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13Mark17.主の御名によって来られる方

13mark17, 主の御名によって来られる方, 2013年マルコの福音書第17講主の御名によって来られる方御言葉:マルコの福音書11:1−19要 節:マルコの福音書11:91.1,2節を読んでみましょう。イエス様の一行はどこに近づきましたか。その時、イエス様は二人の弟子たちに、何をお命じになったのでしょうか。イエス様がろばの子に乗って、エルサレムに入ろうとされた理由は何でしょうか, ゼカリヤ9, 。2.3−6節を読んでみましょう。イエス様は弟子たちを送りながら、何と言われましたか。弟子たちはどのように従いましたか。その結果、どうなりましたか。「主がお入用なのです」の意味について、話してみましょう。3.7−10節を読んでみましょう。人々は、イエス様をどんな方として、お迎えしましたか。前を行く者も、あとに従う者も、何と言って叫んだのでしょうか, 詩118, 。「主の御名によって来られる方」について、話してみましょう。4.11−14節を読んでみましょう。イエス様がエルサレムについてから、何をされましたか。翌日イエス様は葉の茂ったいちじくの木に向かって、何と言われましたか。なぜこのように言われたのでしょうか。5.15−19節を読んでみましょう。宮に入られたイエス様は何をされましたか。これほどまでに、御怒りになった理由は何でしょうか。なぜ、祭司長、律法学者たちはイエス様を殺そうと、相談しましたか。

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13DBC2.良いわざに励みなさい

13dbc2, 良いわざに励みなさい, 2013年弟子修養会第2講良いわざに励みなさい御言葉:テトスへの手紙3:1−15要 節:テトスへの手紙3:81.1,2節を読んでみましょう。テトスは聖徒たちをどんな者にするべきなのでしょうか。聖徒たちは、支配者たちと権威者たちに対して、どんな姿勢を持つべきでしょうか。なぜそうしなければならないのですか, ロマ13, 。また、全ての人に対して、どんな態度を示すべきでしょうか。2.3−7節を読んでみましょう。パウロは、「私たちも以前は、どんな者であった」と言っていますか。しかし、どんな人に変わりましたか。「聖霊による、新生と更新との洗い」とは、何でしょうか。以上から、なぜ聖徒たちは、上のような社会倫理を持たなければならないのでしょうか。3.8節を読んでみましょう。パウロは、どんな言葉が良い言葉、と言っていますか, 。テトスは、何について、確信を持って話すべきでしょうか。その理由は何でしょうか。4.9−11節を読んでみましょう。テトスは、聖徒たちを助ける時、どんなことを避けるべきでしょうか。なぜそのようにしなければならないのでしょうか。また、異端に属している人々には、どのように接するべきでしょうか。5.12−15節を読んでみましょう。パウロはテトスに何を頼みましたか。また、人々がどんなことに励むように、教えなければならないのでしょうか。パウロの最後のあいさつは何でしょうか。

13Ezra1M歴史の主管者、神様

13ezra1m歴史の主管者、神様, 2013年エズラ記 第1講メッセージ歴史の主管者、神様御言葉:エズラ記1−2章要, 節:エズラ記1:1「ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」社会学の用語でティッピング・ポイント(tipping, point)という言葉があります。水が100度になった瞬間に、水蒸気となって空気中に放出される現象のように、突然、急激で大きな変化を起こす劇的な瞬間の意味です。私たちの生活の中でも、ビジネスでも、また歴史の中でもティッピングポイントがあります。今日から学ぶ「エズラ記」は歴史のティッピング・ポイントと言えるところです。イスラエルは、捕囚の70年間、希望を失い、暗闇を生きる生活を強いられました。自分たちの罪によって罰せられ、捨てられたと思っていましたが、約束の時になると、神様は、救いの御手の働きを始めました。捕囚生活の70年間は、神様の裁きの警告を受け入れなかった結果、神様から与えられた訓練期間でした。しかし、彼らの罪の結果に対する神様の訓練期間が終わると、神様の回復の働きがありました。約束の神様は怒涛のようにご自分の働きを成し遂げられます。その働きの中では、神様を信じる人だけではなく、神様を全く意識してこなかった人までも用いられます。私たちが今日から5週間にわたって学ぶ「エズラ記」の中には、神様の視点から展開される世界史の中で神様に用いられた3人の王が出てきます。神様は彼らの心を動かして、ご自身の約束を成し遂げるために、彼らを用いられました。 私たちがエズラ記の御言葉を通して、歴史の主管者、神様を深く学び、神様に貴く用いられる人となるように切に祈ります。?。主のことばを実現するために、人々の霊を奮い立たせる神様(1章)1節をご覧ください。「1, ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために、主はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。」今日、学ぶエズラ記の時代背景は、ぺルシヤのクロス王の時です。正確には、クロス2世[kyros](bc559−530)です。彼はアケメネス朝の建国者であり、bc550年に、メディアを滅ぼして建国し、その後、リディア・カルデアを滅ぼし、引き続き、bc539年に、オピスの戦いでナボニドゥスの率いる新バビロニア王国を倒しました。バビロンを滅ぼした後、クロス王はバビロンに入城して、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、強制移住させられた諸民族を解放しました。1節に、「エレミヤにより告げられた主のことばを実現するために」とありますが、これは、エレミヤ書29:10節に預言されていることを指しています。すなわち、「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる」と預言されています。バビロンによってエルサレムが陥落し、エルサレムが荒廃したのが、bc607年ですので、70年後のエルサレムの荒廃が終わらなければならない年は、bc537年でした。国を奪われているイスラエルが70年経つと、約束の地に帰ることができるという主のことばは、すでにbc600年頃エレミヤによって預言されていました。驚くべきことに、このクロス王によるバビロン征服と神殿再建命令は、150年前の預言者イザヤによってもクロスの名前と共にはっきりと預言されていました。イザヤ書44:28節によると、「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』と言う。」」とはっきりと預言されています。クロス王の出現によってエレミヤにより預言された主のことばが実現されたことが分かります。神様はご自分の約束を実現するために、クロス王の霊を奮い立たせたので、彼はイスラエルに帰還命令を出しています。神様は、ご自分の約束を実現するために当時の王を用いていることがわかります。神様は、実際の歴史を、それが起こる何千年、何百年も前から聖書に預言されたのです。預言者たちは神様が啓示されたことをただ口で預言しただけでなく、それを記録させ、後代の人が実際に歴史と照らし合わせてみることができるようにしました。そして今日、私たちは聖書と世界史の本とを並べて比べることによって、預言が文字どおり実現していることを客観的に実証することができるのです。それでは、なぜ聖書の中に預言があるのでしょうか。その理由の一つは、聖書の教えている神様がまことの神であることを、人間に分からせるためです。そのために、預言を実際の歴史で実現させ、それを私たちが確かめてみることができるようにされたのです。そうでもしなければ、人間は、聖書が神様のことばであることを信じようとせず、また、そのことばに耳を傾けないからでしょう。聖書には、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ, 45)と記しています。アメリカで最も大きい教会の牧師であるjoel, osteenは、『church, report, magazine』、という雑誌の読者から、最も影響力のあるアメリカのクリスチャンとして選ばれました。ところが、ある日、彼のお母さんが癌にかかってしまいました。余命がこれから先、何週間も残っていなかったそうです。家族たちは、お母さんの癌を治療するため、最も有名な医者たちを世界の各地から呼び、あらゆる手を尽くしました。しかし、病院からは、もう生きる望みがないから家に帰って、死を準備するほうがいいと言われたのです。osteen牧師の家族とお母さんは、人間の理性と限界を超えて働く、超自然的な神を信じる人々だったので、医者の死の宣告のあとでも、癌から直る希望を諦めなかったそうです。特に、お母さんは、絶望的で否定的な言葉を、一切口にしないで、代わりに、必ず癒してくださると書かれてある聖書の約束の御言葉を、40箇所探して、その約束の御言葉を昼も夜も口ずさみながら、覚える生活をしたそうです。すると、癌にかかったお母さんは、少しずつ元気を取り戻し、食欲もわき、徐々に健康を回復したそうです。必ず癒してくださるとおっしゃった神様の約束の御言葉を信じ、頼った彼女に、神様は癒しを通して御言葉を実現させてくださったのです。人間は約束を忘れたり、裏切ったりしますが、神様は何があっても必ず約束を実現される方です。普段、神様が見えないので、ほとんど意識しないかもしれませんが、神様はその約束を実現するために、常に見張っておられます(エレミヤ1, 12)。では、神様は預言されたご自分の言葉を実現させるために、何をされましたか。「クロスの霊を奮い立たせた」とあります。ここで「霊を奮い立たせた」という意味は、「人の心を動かした、感動させた」という意味です。神様は世界の歴史を支配した権力者や政治指導者の心をも動かして、ご自分の意志を行なわせることもできることが分かります。箴言21章1節は次のように語っています。「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」とあります。神様は、人の心を感動させる方です。神様の御業はひとりの心が感動され、奮い立たせられることによって始まります。昔、日本における最初のキリスト教の伝来は、1549年に鹿児島に上陸したイエズス会神父のフランシスコ・ザビエル, francisco, xavier;1506, 1552年, の活動から始まります。ザビエル神父が日本に上陸したのは、43歳の1549年8月15日ですが、当時は戦国時代の最中であり、織田信長がまだ15歳のときでした。最初の伝道は、お寺の迫害もあって、なかなかキリスト教は広まらなかったのです。しかし、1568年、織田信長がルイス・フロイス, lu?s, fr?is;1532‐1597年, 宣教師に会い、キリスト教の布教を許しました。これにより、キリスト教が日本に広まり、クリスチャンも増えてきました。当時の大名の中にもキリスト教を信じる者が現れ、キリシタン大名と呼ばれるようになりました。とくに、大友宗麟, おおともそうりん, 、大村, おおむむら, 純忠, すみただ, 、有馬, ありま, はる, のぶ, などのキリシタン大名の誕生とともに布教は加速的に進展しました。キリスト教の伝来から50年経った1600年頃には、60万人以上の信者があったといわれています。それも西日本だけの信者の数ですから、当時の人口に換算すると、3%ほどの信者があったことになります, 当時の人口は、約2400万程度で計算された, 。その中には、有名な小西, こにし, ゆき, なが, 、高山, こうざん, 右近, うこん, 、大友宗麟, 、細川ガラシヤなど多くのキリシタン大名もあり、社会的かつ文化的に大きな影響力を示したのです。織田信長、本人は神様を信じなかったかもしれませんが、神様は彼の心を動かし、日本宣教の働きの礎石に用いてくださいました。そして、今現在日本で最も大きな教会の一つである「カルバリーチャペル」(主任牧師:大川従道)があった裏には、アメリカから来た一人の青年の兵士がいました。戦後、教会と同じ市内に、米軍のキャンプ座間があり、敗戦の痛みの中で何の夢もない心の荒れ果てた日本人を見て、アメリカの若い兵士たちが自分のお小遣いのすべてを出して、伝道資料を買い、それを配布し、町の人々に一生懸命伝道したそうです。古い因習の中にいた当時の日本人たちは、アメリカのドルはほしくても、福音を求める人はほとんどいなかったそうです。やがって、福音を必死で伝えた若きクリスチャン兵士たちは、務めを終えて、心を痛み、失意の中で米国に帰りました。しかし、かなりの年月が経ち、そのところに、今の大きな「カルバリーチャペル」教会が立つようになったのです。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」(伝道書11, 1)という御言葉ありますように、神の霊に奮い立たされた一人の若者によって、福音の種が蒔かれ、やがて大きな実を結ぶようになったのです。このように主がペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、彼はその全領域にあまねくお触れを出しました。そのお触れは、イスラエル人が故国に戻ってエルサレムに神殿を再建するようにというものでした。2節から4節をご一緒に読んでみましょう。1, 2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。1, あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神がその者とともにおられるように。その者はユダにあるエルサレムに上り、イスラエルの神、主の宮を建てるようにせよ。この方はエルサレムにおられる神である。1, 残る者はみな、その者を援助するようにせよ。どこに寄留しているにしても、その所から、その土地の人々が、エルサレムにある神の宮のために進んでささげるささげ物のほか、銀、金、財貨、家畜をもって援助せよ。』」クロス王は、神様をまことの神と認めて、イスラエル人が、故国に帰還して神の神殿を建てるようにという命令を出しました。イスラエルにとっては想像もしなかった良い知らせです。その時代に生きていた人々は、当時の政治的状況から、王がそのような命令を下すとは夢にも思わなかったでしょう。クロス王は、バビロンに残る者たちがエルサレムに上っていく人たちのために、エルサレムにある神の宮のために進んでささげ物をもって援助するように命じました。5節をご覧ください。「1, そこで、ユダとベニヤミンの一族のかしらたち、祭司たち、レビ人たち、すなわち、神にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がった。」クロス王の勅令が出された時、神にその霊を奮い立たされた人たちはみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がりました。しかし、彼らが実際に上って行くことを決断することは、決してやさしくなかったと思われます。バビロンは、外国の地であっても、当時の先進国です。自分に能力があれば、出世することもできます。70年の間、バビロンが生まれ故郷のようになり、住み慣れたところになったでしょう。バビロンは、家も財産も仕事も子供たちもある安定的なところでした。ところが、このような安定的なところを離れ、遠く、荒れ果てているエルサレムに上り、神殿建築をしながら、新しい開拓者の人生を始めることは、大きな決断が求められることでした。楽に生きたいと願う人間にとっては、多くの犠牲と十字架が伴われます。しかし、神様にその霊を奮い立たされた者はみな、エルサレムにある主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がりました。クロス王のように、神の霊に奮い立たされた時、彼らの心が変わったことが分かります。70年前、国が亡び、捕虜となる直前のイスラエル人はとても頑固で、高慢な人たちでした。イザヤ、エレミヤなどの主のしもべたちが命をかけて神の御言葉を伝えても、彼らは受け入れませんでした。彼らの心はかたくなになっており、イザヤのさばきのメッセージを聞いても、エレミヤの涙のメッセージを聞いても心が動かず、感動しませんでした。しかし、70年間の捕虜としての試練を通して彼らの心は砕かれ、へりくだるようになりました。とくに、聖書の御言葉を一生懸命研究し、神様の御心が成し遂げられることを待ち望む、ダニエルのような神のしもべたちの働きによって、民全体の心が変えられ、謙遜になっていたのです。その時、神様の御言葉が働きました。同じ聖書の御言葉であっても、悔い改め、へりくだる心で受け入れるかどうかによって、何の力のない単なる文章になることも、感動を与える神様のパワーのメッセージになることもあります。イスラエルの捕囚の民たちが心をへりくだらせ、神様にその霊を奮い立たされた時、主の宮を建てるために上って行こうと立ち上がることができました。6節をご覧ください。「1, 彼らの回りの人々はみな、銀の器具、金、財貨、家畜、えりすぐりの品々、そのほか進んでささげるあらゆるささげ物をもって彼らを力づけた。」神様にその霊が奮い立たされ、感動された心が行動に現わされた時、彼らの回りの人々はみな、あらゆるささげ物をもって彼らを力づけてくれました。神様の霊に感動され、神様の導きに従う時、神様は思いもよらなかった形で助けてくださるのがわかります。7−11節をご一緒に読んでみましょう。「1, クロス王は、ネブカデネザルがエルサレムから持って来て、自分の神々の宮に置いていた主の宮の用具を運び出した。1, すなわち、ペルシヤの王クロスは宝庫係ミテレダテに命じてこれを取り出し、その数を調べさせ、それをユダの君主シェシュバツァルに渡した。1, その数は次のとおりであった。金の皿三十、銀の皿一千、香炉二十九、1, 金の鉢三十、二級品の銀の鉢四百十、その他の用具一千。1, 金、銀の用具は全部で五千四百あった。捕囚の民がバビロンからエルサレムに連れて来られたとき、シェシュバツァルはこれらの物をみないっしょに携えて上った。」クロス王自身も、彼らを助けました。かつてイスラエルがバビロンに滅ぼされる際、ネブカデネザルが、神の宮から自分の神々の宮に器具を運び出しましたが、今、エルサレムに戻ろうとすると、クロス王はそれを返還しています。神様に従おうとすると、失われていたと思っていた宝をすべて取り戻すことができたのです。?。捕囚の身から解かれて、エルサレムとユダに戻った人たち(2章)2章1節をご一緒に読んでみましょう。「バビロンの王ネブカデネザルがバビロンに引いて行った捕囚の民で、その捕囚の身から解かれて上り、エルサレムとユダに戻り、めいめい自分の町に戻ったこの州の人々は次のとおりである。」捕囚の身から解かれて、エルサレムとユダに戻った人たちが出てきています。詳しく書いてありますが、歴史の中で働いておられる神様は、歴史のルーツを大事にしているからだと思います。そのため、歴史を知ることがとても大切です。2節以降は、エルサレムに帰還した人たちが詳しく書いてあります。2節には、リーダーグルプ、3節から自分の系図を知る人々の人数が記載されており、21節からは自分の故郷を知る人々の人数が書かれています。そして、36節からは祭司およびレビ人の人数です。そして、43, 58節では、宮に仕えるしもべたちとソロモンのしもべたちの子孫が書かれています。最後に、59, 63節では、先祖の家系と血統が証明できなかった人々が記されています。ここに出身と役割ごとに詳しく記したのは、主の御業は、一人ひとりの協力によって成し遂げられることを教えてくれます。教会がイエスキリストの体であり、各自が自分の役割を担うことの重要性について先週のエペソ4章で学びましたが、そのように主にあって協力することが大切です。一人ひとりが自分の役割をしっかりと担う必要があります。そのために、1章で学んだように、一人ひとりが神様の霊によって奮い立たされる必要があります。2013年、神様が私たちの霊を奮い立たせてくださり、自ら進んで祈り、自分の役割を担っていく年となるように祈ります。

