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13Thanksgiven.新しい歌で主を賛美しよう

13thanksgiven, 新しい歌で主を賛美しよう, 2013年収穫感謝礼拝新しい歌で主を賛美しよう御言葉:詩篇40:1〜17要, 節:詩篇40:3, 1.以前詩人, ダビデ, は、どのような苦難に陥っていましたか, 。その時、ダビデはどんな思いで、何を待ち望んでいましたか, 。主は彼の望みや叫びを、どのようにしてくださったのでしょうか, 1b〜2、詩33:18〜20, 。厳しい試練の中でも、主を待ち望むダビデの姿を通して、私たちは何を学ぶことが出来るのでしょうか。2.主は、ダビデの口に、何を授けられましたか, 。「主が、賛美を授けられた」とは、どういうことなのでしょうか, 黙5:12, 詩33:1, 。新しい歌で主を賛美する姿に、多くの者は何を見て何を悟り、そしてどのようにしたい、と思うようになるのでしょか, 。3.どんな人が「幸いな人」でしょうか, 。なぜ、主に信頼することが、幸いなことなのでしょうか, 32:10, イザ30:15, ローマ10:11, 。ダビデは、神様がなさった多くの奇しいわざを通して、神様がどんな方であることを悟るようになったのでしょうか, 。4.主は何を喜ばれ、何をお求めになる方なのでしょうか, 詩51, 16〜17, ?サム15:22, 。そのときダビデは主に、どのように申し上げましたか, 。それから大いなる会衆には、何を語り告げましたか, 。主の恵みとまことを隠さず証しするダビデの姿は、どうだったのでしょうか。5.また、ダビデは、どのようなことで悶え苦しんでいましたか, 。自分ではどうすることもできないその時に、彼は主に何を叫び求めましたか, 11〜15, 。そして、主を慕い求め、主の救いを愛する人たちのためには、どのように願い求めましたか, 。ここで、ダビデの信仰と牧者の心について、話してみましょう。

13Romans1M義人は信仰によって生きる

13romans1m義人は信仰によって生きる, 2013年 ローマ人への手紙第1講 義人は信仰によって生きる御言葉:ローマ人への手紙1, 17要 節:ローマ人への手紙1, 17「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ローマ人への手紙は大きく三つに分けることができます。1, 17節は序論、1, 11章まではキリスト教の教理について書いてあります。そして、12章から16章までクリスチャンが実生活の中でどのように生きるべきかについて書いてあります。今年、私たちは20講に分けで学んで行きたいと思っています。今日は第1講として序論です。パウロはローマの聖徒たちとは一度も会ったことがありませんでした。そこで、パウロが彼らに自己紹介をし、彼らのためにどのような祈りをし、彼らに対してどんな負債を負っているか、ローマに福音を伝えることはいかに重要であるかを伝えています。私たちはこの御言葉を通して私たちが神様から受けた恵みが何かを学ぶことができます。さらに進んで使徒パウロの福音に対する確信を学ぶことができます。どうか、御言葉を通して主の恵みを心から感謝し、福音に対する確信を新たにしていくことができるように祈ります。1節をご覧下さい。「神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ」これはパウロの自己紹介です。パウロは神の福音のために選び分けられました。選び分けとはある特別な仕事のために区別されたことを意味します。パウロは神の福音のために選び分けられました。当時福音はまだ広く伝えておらず、人々は神の福音に対する偏見や誤解を持っていました。パウロはこの福音を伝える使命を受けました。彼はその福音を宣べ伝えるために智恵と力を尽くしました。ではどのように選び分けられましたか。使徒としもべとしてです。パウロは自分についてキリストの使徒であり、キリストのしもべであると紹介しています。彼の地位は、ある意味においてはきわめて高く、ある意味においてはきわめて低い身分です。まず、彼は使徒として召されました。使徒とはある特別な使命のために遣わされた者という意味です。イエス様からこの世に派遣された全権大使です。神様からある仕事を委託された者です。次にしもべです。しもべとは奴隷という意味です。当時奴隷は主人が自由に買い売りできる所有物であり、生命の保障もなく、家畜より少しましな程度でした。奴隷には自分の立場や都合は許されず、ただ主人に絶対的に服従しなければなりませんでした。パウロの主人はイエス様です。過去パウロは律法の奴隷であり、罪の奴隷でした。その時、彼には喜びも平安もありませんでした。彼の心は砂漠のように枯れていました。しかし、彼がイエス様に出会い、イエス様を自分の主として受け入れた時、彼の人生は完全に変わりました。イエス様のしもべになりました。そこで、彼は言い尽くせない恵みの世界、真の自由と喜び、心の平安を体験するようになりました。そこで、彼は使徒としてのアイデンティティと誇りを持ち、しもべとして忠実に働きました。ローマの奴隷たちが何の報酬も受けずに、ただ主人のために働いていたようにパウロはキリストのために働いたのです。ここで、私たちはパウロの自己認識を学ぶことができます。人が「自分をどのように認識しているか」ということはとても大切な事です。ある学校での話を紹介します。1年が始まる時に、校長先生がひとりの担任の先生に言いました。「実は、あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの高い生徒を集めてあります。彼らの能力を生かしていい成績を残してください。」校長は別の先生に言いました。あなたのクラスには、うちの学校で最もIQの低い生徒を集めてあります。なんとか頑張っていい成績を残してください。」一年が終わった時、その結果はどうだったでしょうか。IQが高いと言った生徒のクラスは、非常に良い成績を残し、IQが低いと言った生徒のクラスは非常に悪い成績を取りました。自分をどのように認識するかによって結果、実績が変わって来るのです。NLP, ニューロ・ロジカル・レベル―神経論理レベル, というのがりますが、そこで、信念価値観、能力、行動、環境よりも上位レベルになっています。環境や、行動、能力、信念価値観よりも自己認識, アイディティティ, が人の人生にもっと大きい影響を与えるということです。つまり、リーダーの仕事ができるから、リーダーとしての自己認識を持つのではなく、リーダーとしての自己認識を持つから、リーダーの仕事ができるようになったり、足りない能力があれば自ら学ぶようになったりするということです。自己認識の変化が、能力や行動の変化を生み出すのです。しかし、自分がリーダーだという自己認識だけが強ければ能力を生み出しても高慢な者になってしまいがちです。実際に自己認識が高くて良い結果を出していますが、高慢な人も数多くいます。実際にそういう人たちのために気の弱い人たちが傷つけられています。虐められる場合もあります。ところが、パウロは使徒としての自己認識だけではなくしもべとしての自己認識があったのです。だから、彼はだれよりも大きな実績を持ち、大きな成果を出しながらも常に謙遜に生きることができました。奴隷としての自己認識があるからこそ、どんなに迫害されても、どんなに無視されても、傷つけられても揺れることなく福音のために働くことができました。ここに謙遜があり、確信がります。召してくださった方に対する信頼があり、覚悟があり、感謝と感激があります。私はもともと自己認識が低い人間でした。田舎で暮らしていた小中学校の時はそれほど低くなかったのですが、大都市の学校に進学してからは劣等感に陥ってしまいました。半農半漁の田舎出身で親は貧しく、自分には能力ないと思いました。歌も、運動も、勉強もできない人間だと思っていました。そう思うと、何もかもますますできなくなり将来が真っ暗に見えてきました。しかし、大学一年生の時、ペテロの手紙第一の学びを通して神様に選ばれた者、王である祭司であることが分かりました。それで自分のキャンパスの裏山に上って目の前に広がるキャンパスを見ながら「私は王である祭司だ。大学総長を始め2万人の学生は私の羊だ」と叫んだ時もあります。そうこうしているうちに、私は王である祭司としての自己認識をするようになったのです。それから、ヨハネの福音書13章の御言葉を通してじもべとしての自分を発見するようになります。弟子たちの足を洗われたイエス様を通してイエス様の弟子はどんな人の足でも洗うことのできる奴隷であることが分かったのです。その時に、まだ弱かったけれでもキリストのしもべとして生きようとする覚悟ができました。すると、心の平安が与えられました。それから30年間さまざまなことを経験して来ましたが、自分はしもべであると思うと心が楽になりました。私にある二つの自己認識、一つは王である祭司、もう一つはキリストのしもべであることです。これが私をささえ、励まし、慰めてくれたのです。今でもそうです。UBF活動の中でも、職場生活の中でも自分の未熟さから来るものですけれども傷つけられるように話を聞く時があります。しかし、キリストのしもべだからと思うとすべの傷が癒され、心は楽になります。また、この世で一教師にすぎない身分ですが、心の奥底から宣教師として王である祭司としてプライドを持っています。私たちがもう一度神様がどのような人として自分を召しておられるかを発見し、正しい自己認識を持って生きることができるように祈ります。パウロが選び分けられ、使徒として召されたのは福音のためです。では「福音とは何でしょうか」2, 6節をご一緒に読んでみましょう。「「・・この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です、, 」このパウロから、」福音の起源は神様です。神様は人間が堕落した時、救い主を約束されました, 。また、アブラハムの子孫からメシヤを与えてくださると約束され、預言者たちを通して約束されました。神様は預言者たちを通して、イエス様に対して預言されました。イエス様の誕生の場所、飼い葉おけの誕生から十字架の死まで、そして復活と昇天、再臨までも旧約聖書に預言されています。また、旧約聖書は一日のうちに書かれた作文ではありません。聖書は約千五百年の間、四十名の著者達によって書かれました。記録された場所も時代も著者も違います。ところが、驚くほど一つの流れ、すなわち、統一性があります。それはイエス・キリストに関することです。このように福音は明白な歴史的な事実の上に根拠を置いているために信頼できるものです。旧約聖書の中であかしされ、長い間イスラエル人が、神の約束として待ち望んでいた方が、キリスト・イエスです。イエス様は、肉によればダビデの子孫としてお生まれになった王です。神様はダビデの子孫からメシヤを送ってくださると約束されました。その通りに、イエス様はダビデの子孫としてお生まれになり、約束されたメシヤとしてダビデの王位を受け継がれた王であることを明らかにしてくださいました。 霊的には神の御子です。イエス様が神様の御子であることをどのようにして知ることができますか。イエス様は死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示されました。使徒パウロはこのキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです。使徒パウロは恵みとともに使徒の務めを受けたと言います。これは使命です。彼は異邦人に福音を伝える使命を受けました。それは異邦人の中に信仰の従順をもたらすことです。それはやさしいことではありません。異邦人は偶像崇拝をし、淫乱でした。また、霊的に無知でわがままでした。不従順と反抗心が強い人々でした。このような人々の中に信仰の従順をもたらすことは難しいことです。それで福音を伝えてもあまり負担に思わないように救いの恵みや祝福だけを教えることで満足しやすいです。しかし、パウロは御言葉に絶対的に従うように教えました。それはまるで岩地のような心をハンマで打ち砕くような作業のように難しいことです。多くの霊的な戦いが必要です。本当に、御言葉に従うことはやさしくありません。御言葉は敵をも愛するように教えています。適でなくても、愛しにくい時がどんなに多くあるでしょうか。まだ暗いうちに起きて祈られたイエス様に見習うように教えられていますが、まだ暗いうちに起きることがどんなに難しいでしょうか。でも、そういう御言葉への従順によって私たちは成長します。神様は従順を喜ばれます。 ですから、パウロは自分がイエス・キリストのしもべとして絶対的に服従しただけではなく、教える人々にもそのようにするように教えました。6,7節でパウロはローマの聖徒たちも、イエス・キリストによって召された人々であると言いました。彼らは神様に愛されている人々、召された人々です。今日、ローマ人への手紙を読み、学んでいる私たちも同じです。パウロは彼らと私たちに父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があるように祈りました。それから、神様に感謝しています。8節をご覧下さい。「まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。」当時のローマは富と権力と快楽の都市でした。また、あらゆる宗教が氾濫していました。このような雰囲気の中で信仰の中心を守ることは難しいことです。ところが、ローマの聖徒たちは信仰の中心を守るだけではなく、信仰のよい影響を及ぼしていました。キリスト教が始まってまだ30年余りしか経っていないのに、ローマのクリスチャンたちはローマ世界全域において知られていたのです。彼らがいかに生き生きとして信仰生活を送っていたかが分かります。私たちの東京UBF教会は今日で25周年を迎えました。この25年間で世界中に知らされていることを感謝します。少なくてもUBFがある90か国以上の国に知らされています。世界UBF本部のホームページには去年の日本のUBF,東京UBFのみわざの報告が載せられています。ただ、私たちの信仰のレベルが初代教会、ローマの聖徒たちのようであるからは分かりません。神様だけはご存知です。私自身は非常に足りないことを感じているので今年は一致と成長のために祈っています。ではパウロがそれほどローマに行こうとした理由は何ですか。第一に、彼らに御霊の賜物をいくらかでも分けて、彼らを強くしたいからです。御霊の賜物は15節と関連して考えて見ると、福音です。ローマの聖徒達は、信仰はありましたが、まだ福音の世界を深く知ってはいませんでした。彼はローマの聖徒達に福音を宣べ伝えることによって、彼らが福音の上に堅く立つことを願いました。彼らとの互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいと思いました。できるだけ大勢の人たちと交わり、そして私達の信仰の足りないところを、その人たちとの交わりによって補っていただくという謙遜さを持つことが必要です。第二に、いくらかの実を得ようと思いました。実とは福音を伝えることによって得られる実です。弟子養成の実です。宣教の実です。パウロはローマセンターが宣教師を養い、派遣する世界宣教の中心部になることを願いました。しかし、パウロがそれほどローマにいる人々に福音を伝えることを願っていた根本理由は、彼に負債を負った者の心情があったからです。14、15節をご一緒に読んでみましょう。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロはすべての人々に負債を負っていると言っています。負債を負った者は謙遜です。いつも負債を返さなければならないという考えで心が重いです。それでその負債を返すことができると喜びます。負債を負っている人の心は牧者の心です。私達は神の恵みを思えば思うほど、ほんとうに、誰に対してもそれを支払って行かなければなりません。パウロの伝道の根本にはそれがありました。主が私たちにも使徒パウロのような負債を負っている者の心を与えてくださるように祈ります。16節をご覧下さい。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」当時ユダヤ人は宗教的な理想を誇り、ギリシヤ人は智恵を誇りました。ローマ人は権力を誇りました。ところが、イエス様は凶悪な犯罪人が処刑される十字架につけられ死なれました。それで十字架につけられたイエス様は、ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでした(?コリント1, 23)。今日もクリスチャンが少ないこの国ではクリスチャンを愚かに見る人もいるでしょう。わざと無視しなくても見下げている人もいるでしょう。このような時代の雰囲気の中で福音を恥と思いやすいです。しかし恥と思う必要はありません。むしろ誇りに思うべきです。その理由は第一に、福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力だからです, 。パウロは福音だけが人々を罪と死の力から救うことができる力があることを信じました。罪と死の問題を解決できる特効薬は福音だけです。パウロはこの福音の力を信じていたので少しも恥と思いませんでした。この福音はどんな罪人も新しく生まれさせる力があります。この力はダイナマイトのような超自然的な神様の力です。福音は十字架につけられた強盗が悔い改めた時、直ちに神様の子供としました。この福音の力によって放蕩息子であったアウグスチヌスがセイントアウグスチヌスに変わりました。私たちもこの福音の力を体験して来ました。初めてセンターに来た時には「あの兄弟も変わるかな」と思った兄弟が福音を学ぶうちに新しく生まれ変わることを見ました。福音はどんな人も新しく変える力があります。ですから、この福音の力を信じている人は、誰にも大胆に福音を紹介することができます。第二に、福音のうちには神の義が啓示されているからです。17節をご一緒に読んでみましょう。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」神様の義には罪を憎み、不義を受け入れない属性があります。義なる神様は公義によってさばかれる方です。ですから、この神様の御前に立つ人は一人もいません。すべての人々が神様の裁きの対象です。しかし、本文で言っている神様の義はイエス様を信じる人の罪を赦し、信じる人を義と認める義です。この神の義は人間の努力や働きによって得ることができません。ただイエス様を信じる人に値なしに与えられるものです。それは初めから終わりまで信仰による義です。信仰によって生きる時、神様に認められます。信仰によって生きる時、神様に喜ばれます。信仰によって生きる時、この世で勝利の人生を送ることができます。信仰によって生きる時、罪の赦しに対する確信と永遠のいのちへの確信があります。私たちがどんな場合にも信仰によって生きるように祈ります。

