言った。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」「お話しください。」と言われて、」とあります。彼は家に招き入れられ、もてなしを受けましたが、用事が終わるまでは、それを食べようとしませんでした。しもべは食べることよりも使命を大切にしたのです。そして「お話ください」と言われたとき、彼は「私はアブラハムのしもべです。」と自己紹介をし、あらゆる面で祝福されたアブラハムを紹介しました。それから、アブラハムの命令によってアブラハムの息子の妻を迎えるために来たのですが、アブラハムの神、主が自分の旅を成功させてくださったことを丁寧に説明しました。そこでリベカの家族は神様が導いてくださったことを信じてリベカを連れて行くように許しました。ただ、急な結婚だったのでリベカの兄と母はアブラハムのしもべに十日くらい留まることを求めました。しかし、しもべはどうしましたか。56節をご覧ください。「しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」とあります。このことばからも彼がいかに使命に忠実な人だったかが分かります。数多くのクリスチャンは彼から管理者の忠実さを学んだことでしょう。パウロもコリント人たちに送った手紙で「このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。, ?コリント4, 」と言いました。私たちは教会でも職場でも、学校でも何か任されている任務に忠実でなければなりません。この忠実なしもべの働きによってアブラハムは愛する息子の妻を見つけることができました。では、アブラハムのしもべに見つけられたリベカの信仰はどうでしたか。 58節をご覧ください。「それで彼らはリベカを呼び寄せて「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は「はい、まいります。」と答えた。」とあります。結婚の最終決定はリベカがするようにしましたが、リベカは『はい。まいります。』と言いました。ほんとうに、すばらしいです、リベカはすぐに答えました。そして親や兄もすばらしいです、きちんと娘の意向を聞いています。決心するとは、人に強いられてでもなく、自らが考え決めることです。リベカは神様の御心、神様の導かが分かった時、顔も知らないイサクとの結婚を自ら決断しました。この決断は神様に対する絶対的な主権と愛に対する信仰から出たものです。ほんとうに信仰のある人は神様の主権を信じているから相手を見なくても信仰の人だということだけで安心です。また、その結婚を人間条件によらず、信仰によるものなので、神様が責任を持ってその家庭を導いてくださいます。神様によって結び合わせられ、神様によって導かれる家庭は本当に幸せな家庭になります。リベカの家族は彼女を送りながら祝福して言いました。「われらの妹よ。あなたは幾千万人にも増えるように。そしてあなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」結論的にイサクは神様の御心を第一にする父親アブラハムの信仰、しもべエリエゼルの祈りと忠実な働きが用いられて素晴らしい信仰の女性リベカと結婚することができました。ここで結婚している人は自分の子どもたちの結婚をどのようにするかを学ぶことができました。まだ結婚していない人はどのような信仰、どのような内面性を持っているべきかを学ぶこともできました。職場や学校、あるいは家で自分に任された仕事をどのように成し遂げ行くべきかも学ぶことができました。ここで共通することは私たちの神様の御心を第一にする価値観と神様に対する信仰です。私たちもそういう価値観と信仰を持って生きるなら、私たちの仕事を成功させてくださる神様を、あらゆる面で祝福してくださる神様を体験して行くことができます。アブラハムの神様が私たちの神様であることを信じて感謝します。

14Genesis22M べテルに上って行こう

14genesis22m べテルに上って行こう, 2014年創世記第22講                                            べテルに上って行こう御言葉:創世記34:1−36, 43要 節:創世記35:3「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」今日は父の日, 一家を支えてくれる父親に感謝する日, です。昨日、ブドウの木フェローシップではお父さんたちのために手巻き寿司を用意していましたが素晴らしいですね。父親である方たちにお祝いを申し上げます。私も父親のひとりですが、それよりも自分の父親が思い出されます。ほんとうに一家を支えてくれる父親でしたが、私はあまり親への感謝の表現がよくできませんでした。皆さん、両親が生きている間によく感謝することをお勧めします。私たちクリスチャンは天国でも会えますが、この地にいる間も父母を敬うことは神様から与えられた戒めです。今日の御言葉は、神様が娘と息子たちのことで困っている父親を助けてくださった出来事です。ヤコブは一家を支える父親です。でも、まだ子どもたちから尊敬されていなかったようです。子どもたちは自分勝手に行動して父親を悩ませ、困らせました。娘が性的暴行を受け、息子たちが住民の男たちを殺した事件が起こったのです。それはヤコブがベテルまで行かずシェケムに留まっていたから起こった問題でもありました。ところが、憐れみ深い神様はそんなヤコブでも助けてくださいます。では神様は困っているヤコブをどのように助けてくださったでしょうか。ここで、私たちは困っている時はどうするべきか、自分の力では解決できないような問題に対してどうすればいいのかと言うことについて学ぶことができます。34章1節をご覧ください。「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。」とあります。ディナは、13歳から15歳の少女だったと考えられています。好奇心の旺盛な年頃でしょう。彼女はその土地の娘たちを訪ねようとして出かけました。多分祭りの時であったと思います。カーニバルベイビーという言葉がありますが、クリスチャンはいつも敬虔に生きるために注意しなければなりません。ところがシェケムに留まっていたヤコブの家庭が敬虔さにおいて緊張していなかったようです。箴言4章4, 5節を見ると「悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」とあります。ディナは悪者どもの道にはいってしまいました。結局、少女のふとした好奇心がとんでもない災禍をもたらすことになります。ディナが出かけるとその土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムに見られました。シェケムはディナを見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめました。つまり、ディナは性的暴行を受けたのです。ただシェケムはディナを愛していました。聖書に「心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。」とあります。シェケムはその愛のゆえに、父のハモルに「この女の人を私の妻にもらってください。」とお願いしました。いわゆる、できちゃった結婚を求めたのです。この事態がヤコブとヤコブの息子たちに知らされました。その時にヤコブと息子たちの反応はどうでしたか。5, 7節をご覧ください。ヤコブはシェケムが自分の娘を汚したことを聞きましたが息子たちが帰って来るまで黙っていました。なぜヤコブは黙っていたでしょうか。それはあまりにも大きい悲しみと痛み、あまりにも恥ずかしいことなので人に言えない恥の沈黙だったでしょう。しかし、ヤコブの息子たちはディナのことを聞いた時、心を痛めるだけではなく、ひどく怒りました。シェケムが妹のディナと寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからです。事実、シェケムの人々ができちゃった結婚をしていても神様を信じている人々には許されないことでした。倫理意識が低いシェケムでは許されていたようでハモルはシェケムがディナを恋い慕っているから互いに縁を結びましょうと言いました。しかし、ヤコブの子どもたちには許せるような問題ではありませんでした。ヤコブの息子たちには理解できないことでした。そこで彼らはシェケムとその父ハモルに答えるとき、悪巧みをたくらみました。結婚によって一つの民になりましょうと言って若者たちに割礼を求めました。すると、町の門に出入りする者はみな、割礼を受けました。ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けたのです。割礼を受けることは包茎手術をすることだから傷つけることになります。そして、手術の日だけではなく、傷が直りまで痛みが続けます。ところが、包茎手術する人は三日目になると一番傷が痛むそうです。ヤコブの息子たちは割礼を受けているからそれを知っていて悪巧みをたくらんでいました。しかし、ハモルの息子たちがそれを知りません。割礼を受けてちょうど三日目になるともっと痛くなることを感じるだけです。ところが、ヤコブの息子たちは彼らを攻撃しました。特にヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。その結果、ヤコブはどうなりましたか。30, 31節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」」とあります。ヤコブは困ってしまいました。黙っていた娘の恥がみんなに知らされるようになりました。カナン人とペリジ人からは憎まれ者になってしまいました。その上、ヤコブの家族は少人数しかいません。シェケムの住民がヤコブを攻め、打つなら、ヤコブだけではなく、彼の家族も根絶やしにされます。悪巧みを企んで復讐をした息子たちを非難し、責めることもできません。性的暴行は神の民イスラエルにとって汚れた行為であり、恥ずべきことだからです。敬虔なイスラエル人にとって決してしてはならないことです。そのことをした者は神様の裁きを受けて殺されねばならないのです。そういう意味で息子たちの復讐は当然のことなのです。このような状況でヤコブはどうしたらいいでしょうか。あれもこれもできない状態です。全く解決策が見えません。ほんとうに困ったものです。神様はそんな彼をどのように助けてくださいましたか。35章1節をご一緒に読んでみましょう。「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたの兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」ヤコブは娘が受けた性的暴行、住民の復讐のことで困っているのにそれに対する具体的な解決策は何も言われませんでした。「乱暴な子どもたちを注意しなさい」と言うことでもなく、シェケムの人たちと戦う秘訣を教えたのでもありません。直面している問題に対しては何も言われませんでした。ただ、霊的方向を与えてくださいました。神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」と命じられたのです。「立ち帰れ。」と言うことです。どうしてでしょうか。それは目に見える現実的なことよりも神様との関係性の回復が最も大切であるからでしょう。特にベテルはヤコブが初めて神様と出会ったところです。夢の中で神様を体験したところです。そこで神様は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。, 」と約束してくださいました。そこでヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。ヤコブはベテルで神様と出会い、約束の御言葉をいただいて神様との関係性を結んでいたのです。その約束の御言葉を堅く信じてベテルまで行くべきでした。ところが、彼はシェケムに留まりました。神様の御言葉を思い出すこともなく、シェケムの人々と交わっていました。シェケムの族長から信頼されることを喜び、彼らと調子を合わせていました。34章を読んでみるとシェケムでの生活の中に「神、主」と言う言葉が出て来ません。彼はシェケムの人々と調子を合わせながら熱くも冷たくもない信仰生活をしていました。神様を信じている者としての敬虔さも、父親としての霊的権威も失いつつありました。娘が異邦人と交わることも注意することができなくなっていました。その結果、一人娘のディナが性的暴力を受ける事件が起こってしまいました。それは言葉で言い表せないほどの苦しみであったでしょう。さらに息子たちの復讐によって町の人々を殺すことになりました。自分の力では何もできないことが起こり続けて困っていました。神様はそんな彼にまず霊的な方向を与えてくださったのです。最も優先的に必要なのが神様との関係性を回復であったからです。そこで神様が彼に現れたベテルに立ち帰って自分に現れた神様に祭壇を築くように助けてくださいました。つまり、現実生活に妥協していたことを悔い改めて神様に誓った誓願を果たし、神様に礼拝する方向を与えてくださいました。初めて神様と出会ったベテルに上って行って神様から与えられた約束の御言葉を思いだし、それをつかんで生きるように助けてくださったのです。28章20, 22節を見るとヤコブは誓願を立てて言いました。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」と誓っていたのです。神様はその誓願の祈りを聞かれ、彼の人生を豊かに祝福してくださいました。彼の旅路を守ってくださいました。彼に食べるパンと着る着物を賜っただけではありません。神様は彼の人生を何百倍も祝福してくださいました。多くの子どもたちを与え、財産を持たせてくださいました。ですから、ヤコブも神様のように、神様との約束を守らなければなりません。つまり、シェケムから離れてベテルに上り、そこに住んで神様との関係を回復して誓願を果たさなければならないのです。それは神様との関係性が良くなると親子関係も、人間関係も良くなるからです。私たちもヤコブのようにシェケムのようなこの世で生活しながらさまざまな試練に遭います。