13EZRA2M 礼拝の回復と神殿の再建

13ezra2m 礼拝の回復と神殿の再建, 2013年エズラ記第2講   張パウロ                                礼拝の回復と神殿の再建御言葉:エズラ記3−4章要, 節:エズラ記, 3:11 「そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」,  先週、私たちは世界的な学者、朴エズラ宣教師によるエズラ記の第1講のメッセージを通し、歴史の主管者である神様について学ぶことができました。神様は聖書の預言を実現するため、ペルシヤのクロス王の心を奮い立たせ、イスラエルの帰還を果たされました。今日の御ことばでは、イスラエルが70年の捕虜生活を終え、約束された地で再び、失われた礼拝を回復し、神殿の再建への第一歩を踏み出す感激のドラマが繰り広げられます。以前、イスラエルは、神様の愛と律法を捨て、異邦の風習を受け入れ、偶像崇拝に走りました。その結果、巨大国によってイスラエルは滅ぼされ、自由もなく希望もない捕虜生活を強いられました。国を失われた捕虜たちが心から求めるものは何でしょうか。それは、国の解放と回復でなくて何でしょうか。でも、イスラエルの民たちにとっては、国の回復以上に重要な意味, 問題, があります。それは、彼らが信じている神様が住まわれる神殿を建て直し、いけにえをささげる礼拝を回復することでした。指導者, の堕落と神殿礼拝の破綻によりめちゃくちゃになった信仰と神様への愛を取り戻すことでした。神様は、聖なる礼拝と純粋な信仰を失い、堕落したイスラエルの民たちをしばらくの間、捕虜生活という苦難と侮辱の奈落に落とされました。でもいつくしみ深い神様は、時になると選民イスラエルをかわいそうに思い、イスラエルと愛の関係を回復しようとされました。今日の御言葉を学びながら、失われた民を立ち返らせ、神殿の再建という課題を通して彼らと愛の関係性を回復させようとされる神様の心を知ることができるように祈ります。?。信仰の再建と神殿の再建への第一歩(3章)1節をご覧ください。「イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た。」イスラエルの人々は、ついに心から待っていた祖国、神様の約束の地に帰ることが出来ました。しかし、祖国は、荒れ果てていました。祖父が教えてくれたダビデの栄光もお母さんが聞かせてくれたソロモンの栄華も、見つけることはできませんでした。神殿は徹底的に壊され、残されたものは何もありませんでした。約束の地には、アブラハムもモーセの律法をも知らない、異邦人たちが住み着いていました。彼らは、今尚忌まわしい偶像崇拝をしていました。彼らは、おそらく唖然として、自分の家に帰ったことでしょう。そこで、静かに神様のことを考えながら、祈ったことでしょう。なぜ、私たちは、異邦人の国によって侮辱を受け、苦難の捕虜生活を余儀なくされたのか。なぜ、先祖がモーセの律法とおり、いけにえをささげていた聖なる神殿が跡形もなく、破壊されたのか。神様の前で心をいためていました。それで、彼らは心から悔い改めの祈りをささげたくなりました。主に叫びたくてたまりませんでした。それで、彼らは、‘じゃ神様に立ち返ろう’、‘礼拝を立て直そう’、‘神殿を再建する前に先ず信仰を改めて主に憐みをもとめよう’と誰もが思い始めました。神殿の再建の前に、礼拝を回復し、信仰の再建をなしどけることが一番大事であるとわかってきたのです。それで、彼らは第七の月が近づくと、いっせいにエルサレムに集まってきました。2節をご覧下さい。エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおり、全焼のいけにえをささげるために、こぞってイスラエルの神の祭壇を築きましたまた、3節を見ると、周りの国々を恐れていたので、祭壇を元のところに設けたことがわかります。彼らは、先祖たちが聖書と律法の教えを無視して異邦の国々の風習にしたがったことによって信仰を失った歴史を覚えていました。聖書の教えに背き、勝手に高いところに祭壇を築き、変ないけにえをささげた結果がどれだけ厳しいものなのかを知っていました。アッシリアとバビロンの弾圧、厳しい捕囚生活を経験しながら、神様への礼拝の重要性をしみじみに感じるようになりました。本当に礼拝をささげられる行為がどれだけ大きな祝福なのかを身をもって体験しました。だから、まわりの国々の民を意識して信仰を曲げることはしたくありませんでした。彼らは、徹底的にモーセの律法とおりに、聖書とおりに全焼のいけにえをささげるための祭壇を築いたのです。4節でも、聖書にかかれているとおりに、仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められている数に従って、日々の全焼のいけにえをささげたことがわかります。彼らは、心から神様に立ち返ろうとしました。礼拝の感激を回復し、神様の愛と憐れみを切に求めました。本物の神殿を再建するまえに、目に見えない礼拝を回復しようと本気で立ち上がりました。私たちの礼拝は、いかがでしょうか。心から神様を待ち望み、主に感謝と尊厳をあらわす礼拝になっているのでしょうか。本当に神様に喜ばれる礼拝になっているのか点検しようではありませんか。礼拝が負担になったり、面倒になった、危険信号です。メッセージを聞くのが退屈で説教が始まるやいなや深い居眠りにおちてしまったら、悔い改めて礼拝を回復すべきです。5年前に神様は、私たちに想像を超えた形で今の教会堂を購入できるように導いてくださいました。不可能のように見えた教会の購入が、不思議な神様の力と働きによって実現された時にどんなに喜んだでしょうか。日本ubfは、25年前、二人の韓国の田舎出身の若き青年たちによって、板橋本町の4畳半の部屋からはじまりました。教会が壁の薄いアパートだったので、布団をかぶって祈りの声が漏れないように切に祈りました。礼拝の賛美が周りに漏れ、苦情が殺到してきても主に感謝があり、礼拝の感激があったそうです。, 今はどうでしょうか。わたしたちの教会堂なので、自由に出入りすることができます。祈りたいのであれば、いつでもきて声をあげて祈ることができます。賛美も自由です。聖書勉強が出来る場所は2階から4階まであります。食堂は、1階、4階と2箇所もあります。この教会堂が、神様が喜ばれる祈りの場所、賛美の場所、聖書勉強の場所として尊く用いられるように祈ります。, 8節をご覧ください。「彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。」 イスラエルの民たちがエルサレムにある宮のところに着いてから2年が経ちました。長い捕虜生活の傷が治り、礼拝と信仰が回復されつつあったので、神殿再建の雰囲気が熟してきました。ゼルバベルとヨシュアは、レビ人たちをたてて、工事を指揮させました。歴史的な神殿再建は、このように始まりました。彼らは、心もカラダも一致して立ち上がりました。誰ひとり、さぼるひとはなく喜んで神の宮の工事の指揮を手掛けたのです。ついに、建築師が主の神殿の礎を据えました。すると、祭司たちはラッパを手にしました。レビ人たちはシンパルを持ってきて神様を賛美しました。彼らはどんな神様を賛美しましたか。11節をご一緒に読んでみましょう。『そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。』彼らは、主を賛美して大声で喜び叫びました。「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」彼らは、いつくしみ深い神様を賛美しました。 神様は、イスラエルを本当に愛し、可愛がっておられます。モーセを用いてイスラエルをエジプトから連れ出されたあと、神様はイスラエルと契約を結ばれました。それで、契約の証として律法を与えてくださいました。彼らが他の神々を仕えてはならず、偶像をつくてはならないと命じられました。しかし、彼らは、すぐ神様に背きました。他の国々の偶像を拝み、神様の教えを簡単に捨ててしましました。でも、神様はいつくしみ深い方です。実に愛に富んでいます。いつくしみ深いと言う意味は、神様の御業や働きのすべてが善であり、正しいという意味をも含んでいると考えられます。神様は、イスラエルが神様への信仰を失い、聖なる民としての資質がなくなった時、しばらくの間、アッシリアやバビロンの手に渡して恥辱と苦難の中に置いたのです。捕囚生活は、心の痛みと労役による苦痛が伴いました。礼拝を自由にささげることができないもどかしい日々は、彼らを一層苦しめました。捕虜生活は、まるで監獄に入れられた状態に似ています。私は、監獄ではないですが、警察の留置場に入れられたことがあります。短い期間でしたが、自分の意思を自由に表現できないことは、もちろん、すべてを監視され、すべてを見張られます。トイレも壁の上の2/3がないので、便を出すときも監視されます。だから、監獄にいれられた人は、高いお金を払ってでも何とかしてそこから出ようとします。 神様は、このように捕虜となって苦しむ彼らのうめきを聞かれました。怒るのに遅く、愛で富んでおられる神様は、イスラエルを可愛そうに思い、クロス王の心を奮い立たせて、ふたたみ神様の豊かな恵の世界に取り戻されました。主は、罪をおかして神様を背けば、三代、四代までその怒りを発せられますが、恵みは千代まで施される方です。, イスラエルの人々は、自分たちの大きな罪と過ちを見逃され、豊かな愛により包んでくださる神様の愛に感激して大声で喜んで賛美したのです。私たちがいつくしみ深い神様の愛と恵みの大きさに感謝し、賛美できるように祈ります。 ?。敵の妨害による宮の工事の中止(4章)4章1節をご覧ください。神殿の再建が順調に滑り出そうとした時、これを妨害する勢力が現れました。ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰還した人々が主のために神殿を建てているときいてゼルバベルと一族のかしらたちに、自分たちも神殿の建築を手伝わせてほしいといいました。また、彼らもイスラエルと同様にイスラエルの神を求め、いけにえをささげてきたと主張しました。しかし、彼らの主張は嘘でした。列王記?17章をみると、紀元前722年、アッシリアがサマリヤを占領したとき、イスラエルの人々をアッシリアに移住し、異邦人の五つの宗族をサマリヤに移住させました。彼らは、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムの人々でした。彼らは、サマリヤに移住しながらアッシリアの風習と偶像をも一緒にもって入りました。彼らは、人間の常識からも理解できない崇拝をしていました。列王記?17章:30、31節をみると、彼らは自分の子供を焼いていけにえとしてささげていました。非常に忌まわしいしきたりと習慣によりサマリヤ地域の信仰と文化を汚しました。ヨハネの福音書4章をみる、イエス様がガリラヤに行かれる際にサマリヤを通っていきましたが、ユダヤ人は、サマリヤを避けて迂回していきました。それは、このような歴史的な背景があったからです。ユダとベニヤミンの敵たちは、当然ながらイスラエルの捕囚からの帰還、神殿の再建を受け入れるはずがありませんでした。それで、ゼルバベルと一族のかしらたちに甘い言葉で彼らの心を伺おうとしました。これに対して、ゼルバベルとヨシュアらは、どのように答えましたか。4章3節を一緒に読んでみましょう。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」イスラエルは、断固して敵たちの要求を断りました。これと同じようにサタンの誘惑も唆す言葉で巧妙についてきますので、きっぱりと断る勇気と決断が必要です。でも、敵たちは、そう簡単に引き下がろうとはしませんでした。彼らは、神殿を建てさせまいとして、建築に取り組むユダの民の気力を失わせ、脅しました。敵の妨害は、bc536年〜bc520年まで16年間続きました。彼らは、さらに官僚たちを金で買収して、ペルシヤの王に圧力をかける作戦に打って出ました。参事官レフム、書記官シムシャイとその同僚たちはエルサレムを非難する手紙をアルタシャスタ王に書き送りました。6節〜23節は、挿入された内容です。ネへミヤが第3次捕囚からの帰還を果たした後、城壁を建て直す時にサマリヤの人たちが妨害する内容です。21節をご覧ください。結局、敵たちの巧妙な妨害によって、エルサレムにある神の宮の工事は中止されます。この状態が続き、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年までイスラエルは、神殿の建築を再開することはありませんでした。以上を要約すると、神様の働きによってクロス王が感動し、イスラエルの帰還と歴史的な神殿の礎が据えられる素晴らしい出来事がありました。そして、これを妨害し、イスラエルの喜びとビジョンを奪っていくサタンの仕業もあるということがわかります。心から決断し、神様の愛と恵みを悟って新しい出発をスタートするときに予期せぬ試練が訪れることがあります。神様に献身しようと誓っても予想しなかったサタンの策略に阻まれることを看過してはいけません。しかし、ヨハネの手紙第一, 5:3、4節の御言葉は、次のように私たちを励ましています。「5, 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。5, なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」私たちがこの礼拝の席に座っているのは、主を愛しているからです。主を愛しているからこそ、自ら進んで主の教えを守り、行うことができます。それが決して重荷にはなりません。私たちこそ、世に打ち勝つ信仰者です。私たちが、2013年は、いやこれからずっと、神様と深い愛の関係性を結び、神様が喜ばれる礼拝をささげることができるように祈ります。