13Romans3M神の前に正しい人

13romans3m神の前に正しい人, 2013年 ローマ人への手紙第3講神の前に正しい人御言葉:ローマ人への手紙2, 16要 節:ローマ人への手紙2, それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が正しいと認められるからです。先週、私たちは「神様の怒り」によるさばきを学びました。それは異邦人に向けられた神様のさばきでした。神様は彼らを良くない思いに引き渡され、放置されました。そのため彼らは、してはならないことをするようになります。不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧み、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わぬ、高ぶる、大言壮語する、悪事をたくらむ、親に逆らう、わきまえがない、約束を破る、情け知らず、慈愛がないことをするのです。では、ローマ人への手紙を通してパウロの指摘を受けたローマの聖徒たちの反応はどうだったでしょうか。同じ教会に異邦人もユダヤ人もいたのでそれぞれ反応も違ったことでしょう。異邦人は自分たちの罪がさらけ出されたので恐れおののいたでしょう。ところが、ユダヤ人は恐れている異邦人を指さしてさばいたことでしょう。「その通り、その通りだ。まったく異邦人はしようがない。あの豚のような異邦人は、本当にひどい奴らだ。」とさばくのです。パウロはそれも想定してユダヤ人たちの罪も指摘しています。パウロは今日の聖書箇所を通して宗教的な人、律法を熱心に行なう人、敬虔なクリスチャンだと言っている人々に向かって彼らの罪を指摘しているのです。ここで、私たちは御言葉を自分の心、日常生活に当てはまることができます。私たちひとりひとりが本文の御言葉を自分の人生に照らしていただくことができるように祈ります。そうして律法を聞くだけの者ではなく、律法を行なう者、神の前に正しい人として生きて行くように祈ります。?.すべて他人をさばく人の罪1節をご一章に読んでみましょう「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。」「すべて他人をさばく人」というのは、具体的に言うならユダヤ人ですが、比較的に道徳的な人たちです。彼らは宗教に熱心であったり、律法に熱心であったりします。法律とルールを落ち度なく踏み行なっています。そういう人たちにはどうしても人をさばく傾向があります。私たちクリスチャンも人の弱点や、失敗や、弱さに対して寛容な心からかばってあげるのではなく、それをさばいてしまう時があるでしょう。個人レベルにおいてだけではなく、教会においてもあまりにも熱心である時に他人をさばく傾向が出て来ることがあるのです。恥ずかしく悲しい話ですが、私たちUBF教会も十数年前にさばき合う時がありました。パウロも律法に熱心になるあまり、他人をさばいていた時がありました。だから、彼は宗教熱心であることは、他人をさばきやすいということを自ら体験し、よく知っていました。それで「あなたは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている」と言ったのです。事実、私たちが人に指を指すなら、三本の指は自分の方に向いています。人をさばくと自分がさばかれているのです。この時間、私たちが自分の心を探ってみて人をさばいていたなら悔い改めましょう。私はこのメッセージを準備しながら何度も悔い改める心になりました。私自身が他人をさばく人だからです。特に、職場生活の中で同僚たちとともに上司をさばいたり、上司とは同僚のことをさばいたりしていました。私が他人をさばいていた罪を悔い改め、自分の方から人をさばく言葉を言わない決断をしました。どうか、私たちは本人がいないところで陰口を言ったり、人をさばいたりしないことを決断しましょう。そうして、私たちの内面、品格がますますイエス様の御姿に成長して行きますように祈ります。では他人をさばく人の特徴はなんでしょうか。  第一の特徴は人には厳しく自分には甘いということです。3、4節をご覧ください。「そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか」とあります。他人をさばく人は自分がさばいている人と同じことをしていながらも自分は神のさばきを免れると思っています。この間、職場であるお母さんからこんな話を聞きました。「自分は朝、挨拶しても返事がない人がいますね。私はそういう常識がない教師は大嫌いです。あの若い先生に言ってください。」と言われたのです。それで、私はお母さんが指摘した先生に「嫌でも挨拶はしましょう。」と言いました。すると、「あのお母さんは自分の気に入らない人には挨拶なしです。何度挨拶しても挨拶がないので私もあのお母さんだけに挨拶していない」と言いました。このように、私たちは自分を省みることなく、他人をさばくのです。ところ、自分には甘く、自分は神様のさばきを免れると思っているのです。しかし、人をさばいたり、見下げたりすることによって自分が偉くなるのではありません。むしろ、彼らは神様の御怒りを自分のために積み上げています, 。そして、積み上げられている罪が限界を超えるときは、神様にさばかれます。人々の前でも辱められるようになります。 第二の特徴はかたくなさと悔い改めない心です。 5節をご覧ください。「ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」とあります。かたくなさと言うのは韓国語の聖書に「固執, 意見・態度を強固にして、簡単に変えないこと, 」と訳されています。つまり、「自分は正しい」と思い、自分を変えようとせず、すべてのことを人のせいにし、人をさばきます。特別な人だけではなく、一般的に私たち人間と言うのは、どうしてもどこかで「自分は正しい」、あるいは「これでいいのだ。」と思ってしまう傾向があるのです。それで自分を省みて悔い改めるより人をさばいてしまうのです。第三の特徴は偽善です。13節をご一緒に読んでみましょう。「それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」多くの人々は律法を聞いていること、知っていることで敬虔な生活をしていると思います。それで内側は腐っていても自分の知識を持って自分の正しさを主張します。また、人々から自分が正しく生きていると認めてもらいたがっています。福音書を見ると、パリサイ人や律法学者たちは律法を聞いていたし、律法を覚え、教えていました。しかし、彼らは「自分は立派だ。宗教的な儀式を守り、戒めを守っている」と言いながら、実際の「行ない」は、言っていることとかけ離れていました。そこで、イエス様は大変厳しく彼らに言われました。「あなたがたは口では立派なことを言っているけれど、全然実行しないではないか。あなたがたは人の肩に重荷を載せるけれども、自分はその重荷を持とうともしないではないか。忌まわしい者たち、偽善者たち。あなたがたは白く塗った墓だ。外側は美しく見えても、内側は腐っている」(マタイ23章)とあります。今でも人々をバカにして見下したり、自分の知識の自慢をペラペラと語り続けたりしながら他人をさばく人々が多くいます。しかし、それは偉そうなことを言っていますが偉い行ないはない偽善なのです。創世記の2、3章を見ると、には初めの人間、アダムとエバが出てきますね。アダムとエバは、エデンの園で快適な生活をしていました。アダムはエバに愛の告白をします。「これは私の骨からの骨、私の肉からの肉」と言いました。しかし、エバは、狡猾な蛇の誘惑を受けて善悪の知識の木の実を食べてしまいました。そして、夫のアダムにも食べさせました。すると、アダムも、エバも恥ずかしくなり、神様の御顔を避けて、園の木の間に身を隠しました。そこで、神様が「あなたは、どこにいるのか。」と呼びかけたとき、アダムは何と答えたでしょうか?「神様。こうなったのは、私のせいではありません。あの女が悪いのです。」すると、エバはエバでこう言いました。「神様。私をあまり責めないでくださいよ。私も少しは悪いかも知れませんけれども、本当に悪いのはあの蛇ですよ。蛇が私を惑わしたのですから・・・」人類の歴史に何でも人のせいにする責任転嫁というの入って来ました。自分のことを隠して「私は悪くないですよ。こうなったのはあの人が悪いのです。学校の先生が悪いのです。親が悪いのです。社会が悪いのです。政治が悪いのです。国が悪いのです・・・」というのです。それが偽善です。イエス様はこう言われました。「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁(はり)には気がつかないのですか。」(マタイ7・3)しかし、しかし、イエス様は自分の罪を認めている取税人や遊女たちに対して厳しく言われませんでした。むしろ、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と言われました(マルコ2・17)。自分の心の状態を素直に認めて、「神様あわれんでください」と正直に心をさらけ出す者に対して、イエス様はいつも近づいていかれるのです。ですから、私たちは神様の御前に正直にならなければなりません。「私は罪人です。私は本当に弱さを持っています。神様あわれんでください」と祈る一人一人が神様の御前に正しい人です。ではすべて他人をさばく人たちに対する神様のさばきはどのように行なわれますか。 ?.神様のさばきの基準6, 8節をご覧ください。「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」とあります。ここで、神様のさばきがどのように行なわれるかを知ることができます。 第一に、神様は、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます, 。神様の裁きは個人的で人格的です。東京UBF教会のメンバーだからさばかれないのではありません。皆と一緒に行なったことも、ひとりで行なったことも、ひとりひとりに、その行いによってさばかれます。ですから、神様のさばきは公平です。もし、グループに従って報いが与えられるなら、それは不公平になるでしょう。同じ教会のメンバーでもひとり、ひとりの考えや行ないは違うからです。 それでは行いと信仰とはどんな関係があるでしょうか。行ないは信仰の現われです。ほんとうに、神様の御言葉を信じるなら、どうしても御言葉に聞き従おうとするでしょう。毎週、主日礼拝のメッセージ、日ごとの糧の御言葉を軽んじるようなことはしないはずです。もちろんなかなか実践できない時もあるでしょう。一週間を顧みると自分の弱さにため息をつく時もあるでしょう。しかし、神様は行ないだけではなく、心の動機をご覧になります。第二に、心の動機に従ってさばかれます(7, 11)。もう一度7、8節をご覧下さい。「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。」ここで「求める」とはその人の心の動機、価値観を表わします。栄光と誉れと不滅のものとを求める者とは、霊的な価値観を持っているということです。弱い人間だから失敗もあり、罪を犯してしまう時もありますが、その心の動機が良ければ、神様はそれを評価してくださるのです。私たちが完璧に行なうことができなくても霊的な価値観を持ち、栄光と誉れと不滅のものを求める人には永遠のいのちが与えられるのです。しかし、党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されます。派閥をつくるのは自分の利益のためです。そして、派閥に属すると、何が正しいかよりも、自分の党派に有益になるかどうかが判断基準になってしまいます。その人は食べるにも、飲むにも、何をするにも自分の有益のためにします。それでそういう人には神様の怒りと憤りが下されるのです。ですから、私たちは毎日自分の心が神様に向いているかどうかをチェックして見なければなりません。皆さんは、今、何を求めているでしょうか。何を目的にしているでしょうか。私たちが忍耐を持って善を行い、栄光と誉れと不滅のものとを求める者でありますように祈ります。9, 11節は「悪を行なう者」と「善を行なう者」の内面状態が記されてあります。表面的には悪を行なう者でも金持ちになって幸せに生きているかのように見えます。一方、善を行なっているのに、生活は貧しく苦労ばかりしているように見えます。しかし、実情は違います。人の内側は違います。患難と苦悩とは悪を行なうすべての者の上に下ります。彼らの心は罪意識のために苦しみ、絶えない不安と焦り、苦悩のために眠れぬ夜を過ごすほどです。しかし、善を行なう者の上には栄光と誉れと平和があります。彼らにはまことの満足と喜びがあり、神の国の平安があります。彼らはぐっすり眠ります。この原則はユダヤ人をはじめギリシャ人にも同じです。神様にはえこひいきなどはないからです。第三に、律法と良心に従ってさばかれます, 。もう一度12、13節をご覧ください。「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます。それは、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行なう者が正しいと認められるからです。」とあります。律法の下にあって罪を犯した者は律法に従ってさばかれるでしょう。私たちは御言葉を学んでいますが、それを知っているかどうかと言うことよりも、それを行なっているかどうかによってさばかれるのです。では律法なしに罪を犯した者が滅びる基準とは何でしょうか。14, 15節をご覧ください。「, ・・律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。」とあります。パウロは律法を持たない異邦人は自分自身、自分自身の良心という道義的なおきてがさばきの基準となることを言っています。人間には本来、良心というものがあります。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」, ロバート・古ガム著―という本に「人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか。本当に知っていなくてはならないことをわたしは全部残らず幼稚園で教わった。」とあります。それはすべての人間に善悪を区別する良心、能力があるということでしょう。神様の似姿に造られた人間には良心があるのです。それで、神様はすべての人の心に刻まれたこの良心の基準に基づいてさばかれるのです。私たち人間が良心に従っていなければそれも神様のさばきの対象になります。私たち人間は、他人の心の中にある動機を知ることができません。私たちが人をさばくときは、うわべだけでさばくことになります。結論的に16節をご一緒に読んでみましょう。「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです。」とあります。わたしたちの隠れた罪が、神様の最後の審判において明らかにされます。その時にキリストは、父なる神と共に裁き主として立たれます。しかし、同時にわたしたちの弁護者となっていくださるのです。神様の御前にわたしたちは自らの正しさを主張できません。最後の神様のさばきにおいて私たちは、神様の御前に罪人して立つしかありません。私たちは、それをアーメンと認める以外に何もありません。しかし、その日は、私たちにとって福音なのです。なぜならば、イエス・キリストのさばきの日だからです。キリストは、その日に「生きる者と死ぬる者とにさばかれます」。その裁きが私たちに福音となります。キリストの十字架のゆえであります。その時は、私たちの贖い主として十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストが私たちの弁護者となります。御自身の贖いゆえに私たちの罪を弁護してくださるのです。だから、最後に頼るべきお方は、イエス・キリストなのです。そして、それが、パウロ同様に私たちが告げる福音です。このわたしの福音を、パウロと同じように、自分の家族に、この町の人々に伝えつつ、キリストの裁きの日に向けて歩んで行きますように祈ります。その日は、私たちには希望の日だからです。どうか、その日まで神様の御前に正しい人として人をさばかないで謙遜に常に信仰によって生きるように祈ります。

