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14Genesis13M アブラハムは必ず大いなる強い国民となる

14genesis13m アブラハムは必ず大いなる強い国民となる, 2014年創世記第13講, 金ヨハネ宣教師,                               , アブラハムは必ず大いなる強い国民となる御言葉:創世記18章、19章要 節:創世記18, アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。先週私達は李ヨシュア宣教師が伝えたメッセージを通して主がアブラムとサライの名前をアブラハムとサラに変えてくださったことを学びました。二人の名前は一文字変わっただけですが、その意味は大きく変わりました。私も日本に来る時には名前がヨナでしたが、その後、ヨハネに変わりました。ヨナとヨハネは名前が似ていますが、イメージは全く違うでしょう。神様はアブラハムとサラが多くの国民の父と母となると言われました。それは年老いた彼らの人間条件を考えると不可能なことですが、全能の神様なら不可能なことではありません。全能の神様は私達にも大きなビジョンを置かれ、アブラハムとサラのように育てておられると思います。私達を通してこの国に星のように数多くの信仰の子孫を増やしてくださるように祈ります。今日の御言葉にはアブラハムとロトの話が出ています。彼らは一緒に信仰生活を始めました。ところが、彼らが結ぶ実はかなり違いました。彼らの信仰生活にどんな違いがあったでしょうか。, 今日の御言葉を通してアブラハムの信仰生活について学ぶことができるように祈ります。第一に、アブラハムは仕える人でした。18, 1節を見ると、主は今まではアブラハムに幻のうちに現われ、仰せられましたが、今度は人の姿で現われました。アブラハムは日の暑いころ、天幕の入口にすわっていました。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていました。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をしました。アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言いました。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」一セアは約十三リットルです。三セアは、三人の客人のためには余りに大量です。そして牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡しました。若い者は手早くそれを料理しました。それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した子牛を持って来て、彼らの前に供えました(6, 8)。凝乳は固まった牛乳、つまりヨーブルトのようなものです。アブラハムは旅人を心から歓迎し、最高のもてなしをしました。サラと若者達も一言も文句を言わず、素早くもてなしをするのを見ると、アブラハムの家庭の人々が皆喜びを持ってもてなすことがわかります。アブラハムの心の豊かさはどこから来たのでしょうか。彼が金持ちだったからでしょうか。この世の中には金持ちであっても心が狭くてけちな人々がいくらでもいます。彼らは豊かさの中でも貧しい人々です。人々の中には金をもうけるのはよくできるが、その金をどう使うべきかはよく知らない人々が多くいます。自分のために、あるいは快楽のためには惜しみなくお金を使いますが、他の人のためにはけちです。アブラハムは訪ねて来たお客さんのため惜しみなくもてなしをしました。アブラハムのこのような豊かさは、信仰によって生きる生活から来たと思います。神様との交わりによって彼の心も豊かになっていました。3月に韓国から申サラ牧者が来日して私の家に1週間泊まりました。金サラ宣教師は彼女と一緒に東海ubfを訪問しました。東海センタの宣教師たちはlサイズのピザ、高いすしなど美味しい食べ物をたくさん用意してもてなしてくれたそうです。彼らは金持ちではありませんが、喜んで迎えて豊かな心でもてなしてくれました。申サラ牧者は日本の宣教師達に仕えるために自費で来日しました。そして、東京ubfと東海ubfの奥様たちと聖書勉強を通して交わりました。奥様達を食事に招いてもてなしてくれたそうです。彼女はいつか世界を回りながら聖書を教えるビジョンを持って、今まで聖書や英語を勉強して来たそうです。そして、60歳を過ぎると世界を回りながら聖書を教えています。私が26年前、韓国にいた時の彼女に対する印象はあまりよくありませんでした。冷たい感じがしたので、彼女とあまり話し合った記憶もありません。それでサラ宣教師が彼女を家に泊まらせようとした時も、心から喜んではいませんでした。ところが、26年が経って会った彼女は変わっていました。以前感じていた冷たさはなくなり、心が豊かな人、仕える人になっていました。彼女はサラ宣教師に私に対する印象も言ったそうです。私もかなり変わったと言ったそうです。信仰によって主とともに歩む人は自分も知らないうちに新しく変わって行きます。心が豊かな人、仕える人として変わって行きます。いつもともに生活している人は変わった様子がよくわかりませんが、久しぶりに会うと、それが分かります。アブラハムも年月が経つにつれて仕える人、心が豊かな人として変わって行きました。アブラハムから豊かなもてなしを受けられた主はアブラハムに良い知らせを伝えてくださいました。10節をご覧ください。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていました。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていました。それでサラは心の中で笑ってこう言いました。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(11, 12)。常識的に考えるとアブラハムとサラが子どもを産むことは不可能なことでした。100歳と90歳の老人に「あなたは子どもを産む」と言ったら笑うしかないでしょう。そこで、【主】がアブラハムに仰せられました。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言って笑うのか。【主】に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」(13, 14)。神様は年寄りのアブラハムとサラを笑わせる方です。神様は人の考えや想像を超えて働かれる全能の神です。この方に不可能なことはありません。創世記21章を見ると、百歳のアブラハムと九十歳のサラの間に男の子、イサクが生まれました。第二に、アブラハムは祈る人でした。17,18節をご一緒に読んでみましょう。「【主】はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。」神様は御自分がなさろうとすることを隠さずにアブラハムに知らせました。とても親しい関係でなければ、大事な話はしません。本音は言えません。もし、日本の総理が「○○さん。大事な話があります。これから消費税を5%から8%に上げたいと思っていますが、○○さんの考えはどうすか」と聞いたらどうでしょうか。総理がそれほど○○さんを信頼しているという証拠でしょう。神様はアブラハムを信頼してご自分がなさろうとすることを隠さずに教えてくださいました。神様はアブラハムを親しい友達のように思っておられたのです。神様と友達のように親しくなり、交わる人はなんと幸いな人でしょうか。私達は、神様と交わりを持つために造られました。これは、人間だけに与えられている特権です。神様は私達と親しい交わりを持つ事を願っておられます。アブラハム、モーセ、ダビデなど、神様に用いられた人たちはみな、神様の御声を聞き、神様に祈る人でした。神の御子イエス様もいつも祈っておられました。私達は祈りを通して神様と交わることができます。祈りを通して神様の御心を知ることができます。祈りを通して力を得ることができます。神様との交わりによって私達は霊的に成長することができます。 ソドムとゴモラを神様が裁こうとしておられることを、アブラハムは主の語りかけによって明確に知りました。それを知ったアブラハムは悪い者は裁かれて当然だと思いませんでした。彼はそこの人々のためにとりなしを始めました。彼の祈りは無条件要求する祈りではありませんでした。23、25節をご覧ください。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」「正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」彼は公義を行なう神様に対する強い確信がありました。そればかりではなく、正しい者を愛し、その正しい者のために悪い者達も赦してくださる神様を信じました。アブラハムはわずかの正しい者の存在を期待し、神様がソドムを滅ぼすことを中止され、それによってロトたちも助けられるように願っていたでしょう。主は彼の切なるとりなしの祈りに答えられました。26節をご覧ください。「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」ところが、アブラハムはソドムに50人の正しい者がいる確信が持てなかったのか、必死的に正しい者の数を減らし始めました。50人から45人、40人から30人、30人から20人、20人から10人まで減らしました。金サラ宣教師はこのようにしつこく祈るアブラハムがまるで韓国人みたいだと言いました。なぜなら、韓国人はものを買う時、よく「まけてください」と値切るからです。アブラハムは韓国人が値切るように、しつこく神様に祈り求めました。また、彼の祈りの姿勢は謙遜でした。彼は自分がちりや灰に過ぎない存在であることを知っていました。彼には牧者の心情が溢れていました。彼の心の中にはおいロトを考えていたでしょう。神様はこのようなアブラハムの祈りを全部聞いてくださいました。32節をご覧ください。「主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。もしやそこに十人見つかるかもしれません。」すると主は仰せられた。「滅ぼすまい。その十人のために。」神様は彼が何度も正しい者の数を減らしたことで怒りませんでした。神様はソドムに十人の正しい人がいれば全部を赦そうとしました。しかし、ソドムとゴモラは滅ぼされてしまいました。ソドムの人たちの間には、十人の正しい人がいなかったことを示しています。それではアブラハムの祈りは無意味だったでしょうか。19, 29節はこう言っています。「こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。」ロトと彼の家族も滅ぼされるしかありませんでしたが、アブラハムのとりなしによって救われたのです。 ここで正しい者の重要性を学ぶことができます。残念ながらソドムに十人の正しい人がいなかったので神様の裁きを受け、滅んでしまいました。もしロトが自分の家族と一緒にマンツーマン聖書勉強をして一人の弟子を養ったなら10人は十分な数でした。これを考えて見ると、一つの国の裁きと救いの分かれ道は政治家や企業家ではなく正しい人であることがわかります。神様は正しい人を尊く思われ、正しい人を中心に働かれます。神様は常に十人の正しい人を求める方であり、そのゆえにいっさいの誤りや欠点を赦してくださる方です。だから大切なことは、みんなが良くなることではなく、まず私が正しく生きることです。正しい人とはアブラハムのように神様と共に歩む人です。信仰によって生きる人です。この国のクリスチャン人口は全国民の一パーセントにもなってないと言われています。とても少ないと思うかも知れません。しかし、一パーセントにもならないクリスチャンでも信仰によって、神様の御前で歩む人、つまり正しい人がいるかいないかはとても大切なことです。私達クリスチャン一人一人が神様の御前で正しい者として生きるように祈ります。主はその正しい人を見て「滅ぼすまい。その人々のために」と言われるでしょう。私たちひとりひとりがこの国を神様の裁きから守る正しい者となるように祈ります。また、アブラハムのようにこの国の救いのために切に祈る者となるように祈ります。 信仰によって、アブラハムは約束された地に他国人のようにして住み、天幕生活をしました。一坪の土地も所有していませんでした。ところが、主はアブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。アブラハムによって形成される国民は主の道を守り、正義と公正を行います(19)。神様を愛し、神様の御言葉に聞き従います。主は今も主の道を守り、正義と公正を行う人々を祝福してくださいます。そして、彼らを大いなる強い国民とし、地のすべての人々を祝福してくださいます。私達が主の道を守り、主とともに歩む生活ができるように祈ります。19章にはアブラハムの甥であるロトの話が出ています。彼はアブラハムに比べると若くて将来性がある人でした。彼は伯父さんのアブラハムと一緒に信仰生活を出発しました。彼はどんな人生を生きたでしょうか。彼はどんな実を結んだでしょうか。19:1, 3をご覧ください。ロトはふたりの御使いを迎えてもてなしました。ところが、アブラハムのお客の迎え入れと比べて見ると、けちのように見えます。アブラハムは天幕で暮らしていましたが、ロトは家に住んでいました。アブラハムには柔らかくておいしそうな小牛が思い出しますが、ロトはかたいパン種を入れないパンが思い出します。ロトはパン種を入れないパンを焼いて食事をしました。彼の妻と娘たちや婿たちがお客さんをもてなすために何かをしたという記録もありません。アブラハムから見ることができる暖かさ、快く迎えること、豊かさが見えません。御使いたちも彼のもてなしを快く思われなかったのか、「いや、わたしたちは広場で泊まろう」と言いました。ロトのようなもてなしを受けると、食べ物がのどをよく通りません。彼はこの世と調子を合わせながら生活をしていたので心の余裕も豊かさもありませんでした。4, 9節を見ると、ソドムの人々がどれほど堕落していたかが分かります。二人の御使いがソドムに着くと、若い者から年寄りまで、すべての人が、集まって来ました。彼らは御使いから御言葉を聞くために来たでしょうか。いいえ。彼らはロトに向かって叫んで言いました。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」彼らが「よく知りたい」と言っていることは同姓とのセックスをすることを意味します。これを見ると、ソドムの若い者から年寄りまでどれほど性的に堕落していたかがわかります。彼らの目には御使い達がイケメンに見えたようです。彼らは肉の欲のままに生きていました。ロトはお客さんの安全と引き換えに、自分の二人の娘を連れて来るから、好きなようにするように言いました。こんな親がいったいどこにいるでしょうか。これを見るとロトもソドムの人々の影響を受けて世俗的になっていたことがわかります。しかし、町の人々はロトの言うことを聞かず、「さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう」と言いながらロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来ました。すると、御使いたちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめました。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てました(9, 11)。御使いふたりはロトにソドムとゴモラを滅ぼそうとしていることを知らせ、身内の者をみな、この場所から連れ出すように言いました。そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言いました。「立ってこの場所から出て行きなさい。【主】がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われました(14)。ロトの言葉には権威がありませんでした。子ども達さえ無視してしまいました。ソドムから離れたところに住んでいたアブラハムはソドムの人々のために切に祈りました。しかし、ソドムに住んでいたロトはどうでしたか。彼はソドムとゴモラが滅亡するという話を聞いても家族や人々の救いのために祈りませんでした。御使いたちはロトを促しましたが、ロトはためらっていました。なぜ彼はためらったでしょうか。ロトはアブラハムと別れる時にも持ち物が多くありました。ソドムに住んでからはもっと財産が多くなっていたでしょう。それで彼は羊の群れ、立派な家など多くの財産を捨てて行くのをためらっていたでしょう。もうすぐソドムが滅ぼされるのに、彼は世のものに心が縛られていました。滅亡が迫っていたのに、彼はこの世のものをとても愛していました。このままためらっていたら、ロトは家族と一緒に滅ぼされてしまったでしょう。しかし、御使いたちは強制的に彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんで連れ出し、町の外に置きました。それは主の彼に対するあわれみでした。アブラハムの祈りを聞いてくださったからでした。神様はソドムとゴモラの上に、硫黄の火を天の【主】のところから降らせ、これらの町々と低地全体と、その町々の住民と、その地の植物をみな滅ぼされました(19:24, 25)。ソドムとゴモラは主の園のように、どこもよく潤っていました。人々は物質的に豊かに暮らしていたでしょう。しかし、その国は堕落していたので、神様によってみな滅ぼされました。審判の知らせを冗談のように思ったロトの婿達も滅ぼされました。性的に堕落した若い者から年寄りも滅ぼされました。その地の植物も、動物もみな滅ぼされました。神様のさばきは徹底的に行われました。イエス様は次のように言われました。「また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました(ルカ17:28, 29)。26節をご覧ください。ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。御使いはロトの家族を外のほうに連れ出した時、こう言いました。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」ところが、ロトの妻はソドムに残して来た物、家にある財産を惜しむ心があったでしょう。それを考えるうちに自然に頭がうしろを振り向いてしまいました。神様のあわれみによって救われたのにもう一歩のところで御使いの警告を犯して塩の柱になってしまいました。イエス様はルカの福音書17章でさばきの日との関連で「ロトの妻を思い出しなさい」と言われました。この世のものに心が縛られている人はロトの妻のことを考えなければなりません。ロトの娘達も親の影響を受けて世俗的でした。娘達はロトに酒を飲ませ、いっしょに寝て、子供を産みました。近親相姦は聖書で禁じている罪です。彼女達が産んだ子供はモアブ人とアモン人になりました。モアブ人とアモン人は、イスラエルの歴史上最悪の性の誘惑と宗教的冒涜につながる存在になりました。彼らは神様に敵対する民族になりました。ロトが結んだ実は悲惨なものでした。主の道を守らず、正義と公正とを行なわず、この世と調子を合わせて生活したロトは悲惨な実を結びました。今日はアブラハムの信仰生活とロトの生活について学びました。アブラハムは仕える人でした。祈る人でした。神の国を望みながら地上では聖なる旅人として生活しました。彼は信仰によって生きる人でした。神様は彼が必ず強い大いなる国民となると約束してくださいました。地のすべての国々は、彼によって祝福されると言われました。その通りにアブラハムは神様に祝福され、豊かな実を結ぶ人生となりました。彼の子孫の中からイサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ダビデ、そして人類の救い主、イエス・キリストが生まれました。反面、ロトはこの世と調子を合わせて生きていました。地上のものに心が縛られた生活をしました。彼は祈りの人ではありませんでした。彼は恥ずかしい結末を迎えました。彼は悲惨な実を結びました。皆さんは今日の学びを通して自分が誰に似ていると思ったでしょうか。どんな人生を生きたいと思ったでしょうか。昨日夜明けの祈りの時間に歌った曲の歌詞が今日の御言葉で私が伝えたかったことをよく表現していたので、皆さんに紹介します。「1.キリストの御言葉の中にとどまり続けるなら、私達はキリストの心を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 2.十字架のキリストの愛にとどまり続けるなら、私達はキリストの恵みを教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。 3.愛し合う交わりの中にとどまり続けるなら、私達はキリストの愛を教えられ、励まされ、振り向くとそこに豊かな実りがある。」皆さん。自分の人生を振り向いた時、そこに何があるでしょうか。ロトはたぶん虚しさ、罪による実りしかなかったでしょう。しかし、信仰によって生きたアブラハムには豊かな実りがありました。私達がアブラハムのように仕える人、祈る人となりましょう。子ども達に主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるようにしましょう。この国の人々のためにとりなしの祈りを捧げ、時が良くても悪くてもしっかり主の御言葉を宣べ伝えましょう。すると、主は私達を必ず祝福し、私達を通してこの国を生かし、祝福してくださることを信じます。振り向くと、自分の人生に豊かな実りがあることに気づく時が来ると信じます。