13Mark20.偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様

13mark20, 偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様, 2013年マルコの福音書第20講偉大な力と栄光を帯びて来られるイエス様御言葉:マルコの福音書13:1−37要 節:マルコの福音書13:26,271.イエス様が宮から出て行かれる時、弟子の一人は何を見て驚嘆しましたか, 。すると、イエス様は彼に何と言われましたか, 。イエス様と弟子たちは、それぞれどのような見方をしていたのでしょうか。2.弟子たちは、何について、イエス様に質問しましたか, 。終わりの日の前兆について、イエス様は彼らに何を話し始められましたか, 。そこで、その前兆に対して、弟子たちは何に気をつけなければならないのでしょうか, 。3.終わりの日が来る前に、弟子たちはどんな苦難を受けますか。なぜ弟子たちは、そのような激しい苦難を受けるのでしょうか, 。聖霊は、弟子たちを、どのように助けてくださいますか, 。どのような人が救われますか, 。4.世の終わりの日には、どんな事が起こりますか, 14,ダニ11, 。このような苦難の日に、人はどうすればよいのでしょうか, 。主は、ご自分で選んだ選びの民のために、何をしてくださるのでしょうか, 。そのとき、何に気をつけなければなりませんか, 。5.その時、人々はどんな素晴らしい光景を見るのでしょうか, 。再臨された「人の子」は、何をされるのでしょうか, 27,?テサロニケ4, 。6.いちじくの木のたとえから、何を学ぶことができますか, 。イエス様の再臨は、どれだけ確実なものなのですか, 。イエス様はいつ再臨されますか, 。クリスチャンは、どんな心構えをもって、イエス様の再臨を待ち望むべきなのでしょうか