ヤコブのように子どもたちのことで悩まされる時があるでしょう。子どもたちのわがまま、自分勝手な行動のために悩まされ、苦しむ時もあります。自分の過ちもあるから強く注意することもできず困ってしまう時もあります。子どものことだけではなく、自分の力ではどうしようもない問題のために困ってしまう時があります。そういう時に私たちに求められることは第一にベテル, 神の家, に上り、神様と交わることです。初めて神様と出会った時の御言葉を思い出して信じ、それをつかんで行くことです。神様の御前に決断したことを守ることです。そのために時に神様と出会った最初のところに行く必要もあります。地理的には移動ができなくても最初に出会った時の御言葉を思い出して信じることです。つまり、神の家である教会に来て神様と交わる祈りをしなければならないのです。エレミヤ書29書12, 13節を見ると「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」とあります。私たちがほんとうに困っている時でも神様に祈り求めるなら神様が聞いてくださるし、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちが神様と出会ったその時の心を回復して礼拝して行くうちに、全能の神様の愛と力を体験して行くことができます。私も生活の中で困っている時があります。職場では中間管理者として校長と先生の間、時には校長とpta, の間でどうすればいいのか分からなくて困る時があります。子ども教育においても叱っていいのか、黙っていた方がいいのかよ分からなくて困る時もあります。でも、毎日夜明けに教会に上り、神様に祈って行くうちにさまざまな問題が解決されて行くことを何度も体験して来ました。 ういう意味では、私たちが日々心を新たにして神の家に立ち帰ること、神様と交る祈りと礼拝はとても大切です。特に何か問題が生じたならば、自分の感情や知恵に引っ張られるのではなくて、まずは、神様の御前に出て行くことです。そして神様の御声に聞き従っていくことです。神様に真に心を寄せる歩みをして行くのです。ではヤコブは神様の命令に対してどのように反応しましたか。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」素晴らしい場面です。ヤコブは、即座に行動に移しました。彼は、家族と自分と一緒にいるすべての者が身につけている異国の神々、つまり、偶像とかお守りの一切を取り去るように命じます。多くの神々の一つとしてイスラエルの神、主を崇めるのではなく、ただ主なる神様だけを神として崇めるためです。そうではなかった時に、ヤコブは自分たちのあり方に、現在の困難があったことを知ったからです。 そのヤコブの言葉を聴いて、彼の家族と一行は、「異国のすべての神々と、身につけていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木下に埋め」ました。つまり、これまでの多神教的な信仰を完全に捨て去ったのです。自分が神様よりも大切にして拝み、楽しんでいたものを捨てました。その上で、彼らはベテルに向かって出発しました。神様の御言葉に応えて悔い改め、礼拝へと出発したのです。彼らは悔い改め、悔い改めにふさわしい行動をしました。その時、どんなことが起こりましたか。 5節をご覧ください。「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」とあります。カナンの連合がヤコブの息子たちの殺人に憤って追撃して来ましたが、神様が彼らに恐怖を植え付けました。すると、彼らはそれ以上ヤコブ一行のあとを追うことができなかったのです。ヤコブが自分の頭を回すのではなく悔い改めた時に、神様がすべての問題を解決してくださったのです。こうしてヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来ました。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・べテルと呼びました。そして、リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木に葬られました。神様はベテルに帰ってきたヤコブを再び祝福してくださいました。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけました。結局、神様との関係を回復した時、神様が問題を解決して下ったことが分かります。それだけではありません。神様は再びヤコブを祝福してくださいます。35章9, 12節をご覧ください。「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」」とあります。神様は30年前、ヤコブが石を枕にして横になっていた時にくださった御言葉を再び与えられました。それによって神様が彼に与えられた祝福とビジョンを思い起こしてくださいました。結局、神様は去る30年間ヤコブとともにおられ、彼を訓練して育てられたことが分かります。ヤコブは利己的であり、自己中心的な人でした。兄を騙し、父親も騙した人間でした。ところが神様が彼とともにおられ、彼を訓練して育てられると、神様中心の人、祈りの人になって行きました。神様は彼がどんな問題でも神様に祈り、神様と交わり、神様に礼拝する人になるように助けてくださいました。ここで、私たちがどのように人として成長して行くべきかを学ぶことができます。どうか、私たちも自己中心から神様を中心に生きる者に変えられて行きますように祈ります。困った時には自分の知恵や人に頼ることよりも神の家に行って神様に祈り、神様に礼拝する者として成長して行きますように祈ります。すると、神様が私たちを大いに祝福してくださいます。創世記を通して学んでいる私たちの神様は祝福の神様です。どうか、祝福された人生、祝福そのものとして生きるように祈ります。

14Matthew02M イエス・キリストの弟子たちに求められる義

14matthew02m, イエス・キリストの弟子たちに求められる義, 2014年マタイの福音書第2講イエス・キリストの弟子たちに求められる義御言葉:マタイの福音書5:17−48要 節:マタイの福音書5:20「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません。」 私は小学生の時に相撲をやったことあって日本の大相撲にも関心があります。先週、大相撲の横綱白鵬が30回目の優勝を果たしましたが、「苦労した分、優勝がおいしい。幸せです」と言いました。「夢の32回目の優勝に向かって努力して行きたい」とも言いました。私は白鵬が大きな目標に向かって努力し続ける姿勢に感動しました。私たちの信仰生活も大きな目標に向かって前進しなければならないと思います。イエス・キリストの弟子たちに求められる義はそのレベルがとても高いものです。特に、イエス様は「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。どうやって天の父が完全なように、完全であることができるでしょうか。「それは無理だ」と思われるかも知れません。しかし、横綱の白鵬が「夢の優勝32回」を目指したからこそ30回の優勝ができたでしょう。私たちの信仰生活にも目標がなければ成長が止まってしまうはずです。「天の父が完全なように、完全である」ことを目標にして行く時に勝利の美味しさも味わうことができます。やがて栄光の冠を受け取ることもできます。どうか、本文の御言葉を通してイエス・キリストの義を学ぶことによって私たちの義が律法学者やパリサイ人たちの義にまさるものになりますように祈ります。 17‐18節ご覧ください。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」とあります。ここで、律法や預言者」とは旧約聖書を指しています。そもそも旧約聖書の律法はすべて、神様ご自身が与えられたものです。神様は律法や預言者を通してキリストの十字架の贖いと栄光の復活、さらに聖霊の注ぎによって救いが成就することを約束してくださいました。それらのすべては、イエス・キリストによって成就されました。従って私たちは信仰と、恵みと、聖霊によって、モーセの律法を実現して生きることができます。パウロはこう言いました。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。, 」。ですから、私たちは律法主義を警戒しても律法に対して正しい認識を持ってそれを守り、教えなければなりません。19‐20節をご覧ください。「だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入れません。」とあります。イエス様は弟子たちの義が誰よりも律法を守り、また守るように教えていると思っている律法学者やパリサイ人の義にまさるものでければならないと言われました。ではどうすればイエス・キリストの弟子である私たちの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものになるでしょうか。イエス様は五つの対立命題を通して教えておられます。一つ目「人を殺してはならない」 21、22節をご覧ください。「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」とあります。イエス様の教えは「人を殺してはならない。」というところに留まりませんでした。イエス様は兄弟に向かって『能なし』、『ばか者』いう者も殺人罪に該当することを教えておられます。なかなか厳しい教えです。けれども、人の人格を無視した言葉が人を自殺に追い込んでしまったことはよくあります。私たちの言葉を反省し、聖別しなければ、その感情によって殺人を犯す可能性もあるのです。では、どうすれば人の人格を無視し、ばか者と言わないことができるでしょうか。それは仲直りをすることです。23−26節をご覧ください。イエス様は仲直りすることが神様に供え物をささげることよりも優先であることを教えてくださいました。仲直りをしない者は人に対する怒り、憎しみがなかなか消えません。ついに牢に入れられることになります。最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。「一コドラント」は古代ローマの最小の硬貨です。一円玉のようなものです。その一円までも罪の代価を払わなければ決してそこから出て来ることができないのです。従ってイエス・キリストの弟子たちは人を殺さなければそれでいいのではなく、「能なし」、「ばか者」と言うような者になってはいけません。 二つ目に姦淫してはならない, 27‐32, 。27、28節をご覧ください。「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とあります。旧約の律法においては婚前交渉や不倫、近親相姦、同性愛、獣姦を「姦淫」として罪に定めています。そして、この姦淫は、死に至る恐ろしい罪でした。これに対してイエス様は「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と言われました。つまり、自分の妻でもないのに、あたかも自分の妻であるかのように、他人の妻、あるいは娘をむさぼり見る者は死に至る姦淫の罪を犯すことになるというわけです。それでは、イエス様はどうして自分の妻以外の女性を「むさぼり見る」ことを禁じられたのでしょうか。それは、イエス様はそれほど夫婦関係を尊いものと見ておられるからです。自分の妻をむさぼり見るのはいくら見ても良いです。しかし、他人の妻をむさぼり見るのは良くありません。見るなら、自分の妻をむさぼり見て、心から愛しなさいというわけです。しかし、右の目でも、左の目でも夫婦関係を邪魔するようなことをするならえぐり出して捨ててしまうべきです。もし、手も同じです。仕事において最も必要な手でも姦淫の罪を犯せるようなことをするなら容赦なく切り捨てなさいというわけです。それほど夫婦の関係は大切です。そして、だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。夫でも妻でも姦淫の罪を犯した場合には離婚し、他の人と再婚しても合法です。ところが、先ほど話したように姦淫は死に至る罪です。つまり、死を持って罰せられる罪による以外に、離婚してはならないということです。 三つ目は偽りの誓いを立ててはならない(33‐37)33、34節をご覧ください。「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。」とあります。ユダヤ人は「神の名によって、誓います。」というセリフを乱用していました。しかし、自分のために天をさして誓ってはいけません。イエス様は、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい、と言われました。つまり、本当の意味で、自分の言ったことを守る人になりなさい、という事です。四つ目は復讐してはならない, 38‐42, 38、39節をご覧ください。「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」とあります。「目には目で、歯には、歯で。」という神様の戒めは、被害者の権利を守るための公平な裁判を遂行するためのものでした。人間は何か悪い事をされるとその二倍も仕返しをしたくなるから、そうしないで目に目だけ、歯には歯だけ仕返しなさいということです。しかし、イエス様は「。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」と言われました。自分が悪いことをされても「復讐してはならない。」と言われたのです。それだけではありません。キリストの弟子なら、もっと積極的に善を行なうべきです。それは愛することです。 五つ目は隣人を愛しなさい, 43‐47, 43、44節をご覧ください。「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵でさえ愛することです。イエス様は言われます。