13Romans2M神の怒り

13romans2m神の怒り, 2013年ローマ人への手紙第2講                         神の怒り御言葉:ローマ人への手紙1, 32要, 節:ローマ人への手紙, 18「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」先週、私たちはローマ人への手紙の序論を学びました。パウロのあいさつのことばに現わされている自己認識について学び、福音の力について学びました。特に16、17節はローマ人への手紙の主題を要約しています。とても重要な個所なのでもう一度ご一緒に読んでみたいと思います。「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」この17節までがローマ人への手紙の全体の序論で、18節から本論に入ります。福音は救いを得させる神の力です。ところが、パウロは17節で神の義の啓示を語った後に、18節で神の怒りの啓示を語ります。つまり、信仰によって救われるという神様の義、救いを語ってから神様のさばきを語っているのです。まず異邦人の罪とそのさばきを語り、次いで、ユダヤ人の罪とそのさばきを取り上げています。そして、最後に、すべての人が罪人として神様のさばきのもとにあることを証しています。今日の本文は異邦人の罪に対す神様の怒りに関することです。神の怒りを招いたのは人間の不敬虔と不正の罪であって、それを解決するものは信仰による義以外にありません。ここで、私たちは福音の必要性を学ぶことができます。神様の怒り、自分の罪部深さを知らなければイエス様の福音がどんなに必要であるかは分かりません。私たちの人生において、神様に深い感謝を覚えるのはどんなときでしょうか。苦しみ、悩み、痛みなどの逆境を克服した時です。人生の最大の危機にまで落ち込んで、その後で上って来る経験の中にこそ、真の感謝と喜びがあるのです。同じように、私たちの救いの喜びと感激と言うものを実々に感じるためには、イエス・キリストを信じる以前の自分の姿がどのようなものであったのかを深く悟る必要があります。そういう意味で今日の御言葉は私たちの以前の姿を思い起こしてくれます。私たちは御言葉を通して私たち人間の罪深い姿が知ることができます。それは恥ずかしいことです。でも、救われた喜びと感激を知り、また救われるためには自分の姿を知らなければなりません。病を癒すためにはきちんとお医者さんに受診して、レントゲン等撮り、診てもらわなければなければなりません。そのように、私たちは御言葉を通してチェックしてみなければならないのです。今日の御言葉を通して人間の内面の実態、神の怒りを知り、福音を堅くつかむことができるように祈ります。さらに、神様をあがめ、神様に感謝する生活、隣人を愛する生活をして行きますように祈ります。?.神の怒りの原因である人間の罪, 18, 2318節をご覧下さい。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。」不義と持って真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正とは罪人のことです。不敬虔とは神様との関係における罪、不正とは人間関係において正しさを行なわないことを指しています。神様を愛していないことが不敬虔であり、隣人を愛していないことが不正であるということです。人間は神様の似姿に造られているから道徳的に生きることができます。クリスチャンでなくてもやさしく、まじめに生きている方が多くいます。しかし、神様を愛することなく、礼拝しないなら、それは不敬虔の罪です。また、人間関係において聖書は人を愛するように教えています。子どもは親を敬い、親は子どもをよく教え、隣人を愛するように命じています。親の子どもに対する愛にたたくことも命じられています。子どもの悪を取り扱う時に、お尻をむちや杖で叩くのです。お尻ぺんぺんと言いますが、お尻はいくらぺんぺんしても大丈夫なように作られています。私はうちの子どもたちがまだ小さい時は手でよく叩きました。子どもが悪いことをした場合はしっかりお尻を叩くのです。なぜ叩くのか、どういう意味なのかをちゃんと教えながら叩かなければなりません。その後で一緒に祈ってあげることも必要でしょう。それが愛なのです。ところが、人間は神様を愛さないだけではなく、自分の子どもさえも愛していない親が増えていると言われています。家族の会話もく、夫婦の会話もなくなっています。恋愛とか不倫の快楽は増えていても真の愛は枯れていく時代になっています。家庭で愛されて愛する経験が少ないから職場でも隣人を愛することが難しくなっています。自分の家族以上にも愛し合うことが難しいでしょう。数年前、同僚の先生が「生徒さえいなければ学校は良い。」とよく言っていました。「人間さえいなければ仕事は素晴らしい」というようなことでしょう。家庭においても、学校においても、会社においても、結局は人間を愛することが難しいということでしょう。それは人間の不正なのです。では私たちはどうでしょうか。クリスチャンも例外ではありません。神様を愛する心もあるけれども、神様に逆らう心も残っています。日曜日に教会来ることさえ重く感じる時があるでしょう。家族を愛し、隣人を愛しているけれどもなかなか愛することができず憎んでいる時もあります。その不敬虔と不正が神様の怒りを招くのです。そして、神の怒りが天から啓示されています。パウロは、福音の必要性を説明する最初のところで、「神の怒り」が啓示されていることを明らかにしています。それほど重大な問題であるからです。私たちにはいろいろな問題があります。身近に健康問題があります。私は最近2週間くらい健康の問題で悩みました。ところが、50歳になると心臓や肝臓などは20代の人の70%くらいしか機能しないそうです。個人差はあるでしょうが、自覚していなければならないと思いました。しかし、それは一番目に解決しなければならない問題ではありません。私が死んでから復活すると、その時は完全な体を持つようになるからです。その時は人間関係の問題も完全に解決されます。しかし、神の怒りはこの世で解決しなければなりません。私たちの不敬虔と不正に対するこの神様の怒りが啓示されているのにもかかわらず、それを無視していれば永遠のさばきを受けて滅びます。では、神の怒りはどのようにして啓示されていますか。19、20節をご覧ください。「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」ということです。人間には宗教性と良心があります。それは人間が動物と違うところです。猫や犬の宗教を聞いたことがあるでしょうか。サルや犬の自殺を聞いたことがあるでしょうか。しかし、人にはあります。また、人がいるところには宗教もあります。人には瞬間の快楽だけに満足できず、永遠を慕い求める心があるからでしょう。私たちは夜空に輝く星を見ながら、美しい花を見ながら神秘な自然世界に感動し、驚きます。日本人としてノーベル賞受賞第一号の野口英世さんは、「タンポポ一つを見れば、神様の愛と力を知ることができる」と言いました。物理学者アインシュタインは、「この宇宙は神によって造られたというほかない。そう結論させざるを得ないのだ。私の物理学は、神はこれ以外の方法で命を生み出すことはなかった。これは唯一の道であり、いくつかの方法の一つではない。これしかなかったことだということをたどっているのである。」と言いました。もし、私たちが、素直な正直な心を持って、タンポポでも、実のなる木でも、あるいは夜空の星でも研究するなら、神様が知恵と愛を持って、素晴らしい世界を造ったと言わざるを得ないのです。だから、神様を信じないことは知識の問題ではなく、態度の問題であり、心の問題です。あるいは選択の問題です。どんな宗教でもいいのではありません。まことの神様、天地創造の神様を選択して信じることが大切です。それなのに、信仰によって生きる道を選ばないでいて神様の御怒りが下されると、そのときになってやっと「神様を知らなかった。」ということは出来ません。弁解の余地はないのです。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです, 。」もともと、私たち人間は何をするにも神様の栄光を現わすためにしなければなりません。そして、現在の自分に対しては神様に感謝しなければなりません。私たち人間は神様からもらわなければ生きていけない存在です。太陽の光も、空気も、雨も、すべての環境が神様から与えられています。そして、私たちが神様にできることがそれを認めて感謝することだけです。感謝の心を表現するのです。そうすると、それは良い薬のように私たちの体を良くし、生活もよくしてくれます。すべてのことにおいて感謝するならすべてが良くなるのです。今、上を向いて「神様!感謝します。」と告白しましょう。隣人にも感謝しましょう。「隣に座ってくれてありがとうございます。」私たちはいのちを与えてくださった神様に感謝し、空気や光や水を与えてくださった神様に感謝し、一人子イエス・キリストを与えてくださった神様に感謝しなければなりません。それが、キリスト・イエスにあって神様が私達に望んでおられることです。しかし、そのように神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もしなかった結果人はどうなりましたか。もう一度21節をご覧下さい。第一に、思いがむなしくなります。無駄な考え、無益な考えをするようになります。第二に、無知な心は暗くなります。無知な心は分別力のない心です。人が神様を離れると善悪と真理を見分けることができなくなります。心が暗くなり、顔も、生活も暗くなります。クリスチャンも同じです。積極的に神様をあがめず、感謝もしないと心が暗くなります。信仰生活が無意味に思われます。第三に、自分では知者であると言いながら、愚かな者となります。結局、彼らはどうなりますか。23節をご覧下さい。「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。」人が神様に仕えなければその代わりに偶像に仕えるようになります。人間や、獣、はうものに仕えます。動物の中でも牛が一番崇められているでしょう。モーセの時、イスラエルの民がアロンに「私たちに神を造ってください」と言うと、彼が作ったのは金の子牛でした。インドでは牛が歩いていれば、人も、自動車も、電車も道を譲らなければいけません。牛肉を食べるなど、絶対に許されないのです。すなわち、人間は動物以下の者に転落してしまいました。ところが、動物以下に転落することだけではありません。彼らには罪に対する罰があります。24, 32節までは罪に対する神様の罰です。神様は、造り主の代わりに造られた物を拝み、仕えた人々をどのように罰せられましたか。24, 26、28節には「神は、彼らを何々に引き渡された」という言葉が繰り返されています。神様が放っておくこと、無関心であることは大きな裁きです。神様は愛する人々を懲らしめられます。それでヘブル12:8節を見ると、「もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」と言っています。神様のさばきによって神様の子どもとしての愛を受けなくなるのです。人々は神様を恐れないために心の欲望のままに罪を犯し、それを美化します。それは愛されていないことです。最近はインターネットによる淫乱物が流行っています。親に愛されていない子どもたちは、注意されることも、怒られることもないから、使い放題で中毒されて行きます。たまに、学校で見ると、欠席した生徒がゲームセンターで遊んでいた場合もあります。そのうち、引き渡されたママが自由であると思いがちですが。その人生が滅亡に向かっているのです。ですから、神様から見捨てられていることは恐ろしい罰です。イスラエルの初代王であるサウルは謙遜だった時、神様は彼を高くあげて王としてくださいました。しかし、彼が高慢になって神様の御言葉に聞き従わなかった時、神様から見捨てられました。彼は悪い霊によって苦しみ、最後には自殺することで人生を終えました。ところが、それだけで人生が終わるのではありません。ヘブル11, 27節jを見ると「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように。」とあります。死後にさばきがあるのです。そのさばきによっておくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもが受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にあります。これが第二の死です。, 黙示録21, 」26,27節をご覧下さい。「こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。」神様が私たち人間を愛してすべての自由意志、選択権を与えられました。しかし、その自由意志、選択権が神様をあがめ、神様に感謝するために用いられないと、罪を犯し、罪の結果、恐ろしいさばきを受けるようになるのです。「彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。」とあるとおりです。良くない思いとは、悪い本性、堕落した本性だけが残った心の状態です。そのまま生きていて滅んでいくのです。29, 31節をご覧下さい。罪のリストと言われるところです。「彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。」32節をご覧下さい。「彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」彼らは死罪に当たるという神様の定めを知っていながらも悔い改めず、それを行なう者に心から同意しています。彼らは罪を犯すことを合理化する罪を加えているのです。結局、すべての異邦人は有罪です。死罪に当たります。しかし、このようにして異邦人の罪を指差し、さばき、異邦人は有罪であり、死に値するという結論をしたパウロですが、その初めに解決の道を言いました。それは福音だと言ったのです。「福音は信じるすべての者を救う神の力だ」と言うことです。だ、その神様の御怒りの問題の解決は福音によってできます。神様の怒りから救われる道は福音の信じる信仰だけです。私たちのために死んでくださったイエス・キリストの十字架のみにあります。イエス様の十字架を信じる信仰によっての義と認められるからです。パウロはローマ人への手紙を通してそれを明らかにしています。「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて」と書いてあります。神の義と言うのは、神様の愛も、神様の慈愛も、神様のあわれみも、神様の永遠性も、神様が全知全能であることも含まれています。私たちはその神様を信じる信仰によって生きるのです。私たちは頑張って生きるのではありません。真面目に生きるのではありません。信仰によって生きるのです。信仰というのは、ただ神様を見上げて神様に頼ること、神様からいただいた力で行うこと、それを信仰といいます。どうか、今週も、御言葉によって知らされた罪を悔い改め、ただ信仰によって生きるように祈ります。神様が深いあわれみを持って私たちを赦し、力と知恵を与え、導いてくださいることを信じます。ただ心に空しいことが入って来ないように、日々、神様をあがめ、感謝し、隣人を愛する生活ができますように祈ります。