14Genesis15M 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム

14genesis15m, 一人子さえ惜しまずささげたアブラハム, 2014年創世記第15講一人子さえ惜しまずささげたアブラハム御言葉:創世記22, 23章要, 節:創世記22:12御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 先週、行われたイースター修養会を大きく祝福してくださった神様に心から感謝します。何よりも私たちの罪を赦し、贖うために十字架にかかって死なれ、葬られましたが死者の中からよみがえられた私たちの主イエス・キリストの御名を賛美いたします。 今日からは再び創世記に戻ります。先々週までアブラハムの人生を見て来ました。彼は神様から「あなたは祝福となる」という約束をいただきました。でも彼は「祝福の人生」だとは言えないような歳月を過ごしました。決して平坦ではありませんでした。むしろ試練の連続だったとも言えます。75歳にして自分の生まれ故郷を離れて行きました。飢饉に直面する時もありました。愛する人ロトとの別れがあり、ロトのために戦争に巻き込まれることもありました。女奴隷ハガルのことで夫婦の危機に見舞われたこともありました。特に神様から約束された子どもが25年間も生まれませんでした。ほんとうに山あり谷ありの人生の中でさまざまな試練が彼を襲っていたのです。漸く約束の子イサクが生まれたのは、アブラハム100歳の時でした。その後も先に生まれていたイシュマエルの問題がありました。アブラハムの人生に試練が続いていたのです。ところが、またも神様はアブラハムを試練に会わせられました。この時間、アブラハムが経験した試練を通して神様への愛と信仰を学びたいと思います。また、私たちのために備えてくださる神様を学びたいと思います。22章1節をご一緒に読んでみましょう。「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。」とあります。「これらの出来事」とは21章に記された出来事です。神様の約束の通りに、イサクが生まれました。それはアブラハム夫婦にとって大きな喜びでした。アブラハム夫婦の不信仰によって女奴隷ハガルから生まれたイシュマエルの問題も神様の助けによって解決されました。それで、アブラハムは長い間ペリシテ人の地に滞在しました, 。その間にイサクはすくすくと成長したことでしょう。6節を見るとアブラハムはイサクに全焼のいけにえのためのたきぎを負わせています。それほど大きくなっていることでしょう。自分のことを思いだしてみると、父からたきぎ、お米、お魚などの荷物を負わせられたのは中学生の時でした。その頃、私が父と一緒に歩いていると、周りから「もう大きくなったね。お父さん。いいね。」とよく言われました。すると、お父さんは幸せそうに笑っていました。イサクも中学生の年齢になっていてアブラハムはイサクの成長を喜び、幸せを感じていたと思われます。ところが神様はアブラハムを試練に会わせられたのです。2節をご覧ください。「神は仰せられました。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」とあります。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」と言うのが神様からの命令です。単に「子どもを連れて山に行って祈りなさい」とか、「子どもを厳しくしつけなさい」というような命令ではありません。「子どもを連れて行って殺せ」という命令です。しかも全焼のいけにえとして殺すことです。「全焼のいけにえ」とは言葉の通りに全部焼いて煙にしてささげるものです。人が牛や羊を全焼のいけにえとしてささげるときは、まず動物の頭の上に手を置いて殺します。その後その血を祭壇の周りに注ぎかけます。そして、その動物の皮をはぎ、各部分に切り分け、内臓と足は水で洗います。それから全体が全部灰と煙になるまで徹底的に焼き尽くすのです。ところが神様はアブラハムにそのようなささげ方でアブラハムを神様にささげるように命じられたのです。親にとってこれほど残酷な、非人間的な行動があるでしょうか。全く常識では考えられないことです。アブラハムにとってもこれほど残酷な試練はないでしょう。まったく理解に苦しむところです。では、なぜ神様はこんな残酷なことをお命じになったのでしょうか。何のためにアブラハムをこんなに酷い試練に会わせられるのでしょうか。私は本文の御言葉を黙想しているうちに二つのことを考えられました。一つ目はアブラハムに神様を第一に愛することを確かめ、その愛を持たせるためです。神様を第一に愛しているかどうかを試してその愛を持つように訓練するのです。だから試練です。神様は、イサクという子が「あなたの愛している子」であることをご承知でした。イサクはアブラハムが100歳にしてやっと神様からいただいた子どもでした。しかも、彼の正妻サラとの間に生まれた唯一の子どもです。目の中に入れても痛くないほど愛していたのは言うまでもありません。さらに加えて、イサクの誕生は神様の約束の成就であったし、奇跡的な出来事でした。アブラハムはイサク誕生を通して特別な経験をしたのでいつでもどこでもイサクは神様からの素晴らしい贈り物だと証することができたでしょう。そのイサクをささげよ、というのが神様の命令なのです。ここで、神様はアブラハムに神様が与えてくださったイサクを第一に愛するか。それともイサクを下さった神様を第一に愛するかを確かめておられるのです。つまり、「アブラハムよ。おまえはわたしからの贈り物にいつまでも執着するのか。それとも贈り物の贈り主なるわたしにとどまるのか」という問いかけです。神様は私たちに対しても、「あなたは何を第一に愛しているか」と問いかける時があるでしょう。私たちにも神様から与えていただいたものがあります。それはそれで大変尊いものです。家族も、財産も、素晴らしい信仰的な経験も、一つ一つが神様からの贈り物です。それらを尊く思って感謝し、愛するべきでしょう。しかし、そのような賜物や信仰の体験は私たちが第一に愛する対象ではありません。私たちが第一に愛するべき対象は創造主であられる神様です。私たちは心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を第一に愛しなければなりません。神様は聖書全体を通して神様がご自身が私たち人間をどんなに愛しておられるかを教え、私たちが神様を第一に愛することを求めておられます。ですから、この時間も神様は私たちに仰せられます。「アブラハムよ。ダニエルよ。マリアよ。あなたは何を第一に愛しているのですか。」二つ目は神様を恐れる信仰を確かめ、その信仰を持たせるためです。神様を恐れる信仰を試してその信仰を持つように訓練されたのです。神様はイサクがひとり子であることをも承知の上でアブラハムに命じられました。「ひとり子」とはどういう意味でしょうか。言うまでもなく「一人しかいない子」という意味です。アブラハムの場合、それ以上の意味があります。アブラハムには二人の子がおりました。イサクとイシュマエルです。そのイシュマエルは「奴隷の子があなたの相続人となってはならない」ということで追い出されました。約束の子イサク一人だけが残されたわけです。神様は「そのイサクをささげなさい」と命じられたのです。すなわち「あなたの子孫は海辺の砂のように、空の星のように数多くなるであろう。あなたから出る子孫が多くの国民となる」という約束を担うたったひとりの子、そのイサクをささげなさいというのが神様の命令だったのです。これは神様を恐れる信仰がなければ従えません。神様を恐れることができず、少しでも疑いがあれば「これこそ残酷だ、裏切りだ、非人間的だ」と騒ぎ立てるでしょう。神様はアブラハムがほんとうに神様を恐れているかを確かめ、その信仰を確実に持たせようとされたのです。それでは神様の命令に対するアブラハムの反応はどうでしたか。3節をご覧ください。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクといっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。」とあります。アブラハムは信じられないほど淡々と行動しています。何も大騒ぎしていません。黙々と、すべきことをしている姿が浮かびます。翌朝早くから行動するアブラハムから「さすがにアブラハムだなあ」とも思われます。羊や牛などを全部焼いて煙にするほどのたきぎだからかなりの量だったでしょう。それを割ったことを考えると、額から流れる汗をあごからポタポタ落としていたことでしょう。それでも何もしゃべらず、神様から言われた場所に着くまで三日も歩き続きました。三日目にアブラハムが目を上げると、神様がお告げになったその場所がはるかかなたに見えました。それでアブラハムは若い者たちにろばといっしょに残るようにしました。そして全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをイサクに負わせました。息子自身にたきぎを背負わせるときのアブラハムの心はどうだったでしょうか。それも痛々しい限りです。アブラハムは火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行きました。この姿を見ると、アブラハムは「イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい。」という命令を、残酷だ、非人間的だという感情的なレベルでとらえていません。アブラハムはそれを「神様への礼拝」として受け止めていました。だから、彼は若い者たちに「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところの戻って来る」と言ったのです。モリヤの地に向かう途中で、イサクは父アブラハムに話しかけて言いました。「お父さん。火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」この時、父親のアブラハムは何と答えたらいいでしょうか。なかなか悲しみを押さえることができなかったでしょう。泣き出しそうになったのではないでしょう。しかし、彼はイサクの質問に対して「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」と答えました。何と素晴らしい信仰の答えでしょうか。神様が備えてくださると信じ切っています。それに対してイサクもイサクです。「それはどういう意味ですか。どうしてそれが分かるんですか。」とも言える場面です。しかし彼は何も言っていません。父親を信頼し切っています。親子が互いに信頼し切っています。素晴らしい親子関係です。9節をご覧ください。神様が告げられた場所に着いた時、アブラハムはその所に祭壇を築きました。その上にたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置きました。その時、イサクは反発して逃げることもできました。たきぎを負わせられるほどの力もあったからこそ反抗もできたのです。しかし、イサクは反発せず、親の指示、神様の御心に従いました。イサクの信仰と従順を見ることができます。それは父なる神様に対するイエス様の姿勢を思い浮かばせてくれます。イサクの従順はやがて神の御子イエス・キリストが神様の小羊として黙々と神様の御心に従われたことを象徴しているのです。10節をご覧ください。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。ここですでにアブラハムはイサクを殺していると思います。いや、全焼のいけにえとして神様に捧げ切ったのです。彼はイサクを捧げることによって、自分自身を神様に全く捧げ切ったのです。アブラハムがまさにイサクをほふろうとしたその時、主は主の使いを通してアブラハムに呼びかけました。「アブラハム。アブラハム。」。刀を振り上げ、今にも振り下ろそうとしているアブラハムに対して神様は、「ストップ!」とは言われませんでした。「アブラハム、アブラハム」と二度名前を呼ばれました。ここで神様はアブラハムの名を2回呼んでいます。今までも神様がアブラハムの名を呼ばれることは何度もありました。でも2回も呼んだことはありませんでした。今回は「アブラハム、アブラハム」と二回も呼んでいます。それほど事態が緊迫していたことでしょう。その緊迫感が伝わって来ます。主は彼がイサクを主にささげたと認められるまでは黙っておられました。しかし、神様を第一に愛し、神様を恐れるアブラハムの信仰を確認した時には二度も彼の名前を呼びました。12節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは仰せられました。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」神様は神様を恐れるアブラハムの信仰を受け入れてくださいました。神様はアブラハムがまさしくひとり子イサクをささげたと見なしてくださったのです。 13節をご覧ください。アブラハムが目を上げて見ると、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいました。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげました。アブラハムはその場所を名付けて「アドナイ・イルエ」、つまり「主が備えてくださる」と呼びました。これはアブラハムの信仰告白です。アブラハムの信仰に対してヘブル人への手紙の著者はこう言います。「信仰によって、アブラハムは、試みられた時イサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。」アブラハムの行為は、神様がご自身のひとり子、イエス・キリストを死に渡し、三日目によみがえらせたことを指し示す「型」であると言われています。神様は信仰によって生きる人々の「アドナイ・イルエ」の神様です。神様は信仰によって生きる人々の必要なものを備えてくださる方です。アブラハムは今回のことを通して「主は常に私たちを見守り、最善のものを備えていてくださる」ということを経験し、確信したでしょう。ほんとうに、アブラハムのように神様を第一に愛し、神様を恐れる人には必ず神様が最善のものを備えていてくださいます。神様はアブラハムが「アドナイ・イルエ」という真理を体験し、それがもととなって「主の山に備えあり」という言葉が人々に覚えられるようになるために、この試練を与えられたということにもなるわけです。「主の山に備えあり」という真理はそれほど大事なのでしょうか。私自身も経験して来た真理です。皆さんもご存知のように私の長男は中学校まで韓国学校で勉強をしたので都立の戸山高校は遠く感じられました。ところが、私は説明会の時に神様から「主の山に備えあり、戸山にも備えあり」と言うことが示されて確信し、挑戦することができました。その結果長男が卒業することだけではなく次男も戸山高に通っています。「アドナイ・イルエ」は今の真理なのです。 16, 18節をご覧ください。神様はアブラハムに対する祝福を確証されました。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 ここで、私たちは神様の約束がアブラハムの従順を通して成就して行ったことを学ぶことができます。アブラハムが神様を愛し、恐れて神様の御声に聞き従った時に主は彼に祝福を注いでくださいました。神様はアブラハムとの約束にアブラハムの神様への愛と信仰による従順も求めておられたのです。神様はアブラハムの愛と神様を恐れる信仰を見てアブラハムの子孫を、空の星、海辺の砂のように増し加えると言われました。また、将来キリストを通して与える敵に対する勝利と救いの祝福も啓示してくださいました。神様はアブラハムの子孫であるイエス・キリストの十字架と復活によって罪と死の力を打ち破り、地のすべての人々が祝福を受けるようにしてくださいました。アダム一人の不住順によって人々は罪と死に支配されるようになりました。しかしアブラハムひとりの従順によって救いのみわざは始まり、さらにイエス・キリストの従順によって救いのみわざは完成されました。 23章にはサラの死に関する記事です。そこにも神様の備えがありました。それでアブラハムは自分の妻サラをカナンの地にある、マクペラの畑地のほら穴に葬ることができたのです。以上を通して私たちは神様への愛と信仰、神様の備えを学びました。どうか、日々の生活の中で神様を第一に愛し、神様を恐れる生活ができるように祈ります。神様は私たちのためにベストを備えておられることを信じて今週も力強く信仰によって生きるように祈ります。