13Romans1M義人は信仰によって生きる

13romans1m義人は信仰によって生きる, 2013年 ローマ人への手紙第1講 義人は信仰によって生きる御言葉:ローマ人への手紙1, 17要 節:ローマ人への手紙1, 17「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ人への手紙は大きく三つに分けることができます。1, 17節は序論、1, 11章まではキリスト教の教理について書いてあります。そして、12章から16章までクリスチャンが実生活の中でどのように生きるべきかについて書いてあります。今年、私たちは20講に分けで学んで行きたいと思っています。今日は第1講として序論です。パウロはローマの聖徒たちとは一度も会ったことがありませんでした。そこで、パウロが彼らに自己紹介をし、彼らのためにどのような祈りをし、彼らに対してどんな負債を負っているか、ローマに福音を伝えることはいかに重要であるかを伝えています。私たちはこの御言葉を通して私たちが神様から受けた恵みが何かを学ぶことができます。さらに進んで使徒パウロの福音に対する確信を学ぶことができます。どうか、御言葉を通して主の恵みを心から感謝し、福音に対する確信を新たにしていくことができるように祈ります。1節をご覧下さい。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」これはパウロの自己紹介です。パウロは神の福音のために選び分けられました。選び分けとはある特別な仕事のために区別されたことを意味します。パウロは神の福音のために選び分けられました。当時福音はまだ広く伝えておらず、人々は神の福音に対する偏見や誤解を持っていました。パウロはこの福音を伝える使命を受けました。彼はその福音を宣べ伝えるために智恵と力を尽くしました。ではどのように選び分けられましたか。使徒としもべとしてです。パウロは自分についてキリストの使徒であり、キリストのしもべであると紹介しています。彼の地位は、ある意味においてはきわめて高く、ある意味においてはきわめて低い身分です。まず、彼は使徒として召されました。使徒とはある特別な使命のために遣わされた者という意味です。イエス様からこの世に派遣された全権大使です。神様からある仕事を委託された者です。次にしもべです。しもべとは奴隷という意味です。当時奴隷は主人が自由に買い売りできる所有物であり、生命の保障もなく、家畜より少しましな程度でした。奴隷には自分の立場や都合は許されず、ただ主人に絶対的に服従しなければなりませんでした。パウロの主人はイエス様です。過去パウロは律法の奴隷であり、罪の奴隷でした。その時、彼には喜びも平安もありませんでした。彼の心は砂漠のように枯れていました。しかし、彼がイエス様に出会い、イエス様を自分の主として受け入れた時、彼の人生は完全に変わりました。イエス様のしもべになりました。そこで、彼は言い尽くせない恵みの世界、真の自由と喜び、心の平安を体験するようになりました。そこで、彼は使徒としてのアイデンティティと誇りを持ち、しもべとして忠実に働きました。ローマの奴隷たちが何の報酬も受けずに、ただ主人のために働いていたようにパウロはキリストのために働いたのです。ここで、私たちはパウロの自己認識を学ぶことができます。人が「自分をどのように認識しているか」ということはとても大切な事です。ある学校での話を紹介します。1年が始まる時に、校長先生がひとりの担任の先生に言いました。「実は、あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの高い生徒を集めてあります。彼らの能力を生かしていい成績を残してください。」校長は別の先生に言いました。あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの低い生徒を集めてあります。なんとか頑張っていい成績を残してください。」一年が終わった時、その結果はどうだったでしょうか。IQが高いと言った生徒のクラスは、非常に良い成績を残し、IQが低いと言った生徒のクラスは非常に悪い成績を取りました。自分をどのように認識するかによって結果、実績が変わって来るのです。NLP, ニューロ・ロジカル・レベル―神経論理レベル, というのがりますが、そこで、信念価値観、能力、行動、環境よりも上位レベルになっています。環境や、行動、能力、信念価値観よりも自己認識, アイディティティ, が人の人生にもっと大きい影響を与えるということです。つまり、リーダーの仕事ができるから、リーダーとしての自己認識を持つのではなく、リーダーとしての自己認識を持つから、リーダーの仕事ができるようになったり、足りない能力があれば自ら学ぶようになったりするということです。自己認識の変化が、能力や行動の変化を生み出すのです。しかし、自分がリーダーだという自己認識だけが強ければ能力を生み出しても高慢な者になってしまいがちです。実際に自己認識が高くて良い結果を出していますが、高慢な人も数多くいます。実際にそういう人たちのために気の弱い人たちが傷つけられています。虐められる場合もあります。ところが、パウロは使徒としての自己認識だけではなくしもべとしての自己認識があったのです。だから、彼はだれよりも大きな実績を持ち、大きな成果を出しながらも常に謙遜に生きることができました。奴隷としての自己認識があるからこそ、どんなに迫害されても、どんなに無視されても、傷つけられても揺れることなく福音のために働くことができました。ここに謙遜があり、確信がります。召してくださった方に対する信頼があり、覚悟があり、感謝と感激があります。私はもともと自己認識が低い人間でした。田舎で暮らしていた小中学校の時はそれほど低くなかったのですが、大都市の学校に進学してからは劣等感に陥ってしまいました。半農半漁の田舎出身で親は貧しく、自分には能力ないと思いました。歌も、運動も、勉強もできない人間だと思っていました。そう思うと、何もかもますますできなくなり将来が真っ暗に見えてきました。しかし、大学一年生の時、ペテロの手紙第一の学びを通して神様に選ばれた者、王である祭司であることが分かりました。それで自分のキャンパスの裏山に上って目の前に広がるキャンパスを見ながら「私は王である祭司だ。大学総長を始め2万人の学生は私の羊だ」と叫んだ時もあります。そうこうしているうちに、私は王である祭司としての自己認識をするようになったのです。それから、ヨハネの福音書13章の御言葉を通してじもべとしての自分を発見するようになります。弟子たちの足を洗われたイエス様を通してイエス様の弟子はどんな人の足でも洗うことのできる奴隷であることが分かったのです。その時に、まだ弱かったけれでもキリストのしもべとして生きようとする覚悟ができました。すると、心の平安が与えられました。それから30年間さまざまなことを経験して来ましたが、自分はしもべであると思うと心が楽になりました。私にある二つの自己認識、一つは王である祭司、もう一つはキリストのしもべであることです。これが私をささえ、励まし、慰めてくれたのです。今でもそうです。UBF活動の中でも、職場生活の中でも自分の未熟さから来るものですけれども傷つけられるように話を聞く時があります。しかし、キリストのしもべだからと思うとすべの傷が癒され、心は楽になります。また、この世で一教師にすぎない身分ですが、心の奥底から宣教師として王である祭司としてプライドを持っています。私たちがもう一度神様がどのような人として自分を召しておられるかを発見し、正しい自己認識を持って生きることができるように祈ります。パウロが選び分けられ、使徒として召されたのは福音のためです。では「福音とは何でしょうか」2, 6節をご一緒に読んでみましょう。「「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、, 」このパウロから、」福音の起源は神様です。神様は人間が堕落した時、救い主を約束されました, 。また、アブラハムの子孫からメシヤを与えてくださると約束され、預言者たちを通して約束されました。神様は預言者たちを通して、イエス様に対して預言されました。イエス様の誕生の場所、飼い葉おけの誕生から十字架の死まで、そして復活と昇天、再臨までも旧約聖書に預言されています。また、旧約聖書は一日のうちに書かれた作文ではありません。聖書は約千五百年の間、四十名の著者達によって書かれました。記録された場所も時代も著者も違います。ところが、驚くほど一つの流れ、すなわち、統一性があります。それはイエス・キリストに関することです。このように福音は明白な歴史的な事実の上に根拠を置いているために信頼できるものです。旧約聖書の中であかしされ、長い間イスラエル人が、神の約束として待ち望んでいた方が、キリスト・イエスです。イエス様は、肉によればダビデの子孫としてお生まれになった王です。神様はダビデの子孫からメシヤを送ってくださると約束されました。その通りに、イエス様はダビデの子孫としてお生まれになり、約束されたメシヤとしてダビデの王位を受け継がれた王であることを明らかにしてくださいました。 霊的には神の御子です。イエス様が神様の御子であることをどのようにして知ることができますか。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました。使徒パウロはこのキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。使徒パウロは恵みとともに使徒の務めを受けたと言います。これは使命です。彼は異邦人に福音を伝える使命を受けました。それは異邦人の中に信仰の従順をもたらすことです。それはやさしいことではありません。異邦人は偶像崇拝をし、淫乱でした。また、霊的に無知でわがままでした。不従順と反抗心が強い人々でした。このような人々の中に信仰の従順をもたらすことは難しいことです。それで福音を伝えてもあまり負担に思わないように救いの恵みや祝福だけを教えることで満足しやすいです。しかし、パウロは御言葉に絶対的に従うように教えました。それはまるで岩地のような心をハンマで打ち砕くような作業のように難しいことです。多くの霊的な戦いが必要です。本当に、御言葉に従うことはやさしくありません。御言葉は敵をも愛するように教えています。適でなくても、愛しにくい時がどんなに多くあるでしょうか。まだ暗いうちに起きて祈られたイエス様に見習うように教えられていますが、まだ暗いうちに起きることがどんなに難しいでしょうか。でも、そういう御言葉への従順によって私たちは成長します。神様は従順を喜ばれます。 ですから、パウロは自分がイエス・キリストのしもべとして絶対的に服従しただけではなく、教える人々にもそのようにするように教えました。6,7節でパウロはローマの聖徒たちも、イエス・キリストによって召された人々であると言いました。彼らは神様に愛されている人々、召された人々です。今日、ローマ人への手紙を読み、学んでいる私たちも同じです。パウロは彼らと私たちに父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように祈りました。それから、神様に感謝しています。8節をご覧下さい。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」当時のローマは富と権力と快楽の都市でした。また、あらゆる宗教が氾濫していました。このような雰囲気の中で信仰の中心を守ることは難しいことです。ところが、ローマの聖徒たちは信仰の中心を守るだけではなく、信仰のよい影響を及ぼしていました。キリスト教が始まってまだ30年余りしか経っていないのに、ローマのクリスチャンたちはローマ世界全域において知られていたのです。彼らがいかに生き生きとして信仰生活を送っていたかが分かります。私たちの東京UBF教会は今日で25周年を迎えました。この25年間で世界中に知らされていることを感謝します。少なくてもUBFがある90か国以上の国に知らされています。世界UBF本部のホームページには去年の日本のUBF,東京UBFのみわざの報告が載せられています。ただ、私たちの信仰のレベルが初代教会、ローマの聖徒たちのようであるからは分かりません。神様だけはご存知です。私自身は非常に足りないことを感じているので今年は一致と成長のために祈っています。ではパウロがそれほどローマに行こうとした理由は何ですか。第一に、彼らに御霊の賜物をいくらかでも分けて、彼らを強くしたいからです。御霊の賜物は15節と関連して考えて見ると、福音です。ローマの聖徒達は、信仰はありましたが、まだ福音の世界を深く知ってはいませんでした。彼はローマの聖徒達に福音を宣べ伝えることによって、彼らが福音の上に堅く立つことを願いました。彼らとの互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと思いました。できるだけ大勢の人たちと交わり、そして私達の信仰の足りないところを、その人たちとの交わりによって補っていただくという謙遜さを持つことが必要です。第二に、いくらかの実を得ようと思いました。実とは福音を伝えることによって得られる実です。弟子養成の実です。宣教の実です。パウロはローマセンターが宣教師を養い、派遣する世界宣教の中心部になることを願いました。しかし、パウロがそれほどローマにいる人々に福音を伝えることを願っていた根本理由は、彼に負債を負った者の心情があったからです。14、15節をご一緒に読んでみましょう。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロはすべての人々に負債を負っていると言っています。負債を負った者は謙遜です。いつも負債を返さなければならないという考えで心が重いです。それでその負債を返すことができると喜びます。負債を負っている人の心は牧者の心です。私達は神の恵みを思えば思うほど、ほんとうに、誰に対してもそれを支払って行かなければなりません。パウロの伝道の根本にはそれがありました。主が私たちにも使徒パウロのような負債を負っている者の心を与えてくださるように祈ります。16節をご覧下さい。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」当時ユダヤ人は宗教的な理想を誇り、ギリシヤ人は智恵を誇りました。ローマ人は権力を誇りました。ところが、イエス様は凶悪な犯罪人が処刑される十字架につけられ死なれました。それで十字架につけられたイエス様は、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでした(?コリント1, 23)。今日もクリスチャンが少ないこの国ではクリスチャンを愚かに見る人もいるでしょう。わざと無視しなくても見下げている人もいるでしょう。このような時代の雰囲気の中で福音を恥と思いやすいです。しかし恥と思う必要はありません。むしろ誇りに思うべきです。その理由は第一に、福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです, 。パウロは福音だけが人々を罪と死の力から救うことができる力があることを信じました。罪と死の問題を解決できる特効薬は福音だけです。パウロはこの福音の力を信じていたので少しも恥と思いませんでした。この福音はどんな罪人も新しく生まれさせる力があります。この力はダイナマイトのような超自然的な神様の力です。福音は十字架につけられた強盗が悔い改めた時、直ちに神様の子供としました。この福音の力によって放蕩息子であったアウグスチヌスがセイントアウグスチヌスに変わりました。私たちもこの福音の力を体験して来ました。初めてセンターに来た時には「あの兄弟も変わるかな」と思った兄弟が福音を学ぶうちに新しく生まれ変わることを見ました。福音はどんな人も新しく変える力があります。ですから、この福音の力を信じている人は、誰にも大胆に福音を紹介することができます。第二に、福音のうちには神の義が啓示されているからです。17節をご一緒に読んでみましょう。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」神様の義には罪を憎み、不義を受け入れない属性があります。義なる神様は公義によってさばかれる方です。ですから、この神様の御前に立つ人は一人もいません。すべての人々が神様の裁きの対象です。しかし、本文で言っている神様の義はイエス様を信じる人の罪を赦し、信じる人を義と認める義です。この神の義は人間の努力や働きによって得ることができません。ただイエス様を信じる人に値なしに与えられるものです。それは初めから終わりまで信仰による義です。信仰によって生きる時、神様に認められます。信仰によって生きる時、神様に喜ばれます。信仰によって生きる時、この世で勝利の人生を送ることができます。信仰によって生きる時、罪の赦しに対する確信と永遠のいのちへの確信があります。私たちがどんな場合にも信仰によって生きるように祈ります。