「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」そうです。私が私の家族を愛し、同じ教会のメンバーである皆さんを愛することは当たり前です。隣の方に「主にあってあなたを愛します。」と挨拶してみましょう。私たちが互いに愛し合うことは当たり前です。ノンクリスチャンも自分の家族、自分のグループのメンバーを愛します。しかし、イエス様はキリストの弟子である私たちにそれにまさる愛を求めておられます。敵をも愛するアガペーの愛です。イエス様が私たちを愛してくださったその愛です。「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」, ローマ5, 。イエス様はご自分を十字架につけて殺す人々のためにもこう祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 イエス様は私たちも、このようなイエス様の愛を実践していくことを求められました。私たちは自分と親しくない人でも愛することが難しいでしょう。敵までも愛することはやさしくありません。人間の本性からはできないことでしょう。しかし、全くできないことでもありません。韓国の孫ヤンウォン牧師は自分の息子を殺した人を自分の子どもにして愛し、育てました。私たちが神様を信じる信仰によって生きると、神様は大いなる愛と、キリストの力、聖霊の導きによって私たちが敵を愛する者にならせてくださいます。問題は自分にはできないと思ってあきらめることです。私たちは神様に期待して目標を大きくする必要があります。どれほどの目標を目指していくべきでしょうか。 結論的に48節をご一緒に読んでみましょう。「だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」イエス様は天の父が完全なように、完全でありなさい」と言われました。キリストの愛が完全なように、私たちの愛も完全であることです。エペソ4, 13を見ると「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあります。私たちに求められるイエス・キリストの義はそのレベルがあまりにも高くて自分は無理だと思われるかも知れません。諦めてしまいたくなるほどです。でも、私たちの目指すべきイエス・キリストの義は天の父が完全なように、完全であることです。そして私たちが完全であることを目標にして努力するなら、少しずつ変えられて行きます。白鵬が日本相撲界の最高記録である32回優勝を目標にした時に30回も優勝ができたし、その喜びと幸せが体験することができたように私たちも信仰の戦いにおいて勝利の喜びを体験して行くことができます。先週、私は三浦綾子の本を読みながら天の父が完全なように、完全であるほどに成熟したクリスチャンの生き方に感動しました。一人目は伊藤栄一牧師です。この方は「悪痴先生」, 音痴ではなく悪痴, と言うニックネームがあるほどに、人の悪を見ない方だそうです。あの先生が三浦さんの家に二泊したことがありますが、僅か二日間のうちに、五十九通ものハガキを書かれたそうです。68歳の先生が夜は十二時に就床され、朝は5時に起きて、主たる任務の余暇に、信者や病気の人、知人などに心を込めて問安の便りを書かれるのです。さらに三浦さんを驚かせたのは、先生の投函の仕方です。先生はそのハガキをつとめて早くポストに入れられるために、街に出かける時、目についた第一のポストで、必ず投函されるそうです。それはなすべきことは、一刻も早くなさろうとする積極的な現われでしょう。「今なすことを今なせ」という人生の態度です。何でも後に後にとなり勝ちな私には真似できないほどの生き方です。私には、おそかれ早かれしなければならないことを意味もなく後回しにする癖があります。私は家に帰ってもなかなか服を脱がないし、脱いだ服を洗濯機に入れることも、今読んだ本をすぐに本棚に返すこともしない人間です。そして、自分は田舎者で訓練されていないからしようがないと思っていました。しかし、伊藤先生の生き方を通して私も「天の父が完全なように、完全である」ことを目指して行けばある程度は成長して行くだろうと思うようになりました。私たちが自分に対してあきらめることなく、天の父が完全なように、完全であることを目指して行くなら、私たちの信仰も成長して行くはずです。信仰の成熟度、愛の成熟度はキリストの満ち満ちた身たけにまで成長して行くのです。

14Matthew14M大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様

14matthew14m大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様, 2014年マタイの福音書第14講 大能と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様御言葉:マタイの福音書24章1, 51  要, 節:24章30そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。先週、私たちはイエス様が偽善の律法学者、パリサイ人の罪に対して警告し、彼らの罪のゆえに滅亡するエルサレムのことで「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたことを学びました。ところが、イエス様の弟子たちは、あのエルサレムにある宮を見てその表面的な素晴らしさに感嘆しました。イエス様は内側、目に見えないところをご覧になりましたが、弟子たちは外側だけを見たからです。そこで、イエス様はそのような宮も崩れてしまうと言われました。それから、イエス様が終末と再臨に関する説教をしてくださいました。「オリーブ山の説教」と呼ばれていますが共観福音書の中で一番長い説教です。ここで、私たちは私たちクリスチャンが持つべき生き方について学ぶことができます。1節をご覧ください。「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」とあります。マルコの記録によると、弟子のひとりがイエス様に「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう(13:1)。」と言いました。事実、この宮に使われていたみごとな石は、高さ2メートル、幅3メートル、長さ20メートルもある巨大な石でした。また、そのような石でつくられた宮の建物は金箔でも覆われていてまさに素晴らしい建物でした。ところが、イエス様は何と言われましたか。2節をご覧ください。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」とあります。イエス様は断固として、宮が破壊されることを予告されました。事実、エルサレムの宮だけではなく、目に見える地上のものは朽ちるものであり、消えて行くものです。人々は弟子たちのように目に見えるものに執着し、「目に見えるもの」に惚れてしまいますが、永遠に残るのは「見えないもの」なのです。天の御国、父なる神様、主イエス・キリスト、永遠の栄光、信仰、愛、望みなどのように最も大切なものは見えないものです。親子関係、夫婦関係、師弟関係など人間関係も目に見えないですがとても大切です。何よりも、私たちクリスチャンにとって大切なのは神様との親密な関係です。私たちはそういうものにこそ、目を留め、それらを大切にする価値観を持たなければなりません。?コリント4章18節を見ると、使徒パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」と言いました。ところが、イエス様の弟子たちは、まだ、霊的価値観がはっきりしていなかったようです。イエス様が偽善の律法学者、パリサイ人たちを叱責し、「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたにもかかわらず、宮の美しさだけに目をみはっていたからです。彼らにとって宮の破壊を予告されたイエス様の言葉はなかなか理解できませんでした。そこで、弟子たちは、イエス様がオリーブ山ですわっておられると、ひそかに「お話ください。いつ、そのようなことが起こるでしょうか。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」と質問しました。それに対してイエス様は答えて言われました。それが「オリーブ山の説教」と呼ばれている本文の御言葉です。この時間、その説教を三つのポイントに分けて皆さんと分かち合いたいと思います。第一に人に惑わされないように気をつけることです。4,5節をご覧ください。「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」とあります。世界には「私こそキリストだ」と名乗る人々が多くいます。日本の新宗教の教祖が数多くいますが、その信者人口は何と3542万人もいます, 別冊宝島2130, 。宗教的混乱が起こっているのです。恥かしいことですが、先週、私はある宗教団体の人の話に惑わされてしまいました。韓国の歴史講演会のために来たと言いながら著者が30年間も資料を集め、研究し続けて書いた歴史の本だから、韓国ではよく知られていますが海外同胞にも知らせるために来たといました。それから、この貴重な本を無料で寄付しますので図書館に置いてくださいと頼みました。私は韓国のルーツを教えるためにいい本だと思って受け取りました。でも、彼らの話があまりにもうまかったので韓国から来たばかりの先生たちに確認してみました。全然知らないと言われました。そのうちに、「ズンサンドウ」という宗教団体のものであることがわかりました。私は瞬間的に惑わされていたのです。幸いに彼らの正体が分かったのでその本を生徒たちに配らずに捨てることができました。私たちはこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。第二に、戦争や自然災害、苦しみがあっても最後まで耐え忍ぶことです。6,7節をご覧ください。「また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気を付けて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。」とあります。戦争のことや、戦争のうわさは毎日のように聞こえています。特に韓国は休戦中なので戦争の話を聞いてあわてている人も多くいます。ところが、2013年12月現在で、世界に広がる紛争の数は40以上あると言われました。その紛争地域に暮らす人々の数はなんと23億人を超えると言われています。これは世界の三分の一の人々がなんらかの紛争の影響下に暮らしていることを意味しています。世界の飢餓人口は8億500万人で9人に1人が飢餓に苦しんでいます, 国連食糧農業機関(fao), 。「地震」のような自然災害は私たちも身近に経験しています。今年も日本では御嶽山噴火がありました。死者数も雲仙・普賢岳の43人を超え、戦後最悪の57人となりました。ところが、自然災害の中で活火山だけでも世界中に1500ほどあります。日本だけでも110か所があって47か所には監視・観測体制ができているほどです。この地球は、後どれだけ私たちが住むことができるでしょうか。本当に心配される状況です。このような状況の中で私たち人間が直面するのは苦しみです。8、9節をご覧ください。「, しかし、そのようなことはみな、生みの苦しみの始めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」 とあります。キリストの弟子たちは苦しみに会うことだけではなく、殺されることもあると言うことです。こういう迫害が日本でもありましたし、今もイスラム教の国々では多くの宣教師たちが苦しみに会い、殺されています。そのときは、人々が大勢つまずき、互いに裏切り、憎み合います。人は互いに愛し合う存在なのに互いに裏切り、憎み合います。にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人々の愛は冷たくなります。このような時に、クリスチャンが持つべき態度は何でしょうか。12、13節をご一緒に読んでみましょう。「不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。/しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」。互いに愛し合っているところでは愛することがそれほど難しくありませんが、人たちの愛が冷たくなっている所でキリストの愛を実践することは難しいです。人間関係において愛が冷たくなっている現実はとても辛いしょう。しかも、キリストの愛を証しすればするほど、かえって憎まれることになるとどんなに辛くなるでしょうか。聖書を教えながら愛し続けても分かってくれないし、むしろそれが誤解されて傷付けられるときはほんとうに悲しくなります。さらに、自分のことえもうまく行かないような時には本当に苦しくなります。何もかも放棄したくなるかも知れません。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。「最後まで」と言われているということは、「最後がある」ということです。迫害は終わりがあります。苦しみにも必ず最後があります。だから「耐え忍ぶこと」もできます。, 隣の方と挨拶しましょう。最後まで耐え忍ぶ者は救われます。, 。では私たちが最後まで耐え忍びながら励むべきことは何でしょうか。14節をご一緒に読んでみましょう。「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから終わりの日が来ます。」ここで、私たちは終わりの日が来るまで励むべきことが何かを学ぶことができます。それは言うまでもなく全世界に福音を宣べ伝えることです。終わりの日まで励むべきことは全世界に福音を宣べ伝える世界宣教なのです。キリストが再臨されてからは福音を宣べ伝えなくてもいいです。ただ、その日までは全世界に福音を宣べ伝えて行きます。それから、イエス・キリストが再び来られる勝利の日、喜びと感激の日を待ち望むのです。その日の望みがあるからこそ、福音を宣べ伝える伝道、1, 1聖書勉強に励むことができます。