14Genesis22M べテルに上って行こう

14genesis22m べテルに上って行こう, 2014年創世記第22講                                            べテルに上って行こう御言葉:創世記34:1−36, 43要 節:創世記35:3「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」今日は父の日, 一家を支えてくれる父親に感謝する日, です。昨日、ブドウの木フェローシップではお父さんたちのために手巻き寿司を用意していましたが素晴らしいですね。父親である方たちにお祝いを申し上げます。私も父親のひとりですが、それよりも自分の父親が思い出されます。ほんとうに一家を支えてくれる父親でしたが、私はあまり親への感謝の表現がよくできませんでした。皆さん、両親が生きている間によく感謝することをお勧めします。私たちクリスチャンは天国でも会えますが、この地にいる間も父母を敬うことは神様から与えられた戒めです。今日の御言葉は、神様が娘と息子たちのことで困っている父親を助けてくださった出来事です。ヤコブは一家を支える父親です。でも、まだ子どもたちから尊敬されていなかったようです。子どもたちは自分勝手に行動して父親を悩ませ、困らせました。娘が性的暴行を受け、息子たちが住民の男たちを殺した事件が起こったのです。それはヤコブがベテルまで行かずシェケムに留まっていたから起こった問題でもありました。ところが、憐れみ深い神様はそんなヤコブでも助けてくださいます。では神様は困っているヤコブをどのように助けてくださったでしょうか。ここで、私たちは困っている時はどうするべきか、自分の力では解決できないような問題に対してどうすればいいのかと言うことについて学ぶことができます。34章1節をご覧ください。「レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを訪ねようとして出かけた。」とあります。ディナは、13歳から15歳の少女だったと考えられています。好奇心の旺盛な年頃でしょう。彼女はその土地の娘たちを訪ねようとして出かけました。多分祭りの時であったと思います。カーニバルベイビーという言葉がありますが、クリスチャンはいつも敬虔に生きるために注意しなければなりません。ところがシェケムに留まっていたヤコブの家庭が敬虔さにおいて緊張していなかったようです。箴言4章4, 5節を見ると「悪者どもの道にはいるな。悪人たちの道を歩むな。それを無視せよ。そこを通るな。それを避けて通れ。」とあります。ディナは悪者どもの道にはいってしまいました。結局、少女のふとした好奇心がとんでもない災禍をもたらすことになります。ディナが出かけるとその土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムに見られました。シェケムはディナを見て、これを捕らえ、これと寝てはずかしめました。つまり、ディナは性的暴行を受けたのです。ただシェケムはディナを愛していました。聖書に「心をひかれ、この娘を愛し、ねんごろにこの娘に語った。」とあります。シェケムはその愛のゆえに、父のハモルに「この女の人を私の妻にもらってください。」とお願いしました。いわゆる、できちゃった結婚を求めたのです。この事態がヤコブとヤコブの息子たちに知らされました。その時にヤコブと息子たちの反応はどうでしたか。5, 7節をご覧ください。ヤコブはシェケムが自分の娘を汚したことを聞きましたが息子たちが帰って来るまで黙っていました。なぜヤコブは黙っていたでしょうか。それはあまりにも大きい悲しみと痛み、あまりにも恥ずかしいことなので人に言えない恥の沈黙だったでしょう。しかし、ヤコブの息子たちはディナのことを聞いた時、心を痛めるだけではなく、ひどく怒りました。シェケムが妹のディナと寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからです。事実、シェケムの人々ができちゃった結婚をしていても神様を信じている人々には許されないことでした。倫理意識が低いシェケムでは許されていたようでハモルはシェケムがディナを恋い慕っているから互いに縁を結びましょうと言いました。しかし、ヤコブの子どもたちには許せるような問題ではありませんでした。ヤコブの息子たちには理解できないことでした。そこで彼らはシェケムとその父ハモルに答えるとき、悪巧みをたくらみました。結婚によって一つの民になりましょうと言って若者たちに割礼を求めました。すると、町の門に出入りする者はみな、割礼を受けました。ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けたのです。割礼を受けることは包茎手術をすることだから傷つけることになります。そして、手術の日だけではなく、傷が直りまで痛みが続けます。ところが、包茎手術する人は三日目になると一番傷が痛むそうです。ヤコブの息子たちは割礼を受けているからそれを知っていて悪巧みをたくらんでいました。しかし、ハモルの息子たちがそれを知りません。割礼を受けてちょうど三日目になるともっと痛くなることを感じるだけです。ところが、ヤコブの息子たちは彼らを攻撃しました。特にヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺しました。その結果、ヤコブはどうなりましたか。30, 31節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブはシメオンとレビに言った。「あなたがたは、私に困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。」彼らは言った。「私たちの妹が遊女のように取り扱われてもいいのですか。」」とあります。ヤコブは困ってしまいました。黙っていた娘の恥がみんなに知らされるようになりました。カナン人とペリジ人からは憎まれ者になってしまいました。その上、ヤコブの家族は少人数しかいません。シェケムの住民がヤコブを攻め、打つなら、ヤコブだけではなく、彼の家族も根絶やしにされます。悪巧みを企んで復讐をした息子たちを非難し、責めることもできません。性的暴行は神の民イスラエルにとって汚れた行為であり、恥ずべきことだからです。敬虔なイスラエル人にとって決してしてはならないことです。そのことをした者は神様の裁きを受けて殺されねばならないのです。そういう意味で息子たちの復讐は当然のことなのです。このような状況でヤコブはどうしたらいいでしょうか。あれもこれもできない状態です。全く解決策が見えません。ほんとうに困ったものです。神様はそんな彼をどのように助けてくださいましたか。35章1節をご一緒に読んでみましょう。「神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたの兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。」ヤコブは娘が受けた性的暴行、住民の復讐のことで困っているのにそれに対する具体的な解決策は何も言われませんでした。「乱暴な子どもたちを注意しなさい」と言うことでもなく、シェケムの人たちと戦う秘訣を教えたのでもありません。直面している問題に対しては何も言われませんでした。ただ、霊的方向を与えてくださいました。神様はヤコブに「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。」と命じられたのです。「立ち帰れ。」と言うことです。どうしてでしょうか。それは目に見える現実的なことよりも神様との関係性の回復が最も大切であるからでしょう。特にベテルはヤコブが初めて神様と出会ったところです。夢の中で神様を体験したところです。そこで神様は「見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。, 」と約束してくださいました。そこでヤコブは「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言いました。ヤコブはベテルで神様と出会い、約束の御言葉をいただいて神様との関係性を結んでいたのです。その約束の御言葉を堅く信じてベテルまで行くべきでした。ところが、彼はシェケムに留まりました。神様の御言葉を思い出すこともなく、シェケムの人々と交わっていました。シェケムの族長から信頼されることを喜び、彼らと調子を合わせていました。34章を読んでみるとシェケムでの生活の中に「神、主」と言う言葉が出て来ません。彼はシェケムの人々と調子を合わせながら熱くも冷たくもない信仰生活をしていました。神様を信じている者としての敬虔さも、父親としての霊的権威も失いつつありました。娘が異邦人と交わることも注意することができなくなっていました。その結果、一人娘のディナが性的暴力を受ける事件が起こってしまいました。それは言葉で言い表せないほどの苦しみであったでしょう。さらに息子たちの復讐によって町の人々を殺すことになりました。自分の力では何もできないことが起こり続けて困っていました。神様はそんな彼にまず霊的な方向を与えてくださったのです。最も優先的に必要なのが神様との関係性を回復であったからです。そこで神様が彼に現れたベテルに立ち帰って自分に現れた神様に祭壇を築くように助けてくださいました。つまり、現実生活に妥協していたことを悔い改めて神様に誓った誓願を果たし、神様に礼拝する方向を与えてくださいました。初めて神様と出会ったベテルに上って行って神様から与えられた約束の御言葉を思いだし、それをつかんで生きるように助けてくださったのです。28章20, 22節を見るとヤコブは誓願を立てて言いました。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路を守り、食べるパンと着る着物を賜り、無事に父の家に帰らせてくださり、こうして主が私の神となられるなら、石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜る十分の一を必ずささげます。」と誓っていたのです。神様はその誓願の祈りを聞かれ、彼の人生を豊かに祝福してくださいました。彼の旅路を守ってくださいました。彼に食べるパンと着る着物を賜っただけではありません。神様は彼の人生を何百倍も祝福してくださいました。多くの子どもたちを与え、財産を持たせてくださいました。ですから、ヤコブも神様のように、神様との約束を守らなければなりません。つまり、シェケムから離れてベテルに上り、そこに住んで神様との関係を回復して誓願を果たさなければならないのです。それは神様との関係性が良くなると親子関係も、人間関係も良くなるからです。私たちもヤコブのようにシェケムのようなこの世で生活しながらさまざまな試練に遭います。ヤコブのように子どもたちのことで悩まされる時があるでしょう。子どもたちのわがまま、自分勝手な行動のために悩まされ、苦しむ時もあります。自分の過ちもあるから強く注意することもできず困ってしまう時もあります。子どものことだけではなく、自分の力ではどうしようもない問題のために困ってしまう時があります。そういう時に私たちに求められることは第一にベテル, 神の家, に上り、神様と交わることです。初めて神様と出会った時の御言葉を思い出して信じ、それをつかんで行くことです。神様の御前に決断したことを守ることです。そのために時に神様と出会った最初のところに行く必要もあります。地理的には移動ができなくても最初に出会った時の御言葉を思い出して信じることです。つまり、神の家である教会に来て神様と交わる祈りをしなければならないのです。エレミヤ書29書12, 13節を見ると「あなたがたが私を呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」とあります。私たちがほんとうに困っている時でも神様に祈り求めるなら神様が聞いてくださるし、私たちと出会ってくださいます。そして、私たちが神様と出会ったその時の心を回復して礼拝して行くうちに、全能の神様の愛と力を体験して行くことができます。私も生活の中で困っている時があります。職場では中間管理者として校長と先生の間、時には校長とpta, の間でどうすればいいのか分からなくて困る時があります。子ども教育においても叱っていいのか、黙っていた方がいいのかよ分からなくて困る時もあります。でも、毎日夜明けに教会に上り、神様に祈って行くうちにさまざまな問題が解決されて行くことを何度も体験して来ました。 ういう意味では、私たちが日々心を新たにして神の家に立ち帰ること、神様と交る祈りと礼拝はとても大切です。特に何か問題が生じたならば、自分の感情や知恵に引っ張られるのではなくて、まずは、神様の御前に出て行くことです。そして神様の御声に聞き従っていくことです。神様に真に心を寄せる歩みをして行くのです。ではヤコブは神様の命令に対してどのように反応しましたか。2、3節をご一緒に読んでみましょう。「それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」素晴らしい場面です。ヤコブは、即座に行動に移しました。彼は、家族と自分と一緒にいるすべての者が身につけている異国の神々、つまり、偶像とかお守りの一切を取り去るように命じます。多くの神々の一つとしてイスラエルの神、主を崇めるのではなく、ただ主なる神様だけを神として崇めるためです。そうではなかった時に、ヤコブは自分たちのあり方に、現在の困難があったことを知ったからです。 そのヤコブの言葉を聴いて、彼の家族と一行は、「異国のすべての神々と、身につけていた耳飾りをヤコブに渡したので、ヤコブはそれらをシケムの近くにある樫の木下に埋め」ました。つまり、これまでの多神教的な信仰を完全に捨て去ったのです。自分が神様よりも大切にして拝み、楽しんでいたものを捨てました。その上で、彼らはベテルに向かって出発しました。神様の御言葉に応えて悔い改め、礼拝へと出発したのです。彼らは悔い改め、悔い改めにふさわしい行動をしました。その時、どんなことが起こりましたか。 5節をご覧ください。「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」とあります。カナンの連合がヤコブの息子たちの殺人に憤って追撃して来ましたが、神様が彼らに恐怖を植え付けました。すると、彼らはそれ以上ヤコブ一行のあとを追うことができなかったのです。ヤコブが自分の頭を回すのではなく悔い改めた時に、神様がすべての問題を解決してくださったのです。こうしてヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来ました。ヤコブはそこに祭壇を築き、その場所をエル・べテルと呼びました。そして、リベカのうばデボラは死に、ベテルの下手にある樫の木に葬られました。神様はベテルに帰ってきたヤコブを再び祝福してくださいました。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけました。結局、神様との関係を回復した時、神様が問題を解決して下ったことが分かります。それだけではありません。神様は再びヤコブを祝福してくださいます。35章9, 12節をご覧ください。「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。「あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。」それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。」」とあります。神様は30年前、ヤコブが石を枕にして横になっていた時にくださった御言葉を再び与えられました。それによって神様が彼に与えられた祝福とビジョンを思い起こしてくださいました。結局、神様は去る30年間ヤコブとともにおられ、彼を訓練して育てられたことが分かります。ヤコブは利己的であり、自己中心的な人でした。兄を騙し、父親も騙した人間でした。ところが神様が彼とともにおられ、彼を訓練して育てられると、神様中心の人、祈りの人になって行きました。神様は彼がどんな問題でも神様に祈り、神様と交わり、神様に礼拝する人になるように助けてくださいました。ここで、私たちがどのように人として成長して行くべきかを学ぶことができます。どうか、私たちも自己中心から神様を中心に生きる者に変えられて行きますように祈ります。困った時には自分の知恵や人に頼ることよりも神の家に行って神様に祈り、神様に礼拝する者として成長して行きますように祈ります。すると、神様が私たちを大いに祝福してくださいます。創世記を通して学んでいる私たちの神様は祝福の神様です。どうか、祝福された人生、祝福そのものとして生きるように祈ります。

14Genesis23M 夢見るヨセフ

14genesis23m, 夢見るヨセフ, 2014年創世記第23講                               , 夢見るヨセフ御言葉:創世記37−38章要, 節:創世記37, ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです」と言った。 皆さんは、何か夢をもっていますか。それともただなんとなく生きていますか。あるいは、考え中ですか。私が職場で生徒たちに聞いてみると「考え中です。」と答えるが人が意外に多くいますね。今日から学ぶヨセフは夢見る人でした。彼はどんな夢を持っていたでしょうか。その夢はどのようにして実現されて行ったでしょうか。聖書に「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。(箴言16, 9、新共同訳)」とあります。計画するということは夢見ることでもあります。私たちが夢を持っているだけでも、主は私たちの一歩一歩を備えてくださるのです。私たちはヨセフの生涯を通してそのことを学ぶことができます。この時間はヨセフ生涯の初期段階で彼が夢を見たこと、それによって試練の場に追い出されるようになったことを学びました。またそのころのこととしてイエス・キリストの先祖となるユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを学びます。ここで、私たちはヨセフの生き方、救いの計画を進められる神様の働きを学ぶことができます。どうか、本文の御言葉を通して夢見るヨセフを学び、哀れみ深い神様の救いのご計画を学ぶことができるように祈ります。37章1, 2節をご覧下さい。「ヤコブは、父が一時滞在していた地、カナンの地に住んでいた。これはヤコブの歴史である。ヨセフは十七歳のとき、彼の兄たちと羊の群れを飼っていた。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいた。ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。」とあります。先週まで私たちはアブラハム、イサク、ヤコブの神様を学びました。ついに創世記の中心人物の最後の人であるヨセフを学びます。ところが、創世記の著者は「これはヤコブの歴史である。」と書いてあります。なぜでしょうか。それはヤコブの後半部の生涯がヨセフの生涯と不可欠な関係があるからだと思います。つまり、ヨセフはアブラハム、イサク、ヤコブのように神様に選ばれた族長ではありません。族長時代の最後の人物であるヤコブの子どもです。そこでヤコブの歴史の中に中心人物であるヨセフの生涯が紹介されているのです。 そしてヨセフの生涯も十七歳のときから紹介されています。彼は兄たちとともに羊の群れを飼っていました。彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らといっしょにいました。ビルハとジルパは父の妻であっても奴隷だった人たちです。その奴隷から生まれた兄たちの悪いうわさを父に告げました。どんな内容を告げたのかは分かりません。確かなことは良い話ではなく兄弟たちの悪いうわさを告げたことです。それが兄たちに知らされると兄たちの気持ちを良くありませんでした。ヨセフが嫌になったでしょう。結局、ヨセフは兄達から憎まれるようになりました。その上にヨセフはヤコブの年寄り子です。父から最も愛されました。それは父の偏愛でした。ただ父親からヨセフのことを考えてみると彼にはこのような愛が必要でした。ヨセフの母親ラケルは早く死んだからです。でも父の偏愛は子どもたちの不和の火種になりました。腹違いの兄たちには理解できません。兄たちはヨセフを憎み、彼と穏やかに話すことができませんでした。さらに、兄達がますますヨセフを憎むようになったことが起こりました。あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げました。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」この夢はヨセフが兄弟たちを支配するようになることを意味します。ヨセフにとっては嬉しい夢です。しかし、兄達にとっては嫌な夢です。腹が立つ夢でした。ところが、ヨセフはまた、ほかの夢を見て、それを兄たちに話しました。「また、私は夢を見ましたよ。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」。今度の夢は兄達だけではなく父と母も彼を拝む内容でした。ヨセフがイスラエルのすべてを支配することを意味します。父ヤコブにとってもあまり好ましい夢ではありません。父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。でも、父は兄たちとは違いました。兄弟たちはヨセフをねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。自分も石を枕にして横になった時に見た夢を通して神様に出会い、ベテルまで守まれ、導かれ、祝福されことを経験したからでしょう。以上で私たちは兄たちとヨセフの考え方の違いを発見することができます。兄たちは父の偏愛ぶりを見てヨセフを憎みました。ヨセフの告げ口、ヨセフの高慢な態度を見たので、彼らはますますヨセフを憎みました。しかし、ヨセフは兄たちの心を見ないで夢を見ました。それはある意味では空気を読めない人の態度です。でも青年の時に夢を見ることはとても大切です。特に、自分が心に抱く野望としての夢ではなく、神様が心に示しておられるご計画としての夢を見るのことです。特に若い時に夢を見る、夢を持つということはとても大切です。これまで、この世界は夢を見た青年によって支配されて来ました。1800年代後半、ライト兄弟は人類が金属の翼で空を飛ぶ姿を夢見ました。十年後の1903年12月17日、ライト兄弟の飛行機がノースキャロライナの砂浜で初飛行しました。1940年、ビリー・グラハムと仲間の数人の大学生が集まって、神様から遠く離れた人々に福音を伝えるために、世界中のスタジアムをいっぱいにすることを夢見ました。資料によると、彼らは2億1千5百万人の人々に福音を直接伝えました。そして十億以上の人々に、テレビやラジオを通して福音を語ったのです。1960年代、私たちubf先輩たちは使徒の働き1章8節を通して地の果てにまで行って世界のキャンパスに福音を伝える世界宣教を夢見ました。「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」その頃、韓国は朝鮮戦争が終わったばかりでとても荒廃していました。一人当たり国民所得, は80$にすぎませんでした。先進国の援助を受けなければ国の維持ができないほどでした。若者たちはなかなか夢を見ることができずさまよっていました。しかし、故李サムエル宣教師を始め、ubf先輩たちは夢見ていました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、韓国のキャンパスに福音を伝えることは軽いことであって全世界の大学生たちに福音を伝え、救うことができる」という夢を見ていたのです。その夢のためにある先輩は看護師、ある先輩は新聞配達員、ある先輩は留学生、大使館の運転手になって宣教師として世界に出て行きました。事実、まだ後進国であった韓国の青年が、労働のアルバイトをし、勉強しながら宣教をすることは至難のわざでした。でも先輩たちは夢を持っていたから世界の国々に遣わされて福音を宣べ伝えました。今は98か国に宣教師たちが遣わされています。その国々で数多くの大学生たち福音を伝え、救うみわざのために用いられています。ヨセフはエジプトで総理大臣になりますが、世界中の大学で教授として働く宣教師や牧者も多くなって来ました。多くの方が宣教地で弁護士、医者、外交官、事業家としてリーダー的な役割を果たしています。神様を信じている人が夢を持ち続ける時、神様はその夢が実現するように助けてくださいます。ヨセフは少年の時から夢を持っていたゆえにその後の人生は主が一歩一歩を備えてくださいました。私たちも目先のことだけを見ないで10年、20年後のことを考えながら夢を持つことができるように祈ります。2041年までにこの国の47都道府県のキャンパスに聖書先生、牧者たちが立てられること、アジア47か国に宣教師を派遣する夢を持ち続けて祈りましょう。ヨセフは夢を持っていましたが、この夢が実現するためには神様の訓練も必要でした。そこで神様はヨセフが試練の場に追い出されて行くことを赦されます。 37章12節〜28節までの御言葉はヨセフが訓練の場、試練の場に追い出される場面です。ヨセフは父から兄さんたちが羊の群れを飼っているシェケムに行って来ることを頼まれました。ヘブロンからシェケムまでは70キロも離れています。歩いて行くと二日間もかかる距離です。私は子どもの頃、父親から「タバコを買って来なさい」と言われた時、ただ700m位離れた所でも嫌がっていた記憶があります。ヨセフは70キロも離れている所であっても「はい。まいります。」と答えていました。答えただけではありません。ヨセフはヘブロンからシェケムまで行きました。ところがシェケムまで行ってみると、兄達はいませんでした。そこにいる人の聞いてみるとそこからドタンのほうへ行ったことがわかりました。兄たちは良い牧草地を求めながらドタンまで行ってしまったのです。ドタンはそこから24キロも離れた所です。一日も歩いて行かなければならない距離です。こうなると諦めたくなるでしょう。特に穏やかな話もできない兄たちのためにもう一日も歩いて行くことは嫌でしょう。そのまま家に帰ることもできました。しかし、ヨセフはドタンまで行きました。ここでヨセフの生き方も学ぶことができます。彼には父への従順と尊敬がありました。任されたことに対する責任感と忠実さがありました。ヨセフは父かたら頼まれたことに対して素直に答え、その目的を達成するまで忠実に行ないました。仕事も勉強も焦らずコツコツが大切であると言われます。彼は適当にやってしまうのではなく、小さいことにも忠実な人だったのです。こういう生き方で生活して行ったので彼は後に異国の地エジプトでも総理大臣になって行きます。小さな事に忠実であった時、大きなことにも忠実な人になり、大きなみわざにも用いられるようになったのです。ではドタンまで行ったヨセフを迎える兄たちの態度はどうでしたか。18節をご覧ください。「彼らは、ヨセフが彼らの近くに来ないうちに、はるかかなたに、彼を見て、彼を殺そうと企んだ。」とあります。普通の兄だったら、はるかかなたに弟が見えると走って行って迎えることでしょう。そんなに遠くまで探しに来た弟を喜んで迎えてくれたはずです。ところが兄たちは弟を殺そうと企みました。憎しみはついに殺人に発展しました。ただ、長兄のルベンはこれを聞き、彼らの手からヨセフを救い出そうとしました。それでルベンは兄弟たちにヨセフを荒野のこの穴に投げ込みなさいと言いました。結局、ヨセフが兄たちの所に来たとき、彼らはヨセフの長服、彼が着ていたそでつきの長服をはぎ取り、彼を捕えて、穴の中に投げ込みました。不幸中の幸いに、穴の中に水がなかったのですが、兄たちが食事をイシュマエル人の商人が来ました。そこでユダの提案があってヨセフを穴から引き上げ、銀二十枚で売りました。結局、ヨセフは兄さんたちに踏みつけられて、エジプトに奴隷に売られました。来週学びますが、エジプトではヨセフが大変な試練に遭い、過酷な訓練を受けるようになります。でも、ヤコブはそれらのことを知らずにヨセフの兄たちから騙されます。兄たちはヨセフが悪い獣にやられたかのように父を騙したからです。愛する息子を失ったヤコブは幾日もの間、その子のために泣き悲しみました。ヤコブのヨセフへの偏愛は他の子どもたちに憎しみを呼び起こし、自分にも悲しみをもたらしました。ヨセフの兄たちも一生罪悪感にさいなまれるようになります。ところがここにも見えない神様の摂理がありました。もしヨセフが父の家でいたなら彼の夢は果たされなかったでしょう。神様は彼に指導者となる夢を与え、それを実現させるために温室のような家から荒野に連れ出して訓練されました。この訓練はわしの訓練でした。鷲は自分子を翼に乗せて高いところから落とすそうです。するとわしの子は必死に翼をばたばたします。そうして地面に落ちて死ぬ直前に親のわしは翼で受け取ってくれるそうです。このような訓練を繰り返すと後には翼が強くなり力強く空を飛ぶ鳥の王子になります。霊的な指導者になるためにも多くの訓練が必要です。以上で私たちはヨセフから二つのことを学ぶことができると思います。一つ目は人の憎しみを見ないで夢を見て生きていたことです。ヨセフの兄たちは父ヤコブの偏愛を見ました。ヨセフが母親を早く亡くしていたことは考えず、父親から愛されていること、長服を買ってもらっていることを見て彼を憎みました。弟が夢を話しますとそれを可愛がってあげるのではなく、それを妬み、殺そうとしました。その結果、弟を穴に投げ込み、そこから出して売ってしまいました。その後、罪悪感、罪意識に苦しみます。しかし、ヨセフは夢を見ていました。だから兄たちから憎まれても彼らを憎まず、親切に仕えました。兄たちの悪に対して悪を持って仕返しするのではなく、父の言葉に忠実に従い、自分がやるべきことを忠実にやって行く生活をしていました。ヨセフが兄たちと同じように考えていたならいろんな場面で兄たちにつぶやき、仕返しを計画して行ったと思いますが一言も文句を言わず、自分に与えられたことを忠実に行なっていたのです。それは夢を見ていたからだともいます。二つ目は夢を見ている人に試練も伴われることです。ヨセフに夢がなかったら兄たちからの虐めもあれほどひどくなかったでしょう。ヨセフに夢が持ち、その夢を兄たちに話したからこそもっとひどく虐められました。ついに、売られて奴隷になって行きました。そこでもさまざまな試練に遭います。このように、私たちが夢を持っていてその夢が実現されるまでは自分の十字架を負い、訓練も受けれらることを覚悟しなければなりません。私たちは夢を持っていてその夢の実現のためにどんな苦難も受ける覚悟をしなければならないのです。そして、私たちが夢を持ち、その夢のために自分の十字架を負うこと、苦難を受けることも覚悟するなら神様がそれに耐える力も、試練に打ち勝つ力も与えてくださいます。私たちの一歩一歩を備えてくださいます。その神様の導きによって私たちの夢は実現され、私たちもヨセフのように神様に用いられるようになります。38章はユダがどのようにしてタマルからペレツとゼラフを得るようになったかを言っています。38章を読んでみると、ユダは嫁であるタマルと寝て子供を産んだことが書いてあります。何でこんな汚い話がヤコブの歴史、美しいヨセフの話の中に出て来たでしょうか。それを理解するのは難しいです。ただ、マタイ1, 3に「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」と記されてあります。ユダはイエス様の系図に出るほど大切な人物であることが分かります。そして、彼も生まれ変わる前には淫らな人であり、約束を守らない不真実な人であったことも分かります。遊女の格好していた嫁と寝て二人の子どもを産んだのです。そんな彼が悔い改めた時にイエス様の系図に出るようになったのです。それは一方的な神様の恵みです。私たちもユダのように生まれながらにしてのろいの子でした。しかし、今や、私達は怒りの子でもなければ、滅びの子でもありません。主イエス・キリストによっていっさいの古きものは葬られ、彼とともによみがえされたのです(コロサイ3:1)。これが恵みの世界です。これが福音の世界です。そういうわけで、私たちも恵みの世界に生きています。自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストの十字架による赦しと救いを信じることによって救われています。イエス・キリストの系図に載せられる人になっています。「いのちの書」に名前が記されている人間なのです。だから、イエス・キリストは世の終わりまでいつも私たちのともにいてくださいます。どうか、今週も主の一方的な恵みに感謝し、主とともに歩んで行きますように祈ります。