13EZRA2M 礼拝の回復と神殿の再建

13ezra2m 礼拝の回復と神殿の再建, 2013年エズラ記第2講   張パウロ                                礼拝の回復と神殿の再建御言葉:エズラ記3−4章要, 節:エズラ記, 3:11 「そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。」,  先週、私たちは世界的な学者、朴エズラ宣教師によるエズラ記の第1講のメッセージを通し、歴史の主管者である神様について学ぶことができました。神様は聖書の預言を実現するため、ペルシヤのクロス王の心を奮い立たせ、イスラエルの帰還を果たされました。今日の御ことばでは、イスラエルが70年の捕虜生活を終え、約束された地で再び、失われた礼拝を回復し、神殿の再建への第一歩を踏み出す感激のドラマが繰り広げられます。以前、イスラエルは、神様の愛と律法を捨て、異邦の風習を受け入れ、偶像崇拝に走りました。その結果、巨大国によってイスラエルは滅ぼされ、自由もなく希望もない捕虜生活を強いられました。国を失われた捕虜たちが心から求めるものは何でしょうか。それは、国の解放と回復でなくて何でしょうか。でも、イスラエルの民たちにとっては、国の回復以上に重要な意味, 問題, があります。それは、彼らが信じている神様が住まわれる神殿を建て直し、いけにえをささげる礼拝を回復することでした。指導者, の堕落と神殿礼拝の破綻によりめちゃくちゃになった信仰と神様への愛を取り戻すことでした。神様は、聖なる礼拝と純粋な信仰を失い、堕落したイスラエルの民たちをしばらくの間、捕虜生活という苦難と侮辱の奈落に落とされました。でもいつくしみ深い神様は、時になると選民イスラエルをかわいそうに思い、イスラエルと愛の関係を回復しようとされました。今日の御言葉を学びながら、失われた民を立ち返らせ、神殿の再建という課題を通して彼らと愛の関係性を回復させようとされる神様の心を知ることができるように祈ります。?。信仰の再建と神殿の再建への第一歩(3章)1節をご覧ください。「イスラエル人は自分たちの町々にいたが、第七の月が近づくと、民はいっせいにエルサレムに集まって来た。」イスラエルの人々は、ついに心から待っていた祖国、神様の約束の地に帰ることが出来ました。しかし、祖国は、荒れ果てていました。祖父が教えてくれたダビデの栄光もお母さんが聞かせてくれたソロモンの栄華も、見つけることはできませんでした。神殿は徹底的に壊され、残されたものは何もありませんでした。約束の地には、アブラハムもモーセの律法をも知らない、異邦人たちが住み着いていました。彼らは、今尚忌まわしい偶像崇拝をしていました。彼らは、おそらく唖然として、自分の家に帰ったことでしょう。そこで、静かに神様のことを考えながら、祈ったことでしょう。なぜ、私たちは、異邦人の国によって侮辱を受け、苦難の捕虜生活を余儀なくされたのか。なぜ、先祖がモーセの律法とおり、いけにえをささげていた聖なる神殿が跡形もなく、破壊されたのか。神様の前で心をいためていました。それで、彼らは心から悔い改めの祈りをささげたくなりました。主に叫びたくてたまりませんでした。それで、彼らは、‘じゃ神様に立ち返ろう’、‘礼拝を立て直そう’、‘神殿を再建する前に先ず信仰を改めて主に憐みをもとめよう’と誰もが思い始めました。神殿の再建の前に、礼拝を回復し、信仰の再建をなしどけることが一番大事であるとわかってきたのです。それで、彼らは第七の月が近づくと、いっせいにエルサレムに集まってきました。2節をご覧下さい。エホツァダクの子ヨシュアとその兄弟の祭司たち、またシェアルティエルの子ゼルバベルとその兄弟たちは、神の人モーセの律法に書かれているとおり、全焼のいけにえをささげるために、こぞってイスラエルの神の祭壇を築きましたまた、3節を見ると、周りの国々を恐れていたので、祭壇を元のところに設けたことがわかります。彼らは、先祖たちが聖書と律法の教えを無視して異邦の国々の風習にしたがったことによって信仰を失った歴史を覚えていました。聖書の教えに背き、勝手に高いところに祭壇を築き、変ないけにえをささげた結果がどれだけ厳しいものなのかを知っていました。アッシリアとバビロンの弾圧、厳しい捕囚生活を経験しながら、神様への礼拝の重要性をしみじみに感じるようになりました。本当に礼拝をささげられる行為がどれだけ大きな祝福なのかを身をもって体験しました。だから、まわりの国々の民を意識して信仰を曲げることはしたくありませんでした。彼らは、徹底的にモーセの律法とおりに、聖書とおりに全焼のいけにえをささげるための祭壇を築いたのです。4節でも、聖書にかかれているとおりに、仮庵の祭りを祝い、毎日の分として定められている数に従って、日々の全焼のいけにえをささげたことがわかります。彼らは、心から神様に立ち返ろうとしました。礼拝の感激を回復し、神様の愛と憐れみを切に求めました。本物の神殿を再建するまえに、目に見えない礼拝を回復しようと本気で立ち上がりました。私たちの礼拝は、いかがでしょうか。心から神様を待ち望み、主に感謝と尊厳をあらわす礼拝になっているのでしょうか。本当に神様に喜ばれる礼拝になっているのか点検しようではありませんか。礼拝が負担になったり、面倒になった、危険信号です。メッセージを聞くのが退屈で説教が始まるやいなや深い居眠りにおちてしまったら、悔い改めて礼拝を回復すべきです。5年前に神様は、私たちに想像を超えた形で今の教会堂を購入できるように導いてくださいました。不可能のように見えた教会の購入が、不思議な神様の力と働きによって実現された時にどんなに喜んだでしょうか。日本ubfは、25年前、二人の韓国の田舎出身の若き青年たちによって、板橋本町の4畳半の部屋からはじまりました。教会が壁の薄いアパートだったので、布団をかぶって祈りの声が漏れないように切に祈りました。礼拝の賛美が周りに漏れ、苦情が殺到してきても主に感謝があり、礼拝の感激があったそうです。, 今はどうでしょうか。わたしたちの教会堂なので、自由に出入りすることができます。祈りたいのであれば、いつでもきて声をあげて祈ることができます。賛美も自由です。聖書勉強が出来る場所は2階から4階まであります。食堂は、1階、4階と2箇所もあります。この教会堂が、神様が喜ばれる祈りの場所、賛美の場所、聖書勉強の場所として尊く用いられるように祈ります。, 8節をご覧ください。「彼らがエルサレムにある神の宮のところに着いた翌年の第二の月に、シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子ヨシュアと、その他の兄弟たちの祭司とレビ人たち、および捕囚からエルサレムに帰って来たすべての人々は、主の宮の工事を指揮するために二十歳以上のレビ人を立てて工事を始めた。」 イスラエルの民たちがエルサレムにある宮のところに着いてから2年が経ちました。長い捕虜生活の傷が治り、礼拝と信仰が回復されつつあったので、神殿再建の雰囲気が熟してきました。ゼルバベルとヨシュアは、レビ人たちをたてて、工事を指揮させました。歴史的な神殿再建は、このように始まりました。彼らは、心もカラダも一致して立ち上がりました。誰ひとり、さぼるひとはなく喜んで神の宮の工事の指揮を手掛けたのです。ついに、建築師が主の神殿の礎を据えました。すると、祭司たちはラッパを手にしました。レビ人たちはシンパルを持ってきて神様を賛美しました。彼らはどんな神様を賛美しましたか。11節をご一緒に読んでみましょう。『そして、彼らは主を賛美し、感謝しながら、互いに、「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い合った。こうして、主の宮の礎が据えられたので、民はみな、主を賛美して大声で喜び叫んだ。』彼らは、主を賛美して大声で喜び叫びました。「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」彼らは、いつくしみ深い神様を賛美しました。 神様は、イスラエルを本当に愛し、可愛がっておられます。モーセを用いてイスラエルをエジプトから連れ出されたあと、神様はイスラエルと契約を結ばれました。それで、契約の証として律法を与えてくださいました。彼らが他の神々を仕えてはならず、偶像をつくてはならないと命じられました。しかし、彼らは、すぐ神様に背きました。他の国々の偶像を拝み、神様の教えを簡単に捨ててしましました。でも、神様はいつくしみ深い方です。実に愛に富んでいます。いつくしみ深いと言う意味は、神様の御業や働きのすべてが善であり、正しいという意味をも含んでいると考えられます。神様は、イスラエルが神様への信仰を失い、聖なる民としての資質がなくなった時、しばらくの間、アッシリアやバビロンの手に渡して恥辱と苦難の中に置いたのです。捕囚生活は、心の痛みと労役による苦痛が伴いました。礼拝を自由にささげることができないもどかしい日々は、彼らを一層苦しめました。捕虜生活は、まるで監獄に入れられた状態に似ています。私は、監獄ではないですが、警察の留置場に入れられたことがあります。短い期間でしたが、自分の意思を自由に表現できないことは、もちろん、すべてを監視され、すべてを見張られます。トイレも壁の上の2/3がないので、便を出すときも監視されます。だから、監獄にいれられた人は、高いお金を払ってでも何とかしてそこから出ようとします。 神様は、このように捕虜となって苦しむ彼らのうめきを聞かれました。怒るのに遅く、愛で富んでおられる神様は、イスラエルを可愛そうに思い、クロス王の心を奮い立たせて、ふたたみ神様の豊かな恵の世界に取り戻されました。主は、罪をおかして神様を背けば、三代、四代までその怒りを発せられますが、恵みは千代まで施される方です。, イスラエルの人々は、自分たちの大きな罪と過ちを見逃され、豊かな愛により包んでくださる神様の愛に感激して大声で喜んで賛美したのです。私たちがいつくしみ深い神様の愛と恵みの大きさに感謝し、賛美できるように祈ります。 ?。敵の妨害による宮の工事の中止(4章)4章1節をご覧ください。神殿の再建が順調に滑り出そうとした時、これを妨害する勢力が現れました。ユダとベニヤミンの敵たちは、捕囚から帰還した人々が主のために神殿を建てているときいてゼルバベルと一族のかしらたちに、自分たちも神殿の建築を手伝わせてほしいといいました。また、彼らもイスラエルと同様にイスラエルの神を求め、いけにえをささげてきたと主張しました。しかし、彼らの主張は嘘でした。列王記?17章をみると、紀元前722年、アッシリアがサマリヤを占領したとき、イスラエルの人々をアッシリアに移住し、異邦人の五つの宗族をサマリヤに移住させました。彼らは、バビロン、クテ、アワ、ハマテ、そして、セファルワイムの人々でした。彼らは、サマリヤに移住しながらアッシリアの風習と偶像をも一緒にもって入りました。彼らは、人間の常識からも理解できない崇拝をしていました。列王記?17章:30、31節をみると、彼らは自分の子供を焼いていけにえとしてささげていました。非常に忌まわしいしきたりと習慣によりサマリヤ地域の信仰と文化を汚しました。ヨハネの福音書4章をみる、イエス様がガリラヤに行かれる際にサマリヤを通っていきましたが、ユダヤ人は、サマリヤを避けて迂回していきました。それは、このような歴史的な背景があったからです。ユダとベニヤミンの敵たちは、当然ながらイスラエルの捕囚からの帰還、神殿の再建を受け入れるはずがありませんでした。それで、ゼルバベルと一族のかしらたちに甘い言葉で彼らの心を伺おうとしました。これに対して、ゼルバベルとヨシュアらは、どのように答えましたか。4章3節を一緒に読んでみましょう。「私たちの神のために宮を建てることについて、あなたがたと私たちとは何の関係もない。ペルシヤの王、クロス王が私たちに命じたとおり、私たちだけで、イスラエルの神、主のために宮を建てるつもりだ。」イスラエルは、断固して敵たちの要求を断りました。これと同じようにサタンの誘惑も唆す言葉で巧妙についてきますので、きっぱりと断る勇気と決断が必要です。でも、敵たちは、そう簡単に引き下がろうとはしませんでした。彼らは、神殿を建てさせまいとして、建築に取り組むユダの民の気力を失わせ、脅しました。敵の妨害は、bc536年〜bc520年まで16年間続きました。彼らは、さらに官僚たちを金で買収して、ペルシヤの王に圧力をかける作戦に打って出ました。参事官レフム、書記官シムシャイとその同僚たちはエルサレムを非難する手紙をアルタシャスタ王に書き送りました。6節〜23節は、挿入された内容です。ネへミヤが第3次捕囚からの帰還を果たした後、城壁を建て直す時にサマリヤの人たちが妨害する内容です。21節をご覧ください。結局、敵たちの巧妙な妨害によって、エルサレムにある神の宮の工事は中止されます。この状態が続き、ペルシヤの王ダリヨスの治世の第二年までイスラエルは、神殿の建築を再開することはありませんでした。以上を要約すると、神様の働きによってクロス王が感動し、イスラエルの帰還と歴史的な神殿の礎が据えられる素晴らしい出来事がありました。そして、これを妨害し、イスラエルの喜びとビジョンを奪っていくサタンの仕業もあるということがわかります。心から決断し、神様の愛と恵みを悟って新しい出発をスタートするときに予期せぬ試練が訪れることがあります。神様に献身しようと誓っても予想しなかったサタンの策略に阻まれることを看過してはいけません。しかし、ヨハネの手紙第一, 5:3、4節の御言葉は、次のように私たちを励ましています。「5, 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。5, なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」私たちがこの礼拝の席に座っているのは、主を愛しているからです。主を愛しているからこそ、自ら進んで主の教えを守り、行うことができます。それが決して重荷にはなりません。私たちこそ、世に打ち勝つ信仰者です。私たちが、2013年は、いやこれからずっと、神様と深い愛の関係性を結び、神様が喜ばれる礼拝をささげることができるように祈ります。