第三に、イエス・キリストの再臨を待ち望むことです。15節をご覧ください。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば」とあります。このダニエルの預言はルカの福音書にもっと分かりやすく「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら, 」と言い換えています。そして歴史的にローマ軍の包囲によって実現しました。イエス様はその時には「山へ逃げなさい。」と言われましたがそれを知っていたクリスチャンたちはその通りにしたので助かりました。しかし、歴史家ヨセフォスによると、一人の偽預言者が「神殿に上れば助かる」と言ったことを聞いて惑わされた人々は山に逃げなかったために皆死んだそうです。ですから、私たちはイエス様の御言葉をよく覚えていて惑わされないように気をつけなければなりません。終末に現われるにせ預言者達は大きなしるしや不思議なことをして見せるので惑わされやすいです。しかし、そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。なぜでしょうか。イエス様はすべての人が分かるように来られるからです。27〜29節をご覧ください。イエス・キリストが来られる時は、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来られます。太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。だから、「キリストがここにいる」「そこにいる」と言われなくてもその日はキリストの再臨が分かるのです。30節をご一緒に読んで見ましょう。「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」再び来られるイエス様は輝かしい栄光の姿で来られます。その時、なぜ「地上のあらゆる種族は、悲しみながら」キリストを仰ぎ見るのでしょうか。それは再臨の時には、あらゆる人々が神の子であるイエス・キリストを十字架につけて死なせた罪深さを知るからです。その時、キリストが救い主であることが全世界に明らかにされます。神様の主権が全地に表わされます。そのとき、主は、神様を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです, ?テサロニケ1, 8,9, 。しかし、クリスチャンにとってその日は勝利の日であり、喜びと感激の日です。31節をご覧ください。「人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使い達は、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。」とあります。その時、いのちの書に名前が記されている人々の名前が呼ばれます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私達が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。これは主にお会いする大きな祝福です。今、私たちは鏡にうつすようにぼんやり映るものを見ていますが、その時には、顔と顔を合わせて見ることになります, ?コリント13, 。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります, ?テサロニケ4, 。 現在、私たちは主との親しい交わりに日々あずかっています。夜明けの祈りの時間から主との交わりを始め、生活の中で主と交わりができることは大きな祝福です。しかし、私たちの肉のゆえに、主との交わりに限界があります。けれども、その時には、本当に親しく交わることができるのです。それだけではありません。私たちは私たちより先に召された方々にお会いするのです。どのような状況であるかは分かりません。ただ、その時、私たちに天上のからだが与えられ、誰であるかがわかるようにされて、なつかしい方々との再会ができるのです。また、その時、私たちはキリストに似た者に変えられます, ?ヨハネ3, 2、3, 。パウロは、それを「天上のからだ」「栄光のからだ」と呼んでいます, ?コリント15, 。ですから、選びの民であるキリスト者にとって、イエス様の再臨は、究極的な救いが実現する待望の時であり、喜びの時であり、勝利の時です。この望みは私たちを失望させることがありません。この望みがある時、私たちはどんな苦難の中でも失望することがありません。従って私たちはその日を待ち望みながら生活をしなければなりません。特に今はいろいろな前兆を通してその日が近づいて来たことが分かります。32, 33節をご覧ください。「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。そのように、これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」とあります。この御言葉はイエス様が今まで教えられた終末の前兆を見たら、終末が近づいていると知るべきだということです。ところが、私たちはイエス様の預言の御言葉が一言も間違いなく成就されることを経験しているのです。だからこそイエス様の再臨も確かなものです。35節をご覧ください。「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」とあります。イエス様は終末の預言が御言葉のとおりに成就することを強調されました。私たちは確かにキリストが大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。従ってどのように生きるべきでしょうか。42〜44節をご覧ください。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」とあります。ここで、大切なことは「目を覚ましていなさい。」「用心していなさい。」と言うことです。事実、私たちが目を覚ましていなければ惑わされてしまいます。最後まで耐え忍ぶこともできなくなってしまいます。キリストの再臨を待ち望むこともできなくなってしまうでしょう。従って、私たちはいつでも主を迎えることができるように目を覚ましていなければなりません。それでは目を覚ましているということはどのようにすることでしょうか。45〜51節をご覧ください。忠実な思慮深いしもべにならなければなりません。忠実な思慮深いしもべは主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えます。主人が帰って来た時に、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。このしもべの立場はすべてのキリスト者に当てはまります。すべてのキリスト者は、主からの賜物を与えられて、その管理を任されているからです。私たちは忠実な思慮深いしもべとして、主から任された努めを全うする生活に励まなければなりません。主は「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と誉めて下さるでしょう。私達が忠実な思慮深いしもべたちになるように祈ります。 結論、神様は歴史の主管者です。神様が旧約聖書に示してくださったすべての預言、約束の御言葉は新約時代に実現されています。さらに、聖書に預言されたとおりにメシアとして来られたイエス様の御言葉も実現されて来ました。キリストの預言のとおりにこの時代には多くの終末の前兆が起こっています。それほどイエス様が再び来られる時が近づいていることになります。こういう時だからこそ、霊的な価値観、キリストの再臨への望みを新たにして行きますように祈ります。もし、今の苦しみが大変であっても最後まで耐え忍び、主のわざに忠実な思慮深い者として生きるように祈ります。

14Genesis25M 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです

14genesis25m, 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです, 2014年創世記25講 私をここに遣わしたのは、実に、神なのです。御言葉:創世記42, 28要 節:創世記45, だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。 先週、私たちは主がヨセフとともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださったことを学びました。それは誘惑と試練とに対する勝利でもありました。ほんとうに神様とともに歩む人生には成功と勝利があります。今日はヨセフが兄弟たちと会い、彼らを試し、ついに再会する、感動的な出来事を学びます。ヨセフは奴隷に売られたエジプトでも成功しましたが、兄たちは、飢饉のために食べるにも苦しくなっていました。特に20年の歳月が経ても彼らの罪責感は無くなっていませんでした。そこで、ヨセフは兄たちが悔い改めるように助け、それが確認できた時はすべてを打ち明けて涙を流します。何よりも神様の主権的な働きと導きに感動して喜びの涙を流します。ここで、私たちは夢を成し遂げてくださる神様、神様に対するヨセフの兄弟愛と信仰を学ぶことができます。どうか、私たちも神様を全く信頼して自分の人生をヨセフのように解釈して行く信仰の人として成長して行きますように祈ります。?.人の夢を成し遂げ、愛の人に変えてくださる神様パロの夢をヨセフが解きましたがその通りに、7年間の大豊作は過ぎ去り、ひどい飢饉が続きました。その飢饉はエジプトだけではなく、ヤコブの家族が住んでいたカナンの地にもありました。ついに、どこかで穀物を飼って来なければ死んでしまう状態になりました。そこで、ヤコブはヨセフの十人の兄弟に穀物を買って来るようにエジプトに行かせました。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょに行かせませんでした。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからです。ヨセフを失っていたヤコブにとってはどうしてもベニヤミンだけは守りたいと思ったようです。こうしてヨセフの10人兄弟はエジプトに下って行きました。 ときに、ヨセフはエジプトの権力者であり、国のすべての人々に穀物を売る者になっていました。では、ヨセフの兄たちはヨセフの前でどうしましたか。42章6bをご覧ください。「ヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝んだ。」とあります。今日の本文には何度も兄たちがヨセフの前で地に伏せていることを記しています, 26、43, 28、44, 14など, 。また、9a節を見ると「ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して彼らに言った。」とあります。ヨセフが夢を思い出したというのは夢を持ち続けていたことも教えてくれます。約20年前、ヨセフは夢を見て兄たちや父に話しました。その中に「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」とも言いました。その後、兄たちはヨセフの夢を潰そうとしました。殺そうとして穴に投げ込みました。ルベンが反対したから殺しはしませんでしたが、イシュマエル人に売りました。それから20年の歳月が流れると、ヨセフは、もはや父にとって死んだ過去の人でした。兄たちにとっても遠い昔に死んでしまった人になっていました。ところがヨセフは夢を持っていたのです。だから、彼はかつて兄弟たちについて見た夢の通りになっていることの確認ができました。それは神様がヨセフの夢を成し遂げてくださったからです。ヨセフの兄弟たちはききんのためにエジプトにくださって来たのですが、実はそこにも神様の働きがありました。ききんは自然現象です。個人とは何の関係もなさそうに思われます。ところがその飢饉が、ヨセフの個人的な夢に関わっていたのです。ききんが穀物不足を生み出し、ヨセフの兄弟たちがヨセフに会わざるを得ない状況を作り出しました。そうして、兄たちは顔を地につけてヨセフを伏し拝みました。ここで、神様は神様からの夢を持っている人の夢を中心に働いてくださることが分かります。神様は何となく生きている人ではなく、神様からの夢を持っている人を中心に世界を動かしておられるのです。ヨセフは兄弟たちを見て、自分の兄弟であることがわかりました。また、ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出しました。ところが、彼らの中に最愛の弟ベニヤミンがいませんでした。ヨセフはベニヤミンも自分のように奴隷として売られたかと思われたでしょうか。ヨセフは自分のことを明かさずに「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」と言いました。そして弟のベニヤミンを連れて来ることによって彼らの真実さを証明するように言い、彼らを三日間、監禁所に入れて置きました。三日目には「兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」と言いました。こうして、飢えている家族を助け、ベニヤミンも連れて来るようにしました。ところが、兄たちは何と言い合っていましたか。21節をご覧下さい。彼らは互いに言いました。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言いました。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」, 。ここで兄たちは20年前に犯した罪の問題が解決されず、苦しんでいることが分かります。彼らは罪責感のために苦しんでいたのです。でも、彼らはヨセフとの間に通訳者がいたので自分たちの話をヨセフが聞いていたとは知りませんでした。しかし、ヨセフは彼らが自分を奴隷として売った罪のゆえに苦しんでいることが分かりました。