14Genesis20M ヤコブを大いに祝福された神様

14genesis20m, ヤコブを大いに祝福された神様, 2014年創世記第20講ヤコブを大いに祝福された神様御言葉:創世記29, 30章要, 節:創世記30:43「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」 先週、私たちはヤコブがベテルでいつもともにおられる神様に出会ったことを学びました。私たちはヤコブが神様に出会ったような経験をすることはできないかも知れません。でも心から神様と出会いたいという願いを持って生きましょう。日々神様と出会って神様の愛と力を感じ、神様と交わることを心から願うのです。すると、神様の力を見、神様がおられることを悟るようになります。そこから神様と交わり、神様とともに歩む生活が始まります。 今日はヤコブが長い旅を続けて目的地に辿り着いた時のことを学びます。ここで私たちは愛の力、ヤコブを訓練し、大いに祝福される神様を学ぶことができます。?.愛に力があります。, 1〜20,  29章1節をご覧ください。「ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行った。」とあります。ベテルの野で一夜を過ごしたヤコブは、旅を続けてようやく目的地である東の人々の国へやって来ました。つまりベエル・シェバからハランまで旅を続けて母リベカの親戚が住んでいる国にたどり着いたのです。ふと彼が見ると、野に一つの井戸がありました。井戸は人と人との自然の出会いの場であり、交わりの場です。私は子どもの時に田舎では村の中にある井戸が情報交換の場所でした。特におばさんたちが水を汲み、洗濯をしながら交わる所でした。だから、小学生の時に隣の村に行って友だちに会うためにまず井戸の所に行って尋ねました。だからヤコブも井戸が見えると、その地域の情報を得ることができると思ったことでしょう。やはり行ってみると、その井戸のかたわらに、三つの羊の群れが伏していました。それでヤコブはそこにいる羊飼いたちに、「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか」と尋ねました。すると、彼らはハランの者であることと、ラバンの娘ラケルが羊を連れて来ていることを教えてくれました。そこでヤコブはその娘と二人きりで会いたいと思ったでしょうか。ヤコブは羊飼いたちに「羊に水を飲ませて、また行って、群れをお飼いなさい。」と言いました。しかし、彼らは「全部の群れが集められるまでは、そうできないのです。集まったら、井戸の口から石をころがし、羊に水を飲ませるのです。」と言いました。結局、ヤコブがまだ彼らと話しているとき、父の羊の群れを連れてやって来たラケルと出会いました。ヤコブは、その羊の群れを見ると、すぐ近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませました。それからヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣きました。ヤコブが行き成りに人の娘に口づけしているようですが、先ほど羊飼いたちからラバンの娘であることを聞いていたからでしょう。ほんとうの自己紹介をしてから口づけするものですが、ヤコブはラケルに口づけしてから自己紹介をしました。すると、ラケルはヤコブのことを父ラバンに告げました。するとラバンはすぐ、走って行って彼を迎え、彼を抱いて、口づけしました。ヤコブは自分がここまで来た事の次第のすべてをラバンに説明しました。ラバンは彼に、「あなたはほんとうに私の骨肉です」と言いました。こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在しました。その間にラバンはヤコブが非常に有益な人であることが分かったようです。ラバンはヤコブに「あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。」と言いました。これは単なる好意から出た言葉ではありません。後で彼が何度もヤコブを騙していることから考えてみると、彼はヤコブの有能さと誠実さを見込み、彼を手放したくないと思っていたと思われます。でもヤコブは、まだラバンがそういう人間だとは思っていなかったようです。ただ、一目惚れしているラケルに関心がありました。ラバンにはレアとラケルと言う二人の娘がいましたが、ヤコブはラケルを愛していたのです。それは姉のレアの目は弱々しかったのですが、ラケルは姿も顔だちも美しかったからです。ヤコブも美人には弱い男でしたね。結局ヤコブは愛するラケルと自分の妻にするためにラバンと雇用契約を結びました。彼は「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう」と言っています。するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい」と言いました。そこでヤコブはラケルのために七年間仕えました。ヤコブはその七年間をどのような思いで過ごしたでしょうか。20節をご一緒に読んでみましょう。「ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。」ヤコブはラケルを愛していたので七年間仕えてもほんの数日のように思われたのです。ヤコブが七年間仕えても楽な仕事ばかりしたのではありません。31章38節によると、ヤコブは「私は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできない有様でした。」と告白しています。それでもヤコブにはその七年間がほんの数日のように思われたのです。ここで私たちは愛の力を見つけることができます。この間、勉強会の時に、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師を愛するようになった時、40ページの所感を書いてもほんの一ページしか書かなかったように思われたことを告白してくださいます。ほんとうに愛には不思議な力があります。第一に愛には、人に仕え、人のために働く力があります。愛しているなら、気持ちよく仕えることができます。夫婦が愛して子どもが産まれると、夫婦は子どもに仕える生活が始まります。オムツを替え、風呂に入れ、遊んであげます。掃除や洗濯もしてあげます。ありとあらゆることで子どもに仕えます。それは子どもを愛しているからです。愛から始まっているから嫌々しながらではなく喜んで仕えることができるのです。子どもがそこそこ大きくなったからと言って、仕えることが終わるのではありません。立派に成長し、大人になるまで、子どものために働きます。職場では上司の無理な要求にも耐えながら一生懸命に働きます。それは子どもを愛し、家族を愛するからできることです。もし、何もかも嫌になっているなら愛が冷えているからでしょう。愛が燃えているなら何をしても疲れを感じないでしょう。ヤコブはラケルを愛していたので、その愛のゆえに7年間仕えることが苦にならなかったのです。愛から始まっていたので、仕えることができたのです。イエス様も弟子たちを愛し、私たちを愛しておられるからこそ仕えてくださいました。さまざまな問題を持ってくる人々に仕えることはやさしくありません。でも、イエス様は人々を癒し、慰め、励まし、教える働きを続けられました。弟子たちの足を洗い、十字架の死に至るまで私たちのために仕えてくださいました。ほんとうに何をしても愛から始まるなら、7年間仕えることも数日のように思われるほどになるのです。第二に愛には、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ力があります。子どもを育ててみれば分かりますが子どもの成長は時間がかかるものです。オムツを替え、風呂に入れてお世話さえして置けば、後は放っておいても大丈夫なのではありません。確かに、子どもが2,3歳頃より10歳、20歳になると細かく仕えることは少なくなるでしょう。でもそれぞれの年齢に応じて、仕える形が違うだけです。子どもを愛する親はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。その愛の中で子どもはすくすく成長し、立派な大人になって行きます。しかし、愛がなければ忍耐できなくなる場合もあります。子どもと一緒に家にいることさえ嫌がるようになります。実際に自分の子どもを手放してしまう親もいます。しかし、ヤコブはラケルを愛していたので7年間も仕えたのに、ほんの数日のように思えたのです。イエス様は弟子たちを召してから3年半といわれている期間に忍耐されることもしばしばでした。また、十字架を担っていかれたときも、架かられた時も、途中でやめることをなさらず、最後まで、その死に至るまで忍耐されました。そして、今もまた、人々が罪の中にいますが、一人でも多くの人が救われるために、全ての人が救われてほしいと願い、忍耐しておられるのです。それらは、イエス様の愛のゆえです。愛から始まるとき、愛しているとき、忍耐することができるのです。そしてそのイエス・キリストの愛によって私たちは癒され、生かされています。私たちが何をしても七年間仕えることもほんの数日のように思ったヤコブのような愛を持ってするなら疲れないでしょう。そして、私たちに仕えるために来られ、十字架にかかって死なれるまでに私たちに仕えてくださったイエス・キリストの愛で愛するなら、どんな人でも愛することができるでしょう。すべての問題は愛があれば大丈夫です。愛は痛みも和らげます。カリフォルニア大学の心理学者アイゼンバーガー助教授が、痛みを感じたときの脳の動きと「愛」という抽象的なものとの関係を探るために行った実験で明らかになったものです。長期にわたって特定の相手と交際中である女性たちに、針で刺したかのような衝撃を与え、そのときの脳の反応をmriで観察しました。被験者には交際相手、知らない人物、蛇や蜘蛛などの写真を順番に見せ、それぞれの写真を見ているときに一度ずつ同じ痛みを与えていきました。そして、実際に感じた痛みの強弱を被験者に記録してもらったところ、交際相手の写真を見ているときがいちばん痛みが弱いという結果になりました。ほんとうに、愛には不思議な力あるのです。何をしても愛から始まると長く仕えることができるし、忍耐することもできます。家にいる時間が楽になるし、疲れた体も癒されるのは家族を愛しているからです。教会でも、学校でも、職場でもに隣人を愛するなら彼らに仕え、忍耐することができます。自分の愛では無理かも知れません。でもイエス様から愛をいただき、イエス様の愛で愛しようと思って愛するなら不思議な力が発揮されるのです。どうか、ヤコブがラケルを愛したように、自分の家族を愛し、隣人を愛する生活ができるように祈ります。?.神様の訓練と祝福, 21〜30, 29章21節をご覧ください。「ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻をください。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」とあります。いよいよ雇用期間も満了しましたので、ヤコブはラバンにラケルを妻として与えてくれることを求めました。ところが、ラバンはヤコブをだましてラケルの代わりに娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせました。騙す者が騙される者となりました。でもラバンはヤコブに騙したと言いません。彼は「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。」と言ってラケルをあげる代わり、もう七年間、仕えなければならない」と言いました。結局ラケルひとりを得るためにヤコブは14年間ラバンに仕えました。彼がそのように14年間仕えたことは無駄にはなりませんでした。ラバンは、ヤコブを酷使し搾取しようとしました。しかし、実は、ヤコブがこの地に滞在することで、彼に与えられた子孫の約束、多くの子どもが生まれるという神様の約束は実現していくのです。イスラエル十二部族の先祖は、この地で、このようにして誕生しました。そして、二十年という歳月の後に、彼をカナンの地に「連れ帰る」という約束も実現するのです。 ヤコブだってラケルから子供が生まれることをなによりも望んだでしょう。しかし、ラケルが初めての子ヨセフを産んだのは、結婚後何年かは分かりません。ただ、ヤコブとレア、そしてその召使、ラケルの召使との間に一〇人の子供が生まれた後のことですから、少なくとも一〇年以上は子供が生まれなかったはずです。彼女はもう一人の子ベニヤミンを産むと同時に、旅の途上で死んでしまうのです。恐らく高齢出産であったことが、その一つの原因でしょう。結局、四人の妻と12人の息子と一人の娘を得るようになりました。29, 24節まではレアとラケルが夫に愛されるために子供を産む競争をする内容です。ヤコブの家庭には静かな日々がなかったでしょう。二人の女性が激しい競争をしていたのでまるで戦争をするところのようだったと思います。レアは息子をよく産みましたが、夫に愛されないコンプレックスを持っていました。ラケルには夫に愛されましたが、息子を産めないコンプレックスがありました。彼女達はヤコブを間にして互いに自分たちのコンプレックスを解決するために競争する間、12人の息子たちが産まれました。このような中で神様は二つのことをなされました。第一に、ヤコブの強い自我を訓練されました。ヤコブは四人の妻の間で絶えず訓練を受けました。息子が産まれても自分が名前を付けることさえできなかったことを見ると、彼の強い自尊心が砕かれる訓練を受けたでしょう。神様は人の杖、人の子のむちを持って彼を懲らしめ、彼の強い人間性を砕かれ、多くの国々の父としての内面性を持つようにされました。第二に、イスラエルの12部族の基礎を置かれました。神様は二人の女性のねたみと競争心を用いられ、ヤコブが知らないうちに天の星のような子孫を与えるという約束を成し遂げておられました。このように四人の妻と多くの子供を得た後、ヤコブは財産に関心を持ち始めました。ヤコブは財産を儲けるためにラバンと契約を結びました。それはラバンの羊とやぎの中でぶち毛とまだら毛のもの、黒毛のものを自分の報酬とすることです。ラバンはその日、そのようなものを全部取り出して、自分の息子たちの手に渡し、ヤコブとの間に三日の道のりの距離をおきました。ヤコブは非常に不利な立場に立たされました。しかしヤコブはいつものように落胆せず、頭を使って不可能に挑戦し始めました。神様はこのような彼を助けてくださり、彼は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになりました, 。神様は約束のとおりにヤコブとともにおられ、彼を祝福してくださいました。ヤコブはラバンのところでラケルを得るために14年、財産を得るために6年、あわせて20年間仕えました。それでは20年間どんな姿勢で仕えましたか。31, 42節を見ると、彼は仕事に怠けたり、適当に働いたりしませんでした。ラバンが幾度も報酬を変えたのにもかかわらず、彼は力を尽くしてラバンに仕えました。彼は昼は暑さに、夜は寒さに悩まされて、眠ることもできないほどでした。彼は神様のしもべらしく心と力を尽くして働きました。その時、神様はヤコブを祝福してくださいました。30章43節をご一緒に読んでみましょう。「それで、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだと、ろばとを持つようになった。」ここでは「祝福」が物質的な意味で用いられているようです。もちろん祝福は物質だけではなく、心身の健康の意味が含まれます。しかし、これはアブラハム以来、イサク、ヤコブが受け継いでいる「祝福」です。ですから、単に物質的な富を意味するだけの言葉ではありません。罪に堕ちた世界を祝福に変える。死の闇の中にある世界を命の光に変える。そのための祝福です。ヤコブがこの言葉を使っている文脈では、ラバンに合わせる形で、家畜の数が増えたことを表面的には言っている訳ですが、それと共に、もっと内的な、しかし、具体的な神の「祝福」、「恵み」とも「愛」とも言える祝福を語っていることは明らかだと思います。以上で、愛の力と神様がヤコブを家族の人間関係において訓練し、祝福されたことを学ぶことができました。家族の人間関係の中に試練があることほど苦しいことはないでしょう。家族は逃れることのできません。生涯付きまとう関係です。ヤコブは、妻たちとの関係に悩み、義父ラバンとの関係に悩んで行きました。ヤコブを騙し、ヤコブを利用しつくそうとするのがラバンでした。そんなラバンに対してヤコブが考え出した脱出の道は、「自分自身のために自分だけの群れをつくることであった」大切なのは、ヤコブは知恵を働かせたが、その知恵自体、あまり根拠のないことです。選択授精によっていくらかは成功したとはしても、なによりも神様がこれを祝福されたからできたことです。 多くの人は、苦労すること、訓練は悪いことだし、不幸なことだと考えます。けれども、苦労があることと幸せであることは別次元のことです。だから苦労があっても本当は幸せであることができます。神様を信じるということは、常識を超えています。もちろん、それは非常識になることではなく超常識になることです。常識的に行動する中で、常識を超えた神様のみ業があることを期待して行くことが信仰です。結論的に愛には人を疲れさせない力があります。愛は奉仕の原動力です。神様はご自分の約束のゆえに私たちを祝福してくださいます。どうか、愛と神様の祝福を信じる信仰を持って人々に仕え、神様に祝福された生活ができるように祈ります。