13Romans3M神の前に正しい人

13romans3m神の前に正しい人, 2013年 ローマ人への手紙第3講神の前に正しい人御言葉:ローマ人への手紙2, 16要 節:ローマ人への手紙2, それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。先週、私たちは「神様の怒り」によるさばきを学びました。それは異邦人に向けられた神様のさばきでした。神様は彼らを良くない思いに引き渡され、放置されました。そのため彼らは、してはならないことをするようになります。不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わぬ、高ぶる、大言壮語する、悪事をたくらむ、親に逆らう、わきまえがない、約束を破る、情け知らず、慈愛がないことをするのです。では、ローマ人への手紙を通してパウロの指摘を受けたローマの聖徒たちの反応はどうだったでしょうか。同じ教会に異邦人もユダヤ人もいたのでそれぞれ反応も違ったことでしょう。異邦人は自分たちの罪がさらけ出されたので恐れおののいたでしょう。ところが、ユダヤ人は恐れている異邦人を指さしてさばいたことでしょう。「その通り、その通りだ。まったく異邦人はしようがない。あの豚のような異邦人は、本当にひどい奴らだ。」とさばくのです。パウロはそれも想定してユダヤ人たちの罪も指摘しています。パウロは今日の聖書箇所を通して宗教的な人、律法を熱心に行なう人、敬虔なクリスチャンだと言っている人々に向かって彼らの罪を指摘しているのです。ここで、私たちは御言葉を自分の心、日常生活に当てはまることができます。私たちひとりひとりが本文の御言葉を自分の人生に照らしていただくことができるように祈ります。そうして律法を聞くだけの者ではなく、律法を行なう者、神の前に正しい人として生きて行くように祈ります。?.すべて他人をさばく人の罪1節をご一章に読んでみましょう「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」「すべて他人をさばく人」というのは、具体的に言うならユダヤ人ですが、比較的に道徳的な人たちです。彼らは宗教に熱心であったり、律法に熱心であったりします。法律とルールを落ち度なく踏み行なっています。そういう人たちにはどうしても人をさばく傾向があります。私たちクリスチャンも人の弱点や、失敗や、弱さに対して寛容な心からかばってあげるのではなく、それをさばいてしまう時があるでしょう。個人レベルにおいてだけではなく、教会においてもあまりにも熱心である時に他人をさばく傾向が出て来ることがあるのです。恥ずかしく悲しい話ですが、私たちUBF教会も十数年前にさばき合う時がありました。パウロも律法に熱心になるあまり、他人をさばいていた時がありました。だから、彼は宗教熱心であることは、他人をさばきやすいということを自ら体験し、よく知っていました。それで「あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」と言ったのです。事実、私たちが人に指を指すなら、三本の指は自分の方に向いています。人をさばくと自分がさばかれているのです。この時間、私たちが自分の心を探ってみて人をさばいていたなら悔い改めましょう。私はこのメッセージを準備しながら何度も悔い改める心になりました。私自身が他人をさばく人だからです。特に、職場生活の中で同僚たちとともに上司をさばいたり、上司とは同僚のことをさばいたりしていました。私が他人をさばいていた罪を悔い改め、自分の方から人をさばく言葉を言わない決断をしました。どうか、私たちは本人がいないところで陰口を言ったり、人をさばいたりしないことを決断しましょう。そうして、私たちの内面、品格がますますイエス様の御姿に成長して行きますように祈ります。では他人をさばく人の特徴はなんでしょうか。  第一の特徴は人には厳しく自分には甘いということです。3、4節をご覧ください。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」とあります。他人をさばく人は自分がさばいている人と同じことをしていながらも自分は神のさばきを免れると思っています。この間、職場であるお母さんからこんな話を聞きました。「自分は朝、挨拶しても返事がない人がいますね。私はそういう常識がない教師は大嫌いです。あの若い先生に言ってください。」と言われたのです。それで、私はお母さんが指摘した先生に「嫌でも挨拶はしましょう。」と言いました。すると、「あのお母さんは自分の気に入らない人には挨拶なしです。何度挨拶しても挨拶がないので私もあのお母さんだけに挨拶していない」と言いました。このように、私たちは自分を省みることなく、他人をさばくのです。ところ、自分には甘く、自分は神様のさばきを免れると思っているのです。しかし、人をさばいたり、見下げたりすることによって自分が偉くなるのではありません。むしろ、彼らは神様の御怒りを自分のために積み上げています, 。そして、積み上げられている罪が限界を超えるときは、神様にさばかれます。人々の前でも辱められるようになります。 第二の特徴はかたくなさと悔い改めない心です。 5節をご覧ください。「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」とあります。かたくなさと言うのは韓国語の聖書に「固執, 意見・態度を強固にして、簡単に変えないこと, 」と訳されています。つまり、「自分は正しい」と思い、自分を変えようとせず、すべてのことを人のせいにし、人をさばきます。特別な人だけではなく、一般的に私たち人間と言うのは、どうしてもどこかで「自分は正しい」、あるいは「これでいいのだ。」と思ってしまう傾向があるのです。それで自分を省みて悔い改めるより人をさばいてしまうのです。第三の特徴は偽善です。13節をご一緒に読んでみましょう。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」多くの人々は律法を聞いていること、知っていることで敬虔な生活をしていると思います。それで内側は腐っていても自分の知識を持って自分の正しさを主張します。また、人々から自分が正しく生きていると認めてもらいたがっています。福音書を見ると、パリサイ人や律法学者たちは律法を聞いていたし、律法を覚え、教えていました。しかし、彼らは「自分は立派だ。宗教的な儀式を守り、戒めを守っている」と言いながら、実際の「行ない」は、言っていることとかけ離れていました。そこで、イエス様は大変厳しく彼らに言われました。「あなたがたは口では立派なことを言っているけれど、全然実行しないではないか。あなたがたは人の肩に重荷を載せるけれども、自分はその重荷を持とうともしないではないか。忌まわしい者たち、偽善者たち。あなたがたは白く塗った墓だ。外側は美しく見えても、内側は腐っている」(マタイ23章)とあります。今でも人々をバカにして見下したり、自分の知識の自慢をペラペラと語り続けたりしながら他人をさばく人々が多くいます。しかし、それは偉そうなことを言っていますが偉い行ないはない偽善なのです。創世記の2、3章を見ると、には初めの人間、アダムとエバが出てきますね。アダムとエバは、エデンの園で快適な生活をしていました。アダムはエバに愛の告白をします。「これは私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言いました。しかし、エバは、狡猾な蛇の誘惑を受けて善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そして、夫のアダムにも食べさせました。すると、アダムも、エバも恥ずかしくなり、神様の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そこで、神様が「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけたとき、アダムは何と答えたでしょうか?「神様。こうなったのは、私のせいではありません。あの女が悪いのです。」すると、エバはエバでこう言いました。「神様。私をあまり責めないでくださいよ。私も少しは悪いかも知れませんけれども、本当に悪いのはあの蛇ですよ。蛇が私を惑わしたのですから・・・」人類の歴史に何でも人のせいにする責任転嫁というの入って来ました。自分のことを隠して「私は悪くないですよ。こうなったのはあの人が悪いのです。学校の先生が悪いのです。親が悪いのです。社会が悪いのです。政治が悪いのです。国が悪いのです・・・」というのです。それが偽善です。イエス様はこう言われました。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。」(マタイ7・3)しかし、しかし、イエス様は自分の罪を認めている取税人や遊女たちに対して厳しく言われませんでした。むしろ、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました(マルコ2・17)。自分の心の状態を素直に認めて、「神様あわれんでください」と正直に心をさらけ出す者に対して、イエス様はいつも近づいていかれるのです。ですから、私たちは神様の御前に正直にならなければなりません。「私は罪人です。私は本当に弱さを持っています。神様あわれんでください」と祈る一人一人が神様の御前に正しい人です。ではすべて他人をさばく人たちに対する神様のさばきはどのように行なわれますか。 ?.神様のさばきの基準6, 8節をご覧ください。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」とあります。ここで、神様のさばきがどのように行なわれるかを知ることができます。 第一に、神様は、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます, 。神様の裁きは個人的で人格的です。東京UBF教会のメンバーだからさばかれないのではありません。皆と一緒に行なったことも、ひとりで行なったことも、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます。ですから、神様のさばきは公平です。もし、グループに従って報いが与えられるなら、それは不公平になるでしょう。同じ教会のメンバーでもひとり、ひとりの考えや行ないは違うからです。 それでは行いと信仰とはどんな関係があるでしょうか。行ないは信仰の現われです。ほんとうに、神様の御言葉を信じるなら、どうしても御言葉に聞き従おうとするでしょう。毎週、主日礼拝のメッセージ、日ごとの糧の御言葉を軽んじるようなことはしないはずです。もちろんなかなか実践できない時もあるでしょう。一週間を顧みると自分の弱さにため息をつく時もあるでしょう。しかし、神様は行ないだけではなく、心の動機をご覧になります。第二に、心の動機に従ってさばかれます(7, 11)。もう一度7、8節をご覧下さい。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」ここで「求める」とはその人の心の動機、価値観を表わします。栄光と誉れと不滅のものとを求める者とは、霊的な価値観を持っているということです。弱い人間だから失敗もあり、罪を犯してしまう時もありますが、その心の動機が良ければ、神様はそれを評価してくださるのです。私たちが完璧に行なうことができなくても霊的な価値観を持ち、栄光と誉れと不滅のものを求める人には永遠のいのちが与えられるのです。しかし、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。派閥をつくるのは自分の利益のためです。そして、派閥に属すると、何が正しいかよりも、自分の党派に有益になるかどうかが判断基準になってしまいます。その人は食べるにも、飲むにも、何をするにも自分の有益のためにします。それでそういう人には神様の怒りと憤りが下されるのです。ですから、私たちは毎日自分の心が神様に向いているかどうかをチェックして見なければなりません。皆さんは、今、何を求めているでしょうか。何を目的にしているでしょうか。私たちが忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者でありますように祈ります。9, 11節は「悪を行なう者」と「善を行なう者」の内面状態が記されてあります。表面的には悪を行なう者でも金持ちになって幸せに生きているかのように見えます。一方、善を行なっているのに、生活は貧しく苦労ばかりしているように見えます。しかし、実情は違います。人の内側は違います。患難と苦悩とは悪を行なうすべての者の上に下ります。彼らの心は罪意識のために苦しみ、絶えない不安と焦り、苦悩のために眠れぬ夜を過ごすほどです。しかし、善を行なう者の上には栄光と誉れと平和があります。彼らにはまことの満足と喜びがあり、神の国の平安があります。彼らはぐっすり眠ります。この原則はユダヤ人をはじめギリシャ人にも同じです。神様にはえこひいきなどはないからです。第三に、律法と良心に従ってさばかれます, 。もう一度12、13節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とあります。律法の下にあって罪を犯した者は律法に従ってさばかれるでしょう。私たちは御言葉を学んでいますが、それを知っているかどうかと言うことよりも、それを行なっているかどうかによってさばかれるのです。では律法なしに罪を犯した者が滅びる基準とは何でしょうか。14, 15節をご覧ください。「, ・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」とあります。パウロは律法を持たない異邦人は自分自身、自分自身の良心という道義的なおきてがさばきの基準となることを言っています。人間には本来、良心というものがあります。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」, ロバート・古ガム著―という本に「人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか。本当に知っていなくてはならないことをわたしは全部残らず幼稚園で教わった。」とあります。それはすべての人間に善悪を区別する良心、能力があるということでしょう。神様の似姿に造られた人間には良心があるのです。それで、神様はすべての人の心に刻まれたこの良心の基準に基づいてさばかれるのです。私たち人間が良心に従っていなければそれも神様のさばきの対象になります。私たち人間は、他人の心の中にある動機を知ることができません。私たちが人をさばくときは、うわべだけでさばくことになります。結論的に16節をご一緒に読んでみましょう。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とあります。わたしたちの隠れた罪が、神様の最後の審判において明らかにされます。その時にキリストは、父なる神と共に裁き主として立たれます。しかし、同時にわたしたちの弁護者となっていくださるのです。神様の御前にわたしたちは自らの正しさを主張できません。最後の神様のさばきにおいて私たちは、神様の御前に罪人して立つしかありません。私たちは、それをアーメンと認める以外に何もありません。しかし、その日は、私たちにとって福音なのです。なぜならば、イエス・キリストのさばきの日だからです。キリストは、その日に「生きる者と死ぬる者とにさばかれます」。その裁きが私たちに福音となります。キリストの十字架のゆえであります。その時は、私たちの贖い主として十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが私たちの弁護者となります。御自身の贖いゆえに私たちの罪を弁護してくださるのです。だから、最後に頼るべきお方は、イエス・キリストなのです。そして、それが、パウロ同様に私たちが告げる福音です。このわたしの福音を、パウロと同じように、自分の家族に、この町の人々に伝えつつ、キリストの裁きの日に向けて歩んで行きますように祈ります。その日は、私たちには希望の日だからです。どうか、その日まで神様の御前に正しい人として人をさばかないで謙遜に常に信仰によって生きるように祈ります。