同時に、兄たちが自分を憎み、自分を殺そうとして穴に投げ込み、エジプトに売ってしまったことも思い浮かんだことでしょう。ヨセフは心を痛めました。それを耐えられなくなってヨセフは彼らから離れて、泣きました。それでも、心を開いて「私はヨセフです。」と告白するまでには至りませんでした。むしろ、暴君のように、シメオンを人質にし、弟のベニヤミンを連れて来るように言い渡して兄たちをカナンに帰しました。その時、兄弟たちの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返しましたが、兄弟たちが帰る途中の宿泊所で、袋をあけてみると、自分達の銀, が袋の中にそのまま入っていました。彼らは心配し、身を震わせて互いに言いました。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」こうして、彼らがカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて報告しました。ヤコブはヨセフを失ったのに、今度はシメ, オンもいなくなり、そして、ベニヤミンまでも失うのではないかと苦しみました。それでベニヤミンを彼らといっしょには行かせないと言いました。しかし、その地での飢饉は、ひどかったのでヤコブは兄たちがベニヤミンを連れて行くことに対して許さざるを得なくなりました。その時、ユダは父親に「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者, となります。」と説得しました。以前とは全くユダの態度が変わっています。ヤコブは「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」と言ってすべてのことを主にゆだねました。こうして兄弟達は再びヨセフの所に行きました。ヨセフは彼らが来たこと、特にベニヤミンもいっしょに来たのを見て非常に喜んだでしょう。ヨセフは兄弟達を家へ連れて行き、豊かにもてなすようにしました。それからシメオンも彼らのところに連れて来ました。ヨセフはまず父の安否を尋ねました。そして同じ母の子である弟のベニヤミンを見て「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」と祝福しました。30節をご覧下さい。ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなりました。同じ母から生まれた唯一の兄弟であるベニヤミンを見た時、どれほど胸が熱くなったでしょうか。彼は泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣きました。やがて、彼は顔を洗って出て来ました。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけました。それから、ヨセフは、年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらせました。また、ベニヤミンにはほかのだれの分け前よりも五倍も多く与えました。それからヨセフは兄たちを父の所に帰しますが、兄たちの心を知るために再び事件を起こしました。ベニヤミンの袋に自分の銀の杯を穀物の代金といっしょに入れておくようにし、彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、彼らのあとを追いついて調べるようにしたのです。その結果、ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかりました。この時、兄たちはベニヤミンを見捨てて帰途に就くこともできました。過去だったらベニヤミンにすべての責任を負わせて自分達だけが生き残る道を考えていたでしょう。実際に兄達には罪がありませんでした。しかし、彼らは自分達に一緒にしもべになると言いました。特に、ユダ゙は自分を犠牲にしてベニヤミンを救おうとしました。44章18〜34節まではユダがそれをお願いする内容です。彼のお願いは非常に感動的で、説得力があります。ユダは、ヨセフをエジプトに売った張本人です。それが今や捨身になって、ベニヤミンを取り戻そうとしています。彼はベニヤミンの代わりに自分が一生奴隷になると言いました。このユダの説得は口先だけではなく、悔い改めから出て来たものです。彼はベニヤミンに何か問題が起こると自分が責任を負うと父に約束したことを守ろうとしました。自分を犠牲にしてでも, 自分がしたことに対して最後まで責任を取ろうとしたのです。また、彼の説得には弟に対する愛があります。過去彼はヨセフを憎み、奴隷として売ることに積極的に働きました。弟の苦しみ、悲しみには関心がありませんでした。子どもを愛する父の心にも関心がありませんでした。しかし、今は弟のことや年老いた父のことを考えています。彼らがどれほど悲しみ、苦しむようになるかを考えました。自己中心ではなく、兄弟を愛し、父を尊敬する人に変えられていたのです。真実な悔い改めによって彼の心も人に対する態度も変わっていることが分かります。神様は彼の真実な悔い改めを受け入れ、彼を救いの御業に貴く用いられました。後にヤコブはユダを祝福して語りました。「ユダは獅子の子。わが子よ。あなたは獲物によって成長する。雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。だれがこれを起こすことができようか。王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。, 9、10, 」やがてダビデに受け継がれ、メシヤ待望へとつながります。ユダは自己中心の人から自分を犠牲にしても兄弟を愛し、父を愛する人に変わった時に救いのみわざに尊く用いられたのです。?.神様の完璧なご主権と導きを信じるヨセフ45章1節をご覧下さい。ヨセフは、兄達が悔い改めたことを知った時、それ以, 上自分を隠す必要がありませんでした。それで、自分を制することができなくなって、みなを、自分のところから出してから声をあげて泣きました。それがどれほど大きかったか、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞きました。彼が今までわざと事件を起こして兄達を困らせたことは彼らに復讐するためではありませんでした。ヨセフは兄達を真に愛していました。ヨセフは兄たちが犯した罪を悟って告白し、悔い改めにふさわしい行動をすること願いました。そして、それが確認できたときは、感動と和解の涙を流しました。ここで、やっとヨセフは兄たちを心から赦したことでしょう。また自分の心も癒されたことでしょう。かつてヨセフは二番目の子どもをエフライムと名づけました。それは主がこの苦しみの地で、自分に多くの償いをしてくださった、と告白したことです。しかし、それは物質的、社会的なことであって、心の償いではありませんでした。深い心の傷は長らく癒されていませんでした。多くの富と権力で、自分の心の傷を癒すことは無理だったのです。ほんとうの平安と幸せを手にすることはできませんでした。兄たちもヨセフを憎しみ、売ってしまった罪の問題が解決されなかった時は罪責感から解放されませんでした。ききんの時に、食糧の問題が解決されても、宮殿の料理でもてなしを受けても心に平安はありませんでした。しかし、彼らが仲直りをし、互いに愛し合うことができた時に心も癒されたのです。それで、互いに彼らは自分のことを隠すことなく、言い表わすことができました。このように罪の問題が解決され、愛する生活をする人はありのままで生きることができます。ユダの言葉を聞いたヨセフは兄たちに自分を現しました。そして驚きのあまり、声も出せない兄達に神様の摂理を証しました。45章章4, 8節はヨセフの証しです。5節, をご覧下さい。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ここで私たちはヨセフが兄達を赦し、彼らを暖かく受け入れることができたのは、彼に信仰があったからであることがわかります。ヨセフは自分の人生が兄達の手によって左右されたのではなく、神様の主権と摂理の中で導かれたことを証ししました。兄達はヨセフを憎んで奴隷として売りましたが、神様はそれを働かせて益としてくださいました。彼を鍛錬してエジプトの総理大臣として立てられました。8節をご一緒に読んでみましょう。「だから、今、私をここに遣わした, のは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」素晴らしい信仰告白です。ほんとうに信仰のある人はすべてのことにおいて神様の主権と導きを認めて再解釈することができます。同じ出来事でもどのように解釈するかによって意味が違ってきます。同じことを経験してもある人はつぶやき、ある人は感謝します。不幸に思う人もいるし、幸せに思う人もいます。どのように解釈するかによって苦しい不幸の人生を生きるか、幸せな人生を生きるかが決まると思います。ところが、信仰の人には人の行ないも、自然現象も神様のわざとして再解釈することができます。ヨセフは兄弟によって売られたのではなく、神様に遣わされたと考えました。また信仰の人は、神様の業がなされる目的を理解しています。ヨセフは、自分がエジプトの統治者になったのは、エジプトの民が救われるだけではなく、ヤコブの家族、つまりイスラエルの民も皆救われるためであったと考えました。ここで、ヨセフはかつての夢の本当の意味を悟ったことでしょう。使徒パウロは次のように言っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。, ローマ8, 28)」パウロはヨセフヨセフの生涯を通して神様のご計画の完璧さが分かったことでしょう。ヨセフを通しても、自分の体験を通しても完璧なご計画の中で私たちの人生が導かれていることが分かったのです。そうです。神様はご計画の中でヨセフを導かれたように私たちひとりひとりも導いておられます。だから、神様を信じる人にとっては神様が自分の人生を常にベストの道に導いておられることがわかります。それで、逆境の時にも明るく、肯定的に考えることができます。すべての弱さと孤独に打ち勝ち、感謝と恵みに満たされた人生を過ごすことができます。順境の時には感謝し、逆境の時でも耐え忍びます。将来のことに対しては、夢を持ち続けて神様にすべてを委ねて最善を望むことが出来ます。それは、悪をも善に変え、死をも命へと変えてくださる神様が、わたしどもと共におられることを、知っているからです。

14Genesis14M 約束されたとおりに行われた神様 

14genesis14m 約束されたとおりに行われた神様 , 2014年創世記第14講                               約束されたとおりに行われた神様御言葉:創世記20, 1−21, 34要, 節:創世記21, 1「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」 先週、私は福岡ubf開拓礼拝に参加させていただきました。そこで、私は神様が九州大学のみわざを備え、導いておられることを感じ、神様のビジョンを見ることができました。それはアブラハムを召され、導かれた神様が崔ヨセフ宣教師家族にも御言葉を与えられ御言葉の通りに導いておられるからです。礼拝にアブラハムのような九大の竹下兄弟も参加しましたが、神様が彼にも約束の御言葉を与えられ、約束された通りに行なってくださるように祈ります。 今日の本文には、アブラハムの過ち、不信仰、悩みなどの恥ずかしい部分が記されてあります。偉大な信仰の先祖としてのイメージより罪と咎だらけの姿です。それにもかかわらず神様は彼との約束を守られ、約束の通りに行われました。ついに、約束の子イサクが生まれるのです。すると、アブラハムも神様から言われた通りに子どもに割礼を施します。そのアブラハムの家にも問題が発生しますが、それも神様が解決してくださいます。そこで、私たちは神様の約束の真実性、深いあわれみを学ぶことができます。どうか、聖霊が私たちのうちに働いて約束の御言葉を与えられ約束された通りに行われる神様を深く学ばせてくださるように祈ります。そうして私たちも生活の中でアブラハムの神様を自分の神様として体験して行きますように祈ります。20章1節をご覧ください。「アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、」とあります。先週、皆さんは金ヨハネ宣教師を通してソドムとゴモラのことを学んだことでしょう。主はソドムとゴモラを滅ぼされたとき、アブラハムを覚えられたのでロトと二人の娘は救われました。それで、ソドムとゴモラは滅ぼされたけれどもアブラハムの粘り強いとりなしの祈りの力を示してくれたところでもあります。アブラハムはそこからネゲブの地方へ移り、ゲラルに滞在していました。そこでどんなことがありましたか。2, 13節を見ると、飢饉の時エジプトに下った時(12, 20)と同様にサラが自分の妹だと嘘をつくことがありました。アブラハムがそのようにした理由は11節にあります。その地方には、神様を恐れることが全くないので、人々がサラのゆえに、自分を殺すと思ったからです。しかし、それは信仰の人として許される行動ではありませんでした。しかも、今回は前回とは違って何度も神様から御言葉が与えられ、神様の守りと助けを体験してからのことです。彼は何度も神様を体験したにも関わらず、神様より世の権力者を恐れています。偉大な信仰の先祖アブラハムの歩みにも信仰の浮き沈みがあったことが分かります。サラもそうです。どうしてサラはアブラハムが自分の夫であるとはっきり言えなかったでしょうか。もちろん、アブラハムも、サラも言い訳はできたでしょう。「サラは腹違いの妹だ」、「私は夫に従った」、「殺されないためには仕方なかった」とも言えるでしょう。しかし、それはアブラハムの卑劣な策略です。アブラハムもサラも不信仰に陥っていました。自分たちを国々の父、国々のとなると約束してくださった全能の神様を見失ってしまいました。ほんとうに、軟弱なアブラハムの姿に神様も絶望せざるを得なかったでしょう。神様は何度も語りかけて全能の神様を信じるように助けてくださったのに、アブラハムは繰り返して過ちを犯し、信仰から離れて行ったからです。