13Romans6Mその信仰を義とみなされるのです

13romans6mその信仰を義とみなされるのです, 2013年ローマ第6講その信仰を義とみなされるのです御言葉:ローマ人への手紙4, 25要, 節:ローマ人への手紙, 13“しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。”今日は、大阪ubfから来られた野路アブラハム、サラ牧者とともに洗礼・聖餐式を行なうようになったことを心から感謝します。神様の豊かな恵みが注がれますように祈ります。先週、私たちはイエス・キリストをその血による、また信仰による、なだめの供え物として公にお示しになった神様の義と信仰について学びました。私たちは、ただ信仰によって義と認められ、救われます。パウロは本文の御言葉で実例としてアブラハムとダビデを取り上げています。アブラハムは神様がユダヤ人に律法を与える前の人物であってユダヤ人の先祖です。ダビデは律法の時代の人であってユダヤ人の王様なの中で最も偉大な方です。パウロはこの二人が良い行ないによって救われたのではなく、信仰によって救われたという事実を説明しています。そして、アブラハムの信仰を紹介しています。どうか、御言葉を通して信仰義認とアブラハムの信仰を深く学ぶことができるように祈ります。?.信仰によって義と認められる者の幸せ, 1、2節をご一緒に読んでみましょう。「それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。」アブラハムは、もともとは異邦人でした。ユーフラテス川のそばに発生した最古の文明、メソポタミヤ文明の大都市、カルデヤのウルで誕生し育てられました。ところが、神様が「「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と仰せられたとき、それに従いました。昔も今も住み慣れている所から離れることはやさしくありません。先週、李ヨシュア宣教師はリベカ宣教師が韓国に戻ったけれども外国人のようになっていると言われました。それほど難しいということです。17年も東京で生活をしていたリベカ宣教師にとって自分の国でも別世界になっていたでしょう。アブラハムが75年間も住んでいた故郷を離れて行くことも難しかったでしょう。でも、アブラハムは神様の御言葉に従いました。また、アブラハムは善良な人で甥のロトに良い土地を譲りました。アブラハムはすべての物の十分の一をいと高き神の祭司メルキゼデクにささげることもしました。人間的に見ると、彼は本当に素晴らしい行ないをしていたのです。しかし神様の御前ではそうではありません。神様の御前で彼の行ないには失敗も多くありました。飢饉のためにエジプトに下って行った時は自分の妻を妹だと騙して王に与えて自分は多くの財産を受けとりました。奴隷のハガルと寝てアラブ族の先祖イシュマエルを誕生させました。このように、アブラハムは人を騙し、女奴隷と不倫して子どもを産ませました。不法を行ないました。でも聖書は何と言っていますか。 3, 5節をご一緒に読んでみましょう。「聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」この御言葉は創世記15章に基づいています。アブラハムは神様の約束があってから15年近い歳月が流れても子供が生まれる兆しは何も見えなかった時です。ある日の夜、神様はアブラハムを呼び出して夜空に輝く星を見せました。そして、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」と仰せられました。そして、「あなたの子孫はこのようになる。」と約束してくださいました。まだひとりの子どももいない老人のアブラハムに信じがたい約束でした。ところが15章6a節を見ると「彼は主を信じた。」とあります。アブラハムは神様の御言葉に対して「アーメン」と受け取ったのです。これこそ奇跡でしょう。神様を驚かせ、感動させる信仰でした。そこで神様はその信仰を彼の義と認められました。, 」アブラハムは行ないによってではなく、ただ神様を信じる信仰によって義と認められ、救われたのです。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。一生懸命に働いて給料をもらうのは当たり前のことです。しかし、何も働かなかったのに、給料をもらうなら、それは恵みです。もしアブラハムが自分の行ないによって義と認められたなら、それは行ないの結果です。働いた人が報酬を受け取るようなことでしょう。しかし、アブラハムは神様の御前で失敗し、罪を犯したにもかかわらず、不敬虔な者を義と認めてくださる神様を信じ、その信仰が義とみなされたのです。ダビデも同じです。 6, 8節をご一緒に読んでみましょう。「ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」ここに、ダビデの実例が取り上げられています。ダビデはイスラエルの歴史の中で最も輝かしい人物、最高の王でした。しかし、彼の行ないによっては幸いな人になりませんでした。彼が不法を行ない、罪が赦されなかった時は苦しみの連続でした。彼はある日、忠実な部下ウリヤの妻と姦淫の罪を犯し、その罪を隠すためにウリヤを激戦地に送って死なせた時の苦しみに対して「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。, 詩32, 3,4, 」と告白しています。彼のたましいはいのちと光を失い、暗闇と死の陰に座っていました。不安と恐れのためにうめいていました。ところが、神様の御前で悔改めたとき、彼は罪の赦しをいただき、その罪の赦しが嬉しくて、詩を書きました。「不法を赦され、罪を覆われた人たちは幸いである。主が罪を認めない人は幸いである」とあります。彼が神様のあわれみを信じて、このいつくしみをいただいた時に至上の幸福を体験したのです。王になったこと、財産を得たことではなく、罪が赦された時に幸いな人になりましたダビデは良い行ないによってではなく、ただ神様の赦しを信じることによって義と認められ、幸いな人になったのです。このように、アブラハムも、ダビデも行ないによってではなく、信仰によって義と認められた時に幸いになったのです。9、10節をご覧ください。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。」とあります。パウロは行ないだけではなく、割礼によってでも救われず、信仰によって義と認められることを証しています。アブラハムは義と認められてから14年後に割礼を受けました, 99歳)。割礼を受ける14年前, 85歳, にすでに信仰によって救われていたのです。ですから、ユダヤ人が自分たちは割礼を受けたのだから救われているというのは間違っているのです。今日、私はイエス様の命令に従ってバプテスマを授けます。○○姉妹は数年前から待ち遠しいと思っていたことでしょう。私はその純粋な信仰に感動しています。私自身もこの洗礼式を準備しながら髪の毛を切りました。でも、バプテスマは割礼と同じく一つのしるしと儀式にすぎません。ある人は自分が数十年前にバプテスマを受けたことを誇ります。しかし、それも無意味なことです。受洗した歴史が大切ではなく、今の信仰が大切なのです。11,12節をご覧ください。「彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。」とあります。その通りです。従って、「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは、新しい創造です, ガラテヤ6, 」とパウロは言っています。 次にパウロは律法によってでも救われないことを証しています。13, 16節を読んでみましょう。「というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信 仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。」もし、アブラハムが律法をよく守ることによって救われたとしたら、彼は律法時代に生きていなければなりませんでした。しかし、律法はアブラハムが信仰によって義と認められてから430年後に与えられたものです。そのアブラハムをユダヤ人は父と呼び、私たちクリスチャンもアブラハムを信仰の父と呼んでいます。それは「信仰による、約束による、恵みによる」からです。つまり、アブラハムとユダヤ人の関係も、私たちクリスチャンとの関係も人の行いによらないで、信仰によるのです。結局、人は行いや割礼によってでも、律法によってでもなく、ただ、イエス・キリストの血による贖いを信じる信仰によって救われます。では信仰とはどういうことでしょうか。パウロは信仰の先祖アブラハムのことを紹介しています。?.アブラハムの信仰, 25)17−22節を読んでみましょう。「このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」アブラハムはあらゆる面で大いなる祝福を受けました。私はこの日本において寺崎アブラハムも、野路アブラハムもそうなることを期待し、信じています。今日アブラハムの子孫たちは、地のチリのように、空の星のように、海辺の砂のように多いです。実に彼は多くの、諸国民の父となったのです。それは、彼が神様を信じたからです。ではアブラハムが信じた神様とは、どういうお方でしょうか。それは死者を生かす神であり、無い世界、無の世界に向かって「あれ」と宣言するならば、無いものから、あるものが存在するようになる、そういう神様を信じたのです。創世記を読んで見ると、本当にそうです。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」とあります。ところが神様が語ることばにって、無いものの世界から、あるものの世界に、あらゆるものが造られたのです。金サラ宣教師は看護学科を卒業しましたが、肝炎が酷い状態で入院した時に何の希望もありませんでした。しかし、「無いものから、あるものが存在する」というこの御言葉を通してあるものをないものにしてくれると信じたそうです。するとサラ宣教師のからだにあった病菌が無くなりました。それで、看護師になってサウジアラビアの宣教師になりました。その後日本宣教師になりました。東京ubf教会も26, 年前は存在しませんでした。皆さんもいらっしゃらなかったし、建物もありませんでした。どうしてこういう教会が生まれたでしょうか。恐らく神様は、無いものを有るもののように呼びだしてくださったのだろうと思われます。だから、今の東京ubf, 日本ubfと言う教会があるのです。アブラハムの信仰の特徴は望みえないときに望みを抱いて信じたことです。彼は望み得ないという状況に追い込まれて、それにも関らず望みを持ったのです。「それは、『あなたの子孫はこのようになる。』と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。」パウロはこのようにしてアブラハムの信仰についてまとめています。では「信仰によって義と認められる」と言うことはアブラハムだけに当てはまることでしょうか。いいえ。23−25節を読んでみましょう。しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」神様がアブラハムを義とみなされた目的は、同じ信仰を持つ私たち皆を義とみなされるためでした。同時に、救われることは願うなら必ずアブラハムのような信仰を持つべきことを教える目的もありました。つまり、神様はアブラハムの信仰が彼の子孫、海辺の砂のように多くなる信仰の子孫、私たちにも影響されて行くことを望んでおられたのです。さらに、私たちを通して私たちの子孫にアブラハムの信仰が影響されることを望んでおられました。新渡戸稲造の「武士道」15章にこう書いてあります。「武士道の道徳は、わが国民生活の一般的な水準よりも、はるかに高い山脈を形成しているが、私はこれまで、その中のさらに高いいくつかの峯を考察したにすぎない。太陽が昇るときは、まず最も高い峯の頂上を紅に染めて、それから次第にその光を谷間に投げかけてくるように、まず武士道階級を照らした道徳の体系は、時間がたつに従って、一般の民衆の間からも、それに追従する者が出て来た。」とあります。つまり、武士道は日本国民の道徳水準よりもはるかに高かったけれども、武士道に追従する人たちがいたからこそ一般の民衆に道徳水準も高くなっているということでしょう。(素晴らしい展開です。新渡戸はこう書いてアメリカの国民に日本人が高い道徳を持っているとアピールしたのです。)同様に、アブラハムの信仰の水準は高いけれども、私たちがそれに従おうとするときに、アブラハムの信仰に感化されて高い水準の信仰に成長して行くのです。そのうちにアブラハムの信仰は私たちを通してもこの日本の世界、私たちの子孫にも影響を及ぼして行くのです。そういう点でもう一度アブラハムの信仰をまとめますと、第一に望みえないときに望みを抱いて信じる信仰です。つまり、目の前が真っ暗になった時も、信じたということでしょう。その信仰によってユダヤ人だけでも4000年間数えきれないほどの子孫が生まれました。現在でもユダヤ人が世界に2000万人ほど生きているそうです。アブラハムのように信仰によって義と認められた彼の霊的子孫は想像することさえ難しいほどの子孫が生まれました。現在のクリスチャンだけでも15, 16億人が世界に住んでいます。第二に成長する信仰です。彼は不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。アブラハムの生涯を見ると信仰が弱くなるようなことを何度も経験しました。なかなか子どもが生まれなかった時、奴隷のハガルを通して子どもが得られた時はあきらめ、人間的な方法で得られたことだけ満足することもできました。しかし、彼の信仰は弱くならず、ますます強くなり、最後はただひとり子のイサクを全焼のいけにえとしてささげることもできるほどに成長したのです。第三に神様の恵みによって成長する信仰です。アブラハムの生涯を考えて見ると、神様がアブラハムのところに御使いを遣わし、御言葉を与えています。つまり、神様が彼を助け、導いてくださいました。私の半世紀の人生を顧みてみると、今日まで来たのは神様のあわれみによる助けと導きがあったからです。私もアブラハムのように、もともとは異邦人であり、何も望みえないような人間でした。実際に、時には厳しく、時には苦しく、辛く、時には悲しいことを経験して来ました。でも神様は私に望みを与え、望みのとおりになることを何度も体験させてくださいました。罪深い者ですが、神様は価なしに、無代価で、イエス・キリストが払ってくださった血の代価によって、その贖いによって、一方的な恵みによって、それを信じる私を赦し、きよめてくださいました。私はただ信仰によって救われ、義と認められているのです。ですから今日もその信仰によって洗礼・聖餐式を導きます。どうか、私たに落胆があり、失望があり、絶望があっても、信仰が失うことなく、弱くなることもなく、神様を信じ、イエス・キリストの十字架の血による贖いを信じて行きますように祈ります。