13Romans4M心の割礼こそ割礼

13romans4m心の割礼こそ割礼, 2013年ローマ人への手紙第4講 心の割礼こそ割礼御言葉:ローマ人への手紙2:17〜3:20要, 節:ローマ2:28、29「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」 先週、私たちはすべて他人をさばく人の罪、ユダヤ人の罪に対する神様の正しいさばきを学びました。今日もユダヤ人の具体的な罪が指摘され、すべての人が神様のさばきの下にあることを学びます。三週間も続いて罪とさばきに関するメッセージなので今日も罪のことなのかと思われるかも知れません。事実、私の心も軽くありません。しかし、パウロは私たちを罪に定めるために、この手紙を書いたのではありません。私たちが神様に対する心の態度を正しくし、救われるために書きました。今日も御言葉を通して罪人である自分を深く認め、イエス・キリストの十字架の福音を信じて救われますように祈ります。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです, 。?.本物のユダヤ人、本物のクリスチャン, 2章17, 20節をご覧ください。「もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、」とあります。ここにユダヤ人が誇りに思っていることが記されてあります。第一に、自分たちは神様に選ばれた選民ユダヤ人であるという誇りを持っていました。実際に、神様は彼らに祭司の王国、聖なる国民としての使命を与えられました。だから、彼らははっきりとした使命意識を持ち、その使命を果たすために励まなければなりませんでした。しかし、神様に選ばれた民としての選民意識が特権意識になっていました。祭司としてへりくだって世界の人々に仕えるべきなのに、いつの間にか、傲慢になってしまったのです。これは私たちクリスチャンにも当てはまることです。神様は私たちを王である祭司、聖なる国民として選んでくださいました。それは私たちが仕えられるためではなくへりくだって人々に仕えるためでした。それが特権意識になっては、本末転倒です。キリストが弟子たちの前で膝まづき、彼らの足を洗われました。その姿を思い浮かべると、弟子たちの幸せそうな顔がイメージされます。私たちクリスチャンキリストのように人々に仕えるためために選ばれているのです。第二に、自分たちは律法を持っているという誇りを持っていました。ユダヤ人には、出エジプトの後に、十戒を基本とする律法が与えられました。彼らは律法を通して神様の御心を知り、その通りに行うためでした。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神様を愛し、隣人を愛するためだったのです。しかし、彼らは律法を持っているということに安住して、それを行なおうとしませんでした。私たちにも聖書の御言葉が与えられていることは誇りです。ただ、それを守り行わず、知識だけを振り回してしまうなら、それは問題です。第三に、聖書の神様を知っているという誇りを持っていました。虚しい偶像が満ちている世界で目に見えない唯一の神様を知り、信仰を持っていることは素晴らしいことです。ただ、それもユダヤ人が優秀だったからではありません。なのに、信じている神様を大切にして誇るのではなく、神様を信じている自分をもっと考えてしまうことは問題です。それこそ自己中心である高慢です。第四に教師であるという誇りを持っていました。つまり、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任していたのです。彼らが行く先々で会堂を建てて教えていることも素晴らしいことです。問題は教えることに、とどまり、自分を教えていないことです。特に、自分を教えないために高慢になっていることです。そこで、パウロは何と言いますか。21, 23節を読んでみましょう。「どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。」ここに、自分が人を教えていると自任している人たちの問題が指摘されています。彼らには五つの問題があります。「自分自身を教えない問題」「盗む問題」「姦淫する問題」「偶像崇拝の問題」「律法を違反している問題」です。これらの問題は一般の人々にとっても大きな問題です。しかし、これらの問題について知っていて教えながら自分も同じことを行なっているならそれこそ大きな問題です。それは人をだますことであるだけではなく、自分をだまし、神様をだましてしまう恐ろしい罪だからです。私たちが御言葉を教えることは素晴らしいですが、それによって自分をごまかすようなことをしないように気をつけなければなりません。私たちは教えることによって私たちが救われるのではありません。私たちは、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われます。イエス・キリストは私の罪のために、私の咎のために、あの荒削りの十字架につけられました。私を罪から、永遠のさばきから救うために死んでくださいました。よみに下られ、3日目に死者の中からよみがえられました。その復活の日が主日です。ですから、私たちは主日礼拝に来る時も、ただ礼拝があるから、自分が担当している奉仕があるからではなく、神様の御前でへりくだり、罪人の心で出てくるべきです。20世紀最大の伝道者であるビリ・グラハム牧師は「私が救われるのは、私が数十万人の人を主に導いたからではありません。私が罪人であるから神様の御前で救われたのです。」と言いました。私たちが神様の御前で誇れるものは何もありません。世界的なub教会のメンバーだから、まじめな人だから救われるのではありません。ビリ・グラハム牧師ほどではありませんが、多くの人を伝道したと言える人もいるでしょうか、それによって救われるのではないのです。むしろ、自分の行ない、自分の身分、自分の知識などを誇るなら、その高慢のために、悪人より一層悪い大きな罪に陥ってしまいます。自己中心という偽善と高慢の罪です。ある注解者は「善いことの中にこそ、悪魔は最大の毒を注ごうとする」と書きました。本当にその通りです。24節をご覧ください。「これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている。」とあります。高慢と偽善が及ぼす悪影響は恐ろしいものです。建前として真面目で謙虚の行動をしますから、隠れて罪を行なうので、それによって自分を騙し、人を騙してしまいます。そのようなクリスチャンのゆえに、聖なる神の御名が汚されているのです。最近、数年間韓国のキリスト教人口が減っています。その原因はクリスチャンリーダーの言行不一致だそうです。特に、教会の信徒が一万人も超える教会の牧師先生の言行はマスコミも注目しているので言行不一致が報道されると、人々はキリスト教に対して悪口を言うのです。ひとりの不道徳、言行不一致のためにキリスト教の教会全体が辱められます。引いては神様の御名が汚されてしまいます。人々は聖書のことや、イエス様の教えのためにキリスト教を非難するのではなくクリスチャンの偽善と高慢が見られた時に、キリスト教全体を非難するのです。ですから、私たちは偉そうなことを言わないで、ただイエス・キリストを信じることによって生きなければなりません。イエス・キリストを信じているというのはイエス様との関係を保っているということでもあります。自分が罪人である自覚、その謙虚な心からイエス・キリストの十字架の贖いに感謝することです。その十字架の恵みのゆえにますます神様を愛し、隣人を愛して行くことこそ私たちが大切にしなければならないことです。私たちが本当に謙遜になって自分の罪を悔い改め、神様に感謝する生活をするなら、そこから力も出てきます。そのためには私たちの心の態度が大切です。25, 28節を読んでみましょう。「もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」とあります。割礼は、アブラハムが神様との契約のしるしとして受けています。創世記17, 12を見ると「次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。」とあります。この割礼は、外観上の意味だけではなく、内面的にも神様の民であり、神様のご命令に従うことを確認する大切なものでした。割礼を受けたから神の民なのではなく、神の民になったしるしが割礼なのです。ところが、ユダヤ人は割礼を受けたからこそ、アブラハムの子孫として神様の選ばれた民だと思っていました。しかし、割礼を受けているからアブラハムの子孫ではなく、アブラハムの子孫としてのしるしが割礼なのです。パウロが言っているとおりに「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。では、どんな人が本物のユダヤ人なのでしょうか。29節をご一緒に読んでみましょう。「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。」外見や割礼の儀式が重要なのではなく、内なる敬虔や心の態度が重要なのです。「人目に隠れたユダヤ人」とは、自分がユダヤ人であることを隠して、こそこそしているという意味ではありません。隠れたことでも常に見ておられる神様の御前に真実に歩んでいる本物のユダヤ人という意味です。言い換えると「文字ではなく、御霊による、心の割礼」を受けた人のことです。 心の割礼とはどういうことを意味するでしょうか。第一に心のかたくなさを捨てることです。申命記10, 16節には「あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。もううなじのこわい者であってはならない。」とあります。心の割礼とは、神の前に柔らかい心をもつことを意味しました。第二に、肉の思い、悪の心を取り除くことです。エレミヤ4, 4節には「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、私の憤りが火のように出て…」とあります。また、パウロは「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです(コロサイ2, 11)」。と言いました。第三に、心を尽くして神様を愛することです。申命記30, 6節には「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」とあります。偶像や快楽に傾いている心、汚れた心を取り除き、真心を尽くして神様に仕えることこそが心の割礼なのです。本物のクリスチャンには水のバプテスマよりも心のバプテスマが大切であると適用することができるでしょう。形式的なことよりも、聖霊による新しい誕生が大切です。「僕はバプテスマを受けた。」という事実よりも聖霊の働きによって偽善と高慢を取り除き、聖霊に満たされた生活をすることが大切なのです。私たちが本物のクリスチャンとして生きるとき、また、本物のクリスチャンホームを造って行く時に神様の御名があがめられます。しかし、クリスチャンであることに安心してしまって偽善と高慢を切り捨てなければノンクリスチャンよりももっと悪くなってしまいます。どうか、私たちが神様の深いあわれみによって日々心の割礼を受け、本物のクリスチャンとして生きることができるように祈ります。?.すべての人が罪の下にある, パウロはユダヤ人の具体的な罪を指摘して「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。」と述べたのです。それはユダヤ人の誇りを粉々にしてしまったでしょう。そこで、ユダヤ人なら、当然なこととして言えることがあります。3章1節をご覧ください。「では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。」とあります。それに対してパウロは何と答えていますか。2, 3節をご覧ください。「それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。」ここで、パウロは彼らにいろいろな御言葉をゆだねられていることこそ、最大の特権であることを証しています。では、特権づけられたユダヤ人が不真実だからと言って、そのために神様の真実が無に帰することになるでしょうか。絶対にそんなことはありません。人々には何でも神様のせいにする癖があります。それで、神様があんなに大きな特権が与えたのに、彼らが罪を犯しているのは、神様の間違いではないかというのです。しかし、彼らだけではなく、すべての人が皆不真実であって信じるに足りないとしても神様だけは真実であられるお方です。4節をご覧ください。「絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。」とあります。人間は御言葉に従うことによって正しいとされるし、従わなかった時にはさばかれます。それによって神様の正しさ、正義が現われます。神様は人の行ないに関係なく、勝利を得られるのです。 5節をご覧ください。「しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。」とあります。これに対しては「絶対にそんなことはありません。もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。」と断定的な結論を持って答えています。さらに、あり得る質問に対してもパウロは言っています。7節をご覧ください。「でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。」とあります。ほんとうに詭弁的な質問です。ユダの裏切りによってイエス様が十字架につけられました。そして、その十字架の死によって人類が救われたのだからユダが悪くないと言っている人のような詭弁です。人々は自分の罪を素直に認めて悔い改めたくないからいろいろな詭弁的な質問をします。そこで、パウロは言います。「もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。, 」 結局、パウロの結論は何ですか。9、10節をご一緒に読んでみましょう。「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。」ユダヤ人もギリシャ人も、私たちも例外なく、すべての人が罪の下にあります。「義人はいない。ひとりもいない。」と書いてあるとおりです。真面目に生きている人、社会的な地位のある人、人々を教えている人などは自分が罪人であることを認めることが難しいかも知れません。むしろ、自分は比較的に義人であると主張したくなるかも知れません。しかし、義人はいません。ひとりもいません。すべての人が罪の下にあります。11, 20節は罪の下にある人間の状態について述べています。結論的に、ユダヤ人も、異邦人も、私たちも、すべての人が罪の下にあります。私たちはこの事実を認めざるを得ません。それなら、汚れている自分の罪を謙遜に認めてイエス様の十字架の前に出て行かなければなりません。もし、私たちがイエス様の御前に自分の罪を言い表すなら、イエス様が十字架上で流された血によってきれいに洗われます。キリストに血によって私たちはきよめられ、救われて義人となります。その大きな恵みのゆえに、私たちは心を新たにして主からいただいた御言葉を大切にして守り行うために励んでいくことができます。しかも聖霊に頼り、聖霊の導きによって本物のクリスチャンとして生きることができるのです。罪の下にいた私たちのために十字架にかかって貴い御血を流され、死んでくださったイエス様の恵みを心から賛美します。