ところが、それにもかかわらず神様はアブラハムを助けておられます。夢の中で、アビメレクのところに来られ、サラを返すように助けてくださいました。それだけではありません。神様はアブラハムを預言者として立てられました。7節をご覧ください。「今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」とあります。神様はアブラハムが自分の妻を返してもらうだけではなく、預言者としても働くようにしてくださいました。祈りを通して人を生かすことも死なすこともできる預言者として立てられたのです。そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷達を取って来て、アブラハムに与えました。またアブラハムの妻サラを彼に返しました。結局、アブラハムは自分の命を救い、サラを無事に取り戻すことができました。それだけではなく、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちまで受けました。ここで、私たちは神様が約束の通りに、アブラハムの盾となり、保護者になってくださったことが分かります。アブラハムの過ち、恥ずかしい行動にもかかわらず、神様は彼を守り、助けてくださいました。今も、神様は私たちの盾となり、保護者になってくださいます。私たちは弱くて過ちを犯し、不信仰に陥ってしまう時もあります。今まで何度も神様の愛と力を体験したにも関わらず、自分の弱さと恐れのために失敗してしまうのです。でも、私たちが根本的に心の中心から神様の御言葉に頼っていると、神様が私たちの味方になってくださいます。私たちの盾となってくださいます。だから、私たちは弱くても圧倒的な勝利者の人生を生きることができます。ローマ8章31, 37節を開いてみましょう。「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。アブラハムの神様が私たちも圧倒的な勝利者の人生へ導いてくださることを感謝します。それでは神様がアブラハムにされた約束を、いつ、どのようにして成就させましたか。21章1, 2節をご覧ください。「主は約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男との子を産んだ。」とあります。ここで、「約束された通り、仰せられたとおり、言われたその時期」と言うのは神様の約束が三度も強調されたことです。つまり、神様はアブラハムに約束の御言葉を与えられてその約束を守られ、その御言葉の通りに行われるということです。このことはとても大切な事です。キリスト教は御言葉中心の宗教です。聖書の権威、御言葉の権威をとても重要視しています。私たちが神様を信じるということは神様の約束の御言葉を信じることです。イエス・キリストを信じるということもイエス・キリストの御言葉を信じることです。この聖書を記録したモーセの関心は神様の御言葉の真実性と権威が人類の歴史と人生の方向を決定し、奇跡が起こることを強調しています。使徒パウロも御言葉の真実性と権威を明らかにしています。?コリント15章3, 5節を見ると「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。」とあります。「聖書の示すとおりに、聖書に従って」と言っています。新旧約聖書の代表者であるとも言えるモーセもパウロも御言葉の通りになることを強調していることが分かります。モーセは約束された通り、パウロは「聖書の示すとおり」と言っているのです。 ここで、私たちはアブラハムの神様から御言葉を通して私たちを召され、カウンセリングをし、導いてくださることを学ぶことができます。アブラハムは偶像崇拝の地で生まれ育ちました。サラも不妊の女でした。彼らは身体的にも情緒的にも弱い人たちでした。でも、神様は彼らに御言葉を与えて勇気づけ、希望を与えてくださいました。彼らは子どもを産むことができない状態であることを知っていました。だから、なかなか神様の約束を信じ切ることができませんでした。それでも彼らは信仰の道から離れて行かないで待ち続けました。その歳月が25年も流れました。その間に失敗もありました。人間的な方法で女奴隷から子どもを産んだこともありました。彼らも人間だから信仰の浮き沈みがあったのです。落ち込んだ時もありました。恐れている時もありました。勇気を持って戦う時もありましたが、恐れて過ちを犯し、恥ずかしくてしようがない時もありました。それでも彼らがあの長い年月を耐え忍ぶことができたのは神様の慰めと励ましの御言葉があったからです。 私たちはどうでしょうか。私たちにも御言葉が与えられていたからこそ今日までの信仰生活ができたことでしょう。それは神様の恵みです。私自身を振り返ってみると罪と咎だらけです。問題の連続でした。辛くて悲しくて苦しいときもありました。何度も失敗し、悩みました。それでもここまで来たのは神様の御言葉があったからです。しばしば深く与えられる御言葉、毎週私たちに与えられる神様の御言葉があったからこそ今の私たちは信仰を守りここまで来られたでしょう。私たちは弱いですが、神様は力強い御言葉によって私たちを引張り、導いてくださいました。私たちが患難の時に私たちに慰めと喜びを与えたのは神様の御言葉でした。エレミヤ15章16節を見ると「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。…」とあります。 今日のように、不安な時代もないでしょう。自分の足りなさのために委縮され、心が複雑になり、不安な時もあるでしょう。だからこそ御言葉をつかみましょう。父なる神様が私たちにふさわしい御言葉を与えてくださいます。ここにいらっしゃる皆さんにはすでに与えられている御言葉も多くあるでしょう。御言葉を堅くつかんで黙想し、祈りましょう。さらに、個人的に神様から約束の御言葉をいただくために聖書を読み続け、祈りましょう。毎日美味しく食べている食べ物が私たちのエネルギーとなり、力となることのように御言葉が私たちの生活の中で力となります。霊的エネルギーを与えてくださいます。楽しみと喜びを与えてくださいます。今週は受難週ですが、イエス様の受難とともに自分に与えられた約束の御言葉を深く黙想し、確信して行きますように祈ります。すべては約束された御言葉の通りになります。神様がアブラハムに言われたその時期に、サラが男の子を産みました。これは神様の時に、約束を成就させたことです。神様には神様ご自身の計画があり、その計画は、「神の時」に成就されます。イサクが生まれた時、アブラハムは百歳、サラは九十歳でした。アブラハムが信仰生活を出発してから25年ぶりでした。それでは神様はなぜアブラハムが願う時に子供を与えてくださらず、それほど長い年月の間待つようにされたのでしょうか。神様がイサクを与えられるまで、アブラハムを訓練されたことは何でしょうか。アブラハムは子供を得ることに関心がありました。しかし、神様はそれを通して彼に信仰を持たせることに関心がありました。アブラハムは目に見える祝福を願いましたが、神様は目に見えないもっと大きな祝福を与えることを願われました。神様は彼の霊的な目が開かれ、神様がどんな方であるかを知り、神様のみわざに用いられる人になることを願われました。神様はイサクの誕生が全く神様の力と摂理によるものをあることを現されました。もしアブラハムが願う時に子供が与えられたならアブラハムは信仰の奥義を悟ることができず、神様の愛と力を体験することができなかったでしょう。このように神様は時には私たちが願うことを直ちに与えてくださらない時があります。なかなか弟子養成ができない時があります。それはまだ神様の時になってないからです。神様は時になると、必ず私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが神様から一番良いものを受けるためには信仰によって神様の時を待たなければなりません。3、4節をご覧ください。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけました。そしてアブラハムは、神様が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施しました。「イサクと名づけた」ことは17:19の主の命令に従ったのです。このことによって彼は、この子が主によって与えられた約束の子であるとの信仰を告白しました。また彼がイサクに割礼を施したことも神様に命じられた通り行ったことです。アブラハムは、イサクこそが主の契約を受け継ぐ者であることを信じ、契約のしるしとしての割礼を施しました。イサクを産んだサラの喜びはどうですか。6節をご覧ください。サラは言いました。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」イサクは笑い、つまり、喜びという意味です。神様はアブラハムの家庭に喜びを与えられました。イサクはアブラハムが信仰によって得た実でした。90歳になったサラが赤ちゃんを抱いて乳を飲ませることは神様の力と恵みによったことです。サラは主の恵みに満足して笑いが止まらなかったでしょう。その喜びを考えながら私たちも笑って見ましょう「ハハハ・・・」。サラが笑うとき、今まで不妊の女として受けた羞恥、痛み、悩み、苦しみが消え去りました。そして神様が与える喜びに満たされました。信仰によって実を結んだことから来る本当の喜びでした。神様は私たちに喜びを与えてくださる方です。でも、私たちの人生はいつまでも笑うばかりで生きられるのではありません。家庭に問題も生じます。しかし、恐れることはありません。神様が助けてくださる方です。8節をご覧ください。イサクは育って乳離れしました。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催しました。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子、イシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それを見たサラはハガルとイシュマエルを追い出すようにアブラハムに言いました。女奴隷の子とはいえ、アブラムにとってはわが子です。それ故、アブラハムは、非常に悩みました。その時、神様は彼に仰せられました。12節をご覧ください。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。」しかしイシュマエルもアブラハムの子だから一つの国民とすると言われました。それでアブラハムは神様の御言葉に従ってハガルとイシュマエルを送り出しました。すると、神様はハガルとイシュマエルも顧みてくださいました, 。以上で、アブラハムも過ちを犯していたことが分かります。嘘つきであり、不道徳な人間になってしまう時もありました。彼も不信仰に陥り、悩み、苦しむ平凡な生活人でした。ところが、神様はあの軟弱なアブラムを放置して置きませんでした。超自然的な方法も用いて彼の家族を守り、彼との約束を守ってくださいました。このことを考えると大きな慰めになります。私たちが弱くても心の中心から神様の約束の御言葉をつかんでいるなら、必ず神様の約束の通りに行われます。どうか、神様の御言葉によって日々神様の愛と力を体験し、いつも喜ぶ信仰生活をして行きますように祈ります。

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14Easter1M 父よ、彼らをお赦しください

14easter1m 父よ、彼らをお赦しください, 2014年イースター修養会第1講, 金サムエル,  4月19日, 15:30父よ、彼らをお赦しください御言葉:ルカの福音書23, 53要 節:ルカの福音書23, 34、43節23, そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。23, イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」今日から明日までイースター修養会を設けて下さった神様に感謝します。先程第1講でイエス様が十字架にかかって死んだ出来事を学びました。明日はよみがえりであり、命であるイエス様について学びます。イースターはイエス様が十字架で死なれ、三日後に復活した事を記念する日です。今回の修養会を通して「イエス様の十字架と復活」が私達にも力強く働き、日常生活にも生かされますように祈ります。1.お赦し下さい。今日の御言葉では色々な人が出ます。先ずクレネ人シモン、犯罪人の二人、ローマ軍人、百人隊長、ヨセフ、女たちです。その中で中心はイエス様です。それぞれの立場になって感情や振る舞いを自分と照らし合わせて考えてみましょう。そうするともっと恵みを受けるようになると思います。イエス様は12弟子の一人であるユダの裏切りによって逮捕されました。23章の前半部を見ると、イエス様はピラートの1次審問, とヘロデ審問, 12節, を受けました。最後にピラートの2次審問後には、十字架の死刑が言い渡されました(13−25)。この十字架刑は人類歴史上最も残酷な刑罰でした。本来ユダヤ人の処刑法ではなく、ペルシア、ギリシャ、ローマで行った刑罰です。反逆者、殺人犯、強盗などの重罪人が受けていました。あまりにも酷い刑罰なので自国民には無く奴隷や植民地の人に限られていました。この十字架刑の死刑囚は自分の十字架を背負って、十字架が立てる所までは運ばなければなりませんでした。イエス様もあの十字架を背負って行かれました。ところが前日の夜、3回の長い審問で力切っていました。もはや十字架を運べなくなりました。そこで、ローマ兵士達は田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえました。そして彼にイエス様の十字架を負わせました。結局シモンは無理矢理にイエス様の十字架を背負って行きました。これはシモンにとって中々理解しがたい十字架でした。しかし、結果的にみるとシモンは幸せな人だと思います。必ず誰かイエス様の十字架を代わりに背負って行かなければならない場合があります。その時、シモンのようにする事は易しくないでしょう。わけも知らずに十字架を背負うとする時は色々な心配事を考えます。何故私が、運が悪いなと背負う前から計算します。