13Romans8Mあなたがたの手足を義の器として神にささげなさい

13romans8mあなたがたの手足を義の器として神にささげなさい, 2013年ローマ人への手紙第8講あなたがたの手足を義の器として神にささげなさい御言葉:ローマ人への手紙6, 1−23要, 節:ローマ人への手紙, また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 先週、私たちは信仰によって救われた人々が得られる神様の恵みと祝福を学びました。私たちは神様との平和、天国への望み、何よりも神様ご自身を喜ぶ恵みをいただいています。そして、これらの恵みは律法にまさるものです。では、律法にまさる恵みを受けた私たちはどのように生きるべきでしょうか。パウロは私たちクリスチャンが罪から避けるだけではなく、積極的に私たちの手足を義の器として神様にささげるように勧めています。ここで、私たちは知っていること、思うべきこと、ささげることについて学ぶことができます。どうか、私たちが知っていることを確認し、自分自身についてどのように思い、どのように行動すべきかを学ぶことができるように祈ります。?.私たちが知っていること, 1−6,  1節をご覧ください。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」とあります。パウロは1章から5章までにおいて、私たちがどのようにして義と認められたか、救われたかを説明して来ました。そして、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました。すると、もっと多くの恵みに与かるために、ますます罪を犯し続けようではないかと言えるようになります。それに対してパウロは、「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」と問いかけています。それから、「絶対にそんなことはありません。」と言い切っています。「とんでもない。」ということです。その理由は「私たちは罪に対して死んだ」からです。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」と言っています。ではいつ死んだでしょうか。3、4節をご覧ください。「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです」とあります。イエス・キリストの死が私たちの死となり、キリストの復活が私たちの復活になった根拠は私たちがバプテスマを受けたからです。5節をご覧ください。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」とあります。バプテスマを通して私たちはキリストにつぎ合わされました。先々週、私たちは洗礼式を行ないましたがバプテスマを授ける時、水をつけました。それはイエス・キリストの十字架の死ともに死んだし、イエス・キリストの復活とともに生き返られたということを表わすことです。こういう観点から見ると、頭に水をつけるような洗礼式よりは全身を水の中に浸すバプテスマの方がもっと実感できると思われます。私は軍隊にいた時、バプテスト教会に通い、牧師先生の手伝いもしましたが、そこではプールや大きい銭湯で洗礼式を行ないました。牧師先生は聖徒を水の中に浸します。聖徒はひざまずき水の中に溺れますが、その時、彼はイエス様とともに死に、葬られたのです。それから牧師先生はしばらく沈んでいた聖徒を水の中から立たせます。その時に、彼はイエス・キリストとともによみがえられたのです。私たちもどこかのプールを貸切してそのようにバプテスマを行なうならもっと実感できそうでしょう。しかし、水のバプテスマによって私たちがイエス様とつぎ合わされるのではありません。水のバプテスマは信仰によって罪の赦しを受け、キリストとつぎ合わされた事実を公に宣言する儀式にすぎません。使徒10章を見ると、ペテロの教えによって人々はイエス・キリストを信じ、聖霊を受けました。その時、ペテロは, 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか」と言い、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じました, 47,48, 。つまり、人々はペテロの説教を聞いてイエス・キリストを信じ、同時に聖霊のバプテスマを受けてからから水のバプテスマを受けたのです。同様に、私たちは水のバプテスマによってではなく、イエス・キリストを心から信じて私の主・キリストとして告白する瞬間にキリストとつぎ合わされた人になりました。それが聖霊のバプテスマです。私たちクリスチャンはみんなが聖霊のバプテスマを通してイエス・キリストと一つになったのです。そういうわけで、私たちは何を知っていますか。 6節をご一緒に読んでみましょう。「「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」ここで「知る」という単語のギリシャ語の意味は「経験によって知る」ことです。パウロは自分の経験を通して古い人、罪のからだが死んだこと、もはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを知っていました。事実、私も知っているし、皆さんも知っているはずです。私の古い人は非常に人間的です。だから、宣教師になる時も、私は長男として知的障害を持つ子どもがいる親のことが心配になりました。ところが、神様は私が親の面倒を見ることよりも神様が守り、助けてくださるということを悟らせてくださいました。それでまだ、罪の欲を持ち、罪を犯したりもしますが意思決定はもはや罪の奴隷ではなく、神様の奴隷として生きて来たのです。なんだか、不思議な力によってここまで導かれて来たことを知っています。7‐10節をご覧ください。「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。」とあります。十字架を見上げてそれを信じる者は、「罪のからだ」が滅びました。これから、もはや私たちが罪の奴隷になることはないのです。「キリストと一緒に死んで一緒によみがえる」という二つのことをパウロはずっと一緒にしています。キリストと共に生きること、キリストと共によみがえることはとても大切なことです。ここで「よみがえる」という言葉には将来の意味もあるし、キリストが復活したときにキリストと共に「よみがえった」という意味もあります。毎日の生活において新しい歩みをするということは、復活のいのちの歩みなのです。?.私たちが思うべきこと11節をご一緒に読んでみましょう。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」ここで、私たちがどういう考え方、どんな認識を持って生きるべきかをはっきりと教えています。私たちは古い人ではありません。罪に対しては死んだ者です。ですから、私たちは常に、「古い自分はもう死んでしまった」と思わなければなりません。そして、「私は、もう新しい人になった」と思うのです。私たちはキリスト・イエスにあって生きた者なのです。古い人は奴隷根性のために感謝もせず、何でも人のせい、環境のせい、時代のせいにしながら不平不満の生活から解放されませんでした。しかし、今は違います。以前より積極的になりました。キリストにあって生きた者になったからです。皆さんのそうでしょう。先週、基礎勉強会の時にウマタイ宣教師が変えられたことが話題になりました。過去、彼の名前の通りに罪とサンシク(常識)にとどまる生活でした。宣教師になってからもなかなか変わりませんでした。いろいろな言い訳を言いながら賛美部長になることも否定的に思いました。しかし、東京ubfの賛美部だけではなく、日本ubfの情報通信部の働きにおいても大きな役割を果たしています。すると、今はいのちにあふれているように見えます。それは主のみわざに仕えながら古い自分を忘れ、新しい自分が「生きた者、宣教師」であると思って生きるようになったからでしょう。何よりも、キリスト・イエスにあって生きた者として思う彼のうちに宿っておられるキリストのいのちが働いておられるからです。私たちが自分に対してどう思っているかということはとても大切です。この間、テレビで見たのですが、ある幼稚園の子どもたちが綱引きをしていました。a、b、cの3チームでしたが、私服のまでやって一回目はaチームが一位でb、cチームの順位でした。ところが、次にはcチームだけは全員に体操着を着させると子どもたちは自分たちが一位になると思うようになりました。指導する先生がそう思うように指導したからです。すると、二回目の綱引にはビリだったcチームが一位になりました。全く同じメンバーだったのにどう思うかによって結果が違って来たのです。私たちも「罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きた者である」と思う時に、生きた者らしく生きるようになります。「自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いましょう。」(みなさん!一緒に言ってみましょう。「私は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思います。」)私たちが、そのように自分認識をすると、私たちの人生は実際に変わります。 正しい自己認識をしてからはどういう生活をするべきでしょうか。?.私たちが持つべき行動12、13節をご一緒に読んでみましょう。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」私たちの身分は変わりました。キリスト・イエスにあって生きた者になりました。ですから、どうするべきでしょうか。私たちの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。私たちのからだを罪の支配にゆだねて置くなということです。もし、私たちが罪の支配にゆだねて置くと、邪悪な情欲に従ってしまいます。私たちは罪に対して死んだのですが、罪はまだ生きています。罪は力強く働いています。再び私たちのからだを支配しようとしています。私たちはその罪の支配に自分をゆだねてはいけません。罪にゆだねるかどうかの選択権は私たちにあります。私たちはイエス・キリストの十字架の死とともに罪に対しては死にました。罪の代価を払ったのです。私たちはそれを知っています。もはや罪の奴隷ではないということを知っています。さらに神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと思っています。ですから、再び騙されたり誘惑されたりして罪の支配に自分をゆだねて、その情欲に従ってはいけないのです。もし、罪の支配にゆだねるなら、私たちは罪の奴隷になってしまいます。しかし、今は私たちの身分が変わりました。私たちが罪の奴隷に戻ることは不可能です。なぜでしょうか。17、18節をご覧ください。「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」私たちは絶対に罪の奴隷に戻ることはできません。20節を見ると「罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。」とあります。その時は義を行なう義務も責任もありませんでした。その結果、どういう生活をしていましたか。21節をご覧ください。「その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。」とあります。その時に、何も良い実を得ることができず悪い実ばかり結んでいました。しかし、今は私たちの状態が違います。19、21、22節を見ると私たちが今はどんな状態になったのかが記されてあります。「今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」「今ではあなたがたが恥じているそのようなものから。」「今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。」とあります。今は義の奴隷になりました。神の奴隷になりました。今は聖潔に進む者になりました。過去のようにやっていた恥ずかしいことはできなくなりました。ですから、私たちが自分の手足を罪の支配にゆだねるなら、私たちの大混乱に陥ってしまいます。過去の罪の奴隷であった時よりも苦しくなります。過去と同じ罪を犯してももっと苦しくなり、死の苦しみを味わい、結局は滅んでしまいます。自分を罪の奴隷として罪にささげることになってしまうのです。従って私たちはどうするべきでしょうか。もう一度13節をご一緒に読んでみましょう。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。」ここで、パウロは私達の体を器として表現しました。器は使い方によって不義の器にもなれるし、義の器にもなれます。同じ手で人を殴ることもできるし、愛する人を抱きしめることもできます。足で人を蹴ることもできますが、人々のケアーのために走る回るために使うこともできます。ですから、私たちが自分自身と手足を誰に捧げるかは大切なことです。聖書は「義の器として神にささげなさい。」と命じています。このことばは神様のために積極的に行動することを命じています。罪の支配にゆだねることが自然にできるようなことです。決意を新たにするとか、悔い改めて新しい出発しようと強く決断する必要がありません。しかし、自分自身とその手足を義の器として神様にささげることは積極的に行動することです。熱心に活動するのです。ではどうやって私たちが自分のからだを神様にささげるとどうなりますか。14‐16節をご覧下さい。「というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。」ここも、パウロは律法の下にではなく、恵みの下にあることを教えています。そうです。私たちは恵みの下にあるからこそ義の器として神様にささげることができます。恵みは私たちに感動と感激を与えてくれます。恵みはやる気を思い起こします。恵みは人を強くします。恵みは神様の栄光ならいのちさえもささげるようにします。律法の教えより恵みが人を動かします。私は今回ローマ人への手紙を学びながら「恵み」の世界を悟って理解し、ますます恵みを受けています。私は中学校卒業式の時、善を行なったことで「善行賞」を受賞したことがあります。その時、母は町中の人々から称賛され、どのようなことを子どもに教えたのかとよく聞かれたと嬉しげに言いました。でも、母は小学校も通ったことがないし、文字を読むこともできませんでした。実際に、母からは何か教えられたことも、叩かれたこともありません。ただ、私の心の中に母の献身的な愛による恵みが支配していました。母の恵みのゆえに、私は規則や礼儀などを良く守る良い子でなければならないと思っていたのです。すると、教育ママからいろいろ教えられた子どもたちよりも多くの善を行ない、善行賞を受賞することができたのです。同様に、神様の恵みを知れば知るほど神様の律法に従おうとする心が生まれてきました。私は平信徒として自分の仕事だけでも精一杯です。先週まで学校は春休みでしたが、学校に行かなかった日は一日だけでした。その上に非常に足りないけれども毎週の主日礼拝のメッセージを伝え、日本とアジアubfの支部長としての役割も担っています。ところが何一つ嫌なことはありません。自分が足りなくてもすまない心はありますが、もっと積極的に義の器として神様にささげたいと思っています。それは私に注がれた神様の恵みを大きく、それを知っているからです。もう一度15節をご覧ください。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。」そうです。本当に恵みの下にあるなら、罪を犯そうとしません。恵みを知れば知るほど罪を犯さなくなります。しかも、感謝して喜んで律法を守り、罪を犯さなくなるのです。それだけではなく、ますます喜んで自分自身とその手足を義の器として神様にささげるようになります。どうか、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられる神様の恵みのゆえにますます積極的に自分自身とその手足を義の器として神様にささげる生活ができるように祈ります。