13Ezra05M 信仰の改革を実行したエズラ

13ezra05m, 信仰の改革を実行したエズラ, 2013年エズラ記第5講 信仰の改革を実行したエズラ。御言葉:エズラ記9、10章要 節:エズラ記10, 11「だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい」 先週、私たちは御言葉を調べ、実行し、教えようと心を定めたエズラを学びました。神様はエズラの信仰を喜ばれ、彼の長旅を助け、守ってくださいました。それで、エズラの一行は危険に出会いながらも助け出されて無事にエルサレムに到着しました。彼らは神様への全焼のいけにえと罪のためのいけにえをささげ、王の命令書をその地方の太守たちと総督たちに渡しました。その後、エズラは祭司として、また律法の学者として自分に与えられた任務を果たします。それは信仰の改革の実行です。ここで、私たちは信仰の改革を実行したエズラを学ぶことができます。一つ目は罪に対して驚き悲しんだエズラです。9章1a節をご覧ください。「, これらのことが終わって後、つかさたちが私のところに近づいて来て次のように言った。」とあります。「これらのことが終わって後」とは、先ほども話したように、エズラの一行がエルサレムに到着してから行なったすべてのことが終わって後と言うことです。エズラはこれから本格的に祭司の務めを果たそうとしていたでしょう。ところが、その矢先にとてもショッキングな話を聞きました。1b、2節をご覧ください。エズラはイスラエルの民や、祭司や、レビ人が忌み嫌うべき国々の民と縁を絶つことなく、かえって婚姻関係を結んでいたことを聞いたのです。それはいけないことでした。かつて神様はイスラエル人に「多くの異邦の民、すなわち、ヘテ人、ギルガシ人、エモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、およびエブス人を追い払うこと、彼らを聖絶しなければならないこと、何の契約も結んではならないこと、彼らと互いに縁を結んではならないことを命じられました, 申命記7, 。特に婚姻関係を結ぶことは預言者たちによっても禁じられていました, 11、12, 。それは神様が恋い慕っておられるイスラエルの民を異邦人の淫乱と偶像崇拝の悪影響を受けることなく聖なる民として守るためでした。聖書によると、人は大人になると結婚によって一つになります。遊女と交われば、遊女と一つのからだになります。同様に偶像崇拝者と交われば、偶像崇拝者と一つの体になります。「ふたりは一体になる」と言われているからです, ?コリント6, 。従って聖なる種族であるイスラエル人は絶対に偶像崇拝者と婚姻関係を結んではならなかったのです。ところが、聖なる種族が忌み嫌うべき国々の民と婚姻関係を結び、混じり合ってしまいました。エズラの一行よりも先に帰還していたと思われるイスラエルの民、祭司たちが忌み嫌うべき罪を犯し、堕落してしまったのです。しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人でした。そのことを聞いたエズラはどうしましたか。3、4節をご一緒に読んでみましょう。「私はこのことを聞いて、着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってすわってしまった。, 捕囚から帰って来た人々の不信の罪のことで、イスラエルの神のことばを恐れている者はみな、私のところに集まって来た。私は夕方のささげ物の時刻まで、色を失ってじっとすわっていた。」エズラは罪の大きさを知りました。神様の御前で非常に大きな問題であることを知りました。そこで、彼は着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜き、色を失ってしまいました。どんなに驚き悲しんだことでしょうか。彼は髪の毛とひげをそるのではなく引き抜いたのです。それでも彼は夕方のささげ物の時刻、午後三時ごろまで何もできないでじっと座っていました。ここで、私たちは人の罪に対して驚き、悲しむエズラの態度を見ることができます。イスラエルの民は罪を犯していながらも悲しみませんでした。つかさや代表者たちさえこの世と調子を合わせていました。恐らく、彼らも最初は罪に対して敏感だったと思われます。彼らは異邦人の妨害を受けながらも神の宮を再建した時は神様への感謝と感激がありました。そこでイスラエルの最大の祭りである過越の祭りも回復しました。ところが、彼らも時間が経つに従って神様の御言葉への記憶が薄らいでしまいました。いつの間にカナン人と縁を結んでいました。祭司や代表者たちさえも異邦人の娘を娶ったり、自分たちの娘を彼らの息子たちに与えたりしていました。御言葉を調べて実行し、教えるべきつかさや代表者たちが不信の罪の張本人になってしまったのです。エズラはそのような民の罪を聞いて大いに驚き悲しんで気を失ってしまったのです。では私たちはどうでしょうか。先月、フランスのパリではオランド大統領が打ち出した同性婚の合法化に反対するデモに数十万人が集まりました。2006年の調査では、ほとんどのフランス国民が結婚の定義を変えることに反対していました。結婚は女性と男性の間のものだとする聖書の教えを信じていたのです。ところが、現在では、60%以上の人々が賛成に回っています。養子をもらって育てることにも、同様に賛成しています。フランスは国民の2/3がカトリック教徒の国ですが、同性愛者に対する厳格さは、少しずつ弱まり、教会の態度もゆるんできているのです。これはフランスだけのことではありません。世界はますます不道徳的になり、非聖書的になっています。罪がますます悪化しています。このような世の罪に対して私たちはどう思っているでしょうか。エズラのように驚き悲しんでいるでしょうか。また、自分の家族や自分の罪に対してはどう思っているでしょうか。私たちはイエス・キリストに出会って救われてから王である祭司、聖なる国民となりました。ところが、時間が経つに従って王である祭司、聖なる国民としてのアイデンティティが薄らいでしまっていないでしょうか。私はこのメッセージを準備しながら罪に対して鈍くなっている自分の姿を発見して悔い改めるようになりました。私は自分の子どもたちを聖書のサムエル、ダニエルのような聖なる民、純潔な子どもとして育てようという意思を持っていました。それで、ある時長男と次男が小遣いを集めてゲーム機を買ったことが分かった時は非常に驚き悲しみました。彼らと一緒にひざまずき、涙を流して泣きました。子どもの罪は自分の罪でもあると認識していたからです。ところが、最近はこの世の罪に対しても、子どもや自分の罪に対しても鈍くなっていました。最近は涙ながら悔い改めた記憶がありません。エズラのような霊性を回復してこの国と自分の罪に対して驚き悲しんで悔い改める生活ができるように祈ります。「ゆでガエル現象」というものがあります。『2匹のカエルを用意し、一方は熱湯に入れ、もう一方は緩やかに昇温する冷水に入れる。すると、前者は直ちに飛び跳ね脱出・生存するのに対し、後者は水温の上昇を知覚できずに死亡する』という現象です。このように、今日の人々の罪の程度がますます深刻化し、世俗化して行きますが、人々は罪に対して無感覚です。クリスチャンでさえ、自分の罪に対して問題意識が薄れています。インフルエンザのように、ノロウィルスのように、感染されていても罪に対して驚き悲しむことがありません。むしろ、自分だけではないと罪を合理化しています。ところが、このままで行くなら、冷水に入れたガエルのようになって滅びます。サムエル時代の祭司エリの息子たちは、よこしまな者で、主へのささげ物を侮っていました。こうなると、父親のエリは自分の着物と上着を裂き、髪の毛とひげを引き抜きながら驚き悲しまなければなりませんでした。ところが、彼は子どもたちに「子どもたちよ。そういうことをしてはいけない。私が主の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。」と言うふうに忠告するだけでした。結局、彼の家族は悲惨な最後を迎え、栄光がイスラエルから去りました。ですから、私たちはエズラのように罪のことを聞いたら驚き悲しまなければなりません。自分の罪に対しても驚き悲しまなければなりません。そうすることによって私も、この国の民も生き残ることができます。罪に対して沈黙し、合理化して行きますと、自分も知らずに滅亡に向かって行きます。自己破産の道です。結局、神様の栄光が私たちから去り、私たちは滅んでしまいます。ですから、私たちが罪であることが分かった時には驚き悲しんで悔い改める生活ができるように祈ります。二つ目に、民の罪のために神様にとりなしの祈りをささげてエズラです。エズラの祈り(6, 15)中には「私、私たち」という言葉が31回もあります。エズラは民の側に立って民の罪を自分の罪として感じ、それを負って祈ったのです。このように祈ることが祭司の任務です。多くの改革者たちは正しいことを言います。人の過ちと罪を鋭く指摘します。はなはだしくは他人事をネタにして喜びます。しかし、エズラは民の罪、指導者たちの罪に対して他人事だと思いませんでした。神様に人の罪を訴えるような祈りもしませんでした。彼は人の罪を自分の罪のように感じ、その人の側に立って悔い改めるとりなしの祈りをしました。5、6節をご一緒に読んでみましょう。「夕方のささげ物の時刻になって、私は気を取り戻し、着物と上着を裂いたまま、ひざまずき、私の神、主に向かって手を差し伸ばし、祈って、言った。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。」エズラは民が罪を犯したことを聞いたのですが、民に向かって行きませんでした。民の罪を指摘し、さばくこともしませんでした。民を正しく導くのではなく、不信の罪の張本人であった代表者たちを咎めるようなこともしませんでした。エズラは民の罪を負って神様の御前に出て行きました。そして、自分が信じ、仕えている自分の神、主に向かって祈りました。「私の神よ。私は恥を受け、私の神であるあなたに向かって顔を上げるのも恥ずかしく思います。私たちの咎は私たちの頭より高く増し加わり、私たちの罪過は大きく天にまで達したからです。」と祈っています。そして、6節から15節までのエズラのとりなしの祈りです。この祈りを見ると第一にイスラエル民族の過去の罪を告白しています。神様の明確な命令を軽蔑したことです。彼らは先住民と戦うよりも結婚関係を結んだ方が現実的に有益になると思いました。結局、彼ら自身が現地の悪い習慣に染まってしまいました。「聖なる国民、祭司の王国」としての役割を失ってしまいました。エズラはその罪の深さを正しく認め、それを悲しむべき、恥ずべきことであると真剣に認めています。第二に、神様の罰の中に見られる深いあわれみを確認しています。イスラエルの民は、自分から神様を捨てました。ですから、この地から消えてしまっても仕方がありませんでした。実際に北王国イスラエルはアッシリヤに滅ぼされました。その後、他の地域に強制移住させられました。移住先の住民に同化させられ、民族としてのアイデンティティを失ってしまいました。しかし、南王国ユダの民の中から逃れた者を残してくださいました。8節をご覧ください。「しかし、今、しばらくの間、私たちの神、主のあわれみによって、私たちに、のがれた者を残しておき、私たちのためにご自分の聖なる所の中に一つの釘を与えてくださいました。これは、私たちの神が私たちの目を明るくし、奴隷の身の私たちをしばらく生き返らせてくださるためでした」とあります。こでの「釘」とは天幕を張るときの杭, くい, のようなものを指します。つまり、神様が、バビロンにおいてご自分の民を守り通し、エルサレムに帰還して天幕を張る所を与えてくださったのです。それだけではありません。神様は「ペルシヤの王たち」を用いて「神の宮を再建に必要なものも満たしてくださいました。第三に、エズラは現在の罪の大きさも自覚していました。10節をご覧ください。「今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの命令を捨てからです。」とあります。彼らは神様のあわれみを軽蔑し、神の民としてのアイデンティティを捨てようとしていたのです。せっかくエルサレム神殿が再建されたというのに、再び、主の命令を破って、忌みきらうべき行いをしました。だから、主が彼らを、絶ち滅ぼし、生き残った者も、のがれた者もいないようにされる可能性があります(9, 14)。そこで、エズラは「イスラエルの神、主。あなたは正しい方です。まことに、今日あるように、私たちは、のがれた者として残されています。ご覧ください。私たちは罪過の中であなたの御前におります。このような状態で、だれもあなたの御前に立つことはできないのに。」と祈りました。神様がイスラエルの罪過にもかかわらず、彼らを主の御前に立つことを許してくださったことを強調しています。つまり、エズラは主の正しさもあわれみも知り、あわれみに頼っているのです。素晴らしい祈りです。私たちは神様の一方的なあわれみによって赦され、救われています。ただ神の御子イエス・キリストの十字架と復活による赦しと贖いを信じることによって救われました。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために新でくださったことにより、神様は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます, ローマ5, 。だからと言って、私たちはその神様のあわれみを軽く見て甘え続けていてはいけません。「神の仕事は、罪人を赦すこと…」と言う傲慢な態度ほど危険なものはありません。キリストの十字架を罪の消しゴムのように甘く捉えてならないのです。神様の正しさを知り、正しくきよく生きるために最善を尽くさなければなりません。神の仕事は赦すことですが、私たちの仕事は最善を尽くすことです。三つ目に立ち上がって「この地の民と、外国の女から離れなさい」と言ったエズラのことです。エズラは祈るだけではなく、立ち上がってなすべき任務をしました。10章1節をご一緒に読んでみましょう。「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」エズラひとりが先頭に立って祈り、悔い改めと、イスラエルのうちから大集団が激しく涙を流して泣くみわざが起こりました。バビロンから帰って来た民、その子どもたちも自分たちの罪に対して嘆き深く悔い改めました。そればかりではありません。彼らは、「これらの妻たちと、その子どもたちをみな、追い出しましょう。律法に従ってこれを行いましょう。立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください」, 3、4, と驚くべき提案をしました。そして、彼らは、「捕囚から帰って来た者はみなエルサレムに集合するように」と命令を出しました。それとともに、「三日のうちに出頭しない者はだれでも、その全財産は聖絶され、その者は、捕囚から帰って来た人々の集団から切り離される」という警告までつけていました, 7、8, 。それで、ユダとベニヤミンの男はみな、三日のうちに、エルサレムに集まって来ました。こうして、すべての民は神の宮の前の広場にすわりました。その中でエズラは何と言いましたか。10,11節をご一緒に読んでみましょう。「祭司エズラは立ち上がって」彼らに言った。「あなたがたは、不信の罪を犯した。外国の女をめとって、イスラエルの罪過を増し加えた。だから今、あなたがたの父祖の神、主に告白して、その御旨にかなったことをしなさい。この地の民と、外国の女から離れなさい」とあります。それに対して、全集団は大声をあげて答えて言いました。「必ずあなたの言われたとおりにします」, と。ただ、中には反抗して逆らった者もいました。しかし、彼ら以上に、大多数の者がエズラのことばにそのまま従いました。それは彼らが、自分たちの罪の深刻さを悟ったからです。それで外国の女をめとった男たちについて、みな調べ終えましたが、彼らの中には祭司の名も記されています。彼らは民を指導する祭司の立場でありながら、自分も同じ罪を犯し、民を誤った道に引き入れてしまいました。それで彼らはその妻を出すという誓いをして、彼らの罪過のために、雄羊一頭を罪過のためのいけにえとしてささげました, 。それから、最後に「これらの者はみな、外国の女をめとった者である。彼らの妻たちのうちには、すでに子どもを産んだ者もいた」, と記されています。これは本当に心が痛む記述です。外国の女だからと言って子どもを産んだ人までも追い出してしまうことは残酷にも思われます。しかし、それにしても、このように罪を明確にすることによって、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしました。では国際結婚が頻繁に行われている今日の私たちはどうすればいいでしょうか。 私たちは当時のイスラエルの民とは異なります。私たちは新しいイスラエルの民です。イエス・キリストを信じて聖霊を受けることによって新しい人に生まれ変わりました。それで、私たちは旧約聖書のレビ記で食べることが堅く禁じられているお肉も食べることができます。つまり、豚肉もイカもタコも食べることができるのです。ですから、エズラによる分離の命令を、そのまま新約の時代に適用する必要はありません。それに対してパウロの見解を紹介します。?コリント7章12, 16節を開いてみましょう。「次に、そのほかの人々に言いますが、これを言うのは主ではなく、私です。信者の男子に信者でない妻があり、その妻がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。また、信者でない夫を持つ女は、夫がいっしょにいることを承知している場合は、離婚してはいけません。なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。しかし、もし信者でないほうの者が離れて行くのであれば、離れて行かせなさい。そのような場合には、信者である夫あるいは妻は、縛られることはありません。神は、平和を得させようとしてあなたがたを召されたのです。なぜなら、妻よ。あなたが夫を救えるかどうかが、どうしてわかりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうかが、どうしてわかりますか」とあります。これは、神様と自分との関係はいかなる夫婦関係にも優先するという意味です。聖書は基本的に、夫婦の関係をすべての人間関係の基礎と見て尊重しています。しかし、それを守ろうとすることが、神様との関係を壊してしまうことになるなら、離婚もあり得るということです。離婚もありうることであって離婚してもいいというのではありません。人間関係も大切ですが、それよりも神様のあわれみに頼り、感謝しながら正しい神様の御前で生きることが大切です。この世と調子を合わせるのではなく、まず、第一に神の国とその義を求める生活をしなければならないのです。かなり厳しい勧告ですが、もしここで罪を取り除くことをしなかったらイスラエルは罪の中で滅びるだけです。同様に私たちも信仰の改革、罪を悔い改める生活をしないなら、ゆでガエルのように霊的に死んでいきます。自分の知らずに罪の中で滅びるだけなのです。改革にも成長にも犠牲と痛みが伴われるものです。どうか、エズラを通して与えられる神様の御言葉を真剣に受け取って罪に対して驚き悲しんで悔い改める生活をできるように祈ります。そういう信仰の改革を実行して行くうちに、私たちは成長して行くことを信じます。