理由が分かっても重い十字架は出来るだけ避けたいと思います。私がしなくてもだれが背負ってくれるだろうと思います。しかし、シモンは違いました。彼は勇気を絞って自ら進んで十字架を背負いました。丘まで運ぶのは大変です。肉体的にも疲れます。周りの視線も気になります。しかし、終わった時は背負った人しか経験出来ない、充実感など、学ぶ事が沢山あります。何よりもシモンは人類救いのイエス様の偉大な御業に尊く用いられました。無理矢理に十字架を背負ったとしてもイエス様がなさる救いの御業に用いられる事はこの上もない栄光であり、恵みです。シモンも後にその十字架の意味が分かって救われました。教会史を見ると、彼の家族も救われてますます福音の御業に励むようになりました。私達もシモンのような人になれるように祈ります。私は、しばしば鄭ダニエル宣教師は本当にシモンのような人だなと思います。大学生から小学生まで幅広い4人の子供を育てます。若い高校生の面倒を見る一番大変な地位の学校の教頭です。それだけでもストレスが沢山あります。肉体的にも精神的にも疲れるでしょう。しかし、いつも笑顔です。何よりも教会の牧師として毎週のメッセージを準備して伝えます。教会の行事もリードして行きます。簡単に見えても簡単ではありません。しかし、無理やりでもイエス様の十字架の栄光と恵みを体験しているからこそ、いつも笑顔でいられていることでしょう。無理矢理でも十字架を負っている人はその栄光と恵み、満足感と喜びを経験しているのです。シモンがイエス様の後ろから十字架を運んでいく時です。大勢の民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女達の群れもイエス様の後について行きました。彼らの中にはイエス様から恵みを受けた人がいました。自分の病気を癒してもらった人も、娘の病気を癒してもらった偉い人達もいました。彼らが十字架を背負って行かれるイエス様の姿を見るのはとても悲しいことでした。十字架で死んでしまうイエス様を考えると悲しむのは同然でしょう。そんな彼女達にイエス様は言いました。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るからです。イエス様は現在ご自分が受けている十字架の苦しみより、エルサレム滅亡のことを心配していました。その時、あまりにもひどい災難のために子どもを生んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと言うほどになるからです。でも、彼らはイエス様を十字架につけて殺す罪の結果は考えませんでした。彼らはイエス様からエルサレムの滅亡を言われてもイエス様と犯罪人を十字架につけました。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左にし、イエス様を中央にある十字架につけました。そのとき、イエス様はこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」「父よ、彼らをおゆるしください」――その彼らの中に、ローマの兵士もユダもペテロも、そして私達も含まれています。何をしているのか分からないで罪の闇に足を取られる私達です。羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かって行った私達です。イエス様は、そんな私達の罪を背負いながら、その赦しを神様に祈られました。この祈りは私達の為です。イエス様はご自分を殺そうとしている人々の為に、「父よ。彼らをお赦しください」と祈られました。以前イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と弟子たちに教えました。イエス様は、今、十字架の上で、その通りに実行しています。敵を愛し、敵を赦しなさい。本当に相手を理解し、赦すべきことは赦し、愛するということは本当に難しい事です。自分が相手に与えたかも知れない傷は大抵の場合、覚えていません。いや、そのことに気付いてさえいません。しかし、自分が受けた傷は中々忘れません。ましてや赦すことは中々出来ないでしょう。ところが、イエス様はご自分の愛を踏みにじり、命までも奪おうとする人々の為に、執り成しの祈りを捧げられました。ここに、イエス様の愛、神様の愛があります。罪ある者、罪に生まれたあるがままの人間性では、決して存在することのない神様の愛があります。このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちは罪赦され、救いに与かる恵みを受けた者になりました。そして、神様の愛を知る者とされました。このお方に賛美を捧げましょう。そして、私達も人を赦して愛する生活が出来るように祈ります。やがてこのイエス様の遺言はクリスチャン達も見習って受け継がれました。人を許す時こそ、自分の心に平安が持たされます。相手を許す時、相手を為に死ぬことが出来ます。イエス様とともに十字架にかけられていた犯罪人の一人はイエス様に悪口を言いました。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言いました。ところが、もう一人のほうが答えて、彼をたしなめて言いました。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。, われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言いました。そして彼は「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。一人はイエス様に悪口を言いましたが、もう一人のほうはイエス様の祈りに受け入れました。彼は自分が罪人であることを認め、告白しました。すると、イエス様は、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」ここを見ると、神様の救いは死刑囚という身分とは関係がない事が分かります。死ぬ直前にしても神様の救いを受け入れれば、遅くありません。むしろ遅いと悟った時が一番早いのです。ただ、いつまでは後回してしまうと救われるチャンスを失ってしまいます。イエス様の御言葉を聞いた時に信じて受け入れることが大切です。私たちが救われる時はいつでしょうか。今でしょう。難しいものは後でやればいいでしょうと十字架を避けますが、そうなるといつになっても終わらなくなります。その方は何の成果もありません。発展も成長もありません。今信じて今チャレンジすることが大切です。クレネ人シモンも後回ししないでイエス様の十字架を背負いました。イエス様と一緒に十字架につけられた死刑囚は遅かったけれどもイエス様の赦しの祈りを聞いてその場で信じました。私はこの死刑囚からも勇気を学びます。自分の弱さ、罪深さの為にためらうのではなく、イエス様を信じて信仰告白する事が大切です。その信仰によって救われます。私は35歳になって就職活動をしました。今の会社から営業技術の人を探す案内を見た時、本当に迷いました。私は日本人ではないので、日本の方に品物を売れるか。余り人の前で話すのが得意でもない、色々心配がありました。しかし、勇気を絞って、日本で生活する為に、家族を養う為にやりますと祈りました。そうしたら、無試験で今の会社に採用されてもう10年も働いています。今は一人でお客様に行って説明し、納品にも行きます。昨年度は営業売り上げが2倍になりました。神様が色々助けて下さいます。自分は弱いし、足りない者です。神様から与えられる御言葉を信じるとき、4年間貧血で大変でしたが、今年は正常値に戻りました。病気も安定になりました。イエス様が十字架にかかって赦しの祈りを捧げました。死なれることによって私の罪を贖い、癒して下さったからです。イザヤ53章4、5節を見ると、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。そのとおりにイエス様は私の病を負い、私の痛みを担って下さいました。イエス様の打ち傷によって私は癒されたのです。このようにイエス様の十字架には赦しがあり、癒しがあります。私の罪のために刺し通され、私の咎のために砕かれたイエス様の十字架を信じる人に赦しと癒しを下さることを心から感謝します。若し、告白した死刑者の心が私に無かったなら、今の私はありません。ただ、信じたとき、不思議なイエス様の十字架による赦しと癒しの力が私のうちに働きます。この十字架の恵みを心から感謝します。2.今日パラダイスにいます。犯罪者の1人が死ぬ前、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と言いました。すると、イエス様は彼に言いました。誠に、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。この短い対話の中に大きな恵みがあります。人は本当に死ぬ時、二つのパータンになることです。一つのパータンは何の祝福もなく肉体的に死ぬことだけです。しかし、死刑の一人のようにイエス様に信仰の告白した人は霊的に祝福されます。信仰の告白をした死刑者は肉体的に死んでも、彼は霊的に永遠に生きることです。彼は罪を犯しましたが、どうか私の思い出して下さいと言いました。これが彼の素直な気持ちでした。そんな彼にイエス様は最高の祝福の言葉を言いました。あなたは今日私と共にパラダイスにいます。そうです。私たちは信じたその時からパラダイスにいる事になります。イエス様は過去や未来の事ではなく、今信仰の告白をして欲しいと言います。今、信仰の告白をしないと行けません。今、信仰の告白をするとイエス様と共にパラダイスにいる事になります。私達も死刑者のように信仰の告白をして見ましょう。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」死刑者が最後の信仰の告白をした時はすでに12時頃になっていました。その時、全地が暗くなって、三時まで続きました。, 太陽は光を失っていました。神殿の幕は真二つに裂けました。イエス様は大声で叫びました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」いいました。そして息を引き取られました。イエス様は十字架で肉体的な生命を切られ死なれました。イエス様は33歳とう若さで肉体的な生を終えました。この出来事を見た百人隊長は、神様をほめたたえました。「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言いました。イエス様の知人たちと、ガリラヤからイエス様について来ていた女達とはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていました。ここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな正しい人がいました。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいました。彼が、ピラートのところに行って、イエスの体の下げ渡しを願っていました。それから、イエス様を取り降ろして、亜麻布で包みました。そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエス様を納めていました。この日は準備の日で、もう安息日が始まろうとしていました。, ガリラヤからイエスと一緒に出て来た女たちは、ヨセフについて行って墓とイエスのからだの納められる様子を見届けていました。そして、戻って来て香料と香油を用意しました。安息日には、戒めに従って休んでいました。これでイエス様は完全に地上での御業は終わりになります。イエス様が十字架につけられた時刻が午前9時です。完全に命を絶った時刻が午後3時になります。6時間十字架で全ての苦痛を耐えました。誰の為でしょうか。それは私達の為です。アダムが犯した罪で人間が永遠に罪から束縛して死んでしまう定めを無くすためです。多くの人がこのイエス様の大きな愛を知らなくて苦しんでしまう人が沢山います。パラダイスに導くイエス様を信じましょう。私も今年「あなたは今日私と共にパラダイスにいます」を信じて一年を過ごしたいと祈っています。特に今年から会社で自分の担当商品の責任者になり、予算達成が出来るか心配ばかりしていました。いつも恥かしく思っている重奏団の賛美も恵みで力強く歌いたいと祈っています。この教会も愛に満ち溢れる、皆が平安に過ごせる1年になりますように祈ります。

14Genesis6M 主の心にかなっていたノア