14Genesis17M わたしがあなたに示す地に住みなさい

14genesis17m, わたしがあなたに示す地に住みなさい, 2014年創世記第17講                           わたしがあなたに示す地に住みなさい御言葉:創世記25, 26:33要 節:創世記26, 「主はイサクに現れて仰せられた。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」先週、私たちはイサクの結婚について学びました。イサクは非常に美しく処女で、男が触れたことがなかった信仰の女性リベカを迎え入れて愛しました。リベカは信仰あるイサクの妻となって愛される幸せな結婚生活を始めました。ところが、そのイサクの家庭も試練がありました。リベカが不妊の女であったために20年間も子どもを産むことができませんでした。ききんの時は経済的な問題、リベカを失われる危機もありました。神様の助けによって問題が解決され、祝福されると、地域の人々から妬まれる問題もありました。ではイサクとリベカはこれらの問題をどのようにして克服したでしょうか。また、どのような信仰生活をしたでしょうか。この時間、アブラハムが地上での最後に果たした任務、イサク夫婦の信仰生活を学びたいと思います。?.平安な老年を迎え、長寿を全うしたアブラハム, 25章1,2節をご覧ください。「アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。」とあります。今までの流れから考えると、イサクが結婚してからアブラハムは再婚したのかなあと思われます。すると、サラの死後、アブラハムは140歳ごろに再婚して6人の子どもを設けたことなります。しかしそれは無理だと思われます。なぜなら、すでに100歳の時に「自分に子どもが生まれようか」と笑った人だからです。それで、調べてみると、歴代誌第一1章32節に「アブラハムのそばめケトラ」とありました。ケトラはアブラハムのそばめなのです。そして、6節に「アブラハムのそばめたちの子ら」と書いてあります。従ってケトラはアブラハムのそばめたちのひとりだったと思います。アブラハムは、自分の子イサクのためにそばめたちの子どもたちを東に去らせ、イサクから遠ざけました。それによってアブラハムはこの地上での最後の任務を果たします。5, 6節をご覧ください。「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。」とあります。アブラハムは自分の全財産を相続者であるイサクに与えまし。しかし、そばめの子どもたちには贈り物を与えてイサクから遠ざけました。アブラハムはそばめの子どもたちからイサクを守るために意図的に彼らを遠ざけたことでしょう。このようにしてアブラハムはイサクが腹違いの兄弟たちから邪魔されることなく神様の祝福を受け継ぐことができるようにしました。では、アブラハムの最期はどうですか。8節をご覧ください。「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。」とあります。ここで「長寿を全うして」と訳されている言葉は、「十二分に満たされて、満足して」というのが直訳だそうです。つまり、「神様がその人のために計画なさったことが全て満たされて、それゆえに十二分に満足してアブラハムは死んだ」ということです。そこで、イサクとイシュマエルは父アブラハムをサラが葬られているマクペラのほら穴に葬りました。以上で、私たちはアブラハムの信仰生活100年間を学んで来ました。その中で私たちは偉大な信仰者としてのアブラハム、弱い人間としてのアブラハムの両面を見ることができました。彼の生涯は決して完全ではありませんでした。失敗もたくさんありました。奥さんを悲しませることもありました。軟弱な面もあるアブラハムでした。だから、私はこのアブラハムから何度も何度も慰められ、励まされて来ました。アブラハムが「すべて信じる者の父」であるからこそ、弱い私たちであっても神様を信じていれば天国へ行くことができます。天国でアブラハムに出会います。その時に私はアブラハムと握手しながら「あなたのお蔭さまでここまで来ました。」と挨拶したいと思います。神様がアブラハムを通して弱くて足りない私たちでも天国に行ける信仰生活を教えてくださったことを心から感謝します。?.祈りによって問題を解決したイサク, 19, 34, 19、20節をご覧ください。アブラハムの子イサクの歴史が始まります。イサクは四十歳でリベカと結婚して誰が見てもうらやましく思えるような夫婦になりました。アブラハムから全財産を与えられたイサクは金持ちです。就職活動もいらない、毎月家賃を払わなくてもいいし、家にはしもべたちもいます。リベカは美人だったし、内面性のある奥さんでした。誰が見ても幸せな夫婦に見えたことでしょう。私たちの中でもそのように見える夫婦がいるでしょう。職場は安定しているし、知力も霊力も体力も優れている旦那さん、美人で内面性の奥さんのように見える夫婦がいるでしょう。「あの家庭なら何の問題もないでしょう。」と言えるような家庭もいるのです。しかし、ほんとうに何の問題もない家庭があるでしょうか。幸せに生きているように見える家庭でもさまざまな問題があるし、試練もあります。イサクの家庭も例外ではありませんでした。彼の家庭にも試練がありました。一つ目の試練は子どもが生まれなかった問題です。リベカが不妊の女であったからです。幸せな結婚をしたしても子どもが生まれないと大きな問題になります。今日のような母の日になると、イサク夫婦はどんなに寂しかったでしょうか。20年間も子どもが生まれなかったことは、ほんとうに大きな試練の連続だったでしょう。ではどのようにしてこの試練を乗り越えることができたでしょうか。21節をご一緒に読んでみましょう。「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。」イサクは自分の妻のために主に祈りました。問題はリベカにありました。不妊の女だったからです。でもイサクは妻のせいにしませんでした。つぶやくこともしませんでした。多くの夫たちは家庭に問題が発生すると、自分の問題さえ妻のせいにします。小さな事でも責任転嫁するから夫婦喧嘩したり、離婚したりします。しかし、イサクは自分の妻のために主に祈願したのです。しかも20年間、神様に祈り続けました。彼は健やかな時も、病んでいる時も妻を愛し、自分の妻のために主に祈願したのです。ついに神様は彼の祈りに答えられ、彼の妻リベカはみごもりました。神様はイサクの祈りに答えたのでリベカはみごもったのです。それも双子をみごもりました。夫の祈りに力がありましたね。ここで私たちは問題解決のカギは祈りであることが分かります。あきらめない祈りです。皆さん、20年間も祈り続けている祈り課題があるでしょうか。自分の妻のために主に祈願していることがあるでしょうか。神様は私たちがイサクのようにあきらめないで祈り続けることを望んでおられます。イエス様もルカの福音書の18章であきらめない祈りを教えてくださいました。ひとりのやもめがあきらめないで願い続けた時に不正な裁判官でさえ願いを聞いてくれたことを通していつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいました。それから「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。, 」と言われました。神様が私たちの祈りをいつまでも放っておかれることはありません。神様は私たちの祈りに答えてくださいます。私たちが少々あつかましい祈りをささげても神様はそれを聞いていてくださいます。先週学んだエリエゼルのように、イサクのように具体的に祈るなら神様が答えてくださいます。ただ、答えられるのは神様の時です。エリエゼルは祈りがまだ終わらないうちに答えられました。イサクは20年間の祈りが答えられました。従って、祈りにおいて大切なのはあきらめないこと、失望しないことです。イサクのように失望しないで祈り続けるなら、神様が答えてくださいます。そして、私たちは祈る生活を通して問題を解決していただくだけではなく自分自身が信仰の人として成長して行きます。今日の本文でも26章を見ると、イサクはとてもほんとうに成熟した信仰の人として用いられています。彼は祈ることを通して祈りの人、信仰の人として成長し、成熟して行ったのです。イサクは自分の妻のために祈ったのですが、今度はリベカも祈るようになりました。22節をご覧ください。子どもたちがリベカの腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、「こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は。」と言いました。そして主のみこころを求めに行ったのです。今度は自分が自ら主の御心を求めに行ったのです。すると、主は彼女に仰せられました。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」とあります。リベカが祈る時に神様の御声も聞くことができました。生まれて来る子どもの将来も知ることができました。ですから、私たちは家庭の中に問題がある時、イサクやリベカのように祈ることが大切です。イサクとリベカは祈る夫婦でした。祈る家庭に神様の祝福と恵みが臨まれます。夫婦が祈ると子どもの将来も見えて来ます。神様が祈りに答えてくださるからです。もし、自分の信仰生活に祈りが忘れられている方はいないでしょうか。霊的に危機であることを自覚してください。信仰生活に赤信号です。祈らない教会があるなら、その教会も危機であると言えるでしょう。私たちは祈りを休むような罪を犯さないように気をつけましょう。どうか、イサクのように、リベカのように祈り続ける祈りの人として生きるように祈ります。二つ目の試練は経済的な問題でした。26章1節をご覧ください。さて、アブラハムの時代にあった先のききんとは別に、この国にまたききんがありました。ききんがあったことは経済的な問題があったことです。今の言葉で言うならリストラされたり、自己破産したりしたことでしょう。裕福な生活をして来たイサクとしては飢饉に耐えることがとても難しかったと思います。それで彼はゲラルのペリシテ人の王アビメレクのところへ行きました。そこからイサクはエジプトに下ろうとしたと思われます。ゲラルはエジプトに行くための国境の付近です。その時、主はイサクに現われて仰せられました。「エジプトへは下るな。わたしがあなたに示す地に住みなさい。」イサクがききんの時にその地に住むこともやさしいことではありませんでした。しかし主が示される地、主の御心の地が最善の地です。神様が示されるその地に住むならどうなりますか。3,4節をご一緒に読んでみましょう。「あなたはこの地に、滞在しなさい。わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。そしてわたしは、あなたの子孫を空の星のように増し加え、あなたの子孫に、これらの国々をみな与えよう。こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。」神様はアブラハムに与えてくださった祝福と同じ祝福をイサクに約束されました。神様がイサクを祝福する理由は第一に、アブラハムに誓った誓いを果たすためにです。アブラハムは死に、歳月は流れました。しかし、主の約束は変わることがありません。人が変わっても、主は真実にその誓いを守られます。第二に、アブラハムが神様の御言葉に聞き従ったからです(5)。これを見ると、私たちがアブラハムのように信仰によって生きると、神様は私たちだけではなく、私たちの子孫も祝福してくださることがわかります。では、イサクは神様の御言葉に対してどのように反応しましたか。6節を見ると「イサクがゲラルに住んでいるとき、」とあります。つまり、彼は神様の約束の御言葉に聞き従いました。すると、神様は約束の通りに彼を守り、祝福してくださいました。まず、弱いイサクの問題を助けてくださいます。彼がゲラルに住んでいる時のことです。彼はリベカのことでその地の人々から殺されることを恐れて自分の妻を妹ですと言ってしまったのです。彼は父アブラハムが二度も犯した同じ失敗を犯してしまいました。ほんとうに恥ずかしいことです。ところが、神様はそんなイサクであっても彼を無視して捨てるようなことをなさいませんでした。むしろ彼を守ってくださいました。ある日のことです。アビメレクはイサクがリベカを愛撫しているのを見て二人が夫婦であることが分かりました。そこでアビメレクは自分の民たちに「リベカに触れる者は、必ず殺される。」と命じて守ってくださいました。それだけではありません。彼の経済的な問題を解決してくださいました。彼を祝福してくださったのです。12、13節をご覧ください。「イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。」とあります。飢饉の時に百倍の収穫を見たことは考えられないことです。しかし、神様には不可能なことがありません。普通には考えられないほどに祝福してくださることができるお方です。私たちはこの神様の祝福を信じるべきです。私たちが神様の祝福を信じて神様の御言葉に聞き従う時、一時的に損するかのように思われる時もあります。しかし、結局は神様によって祝福された人生を送るようになります。?.愛と信仰によって試練を克服し、良い影響を及ぼしたイサク, 神様の祝福によって非常に裕福になったイサクは人々から妬まれるようになりました。人は地位が上がったり、祝福されたりすると妬まれることもあります。イサクはペリシテ人から妬められました。彼らは父アブラハムの時代に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸に土を満たしました。その地方で井戸は非常に大切なものです。井戸を掘るのは大変な苦労があります。ですから、井戸を譲ることは当時難しいことでした。しかし、イサクは苦労して掘った井戸を何回も譲りました。譲ることばかりしているイサクのことを考えると腹が立ちます。イサクは弱虫のように見えます。それでは本当に彼が弱くてもそのように井戸を譲ったのでしょうか。彼は栄えて、非常に裕福になっているし、多くのしもべたちも持っているのを見ると、決して力がなくて譲ったのではありません。彼が井戸を譲ったのは、神様がベストの道に導いてくださることを信じたからです。また、隣人を愛する愛があったからです。彼はすべてを主にゆだねました。そして、人々を憎まずに、自分がやれることをやって行きました。すると、ついに争いがなくなり、イサクは「今や、主は私たちに広いところを与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」(22)と言いました。主に信頼する者に主は平安と勝利と祝福を与えてくださいます。結局、イサクは不信者達にどんな信仰の影響を及ぼしましたか。26節をご覧ください。ペリシテ人の王アビメレクは友人アフザテとその将軍ピコルと、ゲラルからイサクのところにやって来ました。彼らはイサクを憎み、イサクを追い出した人たちです。ところが、彼らはイサクに何と言いましたか。28節をご覧ください。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。それで私たちは申し出をします。どうか、私たちの間で、すなわち、私たちとあなたとの間で誓いを立ててください。あなたと契約を結びたいのです。」29節では「あなたは今、主に祝福されています。」と言いました。地域の人々に良い影響を及ぼしていることが分かります。これはイサクの愛と信仰による勝利です。ローマ12:21には次のように記されています。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」アビメレクはイサクと契約を結ぶことを提案します。それは主がイサクとともにおられたので、彼に恐れを感じたからです。それで平和条約を結びました。信仰によって生きる時、主は私たちを祝福してくださいます。祝福されると、人々から妬まれることもあるでしょう。それでも、彼らを愛し続けるなら、神様の栄光を現わし、良い影響を及ぼすことができます。その時、人々は私たちを見てこう言うでしょう。「私たちは、主があなたとともにおられることを、はっきり見たのです。私もあなたが信じている神様について知りたいと思います。」どうか、私たちが信仰生活の中でも問題が発生し、試練もあることを認識し、そう言うときこそ神様に祈り続けることができるように祈ります。祝福された時に人々から妬まれても人々を赦し、愛し続けることもできるように祈ります。こういう信仰生活を通してノンクリスチャンの間に主の御名があがめられるように祈ります。