13Romans5Mその血による、また信仰による

13romans5mその血による、また信仰による, 2013年ローマ人への手紙第5講 その血による、また信仰による御言葉:ローマ3:21〜31要 節:ローマ3:25「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです」私たちは先週までのローマ人への手紙を通して人間は一人残らず罪人であることを学びました。異邦人もユダヤ人も、皆さんも、私も罪人です。「義人はいない。ひとりもいない」と書いてあるとおりです。私たちは絶望と悲しみの中に死ぬしかありません。そして死後にさばきを受けることが定まっています, ヘブル9, 。「ああ、私はどうしたら救われるでしょうか。」と叫んでも律法によっては救われる道がありません。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです, 。しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。今日はそのことを学びます。そういう意味で本文の御言葉はローマ人への手紙全体の中心であると言えます。ここで、パウロは福音の最も大切なことを伝えています。どうか、御言葉を通して人間の罪の問題をどのように解決なさったのか、どうやって義と認められる救いの恵みにあずかるかを学ぶことができるように祈ります。21節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」パウロは「しかし、今は、律法とは別に。」と言っています。つまり、律法を守るという道ではないけれども、律法も賛成していて、預言者も賛成している神の義が示されたのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義です。それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません, 。パウロは今まですべての人は罪人であることを証してきました。すべての人が罪を犯したのです。ですから、だれも神様からの栄誉を受けることが出来ません。ユダヤ人も異邦人も神からの栄誉を受けることが出来ません。日本人にも、中国人にも、韓国人にも同じです。何の差別もありません。ではどうやって私たちは義と認められて救われるのでしょうか。23、24節をご一緒に読んでみましょう。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです, 23,24, 。 ここで、私たちはどうやって義と認められるか、すなわちどうやって救われるかを知ることができます。第一に「ただ、神の恵みによる。」ものだと言うことです。神様は救われる価を要求なさいません。ただ、恵みによって義と認めてくださいます。私たちはこの恵みを神様が創造された世界から見ることができます。私たちが生きて行くために欠けてはならない空気は、神様の恵みです。5分だけでも息を吸わなければ人はどうなりますか。死んでしまいます。ところが、ただで与えられる空気によって私たちは息を吸うことができます。空気の中にある酸素はただで吸うことができるのです。これは恵みです。先週、主日には4階の水道水が出なくなっていて大変でした。それでポンプとタンクを取り換えたので今週は大丈夫です。しかし、新しいポンプとタンクがあっても水がなければ意味がありません。その水は天から降る雨という恵みによるものです。天から降る雨と言うのは、ただ一方的な神様の恵みとして与えられます。このようにこの世界をほんの少しでも見回すなら、神様の恵みで溢れています。一方的な愛です。たとえば、今、cbfの〇〇君は入院していて母のプリスカ牧者が彼の面倒を見ています。航君は親のために何もできませんが、親は一方的に彼の面倒を見るのです。それも恵みです。あれも恵み、これも恵み、この世界全体が神様の恵みを証しています。人々は太陽の光線について、天から降る雨について当たり前のように思っています。しかし、実は神様から価なしに一方的に与えられる恵みなのです。そのように神様はだれにもただの恵みによって救われるようにしてくださいました。従って救われた私たちクリスチャンはただ与えられているすべての主の恵みを深く考え、すべてのことにおいて感謝しなければなりません。御前に謙遜にひれ伏し、主の恵みに感謝し、賛美する生活をするのです。ただ与えられるこの救いの恵みを深く悟ったisaac, wattsは新聖歌106番を書き残しました。ご一緒に賛美しましょう。新聖歌106番です。「むしにもひとしきもののために主はかくもむごきめにあいしか … 恵みに報ゆるすべを知らず すべてを投げ出し ただひれ伏す」」ただ恵みによって私たちを救ってくださる神様を賛美します。第二に、「イエス・キリストによる贖いのゆえ」です。「贖い」と言うのは、ビジネス用語で、買い戻すという意味です。たとえば、私が車を買う時に、もし、私の息子とか、誰かがあらかじめ500万円払っていたなら、私にとってはただです。誰かが代わりに払ってくれたからです。それが「キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められる」と言うことなのです。人類の先祖アダムの犯罪により、私たち人間は暗闇の国に入ってしまいました。病気、苦しみ、悲しみが起こり、死が人類に入りこんできました。死の恐れが私たち人間を支配するようになりました。やがてすべてのものは死んでいくようになりました。それだけではありません。「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」と書いてあります。それらはすべて人間が犯した罪の結果です。神様は、そんな私たちを苦しみとさばきの世界から連れ出したいと思われました。でも無理やりに人の髪の毛を掴んで、つまみだすようにして連れ出すに行きません。神様は正しいお方、聖なるお方であられるからです。無理やりにしては神様の義が現わされないのです。そこで神様は、代価を払って買い戻すこと、つまり贖う方法を選び取られました。神様が、人間についての所有権を取り戻すために代価を支払うことになさったのです。そしてその尊い代価が、御子イエス・キリストの十字架の血です。25節をご一緒に読んでみましょう。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」神様は救いを私たちにただで与えるために大きな代価を支払われました。ご自分の御子イエス・キリストを私たちの代わりに罪の代価として支払ってくださいました。それがイエス・キリストによる贖いです。私たちは正しい社会、罪のない社会を求めています。警察も刑務所も要らない社会で生きるなら、何と幸せなことでしょうか。ところが、私たち人間は理想的な社会を求めながらも罪を犯しています。人権を求めながらもいじめをし、情欲の罪を犯します。「むさぼるな」と言いながらむさぼっています。それは人間が罪の勢力、サタンに支配されているからです。自分がわざと罪を犯そうと決意しなくても、利己心の奴隷、妬みの奴隷、偽りの奴隷、お金の奴隷、貪欲の奴隷になっているのです。そして奴隷になっているので自分の力ではそこから救い出される道がありません。代価を払わなければ自由の身になることができないのです。神様はこのような罪人を救うためにイエス・キリストを贖いの代価としてお与えになりました。そして、イエス様は十字架にかかって御血を流し、死なれることによってその代価を支払われました。このイエス・キリストの血によって私たちが罪から贖い出されたのです。銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです, ?ペテロ1:18,19, 。その代価の価値は計り知れません。高級乗用車のために払う500万円位ではありません。全世界よりも尊く、神様ご自身である御子を私たちの罪の代価として払われたのです。測り知れない代価を払われた神様の恵みを心から感謝します。ではイエス・キリストはどのようにしてご自身を罪の代価としておささげになりましたか。もう一度3, 25a節をご覧下さい。「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。」とあります。「なだめの供え物」とは、旧約の祭司制度を背景にしています。年に一度大贖罪日になると、大祭司は神様のお怒りをなだめるために動物の血を祭壇に注ぎました。ほふられて血を流した動物は神様と人間を和解させる犠牲のいけにえであり、和解のいけにえでした。その供え物によって神様のお怒りはなだめられ、神様と人間の関係が和解されるようになりました。そのなだめの供えものによって神様はさばきを見逃して来られました。この和解は人間関係においても大切です。夫婦が喧嘩していて和解しなければ、その家は地獄になります。同様に、神様と私たちとの和解関係が崩れると、私たちのたましいはどうなるでしょうか。不安と恐れに陥ってしまいます。りっぱな家で高価な服を着て美味しいものを食べながら暮らしても不安な生活が続くでしょう。落ち着かない生活が続くようになってしまいます。従って、私たち人間は神様と和解することが何よりも最優先的にしなければならない重要な問題です。そういうわけで旧約時代には祭司が人間の罪を購うために牛や羊などを犠牲にしてその血を祭壇に注ぎました。しかし、この動物の血は不完全なものでした。その効力は一時的であり、制限があったので根本的な解決策にはなりませんでした。ところが、神様は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それで、イエス様は人となって世に来られ、世の罪を取り除く神の小羊として血を流されました。ほふられた小羊のように、イエス様は鞭に打たれ、剣に刺されて血を流されました。両手と両足に太い釘が打ち込まれて十字架につけられました。十字架上で貴い血を流されました。このようにしてイエス様はご自分の血によって神様のお怒りをなだめてくださいました。そして、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです(ヘブル9, 12)。それで、私たちはイエス・キリストの血による贖いを信じることによって救われます。緋のように赤い罪を雪のように白くしていただくことができます。私たちの罪が紅のように赤くても羊の毛のようにしていただきます。イエス・キリストの血を信じる信仰によって私たちは癒され、救われるのです。このようにイエス・キリストの血には神様と私たちとの和解関係を回復させる力、私たちを癒し、救う力があります。私たちはいつでも、どこでもこのイエス様の血の力を信じるならその信仰によって神様の御前に出て行き、罪の赦しを受けることができます。神様と和解して神様に愛され、神様に祝福される人生を生きるようになるのです。なぜなら、神様は、愛する御子イエス・キリストを地上に遣わして、私達の罪のなだめの供え物とされ、十字架において血を流して、その代価によって私達を買い戻されたからです。それによって神様の義も現わされるようになりました。ただ、信じない人たちには神様の恵みも、贖いも何の意味もありません。神様が示された救いを信じることによって神様の赦しと癒しの力が私たちのうちに働くようになります。私たち人間が神様の真の救いにあずかる道は神様が示された救いの恵みとキリストの血による贖いを信じることなのです。教会のあらゆる儀式やルールによるのではありません。ただ一つ、心から私たちを贖うために十字架にかかって死んでくださったキリストを仰ぎ見、その血を信じることです。キリスト教、キリスト信仰、クリスチャンとは、この十字架の主が流されたその血によって救われると信じる信仰以外に何もありません。十字架のキリストを心より愛し、受け入れる人が真の救いにあずかれるのです。27、28節をご覧ください。「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」とあります。結局、私たちは律法の行ないによってではなく、ただ信仰の原理によって救われるので、救いを誇ることが出来ません。もし、身分や、学歴、財産、人柄などによって救われているなら、それらを誇ることができるでしょう。しかし、ただ恵みによってイエス・キリストの血による犠牲、信仰によるものだから、いつも神様の恵みに感謝し、神様に栄光を帰すべきなのです。  29、30節をご覧ください。「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。」信仰によって救われるから、ユダヤ人だけではなく、異邦人も救われます。この神様は一つの民族だけを救われる神様ではなく、全世界を救われる世界的な神様です。 31節をご覧ください。「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」 ただ神様の恵みによって、信仰によって救われるといいますと、律法を無効にしてしまうのではないかと誤解する可能性があります。それに対してパウロは「絶対にそんなことはありません。」と言い切りました。神様はイエス様の十字架によって律法の代価を全部払うようになさいました。律法の要求を満たされたのです。そして、イエス様を信じて救われると、聖霊によって生まれ変わった人が律法を確立して行きます。二つのJ, Jesus,Japan, を愛した内村鑑三はこう言いました。「キリストが十字架を通して施された救いにあずかられてから善に対する義務は喜びに変り、罪を犯すことはこの上もない苦痛になった。善を愛するから善を行なうようになったし、悪を憎むから悪を行なわないようになった。律法はもはや重荷にならなかったし、使徒ヨハネの言葉も理解するようになった。」と告白したのです。そして、使徒ヨハネは「神を愛することは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」, ?ヨハネ5, 。と告白しています。私たちもこのように深く悟ってキリストの恵みのゆえに、もっとイエス・キリストを愛し、日本を愛する生活ができるように祈ります。結論的に、私たちはただ恵みによって価なしに神様の大いなる贖いのゆえに救われました。ただ、ただイエス・十字架の血による贖いを信じる信仰によって救われました。救いはイエス・キリストの十字架を見上げ、信じること以外のどこにもありません。自分の善行によっても、熱心な宗教によっても、自分の奉仕によっても救われません。ただ神様の恵みによってキリストの血による、また信仰によって救われたのです。私たちにはその恵みにただ感激し、感動し、感謝をし、喜び、主を愛して行くことが許されています。主を愛して律法に示された神様を愛し、父母を敬い、隣人を愛する生活をしていくのです。この素晴らしい恵みを、一人でも多くの若者、日本の47都道府県の人々に伝えて行くことができますように祈ります。