13Romans8Mあなたがたの手足を義の器として神にささげなさい

13romans8mあなたがたの手足を義の器として神にささげなさい, 2013年ローマ人への手紙第8講あなたがたの手足を義の器として神にささげなさい御言葉:ローマ人への手紙6, 1−23要, 節:ローマ人への手紙, また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 先週、私たちは信仰によって救われた人々が得られる神様の恵みと祝福を学びました。私たちは神様との平和、天国への望み、何よりも神様ご自身を喜ぶ恵みをいただいています。そして、これらの恵みは律法にまさるものです。では、律法にまさる恵みを受けた私たちはどのように生きるべきでしょうか。パウロは私たちクリスチャンが罪から避けるだけではなく、積極的に私たちの手足を義の器として神様にささげるように勧めています。ここで、私たちは知っていること、思うべきこと、ささげることについて学ぶことができます。どうか、私たちが知っていることを確認し、自分自身についてどのように思い、どのように行動すべきかを学ぶことができるように祈ります。?.私たちが知っていること, 1−6,  1節をご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とあります。パウロは1章から5章までにおいて、私たちがどのようにして義と認められたか、救われたかを説明して来ました。そして、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました。すると、もっと多くの恵みに与かるために、ますます罪を犯し続けようではないかと言えるようになります。それに対してパウロは、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と問いかけています。それから、「絶対にそんなことはありません。」と言い切っています。「とんでもない。」ということです。その理由は「私たちは罪に対して死んだ」からです。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」と言っています。ではいつ死んだでしょうか。3、4節をご覧ください。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とあります。イエス・キリストの死が私たちの死となり、キリストの復活が私たちの復活になった根拠は私たちがバプテスマを受けたからです。5節をご覧ください。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」とあります。バプテスマを通して私たちはキリストにつぎ合わされました。先々週、私たちは洗礼式を行ないましたがバプテスマを授ける時、水をつけました。それはイエス・キリストの十字架の死ともに死んだし、イエス・キリストの復活とともに生き返られたということを表わすことです。こういう観点から見ると、頭に水をつけるような洗礼式よりは全身を水の中に浸すバプテスマの方がもっと実感できると思われます。私は軍隊にいた時、バプテスト教会に通い、牧師先生の手伝いもしましたが、そこではプールや大きい銭湯で洗礼式を行ないました。牧師先生は聖徒を水の中に浸します。聖徒はひざまずき水の中に溺れますが、その時、彼はイエス様とともに死に、葬られたのです。それから牧師先生はしばらく沈んでいた聖徒を水の中から立たせます。その時に、彼はイエス・キリストとともによみがえられたのです。私たちもどこかのプールを貸切してそのようにバプテスマを行なうならもっと実感できそうでしょう。しかし、水のバプテスマによって私たちがイエス様とつぎ合わされるのではありません。水のバプテスマは信仰によって罪の赦しを受け、キリストとつぎ合わされた事実を公に宣言する儀式にすぎません。使徒10章を見ると、ペテロの教えによって人々はイエス・キリストを信じ、聖霊を受けました。その時、ペテロは, 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか」と言い、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じました, 47,48, 。つまり、人々はペテロの説教を聞いてイエス・キリストを信じ、同時に聖霊のバプテスマを受けてからから水のバプテスマを受けたのです。同様に、私たちは水のバプテスマによってではなく、イエス・キリストを心から信じて私の主・キリストとして告白する瞬間にキリストとつぎ合わされた人になりました。それが聖霊のバプテスマです。私たちクリスチャンはみんなが聖霊のバプテスマを通してイエス・キリストと一つになったのです。そういうわけで、私たちは何を知っていますか。 6節をご一緒に読んでみましょう。「「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ここで「知る」という単語のギリシャ語の意味は「経験によって知る」ことです。パウロは自分の経験を通して古い人、罪のからだが死んだこと、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを知っていました。事実、私も知っているし、皆さんも知っているはずです。私の古い人は非常に人間的です。だから、宣教師になる時も、私は長男として知的障害を持つ子どもがいる親のことが心配になりました。ところが、神様は私が親の面倒を見ることよりも神様が守り、助けてくださるということを悟らせてくださいました。それでまだ、罪の欲を持ち、罪を犯したりもしますが意思決定はもはや罪の奴隷ではなく、神様の奴隷として生きて来たのです。なんだか、不思議な力によってここまで導かれて来たことを知っています。7‐10節をご覧ください。「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。十字架を見上げてそれを信じる者は、「罪のからだ」が滅びました。これから、もはや私たちが罪の奴隷になることはないのです。「キリストと一緒に死んで一緒によみがえる」という二つのことをパウロはずっと一緒にしています。キリストと共に生きること、キリストと共によみがえることはとても大切なことです。ここで「よみがえる」という言葉には将来の意味もあるし、キリストが復活したときにキリストと共に「よみがえった」という意味もあります。毎日の生活において新しい歩みをするということは、復活のいのちの歩みなのです。?.私たちが思うべきこと11節をご一緒に読んでみましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ここで、私たちがどういう考え方、どんな認識を持って生きるべきかをはっきりと教えています。私たちは古い人ではありません。罪に対しては死んだ者です。ですから、私たちは常に、「古い自分はもう死んでしまった」と思わなければなりません。そして、「私は、もう新しい人になった」と思うのです。私たちはキリスト・イエスにあって生きた者なのです。古い人は奴隷根性のために感謝もせず、何でも人のせい、環境のせい、時代のせいにしながら不平不満の生活から解放されませんでした。しかし、今は違います。以前より積極的になりました。キリストにあって生きた者になったからです。皆さんのそうでしょう。先週、基礎勉強会の時にウマタイ宣教師が変えられたことが話題になりました。過去、彼の名前の通りに罪とサンシク(常識)にとどまる生活でした。宣教師になってからもなかなか変わりませんでした。いろいろな言い訳を言いながら賛美部長になることも否定的に思いました。しかし、東京ubfの賛美部だけではなく、日本ubfの情報通信部の働きにおいても大きな役割を果たしています。すると、今はいのちにあふれているように見えます。それは主のみわざに仕えながら古い自分を忘れ、新しい自分が「生きた者、宣教師」であると思って生きるようになったからでしょう。何よりも、キリスト・イエスにあって生きた者として思う彼のうちに宿っておられるキリストのいのちが働いておられるからです。私たちが自分に対してどう思っているかということはとても大切です。この間、テレビで見たのですが、ある幼稚園の子どもたちが綱引きをしていました。a、b、cの3チームでしたが、私服のまでやって一回目はaチームが一位でb、cチームの順位でした。ところが、次にはcチームだけは全員に体操着を着させると子どもたちは自分たちが一位になると思うようになりました。指導する先生がそう思うように指導したからです。すると、二回目の綱引にはビリだったcチームが一位になりました。全く同じメンバーだったのにどう思うかによって結果が違って来たのです。私たちも「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者である」と思う時に、生きた者らしく生きるようになります。「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いましょう。」(みなさん!一緒に言ってみましょう。「私は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思います。」)私たちが、そのように自分認識をすると、私たちの人生は実際に変わります。 正しい自己認識をしてからはどういう生活をするべきでしょうか。?.私たちが持つべき行動12、13節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」私たちの身分は変わりました。キリスト・イエスにあって生きた者になりました。ですから、どうするべきでしょうか。私たちの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。私たちのからだを罪の支配にゆだねて置くなということです。もし、私たちが罪の支配にゆだねて置くと、邪悪な情欲に従ってしまいます。私たちは罪に対して死んだのですが、罪はまだ生きています。罪は力強く働いています。再び私たちのからだを支配しようとしています。私たちはその罪の支配に自分をゆだねてはいけません。罪にゆだねるかどうかの選択権は私たちにあります。私たちはイエス・キリストの十字架の死とともに罪に対しては死にました。罪の代価を払ったのです。私たちはそれを知っています。もはや罪の奴隷ではないということを知っています。さらに神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思っています。ですから、再び騙されたり誘惑されたりして罪の支配に自分をゆだねて、その情欲に従ってはいけないのです。もし、罪の支配にゆだねるなら、私たちは罪の奴隷になってしまいます。しかし、今は私たちの身分が変わりました。私たちが罪の奴隷に戻ることは不可能です。なぜでしょうか。17、18節をご覧ください。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」私たちは絶対に罪の奴隷に戻ることはできません。20節を見ると「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」とあります。その時は義を行なう義務も責任もありませんでした。その結果、どういう生活をしていましたか。21節をご覧ください。「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」とあります。その時に、何も良い実を得ることができず悪い実ばかり結んでいました。しかし、今は私たちの状態が違います。19、21、22節を見ると私たちが今はどんな状態になったのかが記されてあります。「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから。」「今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」とあります。今は義の奴隷になりました。神の奴隷になりました。今は聖潔に進む者になりました。過去のようにやっていた恥ずかしいことはできなくなりました。ですから、私たちが自分の手足を罪の支配にゆだねるなら、私たちの大混乱に陥ってしまいます。過去の罪の奴隷であった時よりも苦しくなります。過去と同じ罪を犯してももっと苦しくなり、死の苦しみを味わい、結局は滅んでしまいます。自分を罪の奴隷として罪にささげることになってしまうのです。従って私たちはどうするべきでしょうか。もう一度13節をご一緒に読んでみましょう。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ここで、パウロは私達の体を器として表現しました。器は使い方によって不義の器にもなれるし、義の器にもなれます。同じ手で人を殴ることもできるし、愛する人を抱きしめることもできます。足で人を蹴ることもできますが、人々のケアーのために走る回るために使うこともできます。ですから、私たちが自分自身と手足を誰に捧げるかは大切なことです。聖書は「義の器として神にささげなさい。」と命じています。このことばは神様のために積極的に行動することを命じています。罪の支配にゆだねることが自然にできるようなことです。決意を新たにするとか、悔い改めて新しい出発しようと強く決断する必要がありません。しかし、自分自身とその手足を義の器として神様にささげることは積極的に行動することです。熱心に活動するのです。ではどうやって私たちが自分のからだを神様にささげるとどうなりますか。14‐16節をご覧下さい。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」ここも、パウロは律法の下にではなく、恵みの下にあることを教えています。そうです。私たちは恵みの下にあるからこそ義の器として神様にささげることができます。恵みは私たちに感動と感激を与えてくれます。恵みはやる気を思い起こします。恵みは人を強くします。恵みは神様の栄光ならいのちさえもささげるようにします。律法の教えより恵みが人を動かします。私は今回ローマ人への手紙を学びながら「恵み」の世界を悟って理解し、ますます恵みを受けています。私は中学校卒業式の時、善を行なったことで「善行賞」を受賞したことがあります。その時、母は町中の人々から称賛され、どのようなことを子どもに教えたのかとよく聞かれたと嬉しげに言いました。でも、母は小学校も通ったことがないし、文字を読むこともできませんでした。実際に、母からは何か教えられたことも、叩かれたこともありません。ただ、私の心の中に母の献身的な愛による恵みが支配していました。母の恵みのゆえに、私は規則や礼儀などを良く守る良い子でなければならないと思っていたのです。すると、教育ママからいろいろ教えられた子どもたちよりも多くの善を行ない、善行賞を受賞することができたのです。同様に、神様の恵みを知れば知るほど神様の律法に従おうとする心が生まれてきました。私は平信徒として自分の仕事だけでも精一杯です。先週まで学校は春休みでしたが、学校に行かなかった日は一日だけでした。その上に非常に足りないけれども毎週の主日礼拝のメッセージを伝え、日本とアジアubfの支部長としての役割も担っています。ところが何一つ嫌なことはありません。自分が足りなくてもすまない心はありますが、もっと積極的に義の器として神様にささげたいと思っています。それは私に注がれた神様の恵みを大きく、それを知っているからです。もう一度15節をご覧ください。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」そうです。本当に恵みの下にあるなら、罪を犯そうとしません。恵みを知れば知るほど罪を犯さなくなります。しかも、感謝して喜んで律法を守り、罪を犯さなくなるのです。それだけではなく、ますます喜んで自分自身とその手足を義の器として神様にささげるようになります。どうか、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる神様の恵みのゆえにますます積極的に自分自身とその手足を義の器として神様にささげる生活ができるように祈ります。