14Genesis18M ヤコブを祝福したイサク

14genesis18m, ヤコブを祝福したイサク, 2014年創世記第18講メッセージ(朴エズラ)ヤコブを祝福したイサク御言葉:創世記27, 1−45要, 節:創世記27, 33「イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」」「10本の指を噛んで痛くない指はない」という諺がありますが、親によって噛んで痛い指もあると言われています。今日の本文には、イサクとリベカの偏愛が子供たちにどんな影響を及ぼしたかを見ることができます。また、神様は彼らをどのように助けてくださったかをも学ぶことができます。罪深い人間の思いというのは、神様の御心に背く方向に行きやすいですが、神様は人間の思いを拾い上げて、神様のご計画が実現するように助けてくださるのです。そして、神様の祝福の価値を知っているヤコブが祝福されるように導いてくださいました。神様はイサクとリベカの家族とともにおられ、彼らの自己中心的な思いと高慢の罪の中でも彼らを助けてくださいました。私たちが、本文のイサクのように、自分の間違ったことを悟るとき、神様の導きに恐れおののき、素直に従うことが出来るように祈ります。?。祝福をだまし取るヤコブ(27, 32)1, 4節をご覧ください。年をとり、視力が衰えてよく見えなくなったイサクは、長男のエサウを呼び寄せて祝福しようとしました。当時、イサクは137歳(ヤコブ77歳)と言われており、14年前に死んだ異母兄のイシュマエルの死, から、何か暗示をもらったか自分の死を備えようとしました(しかし、イサクが実際に死んだのは、180歳です, )。おそらく、イサクは、エサウが自分の長子の権利をたった一杯の煮物と交換にヤコブに売ってしまったことを知らなかったかもしれません。聖書での祝福とは、単なるこの世の富や成功ではありません。神様からの祝福は命ある者が生きていくための日々の生活の原動力です。イサクは神様が自分をどれほど祝福してくださったか、たくさん体験しました(25:11)。しかも、神様の祝福は、自分ばかりでなく、自分の子どもたち、将来の子孫までずっと続いていく大事な約束です(12:13)。イサクは自分が元気なうちに、それを長男エサウに譲りたいと思いました。エサウは神様の祝福の意味を知らず、いそいそと心躍らせて狩りに出かけました。それでは、そもそも、エサウはどんな人でしょうか。先週学んだように、エサウは穏やかな人のヤコブと違い、巧みな猟師、野の人であり、神様の祝福より現実的で目に見える肉的なものを求めました(25:27)。その結果、長子が受ける祝福の権利を軽蔑し、軽々しくその権利をヤコブに売ってしまいました(25:28, 34)。何よりも、エサウは四十歳に二人の異邦の女性と結婚し、二人の妻は親の悩みの種となりました(26:34、35)。もちろん、それにはしっかりと教えなかった親の責任もあるかもしれません。とくに、父親のイサクの責任が大きいのではないかと思います。なぜなら、イサクは穏やかで自分と似ているヤコブより、愛妻のリベカのように活動的なエサウが好きだったかもしれません。とくに、25章28節を見ると、イサクは猟の獲物を好んでいたので、ヤコブよりエサウを愛していました。イサクは全人生において神様の御前で生きてきました。父親が自分を生贄として捧げようとした時、従順して従いました(22章)。父親が紹介したリベカと信仰によって結婚しました(24章)。リベカが子供を産めなかった時、妻のために祈願し、その祈りに答えられました(25:21)。また、飢饉の時、神様の御言葉に従って、エジプトに行かなかったのです(26章)。イサクはエサウに対する偏愛を除いて、いつも神様の御心に適う人生を生きてきました。しかし、年を取り、視力が衰えてくると、霊的な目も暗くなるでしょうかね。イサクは神様に祈らず、自分の思いのままで長男エサウを祝福しようとする過ちを犯したのです。すでに、妻リベカを通して、子供たちに置かれた「兄が弟に仕える」(25:23)という神様の御心を聞いたはずですが、美味しい食べ物のことで目がくらみました。その結果、イサクの家庭に大きな問題が起きてしまったのです。5a節をご覧ください。リベカは、イサクが長男エサウに話しているのをひそかに聞いていました。霊的な分別力を失ったイサクも問題ですが、妻のリベカも問題をこじらせました。夫イサクが年を取り、霊的な分別力を失った時、きちんと神様の方法で解決せず、自分の思いと計画で解決しようとしたのです。つまり、愛していたヤコブと共謀して、夫と長男エサウを欺瞞しようとしたのです。もしも、その段階である奥様のように、「あなた、神様の御心も知りませんか。視力が悪くても、霊的な目はしっかりすべきでしょう」と正したなら、家庭問題がそこまで深刻にならなかったでしょう。しかし、普段頑固なイサクの性格のせいか、活動的なリベカも今回はなぜか、夫を騙す計画をたくらみました。5b, 7節をご覧ください。まず、リベカはヤコブに、イサクから聞いた話を伝えた後、愛する息子ヤコブを共謀者にしてしまったのです。もしかするとリベカは、双子が生まれる前に神様がくださった言葉を思い出したかもしれません。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民よりも強くなり、兄が弟に仕えるようになる」という言葉(25:23)です。神様の御言葉を覚え、その御言葉に従おうとしたリベカの心は理解できます。しかし、残念にもリベカは神様の方法でこの問題を解決しようとしませんでした。そのまま放置すると、神様の御言葉の通りにならないという焦りのため、自分が計画を立てて神様の御心を成し遂げようとしました。8−10節をご覧ください。“それで今、わが子よ。私があなたに命じることを、よく聞きなさい。/さあ、群れのところに行って、そこから最上の子やぎ二頭を私のところに取っておいで。私はそれで父上のお好きなおいしい料理を作りましょう。/あなたが父上のところに持って行けば、召し上がって、死なれる前にあなたを祝福してくださるでしょう。”リベカはヤコブに命じて、強引に従えわせようとしました。それほど切迫した気持ちはよく理解できますが、それは結局家族に大きな問題を起こしてしまいます。リベカがこの計画を息子ヤコブに話した時、ヤコブはためらいました。11, 12節をご覧ください。“しかし、ヤコブは、その母リベカに言った。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。/もしや、父上が私にさわるなら、私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」。”ヤコブの躊躇は、父イサクに嘘がばれたときのものだけではなく、父を騙すことによって、祝福どころか、のろいを招くことへの恐れがありました。しかし、母リベカは、息子ヤコブの話を通して悟ることができず、自分の計画と思いのままで強引にヤコブを自分の計画とおりに従うようにしました。13節をご一緒に読んでみましょう。“母は彼に言った。「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただ私の言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」”。呪いは自分が引き受け、祝福だけを息子ヤコブが受けるようにという決意です。しかし、リベカは自分の言葉がどういう結果を招くかを悟らず、自分の思いのままに進んでしまいました。その結果、神様に祈らず、ヤコブが夫イサクを騙して祝福を受け取るように仕掛けました。それによってエサウとヤコブの間の兄弟関係も悪化され、結局愛する息子と別れて、二度と彼に会えなくなります。14−17節をご覧ください。ヤコブはお母さんの指示通りに子やぎを取ってくると、リベカは夫イサクの好むおいしい料理をこしらえました。また、長男エサウの晴れ着を取って来て、それをヤコブに着せました。さらに、完全犯罪のために、子やぎの毛皮をヤコブの手と首のなめらかなところにかぶせて、自分が作ったおいしい料理とパンを息子ヤコブの手に渡しました。リベカは、エサウを出し抜いてヤコブを跡取りにするために、ヤコブをエサウに変装させてイサクからの祝福を横取りさせる準備を徹底的にさせました。18, 19節をご覧ください。ヤコブが「お父さん」と呼びかけると、イサクは「おお、わが子よ。だれだね、おまえは」と尋ねました。双子の声は聞き分けにくいかもしれませんが、さすがイサクも少し声が違うと思ったか、「だれだね、おまえは」と聞いたのです。ヤコブはドキリとしましたが、大胆に嘘をついて、「私は長男のエサウです。」, と答えました。イサクはヤコブの料理を前にして、疑いが消えません。20節をご覧ください。イサクは続けて「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」と聞くと、ヤコブは思わず「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」と答えてしまいました。おそらく、ヤコブはうそがばれるのではないかと冷や汗が出たでしょう。神様の方法ではなく、人間の計画で祝福を得ようとした時、結局、神様の名前まで出して嘘ついてしまいました。神様の名前まで出してうそをつくというのは、「あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない」(出, 7)、「わたしの名によって、偽って誓ってはならない」(レビ, 12)という神様の御言葉を破ることになります。みだりに神様の名前を出して嘘をつくことは重大な罪です。この後、ヤコブは兄エサウに憎まれ、愛する母リベカと別れて、ハランの地で20年にも及ぶ苦難の逃亡生活を強いられます。何よりも、自分も叔父ラバンに何度も騙されるようになります。21−27a節をご覧ください。イサクはヤコブに触って確かめますが、ヤコブの腕がエサウのように毛深かったので「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」, と言い、もう一度「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね」, と尋ねました。しかし、ヤコブはイサクのこの念押しに「私です」と力強く答えました。最後、ヤコブが口づけすると、イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福しました。27b, 29をご一緒に読んでみましょう。「ああ、わが子のかおり。【主】が祝福された野のかおりのようだ。/神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒をお与えになるように。/国々の民はおまえに仕え、国民はおまえを伏し拝み、おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子らがおまえを伏し拝むように。おまえをのろう者はのろわれ、おまえを祝福する者は祝福されるように。」神様は、イサクの過ちと、リベカとヤコブの人間的な計画を知りながらも、黙っておられました。いや、その中で神様が働いておられたのです。イサクはエサウを祝福するつもりでしたが、ヤコブを祝福してしまったのです。イサクは、父アブラハムからの祝福が次の世代で実現されるという望みを持ってヤコブを祝福しました(へブル11, 20)。イサクの祝福は大きく、(1)雨と作物の豊かさ(申命記33:28;箴言3:20;詩編133編)、(2)国々のリーダーになること, ?列王記9, 21;マタイ12, 28;マタイ28, 20;黙示録22, 5;ピリピ, 、(3)他の国民に神様の祝福を伝える役割でした。ここから分かるように、神様からの祝福は、私たちが単純に思い描いてしまうように楽に生きていくことや、心配事がなくなること、苦しい経験、辛い経験、悲しい思いをしないというようなことではありません。つまり、神様の祝福は一時的なものではなく、その生涯にずっと共におられるということにあるのです。こうした神様の祝福は、私たちの人生でも同じく言えます。私たちの歩みは、世の人々の幸せの基準からすれば、決して楽な生き方をしているわけではありません。しかし、私たちのすべての生活の中で、神様が私たちと共におられることを体験しています。苦しみの中にも、悲しみの中にも、自分の描いた通りになかなかならなくても、私たちは神様が私たちと共におられることを、たびたび体験するのです。そして、その神様こそ、私たちとともにおられ、私たちの人生を導いてくださる方であると告白するのです。ですから、私たちが愛する人々も、この祝福の中で生きて欲しいと願うのです。神様とともに歩むことが、愛する私たちの家族と子どもにとって、ほかの何にも勝る幸いとなるからです。30−32節をご覧ください。イサクがヤコブを祝福した後、エサウが料理を持ってきました。しかし、すでに祝福の受け渡しは終わってしまいました。?。激しく身震いするイサク(27, 33−45)33節をご一緒に読んでみましょう。“イサクは激しく身震いして言った。「では、いったい、あれはだれだったのか。獲物をしとめて、私のところに持って来たのは。おまえが来る前に、私はみな食べて、彼を祝福してしまった。それゆえ、彼は祝福されよう。」”騙されたことを知った時に、イサクは激しく身震いしました。その身震いは、自分を騙した妻リベカと息子ヤコブに対する怒りや悲しみに震えたのではなく、神様の臨在を感じたからでした。神様の御心は、神様の祝福を煮物一杯に売ってしまうようなエサウではなく、その祝福の素晴らしさを知っているヤコブを継承者として立てることでしたが、イサクは自分の思いのままでエサウを立てようとしました。子供たちが生まれる時、リベカにくださった神様の御言葉の意味を深く考えるべきでした。何よりも、エサウが神様を知らない女性たちと結婚し、自分とリベカの悩みの種になった時、イサクは悟るべきでした。父アブラハムがどれだけ苦難の人生を通して神様の祝福をいただき、それを継承させるために、信仰の女性リベカと結婚させたその思いを忘れてはいけませんでした。しかし、人間的な好みのため、神様の導きに鈍感になり、盲目的にエサウを愛し、息子ヤコブに騙されて、やっと神様の御心に気づくようになったのです。ヤコブに騙され、ヤコブを祝福するようにさせた神様の働きに気づいた時、いかに神様に祈らず、自分のわがままで物事を決めたかを悟ったのです。神様が人間の思いや人知を超えて生きて働いておられることを悟った時、その神様に対する恐れがイサクを震えさせたのです(エペソ3, 19)。人間がどのように振舞っても、神様のご計画を妨げることはできません。私たちのすることは全て、私たちの時でさえも、神様の御手の中にあるわけです(詩, 15;詩, 7;詩, 5)。そしてその全てが、神様のご計画が実現するために用いられるわけです。人間が神様に従おうと、背こうと、どちらにしても実現するのは神様の御心です。そのことを知った時、人間は震えずにはいられないのです。心の底から神様を恐れるようになるのです。今日の御言葉を通して何故イサクのような人が、信仰の先祖となったのかがわかるような気がします。イサクも私たちのように弱さを持っていましたが、神様の臨在を感じた時、身震い、自分の自我と自己中心的な考えをおろし、神様の御心に従ったからです。神様はこのようなイサクを救いの御業に用いられました。私たちもイサクのように神様の御心を感じた時、身震い、悔い改める生活をしていきたいと思います。そうするとき、私たちの生活には霊的な変化があり、成長があり、未熟な私たちを神様は用いてくださると信じます。神様は、時には思わぬ出来事を通して、私たちの過ちを悟らせる場合があります。時には失敗を通して私たちの過ちを悟らせます。そこで、神様は信仰の人たちを試練に会わせられます, 創22:1;ルカ8:13;ルカ22:28;?コリント10, 。なぜなら、失敗や苦難のような試練と艱難が忍耐を生み出し、私たちの罪深い品性が変えられ、いずれ信仰の希望に至るようにするからです, ロマ5, 3、4, 。ダビデは、偉大な信仰の人でしたが、彼も情欲に弱く姦淫の罪を犯してしまいました。当時の権力者のように、王の権力で部下のウリヤの妻バテ・シェバを奪いました。しかし、神の人、ナタンに自分の罪に対して責められた時、ダビデは「私は主に対して罪を犯した。」と告白し、悔い改めました(?サムエル12, 7、13)。一方、ダビデと対照的に、サウルは、神の人サムエルの責めの言葉に悔い改めませんでした, ?サムエル15, 。聖書の中の偉大な信仰の先輩たちは罪を犯さなかった人ではなく、罪を犯した後、それに気づいた時、神様の前で真摯に悔い改め、悔い改めに相応しい実を結んだ人たちです。イサクもそういった人でした。私たちもイサクのように、弱さのゆえ自己中心的なことを行ったとしても、神様の悟りに敏感に反応して悔い改めることができるように祈りたいと思います。とりわけ、問題がある時だけではなく、祝福の時も祈って、物事を決めることが出来るように祈ります。イサクとリベカも子供が生まれない時はよく祈ったはずですが、子供に祝福を与える過程ではイサクもリベカもあまり祈らなかったのです。また、祈る時は、自分の思いを主張せず、ゲツセマネで祈られたイエス様のように神様の御心を成し遂げてくださるように祈りたいですね(マタイ26:39)。34−40節をご覧ください。イサクは、泣きながら祝福を求めるエサウに、すでに神様からの祝福が終わったことを伝えました。エサウの子孫の地エドムは、農耕には向きませんでした。そしてエドム人は、ヤコブの子孫イスラエル人に、ダビデ王の時代に支配されます(?サムエル8, 14)。しかし、イサクが「おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを自分の首から解き捨てるであろう。」, と付け加えたように、のちに独立することになります(?列王記8, 20)。騙したヤコブに問題があったかもしれませんが、エサウにはもっと深刻な落ち度がありました。ヤコブが食べ物の引き換えに長子の権利を求めた時、ヤコブが後継ぎになりたがっていることをエサウは心得ていなければなりませんでした。しかし、彼は自分にとって都合のいいようになるだろうと考えていたのです。神様からの祝福を受け継ぐということを軽く考えていたということになります(25:34)。神様からの祝福を受け継ぐということほど大切なことはありません。エサウは騙されたことを知った時、悲痛な叫びをあげて激しく泣きました。神様の祝福にあずかることができないということはそういうことです。神様の祝福にあずかることができるかどうかということは人生最大の問題です。41節をご覧ください。“エサウは、父がヤコブを祝福したあの祝福のことでヤコブを恨んだ。それでエサウは心の中で言った。「父の喪の日も近づいている。そのとき、弟ヤコブを殺してやろう。」”エサウは父イサクのように悔い改めて、神様の御言葉に従っていこうとすべきでしたが、むしろ自分の感情のままに弟を殺そうとしました。上記で上げたサウルもエサウのようにダビデをずっと殺そうとしましたが、結局惨めな最後を遂げるのです。42−45節をご覧ください。エサウの殺意の問題を解決するために、リベカはヤコブを、しばらくの間、兄ラバンのもとに送るという計画を立てます。ところが、これは、彼女の予期せぬ方向に流れました。ヤコブはラバンのところに行きますが、20年間離れて、彼が戻ってこないうちに、リベカは天に召されます(31:38)。神様の御心を知っていても、神様の方法ではなく、自分の思いと計画で行う時、試練が待っているのです。私たちがいつも神様の方法で神様の導きに従う人になるように祈りたいと思います。何よりも、イサクのように神様が悟らせてくださった時、謙虚に自分の罪を認め、悔い改める生活が出来るように祈ります。