14genesis6m, 主の心にかなっていたノア, 2014年創世記第6講 主の心にかなっていたノア御言葉:創世記6:1−22要 節:創世記6:8「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」 今日は東京UBF教会開拓26周年記念礼拝をささげています。ここまで私たちを助け、導いてくださった神様の恵みを心から感謝します。今日まで来たのは主の恵みです。新聖歌331番をご一緒に歌ってみましょう。, これからも、神様は私たちのうちに力あるわざ、しるしと不思議を行なわれ、私たちひとりひとりを助け、導いてくださることを信じて感謝します。振り替えてみると神様は私たちが足りなくても小さなノアとして生きるように守り、導いくださいました。日本はクリスチャン人口が1%にも至らないと言われています。自分のクラスでたった一人きりのクリスチャン、職場でただひとりのクリスチャンである場合が多いということでしょう。こんな時代にあってもノアのように生きようとする方たちがいますし、この教会にもいるということは大きな感謝です。, 私は海外に行くと、「日本宣教は難しいでしょう」と言われる場合が多くあります。すると、私は「人数は少ないけれども、敬虔なクリスチャンがいますよ。」と答えます。事実、私は26年間宣教師として働きながら日本のクリスチャン、UBFの牧者、兄妹姉妹たちから多くのことを学び、感動する時も多くありました。そういう意味で26周年の礼拝にノアを深く学べることは神様の導きではないかと思われます。どうか、本文の御言葉を通して主の心にかなっていたノアを深く学び、私たち自身も主の心にかなっている者として成長して行きますように祈ります。 ノア時代はイエス様が最も堕落した時代として取り上げられた時代です。イエス様は「洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」と言われました。では、ノア時代は具体的にどうでしたか。, 2節をご覧ください。「さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。」とあります。ここで、「神の子ら」とは神様を信じたセツの子孫であると思われます。, 先週、学んだように、人類は二つの流れに分かれました。カインの家系とセツの家系の二つに分かれていたのです。カインの子孫は自分の力で町を作り、人間中心の文化を発展させていきました。一方、セツの子孫は礼拝と祈りを重んじて行きました。素朴ながら、神様を信じる信仰と祈りを受け継いで行きました。彼らは神様と共に歩む生活の中で驚くべき長寿を恵まれました。メトシェラは969年も長生きしました。自然で、素朴な生き方をしているセツの子孫は美しく魅力もありました。ところが、神の子らが人の娘たちを自分たちの妻としました。そこで不敬虔で不道徳な人々が敬虔な人々の娘たちを交わるようになっていたのです。すると、セツの子孫はカインの子孫に影響されました。彼らも不信仰、不道徳な人になって行きました。ついに、世界は神様なしに、十分に楽しくやって行けると考える人々の勢いに圧倒されてしまいました。祈ることを始め、敬虔に生きていた人々でさえ、その人格によってではなく、肉体的、性的な美しさを重んじる世界になってしまいました。人々は生きれば生きるほどに、人として本来あるべき姿を失い、腐敗して行きました。そこで、神様はどう思われましたか。, 3節をご覧ください。「そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう。」と仰せられた。」とあります。神様が創造された人間は神様とともに永遠に生きることができました。しかし、人間が罪を犯した罪のために死ぬべき者となりました。それでも神様は人間に900歳代という長生きを許しておられました。ところが、神様は人間の寿命を120年に引き下げられると宣言なさいました。それは人が肉にすぎないからです。本来、人間は神様との交わることができる霊的な存在として造られました。神様は人のうちにとどまられ、人と交わることを喜んでおられたのです。しかし、肉にすぎない人のうちに神様が永久にとどまることはできなくなってしまいました。長く生きれば生きるほどに、罪をたくさん犯していく人間の現実を見ると、長生きも祝福ではなくなりました。むしろ、寿命を短くした方が恵みであると言えるようになっていました。なぜなら、肉にすぎない人間ばかり増えるし、神様より人間の力を誇る者が増え続けて行くからです。, 4節をご覧ください。「神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。」とあります。人間が腐敗して肉体的な価値観に染まって行くと、その結果としてネフィリムが生まれてしまいました。ネフィリムとは巨大な体の持ち主、巨人族のことです。彼らが昔の勇士であり、名のある者たちでありました。つまり、神様に祈り、神様とともに歩んでいる敬虔な人よりもネフィリムのような人が有力な人になっていたのです。背が高く、体力、財力を持つネフィリム族が勝ち組で、その力が正義となっている時代になっていました。弱き者は見下され、敗者はさげすまれる時代でした。イケメンが好きで神様に祈る人、神様とともに歩む敬虔な人は嫌われるような時代になっていたのです。このように、肉にすぎない悲惨な状態になってしまった人間社会に対する神様の御心はどうでしたか。, 7節をご一緒に読んでみましょう。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」神様は人の悪、いつも悪いことだけに傾く人間、神様から離れて行く人間をご覧になりましたが、あまりにも悲惨な状態でした。11,12節によると、暴虐に満ちていました。すべては神様から離れて行った人間の罪の結果です。だから、私だったら、腹が立って「こんな人間を一気に滅ぼしてしまおう」と思ったでしょう。神様は人に近づき、愛し続けたにもかかわらず、人が神様から離れて行き、堕落してしまったからです。人間は怒られても完全に捨てられても文句を言えない状態になっているのです。だから神様もそのまま置いてしまっても、滅ぼしてしまってもいいのです。しかし、神様はすべてを人間のせいにしませんでした。ご自分が地上に人を造ったことを悔やまれ、心を痛められました。神様は人の罪をご自分のものとして、深く心を痛められたのです。ダメな子、出来の悪い子のために、どこまでも心を痛める父、母のような神様の愛を感じます。, 神様は自分の罪の中にあって、罪の恐ろしさを知らず、かえって罪を誇りとしている人間なのに、その人間に対して寛容だったのです。人間の罪だけを指摘して責めるようなことをなさいませんでした。むしろ、その罪をご自分の問題として悲しみ、心を痛められるのです。ここで、神様の寛容とあわれみを学びます。私たちがどんなに酷い状態に陥っていても、神様は裁判官のように私たちの罪をさらけ出してさばくのではありません。むしろ、私たちの弱さに心を痛められる神様です。しかし、主なる神様は罪や悪と永遠に共存できるお方ではありません。きよく、正しい神様は少しの汚れも共存することはできないのです。きよく正しいお方であるだけに不敬虔や罪に対する怒りも大きいものです。そこで神様の悩み、言葉で言い尽くせない心の痛みがあったことでしょう。この神様の御心を仰ぐとき、「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう」という言葉が私の心に伝わって来ます。その決心の重さがどれほど重かったでしょうか。私には計り知れません。ご自分が造られたものを、ご自分の手で打ち壊さなければならない神様の御心はどんなに痛かったでしょうか。その御心は、アブラハムが自分の子どもイサクを自分の手で祭壇にささげ、殺そうとした時よりもはるかに深かったでしょう。その心痛は罪深い私たちを救うためにご自分のひとり子を十字架につけて死なせる時に通じていると思われます。では、神様がご自分の創造のやりなおしをされようとしておられた時に誰が主の心にかなっていましたか。, 8節もご一緒に読んでみましょう。「しかし、ノアは、主の心にかなっていた。」これは、「しかしノアは主の恵みにかなっていた」と訳することができます。【新共同訳】では「しかし、ノアは主の好意を得た。」と訳しています。ノアは神様の前に恵みを見出していました。つまり、彼は他の人たちと同じく自分の力によって頑張って神様の御心にかなっていたのではなく、主の好意を得ていたのです。その主の恵みによって神様とともに歩む人でした。主の心にかなっていたから恵みを得ていたのか、恵みを得ていたから主の心にかなっていたのか、は卵が先か、鶏が先かと言う問題のようです。ただ、私はノア自身もその時代の人々とは違って神様とともに歩んでいたのですが、神様の好意を得たからこそ主の心にかなっていたと思います。ノアが生きている時代の人々は神様から離れていました。人々は人間の体力、学力、財力、権力などを崇め、愛していました。ほとんどの人が肉欲、物欲の奴隷になり、この世と調子を合わせていました。しかし、ノアはこの世と調子を合わせませんでした。むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神様に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える生活をしていました。それで、彼は神様の御前に好意、恵みを得ていました。神様は彼に御目を留められました。ノアはイケメンではなくても、神様の目には信仰の巨人でした。神様はこのノアに手を伸ばされ、人類の救いのために用いようとされました。人々はノアとその家族に目を留めなかったのですが、神様は彼とその家族に目を留められ、肉にすぎない人々、どうしようもない、救いがたい人類を救うために用いられるのです。このように、神様は今も小さなノアたちを用いてこの日本と世界に救いの手を伸ばされます。ノアのように神様から恵みを見いだして生きようとしている人々を通して救いのみわざを成し遂げて行かれるのです。 私たちが住んでいる日本におけるクリスチャン人口は本当に少ないものです。私たちUBF教会を開拓してから26周年になりました。その間、私たちの教会は成長して来ました。でも、今なお日本のクリスチャン1%の壁を壊すことができませんでした。去年の調査によると、主日礼拝に参加しているクリスチャンは人口の0, 4%であるそうです。だから、私たちクリスチャンは自分の家族の中で自分だけがクリスチャン、学校に行けば、クラスの中でただ一人、学校でもたった一人きりのクリスチャンだという方が多いでしょう。それで、去る26年間、私たちの教会に来られた方たちの中では数多くの方たちがノアのように生きることをあきらめました。100人の中で自分だけがクリスチャンとしてアイデンティティを持って主の心にかなっている生活をすることはやさしくなかったでしょう。 しかし、考えてみればそのような現実があるからこそ、この日本でノアのように生きようとしている人々は神様にもっと喜ばれることでしょう。今はノアの時代のようにイケメンが好きで、美しさばかり求める人々が多いからこそ、神様はノアのように敬虔に生きようとしている人々に目を留めてくださるのです。皆さんには神様の目を留められているのです。これは大きな恵みであり、特権です。そして、神様はノアのような人々を通してこの日本と世界に救いの御手を伸ばそうとされます。それで、今日も、私たちが自分の家族の中で、クラスの中で、学校で、職場で、ノアのように主の前で恵みを得る者として生きることを願っておられます。主なる神様の心にかなっていたノアのように生きることです。では、ノアは具体的にどのような生活をしていましたか。9節をご覧ください。「これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」とあります。正しい人であったというのは神様と正しい関係を持っていたことを意味します。彼はネフィリムのように自分の力を誇るのではなく、神様に頼り、神様に祈りながら神様と交わる生活をしていました。全く神様を信頼して生きていたという点において全き人でした。人々が肉にすぎないほどに堕落した時代にあっても全く神様に頼り、神様とともに歩んでいました。そのように生きることはなかなか難しかったでしょう。この世と調子を合わせず、職場の雰囲気に調子を合わせないと、空気を読めない人間だと言われるでしょう。回りの人々から非難されたり、疎外されたりします。はなはだしくは虐められる時もあるでしょう。ところが、ノアはそのような状況の中でも、罪の文化、世と調子を合わせませんでした。神様の御前で確かな価値観を持って神様の御言葉に従って生きる生活に励みました。99%の人々が飲んだり、食べたりすることを大切にしていても自分は敬虔に生きようとしていたのです。11節を見ると「地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた」ことが分かります。それほど堕落し、暴虐で満ちていてもノアは神様とともに歩んでいたのです。それで、神様はノアにどんな恵みを施されましたか。13, 14節をご覧ください。「そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。あなたは自分のために、ゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟に部屋を作り、内と外とを木のやにで塗りなさい。」とあります。神様はノアに裁きの計画を言われてから箱舟を造るように言われました。そして箱舟の大きさや形やどんな材料を使うかについて詳しく言われました。ゴフェルの木は舟の材料としては最高のものでした。木のやには防水の役割をします。箱舟の長さは約140メートル、その幅は約23メートル、その高さは約14メートルです。総容積は、40, 立方メートル近くにも達し、そこから導き出される排水量は、ほぼタイタニック号にも匹敵するものです。ノアの神様の御言葉に対する畏敬心はどうでしたか。22節をご覧ください。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行なった。」120年後に洪水が起こるから箱舟を準備するように言われた時、それを信じて準備することはやさしくなかったでしょう。また、それを作り上げる作業は大変なものです。ノアはそういう内的外的障害を越えて神様から言われた通りに箱舟を用意する生活をしました。彼は適当に自分の都合に合わせたのはありません。神様が命じられた通りにしたのです。そしてこの箱舟を教会のひな型として見ることもできます。教会は罪に満ちたこの世の海の中に浮かぶ箱舟であるということです。そしてこの箱舟は、神様の御心に従うクリスチャンが作り上げなければなりません。イエス・キリストが来られるその日までは箱舟を作る期間であるでしょう。そして、イエス・キリストを信じる者はだれでもこの箱舟の中に入ることができます。この箱舟に入っていれば、安全です。やがてキリストの再臨の時がやって来ます。その時、この世は、終末のときさばきによって滅ぼされます。しかし、その時、ノアのように生きていた人、神様とともに歩んでいた人は救われます。つまり滅ばないで永遠の命を持つことができるのです。どうか、私たちが忠実に現代の箱舟である教会を作り上げて行きますように祈ります。ノアのように主の御名によって祈り、御言葉に忠実に従いますように祈ります。特に、東京UBF26周年を迎えたこの日、救いの箱舟であるこの教会を作り上げてゆく心を新たにして行きたいと思います。私たちひとりひとりがノアのように生きようと信仰の決断をして神様とともに歩んで行きましょう。主の心にかなっていたノアのように生きることを決断して行きましょう。どうか、全く神様に信頼する全き人として御言葉に忠実に従いますように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。