14Genesis4M 罪を犯した人間と神様の愛

14genesis4m, 罪を犯した人間と神様の愛, 2014年創世記第4講罪を犯した人間と神様の愛御言葉:創世記3:1−24要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」, 先週、私たちは神様の人間創造は特別であると学びました。神様は人の鼻にいのちの息を吹き込んで神様と交わるができるようにしてくださいました。素晴らしい環境も備えてくださいました。人が神様を愛し、互いに愛し合える家庭も造ってくださいました。では、どうして、神様は世界を造られ、人間を造られたのでしょうか。聖書には神様がお造りになったことが宣言されているだけです。その理由は記されてありません。どうしてでしょうか。それは神様のご品性にあると思います。?ヨハネ4, 8節に「愛のない者に、神は分かりません。なぜなら神は愛だからです。」とあります。神様は「愛」です。愛さずにはいられないようなお方が神様です。愛するために世界を造り、人間をお造りになったのです。そういう意味で「君は愛されるため生まれた, 作詞・作曲, イミンソプ, 」というゴスペルソングの歌詞は素晴らしいと思います。「君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている♪君は愛されるため生まれた♪君の生涯は愛で満ちている//永遠の神の愛はわれらの♪出会いの中で実を結ぶ♪きみの存在が私には♪どれほど大きな喜びでしょう//君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪君は愛されるため生まれた♪今もその愛受けている♪」とあります。愛であられる神様がその愛のゆえに創造されたので私たちはその愛を受けているのです。ところが、最初の人間はその愛を拒みました。サタンのささやきに騙されて神様の愛を拒み、神様に逆らいました。罪を犯してしまったのです。それにもかかわらず、神様は人間を見捨てになりませんでした。神様は人間を捜し求め、見つけると、救いの道を約束してくださいました。定めの時になると、神の御子イエス・キリストを遣わしてくださいました。そして、御子を信じる者は救われて永遠のいのちを持つようにしてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。?.あなたはどこにいるのか(1‐13) 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。「狡猾」という言葉はもともと「賢い、頭がいい」という意味です。ところが、その狡猾さのゆえに、蛇はサタンに用いられてしまいました。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言っています。非常に巧みで陰湿です。蛇は「園のどんな木からも食べてはならない。ほんとうにそんなひどいことを言われたのですか。」というようなことを言ったのです。神様の愛を疑わせてその関係を崩そうとしました。先週、学んだばかりの2章16, 17節を開いてみましょうか。「「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」とあります。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。食べ放題です。何でも自由に食べることができました。ところが蛇は神様が「園のどんな木からも食べてはならない」とほんとうにひどいことを言ったのです。「あれもだめこれもだめではつらいでしょう」というようなことを言って人を神様の愛から引き離そうとしています。でも、女が簡単に騙されるのはありませんでした。2、3節をご覧ください。「女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」とあります。女は蛇の言葉を訂正しています。確かに神様は「園のどんな木からも食べてはならない。」とは言われませんでした。園にある木の実を食べてよいのです。それは間違いではありません。しかし、蛇のささやきに女の心が揺れているように思われます。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。ここで、「どの木からでも」「思いのまま」という御言葉の中に神様の愛が満ちていす。ところが、女の心は神様の愛への感謝が薄れてしまいました。女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」と言いました。神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言います。つまり、女の心は揺れていては神様の御言葉に自分の思いを付け加え、曖昧に変えています。実はそれがサタンの狙いでした。サタンの関心は御言葉を曖昧なものにし、誤解するようにします。それによって人を神様の愛から引き離そうとするのです。4、5節をご覧ください。「そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」」とあります。蛇は心が揺れている女を見て神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるとも言いました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまでも望むのです。それで、野球の神様、相撲の神様、学問の神様などがあります。サタンはこのような人間の心を巧みに利用しました。結局、女はどうなりましたか。6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。女はその実を取って食べてしまいました。一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べました。すると、蛇が言ったようにふたりの目は開かれました。それで彼らは自分たちが裸であることを知りました。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作りました。結局、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になりました。神様との関係も神様の御顔を避けて逃げ回る孤独な人生、不安と恐れの人生を生きるようになってしまいました。人間同士の愛の関係も、神様との愛の関係も崩れてしまったことが分かります。神様が造ってくださった環境は変わっていないのに、自分を隠して暗闇の園で恥ずかしい人生を生きるのです。ここに人間の悲劇があります。人間は神様の愛を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。9節をご一緒に読んでみましょう。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」『あなたは、どこにいるのか』とはヘブル語で「アイェーカ」です。たった一つの言葉「アイェーカ!」です。皆さんにはどのように聞こえているでしょうか。厳しく大声で「あなたはどこにいるのか?」と聞こえるでしょうか。あるいは小さな声で「あなたは、どこにいるのか。」とささやいているように思えるでしょう。「あなたはどこにいるのか!」私には深い悲しみを込めて呼びかける父親の声を感じます。私にはただ一度父から殴られた記憶があります。小学校3年生の時だったと思います。父はお酒を飲まない代わりにタバコをよく吸っていましたが、たまに私にタバコの買い物を頼みました。ところがある日、私はタバコを買って家に戻る途中に友だちに会って遊んでしまいました。ちょっとだけ遊ぶつもりでしたが長くなったのか、父が来て私を捕まえて行きました。家に戻ると気が狂ったかのように殴りました。海には満潮, 上げ潮, 、干潮, 引き潮, の時がありますが、私のせいで遅れていたからです。その時、祖母が来てくれて助かったのですが、私はその場で家から逃げました。夜になっても家に戻れませんでした。祖母が友達の家に隠れていた私を見つけて連れて行きましたが家に入ることはできませんでした。父に罪を犯した私は父が恐くて家に入れなかったのです。ところが、海の漁から帰って来る父が「お前、何でそこにいるの。速く入りなさい。」と言いました。全然殴ったことがなかったかのように、でも悲しい顔で「お前、そこで何をしているの。」と言ってくれたのです。優しい父の愛の声です。父がいなくなった今でも私の心に鮮やかに残っている父の愛の声です。このように、神様は深い悲しみの中からアダムに「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださったと思うのです。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は人が自分の罪を言い表わして悔い改めることを望まれました。それによって罪が赦され、愛の関係性が回復されるからです。聖書に「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。, ?ヨハネ1, 」とあります。もし、アダムがここで、自分の罪を言い表わして悔い改めたなら、人の罪は赦され、きよめられて神様との関係が回復されたはずです。ところが、アダムは何と答えましたか。12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。夫婦喧嘩が始っています。人アダムは、女が与えられた時、「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉」と喜びました。「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから」と神様に感謝しました。それが今、「この女が悪いんです」と言っています。それだけではありません。「あなたが私のそばに置かれた」と言いました。「あなたが私に与えたこの女さえいなければ、こんなことにはならなかったんです。」と神様を責めているのです。このようなアダムの態度は彼の息子カインにも遺伝されて行きます。ヨセフを妬んだ彼の兄弟たち、荒野のイスラエル人にも遺伝されて行きます。今は全人類に遺伝されているように思われます。イエス・キリストを信じて生まれ変わらない限り、何でもかんでも人のせいにします。親のせいにし、教師のせいにしています。政治家のせいにしています。そして、神様のせいにしています。「人のせいにするな。」と言いながら自分も人のせいにしています。嫌な人間の姿です。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。?.救い主を約束された神様, 14‐24, 14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。何も聞かずに呪われました。しかし、人間に対する神様の愛はどうですか。, 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与えましたが、蛇を用いたサタンに対する神様の裁きです。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。そうしてサタンに支配されている人々を罪から救われるという約束です。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。アダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちのすべての罪を背負って十字架にかかって死なれましたが死者の中からよみがえられました。それによって神様が女の子孫イエス・キリストによってサタンの頭を踏み砕かれたことを明らかにしてくださいました。それによって神様は罪と死の奴隷となっている私たちを救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。人間は愛されるために生まれたにもかかわらず、神様に愛されることを拒みました。大いなる神様の愛を裏切り、神様の御言葉に逆らってしまいました。それにもかかわらず、神様は人を呪いませんでした。神様は私たちを救うために女の子孫を約束し<、約束の通りに御子イエス・キリストを通して救いのみわざを成し遂げてくださったのです。しかも、神様はご自分の約束の実現のために人間を保護してくださいます。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 とあります。蛇は呪われ、男のゆえに土地が呪われました。しかし、女については苦しみがあっても、呪いはありません。女のみごもりの苦しみは救い主の誕生につながるのです。そのために、神様は人間を保護してくださいます。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。これも罪人に対する神様の愛の表現です。, では、神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22‐25節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神である主は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。」と言うのは皮肉的な表現です。人間が神様になったのではありません。「神のようになる」というサタンの誘惑に負けてしまった彼らの罪を指摘し、そのために神様と直接に交わることができないようにエデンの園から追い出すのだということです。しかし、完全に捨てたのはありません。「いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」とあります。ここでケルビムは、翼のある一対の御使いのような存在です。幕屋や神殿では、神様が臨在される最も聖い所、至聖所に十戒の2枚の板を納めた契約の箱が置かれます。つまり、御使いたちを通して人間を守り、保護してイエス様の十字架と復活を通してエデンの園を回復させてくださるということです。それでイエス様が十字架にかかって息を引き取られた時、エルサレム神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けました。十字架でイエス様が流された血によって、私たちを神様から隔てるケルビムの幕はなくなりました。ですから、私たちは、ただ、このイエス・キリストの十字架の贖いを信じることによって救われます。神様との愛の関係を回復することができます。十字架の血はすべての罪から私たちをきよめます。私たちの希望はただ十字架の福音にあります。十字架こそが私たちの恥を覆う神様の愛の衣であります。十字架のイエス様の肉体こそが、私たちが神様のお会いする垂れ幕です。たとえ自分の心が責めても、人知をはるかに超えたキリストの愛において罪が赦されて神様に愛される人生を生きるのです。 以上で、サタンの誘惑、神様の保護、変わらない神様の愛を学びました。私たちはサタンの誘惑に騙されないためにはどうすればいいでしょうか。まず御言葉を正確に学び、堅くつかんでいなければなりません。御言葉を曖昧にしてはいけません。でも、もし、罪を犯した場合はそれでも私に探し求めておられる神様の愛を覚えましょう。愛の御声に耳を傾けましょう。そうして、自分が今どこにいるのかを発見して神様の家に戻るのです。神様はイエス・キリストの十字架の血潮によって私たちを赦し、迎え入れてくださいます。皆さんは、今どこにいますか。先週金曜日は韓国のお正月でうちの学校は休みでした。それで、私は故洪ヨセフ宣教師のお墓参りをしてきました。いろいろ考えさせられました。帰りに床屋さんによって髪の毛を切って心を新たにしました。この時間も、神様は私たちに「あなたは、どこにいるのか」と呼んでおられます。神様は人間が神様から愛されることを拒み、神様に逆らったにもかかわらず、見捨てられませんでした。神様は相変わらず愛しておられました。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。今週も、この神様の愛、キリストの愛を堅く信じて勝利しますように祈ります。

14Genesis11M 星を数えることができるなら、それを数えなさい

14genesis11m, 星を数えることができるなら、それを数えなさい, 2014年創世記第11講星を数えることができるなら、それを数えなさい御言葉, 創世記15, 1−16, 16要節, 5「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」」フランスの数学者・哲学者・思想家だったブレーズ・パスカルは「神を感ずるのは心情であって理性ではない。これが信仰と言うものである。」と言いました。私も共感しているところです。アブラムを召され、彼を導かれた神様を理性では理解することができません。アブラム自身も理性では神様の導きが理解できなかったことでしょう。ところがアブラムは心情で神様を感じ、御言葉を信頼して従いました。すると、彼は神様の御言葉を体験することができます。そうしてますます深く神様と交わり、信仰が成長して行きました。先週、14章を通して学んだようにアブラムはロトを救い出すために自分の家で生まれたしもべ318人を召集してケドルラオメル大同盟軍と戦い、勝利しました。でも、それは理性では理解できない非常識、無鉄砲の行動でした。何とか国々の王たちと戦って勝利しましたが、戦いの後には連合軍の報復を恐れるようになりました。その上、命がけの戦いで救い出したロトは再びソドムの地での世俗的な生活に戻ってしまいました。この現実を思うと、ほんとうに寂しく、虚しくもなりました。そんなアブラムに主のことばが臨まれました。神様は現実の問題に縛られているアブラムに約束の御言葉を与えられます。彼の家庭の問題も解決してくださいます。この時間、御言葉を通して偏狭な自分の世界、現実問題から目を上げて神様の世界を仰ぎ見ることができるように祈ります。神様の御言葉を信じて神様に義と認められ、祝福される人生を生きることができるように祈ります。?.恐れるな。わたしはあなたの盾である15章1節をご覧ください。「これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」」とあります。神様は連合軍の報復を恐れているアブラムに「アブラムよ。恐れるな。」と励ましてくださいました。神様は「アブラムの盾である。」から恐れる必要がありません。「盾」は昔の戦いで自分を守る武器です。現代の家やパソコンを守るセキュリティ・システムと言えます。神様は最高のセキュリティ・システムより安全に私たちを守ってくださるお方です。神様は高感度のセコムのレーザーセンサーよりも遥かに高い感度の聖霊のセンサーで私たちを守ってくださいます。それだけではありません。神様は報いてくださる方です。神様は「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と約束してくださったのです。実際に、神様が信仰によって良心的に生きている人が受ける報いは非常に大きいです。やがてアブラムは体験して行きます。子どもが生まれるし、あらゆる面で祝福された人生であると告白するようになります。 ところが、私たちはアブラムと同じく、神様の御言葉に従って来たにもかかわらず今の状況が良くなければ恐れと不安感に苛まれます。漠然として不安感に苛まれて苦しんでいる人もいます。何度も挑戦したのになかなか就職が決まらないと不安になります。「はたして就職できるだろうか」と恐れます。就職すると安心して生きられるでしょうか。会社員は「リストラされるかも知れない。」「この会社が倒産するかも知れない。」と言う不安感に苛まれている場合が多いです。未婚の方は結婚に対する不安と恐れがありますが既婚の方は子育てや子どもの将来のことで恐れ、不安感に苛まれて苦しみます。それだけではありません。今月8日未明に乗客乗員239人を載せたマレーシア航空機が姿を消してしまいました。いつ、どこで何が起こるか分かりません。通り魔事件もあります。会社生活、社会生活の中では中傷・あざけり、おどし等などが私たちに襲って来ます。私たちが信仰によって勝利したとしてもサタンの報復は終わっていません。私たちの敵であるある悪魔が、ほえたけるししのように食いつくべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5, 8)。だから、私たちはしばしば恐れと不安感に苛まれて苦しむのです。しかし、神様を信じている人は恐れなくてもいいです。神様は私たちにも言われます。「アブラハム寺崎よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」「祈祷よ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」神様は必ず私の盾、あなたの盾となってくださいます。この険しい世の中でも、神様は私たちを守り、私たちの行く先々に勝利を与えてくださいます。また私たちの受ける報いは非常に大きいものになります。 ですから、私たちは安心して平安に生きることができます。私たちが理性的に考えないで心から神様に信頼するならば、私たちは衣服の下に防弾チョッキを付けているようなものです。神様があらゆる敵から私たちを守ってくださるからです。また、神様は神様を信じて生きる私たちに報いてくださいます。私たちの受ける報いは非常に大きいものです。 ○○牧者はフランスで留学してきて東京大学を卒業しました。日本社会で言うところの典型的エリート街道驀進中のキャリアウーマンでした。でも、イエス・キリストを信じてからアブラムのように新しい出発をしました。世間では理解できないほどに貧しい留学生と結婚してアルバイトしながら学生の夫を支え、二人の子育てもしてきました。将来に対する恐れと不安もあったことでしょう。でも彼女は○○姉妹を始め、兄弟姉妹たちに仕え、赤門フェローシップのみわざに同労して来ました。オーケストラを結成し、忠実に仕えて来ました。それにもかかわらず、夫の崔ヨセフ宣教師の卒業が伸ばされ、就職がなかなかできなかった時もありました。ヨセフ宣教師が福岡に行っている2年間は夫と離れて生活をしてきました。時々、このような事情を考えると私自身が心配になりました。ところが、神様は今年ヨセフ宣教師を福岡ubfの支部長、九州でトップの秀才が集まる九州大学の準教授にならせてくださいました。すでに兄弟姉妹たちも送ってくださって霊的に育てるようにしてくださいました。 私はこの家族を見ながら神様がご自分を信じる者たちの盾となって守ってくださること、彼らに非常に大きい報いがあることを深く悟り、確信するようになりました。神様は決してご自分を信じる者たちが滅びるようにすることはなさいません。ご自分の子どもたちを手放して置くこともなさいません。宇宙的なセキュリティ・システムで私たちを守り、私たちの将来を保証してくださいます。神様は私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいます。私たちの盾となり、非常に大きい報いとなってくださる神様に心から感謝を申し上げます。 ?.天を見上げなさい 2, 3節をご覧ください。「そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。」とあります。アブラムは神様から「非常に大きい報い」と言われても理解できませんでした。彼の心には子どもの問題しかなかったからです。そこで、彼は「私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう」と言いました。彼は落胆していることが分かります。私たちもなかなか自分の問題が解決されない時は、神様の御言葉が聞こえません。神様は大切な事ほど小さな声でささやきますが、それを聞き取ることができないのです。では神様はアブラムをどのように助けてくださいましたか。4節をご覧ください。「すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」」とあります。原語のヘブル語では、かなり強い語調で「その者があなたの跡を継いではならない。」と命じられているそうです。神様は、強い意志でアブラムから生まれてくる者がいるのだとおっしゃったのです。神様はアブラムが理性で考えて現実の可能性ばかりに目を向けることを叱られました。そして、ただすべてをお造りになった神様にある可能性を覚えるように助けておられます。それは天を見上げることでした。5節をご一緒に読んでみましょう。「そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」神様がアブラムを外に連れ出して神様が造られた世界の天を見上げるように命じられました。それは人間の可能性ばかり考えないで天地の創造主であられる神様を仰ぎ見なさいということです。それから神様が造られた星を数えることができるなら、全能の神様を考えなさいということです。実際に、アブラムが天を見上げて星を数えると、それを数えることができたでしょうか。東京に住んでいる私たちには星を数えることができるかも知れません。最近は朝5時になってもかなり明るくなっていますが、まだ暗い時は夜空の星が見えます。時々私は数えてみます。12個くらいで数えられなくなります。47個まで数えてみたいと思いますが一度もできませんでした。しかし、実際には数え切れない星があります。私たちの太陽系が属する銀河系には、2, 000億個の星があると言われています。そして、宇宙には銀河が1, 000億個以上もあると考えられています。まさに天文学的な数の星があるといえるでしょう。それらをどうやって数えることができるでしょうか。地球から人間の目で見える星の数だけでも7, 500個くらいだと言われていますがそれでも数えることは無理です。この無限な世界を造られた方が神様です。ですから、神様には不可能なことがありません。おそらく、アブラムは天を見上げて無限な世界を造られた全能の神様に気づかされたことでしょう。その時に、神様は「あなたの子孫はこのようになる」と仰って下さいました。神様のご計画は実に遠大なものでした。アブラムの想像をはるかに超えていました。神様はアブラムから子どもが生まれることだけではなく、その子孫は数えることができないほどに多くなると約束してくださったのです。私たちは自分の人生を自分の可能性の中で切り開くものだと考えています。自分の学歴や会社の資本金、親からの相続財産などで自分の人生が決まると思っています。ですから、それらの有無によって自分の人生の可能性も決めつけてしまいます。しかし実際はそうではありません。アブラハム寺崎牧者の家庭でも7年目に子どもが生まれました。奇跡は起こります。決して神様には不可能なことなどないのです。神様のご計画の通りにアブラハムの子孫は夜空の星のように数多く広がりました。イサク、ヤコブ、ヨセフに続いてダビデに繋がり、ダビデの子孫からイエス・キリストが生まれました。イエス様がお生まれになるとき、東方の博士たちがメシアの星を見て遠い東からベツレヘムまで訪ねて来ました。それで、ユダヤ人だけではなく、キリスト教も、イスラム教もアブラムの子孫であることを誇りにしています。このように、神様は私たちひとりひとりにも遠大な計画とビジョンを持っておられます。イザヤ55章8,9節を見ると, 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」とあります。エレミヤ29章11節を見ると「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。 ――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」とあります。天が地より高いように、神様のご計画は私たちの思いより高く遠大なものです。時々、私たちはちっぽけなことで悩み、恐れています。しかし、神様は私たちが夜空に輝く星のようにこの世の中で輝く将来と希望を与える計画を持っておられます。この時間、私たちが目を上げて神様の広大な世界、荘厳な世界を見ましょう。今の現実が暗ければ暗いほど、苦しければ苦しいほど天を見上げてください。夜空に輝く星を数えてみてください。神様は私に災いではなくて平安を与える計画を持っておられます。神様のなさることは、すべて時にかなって美しいものです。神様は必ず私たちに最高のもの、最上のものを与えてくださいます。神様はアブラムに息子イサクを与えてくださいました。ですから、私たちは神様の約束の御言葉を信じ、私に対する輝かしい将来と希望も計画しておられることも信じて行かなければなりません。どうか、神様が夜空に輝く星のような祝福を計画しておられることを受け入れてどこまでも神様の御思いに心を合わせて生きることができるように祈ります。では、神様の約束に対するアブラムの反応はどうでしたか。 6節をご覧ください。「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。アブラムは主を信じました。アブラムは自分に与えられた約束の御言葉を信じました。それを神様は喜ばれます。人間的には何の根拠もありません。ただ、神様がそう言われるので信頼します。それが信仰です。人間的な根拠を求め、理性的に考えるのではなく、それを超えて素直に信じるのです。父親が約束したことを、子どもが「どうせ父さんは口だけなんだから」と考えてしまうなら、親としては悲しいことです。しかし、「ぼくは父さんを信じるよ」と信頼してくれるなら、嬉しいものです。それと同じように、私たちの父なる神様は、私たちが約束の御言葉を信じることを喜ばれます。満足なさいます。そして、そのような信仰を神様は喜ばれ、義とされるのです。神様は私の立派な何かを根拠にして喜ばれるのではありません。子が父を信頼するように、神様を信頼し、神様の御言葉を信じる者を神様は喜ばれるのです。そのような者を神様は義と認められます。私たちもアブラムのように神様の御言葉だから素直に受け入れて信じる信仰を持って生きるように祈ります。神様に信頼しながら歩む人生は、神様に造られた者として神様の造られた世界で、神様の御力を味わいながら歩む人生になります。アブラムはその信仰の人生を選び取りました。すると、神様は彼の信仰を義と認められることだけではなく、彼をカルデヤ人のウルから連れ出した目的を教えてくださいました。それはカナンの地をアブラムの所有として与えるためでした。8, 21節を見ると神様がアブラムと彼の子孫が所有する地に対して契約なさったことが記されてあります。?.主は私をご覧になっている16章にはサライの問題を解決されたことが記されてあります。神様は、アブラムの子孫を星の数のようになさると約束されました。年老いたアブラムはそれを信じました。しかし、現実を見ると妻サライにはすぐに実現しそうには思われませんでした。そこで、サライはアイディアを出してひとつの提案をしました。自分には子ができないので、女奴隷のハガルによって夫アブラムの子を得ることです。いわゆる、代理母出産です。このような方法は当時の一般的な風習でもありました。そこで、アブラムもあまり深く考えませんでした。人間的には問題がなかったからです。しかし、それは信仰的な方法ではありませんでした。ハガルが妊娠すると、彼女は高ぶるようになりました。主人であるサライを見下げるようになりました。これでは本末転倒です。妻であるサライの立場がありません。サライは厳しい仕打ちをハガルに向けるようになります。ついにハガルは、サライの顔を避けて逃げ出しました。アブラムは神様の約束の御言葉を信じて義と認められたし、サライもそれを知っていたはずです。ところが、彼らは不安感と焦りに苛まれて人間的、理性的に考えてしまいました。その不信仰から家庭に問題が生じました。夫婦が信仰の中心を守り続けたなら、家庭問題も生じなかったはずです。新約時代のバプテスマのヨハネ「あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。」と言っています。もし、アブラムとサライがこういう信仰を持っていたなら家庭の危機が来なかったでしょう。ところが、彼らは理性的に考えてあれこれをもって実現しようとした結果、問題が大きくなってしまったのです。ただ、あわれみ深い神様はサライとアブラムの失敗にもかかわらず、その家庭を見捨てませんでした。神様はハガルに現われて家に戻って女主人に仕えること、お腹の子をイシュマエル(「神は聞かれる」の意)と名付けることを告げてくださいました。このような神様の助けによってハガルは勇気を得ました。顔も見たくないと思っていたサライのもとに帰ることができました。それは、奴隷の自分さえも、主はご覧になっているのだと知ったからです。それまでのハガルにとって、神様は、アブラムにしか現れてくださらない遠い存在でした。しかし神様は自分もご覧になっておられました。神様は卑しい女奴隷の自分にさえ語ってくださいました。そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエル・ロイ。」と呼びました。エル・ロイ」とは「神は私をご覧になっている」という意味です。ハガルはこの事件を通して、霊的な視点が開かれるようになりました。それが「エル・ロイ」です。神様が私をご覧になっているという視点です。私たちには誰も分かってくれるはずがないと思われる悲しみや苦しみに悩む時があります。自分の苦労を誰も認めてくれない時もあります。しかし、神様は私をご覧になっておられます。この時間、一緒に神様に告白してみましょう。「あなたはエル・ロイ」そうです。主は私をご覧になっているのです。私の主はエル・ロイです。 どうか、私たちひとりひとりが天を見上げて神様の世界を見ましょう。そしてこの世界を造られた神様を信じ、神様から与えられた御言葉を信じて生きるように祈ります。

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m14easter2.よみがえりといのち

m14easter2, よみがえりといのち, 2014年イースター修養会主題講義第2講よみがえりといのち御言葉:ヨハネの福音書11:1−44要 節:ヨハネの福音書11:25,26「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」 私たちは、昨日の御言葉を通して、イエス・キリストの十字架の恵みについて、学びました。イエス様は、私たちの罪のために、十字架の上で死なれました。しかし、聖書に記されている通りに、三日目に死者の中からよみがえられました。イエス様のよみがえりによって、私たちの罪は赦されました。そして、長い間私たちを苦しめていた死の勢力から解放されました。セレブレイト ジーザス。主の御名を褒め称えます。 今日学ぶ御言葉は、ヨハネの福音書に出て来る七つの奇跡の中で、一番最後の奇跡にあたります。イエス様は、死んだラザロをよみがえらせることによって、ご自分がよみがえりであり、いのちであることを明らかにされました。誰でも、このイエス様を信じるなら、イエス様のようによみがえる望みが与えられます。この時間、聖書の御言葉を通して、一人一人が、よみがえりであり、いのちであるイエス様を受け入れる中で、復活信仰の上に堅く立てられますように、お祈りします。?.この病気は死で終わるだけのものではない(1―18) エルサレムから3km離れた所にベタニヤという町がありました。その町に、ラザロとマリヤ、その姉妹マルタが住んでいました, 。このラザロが病気にかかりました。危篤状態にあり、生死の境をさまよっていました。一刻の猶予も許されない緊急事態でした。しかし近くには救急病院もありませんでした。その時、マリヤとマルタはどうしたのでしょうか。 3節をご覧ください。「そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」彼女たちには、「イエス様ならきっと直してくださる」という確信がありました。それですぐにイエス様の所に使いを送りました。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」  では、イエス様はどのようにされたのでしょうか。4節をご覧ください。「イエスはこれを聞いて、言われました。『この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』」一般的に病気はつらく、悲しいものです。まして、愛する兄弟ラザロが病気にかかり、死んでいく姿をそばで見ているマリヤとマルタは、どれだけつらい思いをしているのでしょうか。もちろん、イエス様も彼女たちのつらい気持ちを理解してくださいました。彼らを愛しておられるからです, 。しかし、イエス様は神様の観点からご覧になりました。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」では、イエス様はどのようにして、神様の栄光を現わそうとされたのでしょうか。 6節をご覧ください。「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」なぜイエス様は、すぐにラザロのもとに行かれず、そのおられた所になお二日とどまられたのでしょうか。3節に出てくる「愛」は、ギリシャ語では「フィレオ」(友情)となっています。マリヤやマルタは、イエス様との関係を、単なる友情としてとらえていました。ところが、5節に出て来る「愛」はそれとは違っていました。ギリシャ語で「アガぺ」、すなわち神様の絶対的な愛で表現されています。ラザロとマリヤ、その姉妹マルタに向けられたイエス様の愛は、条件のない、絶対的な愛、完全なものでした。イエス様は死んだラザロをよみがえらせることによって、彼女たちに「復活信仰」を植えようとされました。彼女たちがさらに一歩、霊的に深い世界に踏み出すことを願っておられました。そのことを通して、イエス様は神様の子の栄光を現わそうとされました。 7節をご覧ください。イエス様は、弟子たちに言われました。「もう一度、ユダヤに行こう。」それを聞いた弟子たちは非常に驚きました。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」弟子たちは、死を恐れていました。死ぬと終わりだと考えているからです。弟子たちだけではなく、ほとんどの人が死を恐れていると思います。しかし、イエス様は違います。 11節をご覧ください。イエス様は言われました。「わたしたちの友、ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」イエス様にとって、死は「眠り」です。それで、使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章で、「死んだ」という言葉の代わりに、「眠っている」という単語が使っています。死は恐怖を与えますが、「眠り」は安らぎを与えます。どんなに疲れていても、一晩眠ると、心もからだもリフレッシュします。同様に死は、イエス様を信じる人にとっては、安息となります。 ヨハネ5:24節で、イエス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」誰でも、イエス様の御声を聞くなら、その人はいのちを受けます。そして死からいのちへ移されます。さばきから永遠のいのちへ移されるのです。それで、私たちは主にあって、死を恐れる必要はありません。?.「よみがえり」と「いのち」, 19節をご覧ください。ラザロの死によって、ベタニヤはひどい悲しみにつつまれていました。愛する人、頼るべき人を失ったマルタとマリヤの心はどうだったのでしょうか。大勢のユダヤ人たちが、彼女たちを慰めるために集まっていました。故人を偲んで、涙を流し、大声を上げて泣いていました。日本では「香典」(お花代)を包みますが、灰色の筆ペンを使います。これは、「悲しみのあまり、涙で墨が薄れてしまった。」という意味があります。生前、あまり親しい間ではなくても、その人が死んでしまうと、悲しむことがエチケットとされています。ところが、マルタとマリヤは違いました。彼女たちは心の底からラザロの死を悲しんでいました。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」, 。彼女たちはイエス様に助けを求めたのに、なぜイエス様はすぐに来てくださらなかったのか、と不満をもらしました。私たちも、イエス様に祈ったのに、すぐに祈りを聞いてもらえず、以前よりも状態が悪くなった時に、彼女たちと同じような気持ちになることがあるのではないかと思います。「あなたがいてくれたら、こんなことにはならなかったのに。」では、イエス様は何と言われたのでしょうか。23節をご覧ください。「あなたの兄弟はよみがえります。」深い悲しみと失意の中にいるマルタにとって、イエス様のこの御言葉は、なかなか受け入れがたいものでした。理解できないことでした。それでも、マルタは答えて言いました。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」, 。彼女にとって、ラザロが生き返るのは、遠い未来のことのように思えました。彼女は聖書を通して、「復活」を信じていましたが、それが今起こることを知りませんでした。そこで、イエス様は彼女の抱いている復活信仰が確かなものになるように、助けてくださいました。 25,26節を皆さんと一緒に読んで見たいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。このことを信じますか。』」イエス様は、ご自分がよみがえりであり、いのちであることをはっきりと現わされました。そして、このイエス様を信じる者はみな、誰でもその力を受けると約束されています。 第一に、肉体の復活があります。25b節をご覧ください。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」とあります。私たち人間は肉体のからだを持った弱い存在です。けがをしたり、病気にかかったりします。不慮の事故にあって、尊い命を失ったりもします。何気ない言葉によって傷ついたり、相手を傷つけてしまったりもします。何よりも、罪の誘惑を受けて、心ならず罪を犯してしまうこともあります。時には、このような自分のことを考えると、自分が自分で嫌になってくることもあります。しかし、イエス様のよみがえりによって、私たちクリスチャンたちに希望が与えられています。使徒パウロは言いました。「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」, ?コリ15, 。私たちが主なるイエス様と共に歩む時、主と共に死にます。主と共に墓に葬られます。そして、主とともに、死者の中からよみがえるようになります。私たちは初穂であるイエス様を仰ぎ見る時に、イエス様のように死者の中からよみがえる望みを持つことができます。そして永遠の都、天の御国に入る望みを持つことができます。私たちが天の御国に入るその日、卑しい、朽ちる弱い体を脱ぎ捨て、栄光ある朽ちることのない、強いものに変えられていくのです。肉体の体を脱ぎ捨て、御霊に属するからだによみがえります, 。 第二に、霊的な復活が起こります。26a節をご覧ください。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことはありません。」とあります。もちろん主にあって、死は眠りです。いつかイエス様が起こしてくださるでしょう。それだけではありません。根本的に私たちのからだの中にあるたましいは決して死ぬことはありません。私たちがイエス様と共に歩む生活をする時、多くの苦難、迫害を受けることがあります。イエス様を信じているのに、なぜ苦しみを受けなければならないのか、と疑問に思うことがあります。それは、悪魔が私たちをイエス様から引き離すために妨害しているからです。しかしどんなに迫害されても、苦しめられても、私たちの主に対する思いは決してなくなることはありません。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」, ロマ8, 。私たちが主につながっている生活をしている限り、私たちのたましいは滅びることがありません。マルタはイエス様に信仰告白をしました。27節をご覧ください。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」イエス様はマルタが復活信仰を持つように助けてくださった後、ラザロが眠っている墓に行かれました。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてありました, 。そこで、イエス様は言われました。「その石を取りのけなさい。」, 。 イエス様の御言葉を聞いて、マルタはすぐに現実の世界に連れ戻されてしまいました。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」, 。常識で考えると、それは不可能なことのように思えました。しかしイエス様は、マルタの信仰が確かなものになるように助けてくださいました。40節をご覧ください。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」, 。イエス様の御言葉を信じて、マルタは信仰によって、墓をふさいでいた重い石を取りのけました。その時、イエス様は神様に祈られました。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」, 。そして墓に向かって、大声で呼ばれました。「ラザロよ。出て来なさい。」, 。ラザロは、イエス様の御声を聞いてすぐに手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。彼の顔は布切れで包まれていました。イエス様はマルタとマリヤの姉妹のもとに、ラザロを帰らせてくださいました。悲しみと絶望が喜びと希望に変えられた瞬間でした。この日、ユダヤ中に賛美が満ち溢れました。この時間も、イエス様は言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 私は、一昨年前の会社での健康診断で「逆流性胃炎」と診断されました。ちょうどそのころから右目の様子がおかしく、パソコンの画面がかすんで見える日が続きました。そして毎年、この時期になると、ひどい花粉症に悩まされていました。このような状態の中で、イースター礼拝のメッセージを準備して証しすることに、少しためらう気持ちもありました。その頃、パソコンの画面がかすんで見え、仕事に支障をきたし始めました。その時、マリヤ宣教師から医者に行くようにと言われました。それで、意を決して、眼科で受診した結果、右目は末期の白内障で手術が必要であり、左目も初期の白内障であると診断されました。最初状況がうまく飲み込めず、放心状態になりました。あまり実感がわきませんでした。ところが、「手術」という言葉に、絶望するしかありませんでした。自分がそんな深刻な病気にかかっていたなんて、到底信じられませんでした。し、状況をうまく説明できませんでした。それでも、神様の憐れみが私の上に臨まれました。この2−3年の間、私は左目だけで生活したことになりますが、特に、これといった支障もありませんでした。それで私が白内障の手術を受けるようになったことを会社に話した時、会社の人々はみな驚いていました。「よく仕事ができるね。」「大丈夫」 また、神様はヤコブの手紙5:15節の御言葉で、私を力づけてくださいました。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」そして今この時間も、神様は私の祈りを聞いてくださることを信じ、確信するようになりました。すると、神様は私の心を強くしてくださいました。どんな時にも、心から神様を賛美できるように助けてくださいました。6月の中旬には、手術を受ける予定ですが、そのことを通して、メッセージを証しするのに、支障がないように助けてくださいました。 よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今この時間も私と共にいてくださいます。イエス様の奇跡は今でも起きると信じています。このイエス様に頼る時、恐れや不安がありません。今よりもよく見えるようになるという望みがあるだけです。そのことを思うと喜びで満たされるようになります。イエス様はまず、閉ざされていた私の霊的な目を開いてくださいました。そして肉体の目も開いてくださることを信じ感謝します。私によくしてくださったイエス様の御業を証しで来ますように、お祈りします。もう一度、25、26節の御言葉を皆さんと一緒に読んでみたいと思います。「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」よみがえりであり、いのちであるイエス様は、今も私たちのうちに、語りかけてくださいます。そしてこのイエス様を信じる者は、だれであっても、死の勢力から抜け出し、永遠のいのちへと移って行きます。死の勢力に打ち勝ち、喜びで満たされる人生を過ごすことができます。この時間、一人一人が復活信仰の上に堅く立ち、喜びに満ち溢れる人生を歩んでいくことができるように祈ります。「唄おう声を合わせてイエスを祝うために勝利に胸躍らせイエスの誉れを見よイエスは, よみがえられた輝くその姿喜び賛美しようとこしえまで共におられる主イエスを