13Romans15M 生きた供え物として捧げなさい

13romans15m, 生きた供え物として捧げなさい, 2013年ローマ人への手紙第15講メッセージ, 朴エズラ, 生きた供え物として捧げなさい御言葉:ローマ12, 21要, 節:ローマ12, 1「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」イギリスのC・H・スポルジョン牧師(1834−1892)は、神の恵みを水源、信仰を水道管にたとえています。救いは、無尽蔵のダムのような水源である神様の憐れみから流れてきます。信仰は、救いを運ぶ水道管にすぎません。水源とつながっていない水道管が役に立たないように、神ご自身(水源)とつながっていない信仰(水道管)も役に立ちません。私たちはローマ人への手紙1章から11章を通して、人間の罪と信仰、また信仰者の苦悩と勝利、そして先週まで習った9−11章ではユダヤ人と世界の人々の救いに対する神様のご計画について学びました。今までのローマ人への手紙は、手紙というよりは、まるで論文のようです。したがって、初めてローマ人への手紙を学んだ方は大学に戻って一生懸命研究する姿勢で読まないと、なかなか理解難いところがあったでしょう。しかし、今日の12章からは、神様の憐れみによって救われたクリスチャンがどのように生きるべきかという、具体的な生き方について書いてあり、ようやく、手紙らしくなってきます。   今日の御言葉を通して、神様に喜ばれるクリスチャンとしての生き方について深く学ぶことが出来るように祈ります。?。霊的な礼拝(1−8)1節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」1節の「そういうわけですから」というのは、11章まで習った、神様がイエス・キリストによって私たちを罪から救い出してくださったことを指していますが、言い換えれば、神様のあわれみを指しています。神様が、私たちを救ってくださったのは、私たちに救われるに価するだけのものがあったからではありません。私たちは、みな罪人であり、神様の前には、無力なもの、汚れたもの、惨めなものであったばかりか、神様に対して逆らうものでした。そのような私たちが救われたのは、ただ、神様のあわれみによってでした。私たちは、自分の罪のゆえに苦しんでいたのですが、神様はそのような私たちの苦しみを、まるでご自分の苦しみでもあるかのように、思いやってくださったのです。神様の「あわれみ」は、単なる同情やかわいそうに思うこと以上のものです。それは、もっと、深く、高く、大きく、決して変わることのない愛です。だから、使徒パウロは、「12, そういうわけですから、兄弟たち。私は、神様のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」と言っているのです。 冒頭でスポルジョン牧師のたとえを引用したように、神様の憐れみの恵みは、いくら飲んでも飲み尽きない膨大なアマゾン川のようです。皆様、日照りでアマゾン川が枯れたという話を聞いたことがありますか。神様の憐れみはそういったものですが、礼拝は、この神様の救いとあわれみに対する応答なのです。そこで、パウロは「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と言って、神様のあわれみに対して答えるようにお願いしているのです。クリスチャンの生活は、自分の欲望に支配される生き方でも、人の目を気にしながら生きる臆病な生活でもありません。また、それは、規則でがんじがらめに縛られた窮屈な生活でも、義務感に追い立てられ疲れ果ててしまう生活でもありません。トマス・エリクソンという方が「新約の宗教は恵みであり、その倫理は感謝である。」と言っているように、罪から救われた者の生活は、神様のあわれみに拠り頼み、神様のあわれみに生かされ、神様のあわれみに感謝して生きるものなのです。それでは、その礼拝は具体的にどのようにすることですか。1bを一緒に読んでみましょう。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ここで、礼拝とは「私たちのからだ」をささげることであると言っています。この表現は、旧約時代に、祭司たちが神殿で犠牲をささげて礼拝していた様子を思い起こさせます。旧約時代、ささげ物のない礼拝は考えられません。人々は、必ず、いけにえのために雄牛や羊などの動物のささげものを神殿で捧げたのです。これは、私たちが、神様に対して「物」ではなく「命」をささげなければならないということを教えています。神様は、私たちの持っている何かではなく、私たち自身を、求めておられるのです。時間や健康、財産や才能などといった、私たちの持っている一部ではなく、私たちのすべて、私たち自身をささげることを神様は求めておられるのです。「からだ」をささげるというと、手足を使って行う奉仕活動のことだと考えるかもしれませんが、聖書で使われている「からだ」という言葉には、肉体だけの狭い意味ではなく、「全体」という意味があります。したがって、私たちの身も心も、私たち自身を、私たちの人生のすべてをまるごと神様にささげなさいという意味になります。 旧約時代の礼拝では、どんなに多くの犠牲がささげられても、人々が自分自身をささげていなければ、それらは、何の意味もないと、神様は言われます。形式だけで、真実の伴わない礼拝について、神様は、アモス5, 23と語っておられます。「たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。」 大変厳しいことばですが、私たちも、私たちがささげているものが、私たち自身や私たちのすべてではなく、私の一部、私の持ち物だけではないだろうかと、問い直したいと思います。私たちの礼拝を、本当の意味で神様に受け入れられるもの、神様を喜ばせ、また私たちも、それによって神様を喜ぶものにしていきたいと思います。「からだをささげる」ということばは、また、私たちにキリストの十字架を思い起こさせます。イエス様は完全な供え物として傷のないご自分のからだをささげました。イエス・キリストは、私たちを罪から救い出すために、十字架の上で、ご自分を犠牲の子羊として、神様にささげられたのです。私たちは、キリストがご自身をささげられたことによって救われました。キリストがそのからだを神様にささげられたように、私たちもまた、そのからだを神様にささげるよう求められているのです。そして、それこそが、私たちのなすべき礼拝であることを覚えていきたいと思います。2節をご覧ください。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」私たちは、それぞれ、自分が生きてきた時代、生活してきた社会の影響を受けます。「この世と調子を合わせてはいけません。」というのは、その時代の文化や風習を一切拒否しなさいという意味ではありません。ここでいう「この世」というのは、神様にとってふさわしくない世界のことを意味しています。神様を否定し人間をあがめ、神様なしでも幸せな世界を作ることができると主張する考え方、原理、生き方、価値観、人生観、世界観などといったものを指しています。わたしたちは、こういったこの世と調子を合わせることなく、「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変える」生活に励まなければならないのです。ところが、弱くて無知な私たちは「神のみこころは何か、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのか」をわきまえるのが易しくありません。しかし、全く心配する必要はありません。本文で、パウロは、心を新しくし、自分を変えれば「わきまえ知る」ことができると教えてくれています。ここでの、「自分を変える」とは、常に悔い改めて心を新しくすることで霊的な人として内面が変化し成長することだと思います。御言葉の前で内面にある罪のかすを見つけ、悔い改めることで、心を新しくし霊的な人として成長する時、神様のみこころは何か、何が良いことで、神様に受けいれられ、完全であるのかをわきまえ知ることができるということです。罪は、かすのようで、かすがたまって詰まると、魂が疲れて無気力になり腐敗するようになります。悔い改めとは、このような詰まったかすを掃除することと同じだと思います。内面の罪を悔い改めると、魂がすっきりし、喜びが生じます。悔い改める時、聖霊が働かれ、変化した人生を生きるようになります。このように、私たちの心を新しくしてくださるのは、悔い改めによる聖霊の働きによって可能になるのです。それでは、この世と調子を合わせず、心の一新によって自分を変える生活は、具体的にどのような生活でしょうか。3−5節を一緒に読んでみましょう。「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。/一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、/大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」まず、私たちに与えられている「信仰の量りに応じて、慎み深い考え方」をすべきです。そうすると、思うべき限度を越えて思い上がるような間違いを犯さなくなります。使徒パウロは、ここで、「体と多くの器官」のたとえを取りあげています。1つの体に、多くの器官がありますが、すべての器官が同じ働きをすることはありません。そのように、私たちもキリストにあった一つの体であり、互いに器官としてキリストの体である教会を構成しているのです。また、それにふさわしい賜物が与えられています。6−8節をご覧ください。「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。/奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。/勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」神様は体を構成する一つ一つの器官である私たち一人一人に、その恵みに従って、異なった賜物を与えてくださいました。人によって、預言する人も、奉仕する人も、教える人も、勧める人も、分け与える人も、指導する人も、慈善を行う人もいます。教会の中でも、それぞれ自分の役割があります。ある人は、賛美で、ある人は楽器で、ある人はメッセージで、ある人は掃除で、ある人は食事で仕え、ある人は笑顔で、ある人は、人の話を良く聞いてあげたり、よく食べてあげたりすることで神様に仕えることができます。こうすることでそれぞれの役割を果たしています。目に見える働きも大事ですが、目に見えないがそれぞれに大切な役割があります。重要なことは、自分に与えられた恵みの賜物を見出すことです。ここで、明確に示してくださったように、だれでも必ずその賜物が与えられているのです。しかし、自分に与えられた賜物の価値を、神様の前でその価値を評価せず、世の人々のやり方のように、他人と比較する瞬間、神様から与えられた恵みの賜物がつまらないもののように見えるのです。2節で説明したように、「この世と調子を合わせてはいけない」理由はそこにあるのです。世の人々の基準から見るので、自分に与えられたすばらしい恵みの「賜物」の価値を知らず、他人を妬んだり、劣等感に陥ってしまいがちです。自分に与えられた最高の賜物を見出す時、人は本当に幸せに生きられます。また熱心に喜んで自分に与えられた賜物を発揮することが、「自分の体を、生きた、聖い、供え物として神様にささげる」霊的な礼拝となります。皆様、私たちの健康にすごく良い影響を与える物質である「エンドルフィン, endorphin, 」について聞いたことがありますか。エンドルフィンは笑う時や、愛する時に分泌されるホルモンです。疲労回復や病気を治癒することにおいて卓越した効果があると言われます。逆にストレスを受けると、脳内からアドレナリン(adrenaline)とノルアドレナリン(noradrenaline)がたくさん分泌されますが、これを緩和する役割をするのが、βエンドルフィンです。しかし、エンドルフィンより4000倍も強力な物質が見つかったそうです。それは、ダイドルフィン, didorphin, です。ダイドルフィンは感動した時に分泌されるホルモンだそうです。美しい音楽の旋律に心を奪われた時、心を揺り動かす文章を読んだ時、御言葉の恵みを受け、感動の涙が出た時、美しい風景、例えば富士山の頂上で御来光を見た時などにダイドルフィンが分泌されると言われています。私たちが自分に与えられた賜物を喜び、一生懸命その賜物で人を喜ばせる生活をすると、エンドルフィンとダイドルフィンが脳内から分泌されて、私たちを健康な生活に導くことになると信じます。ただし、エンドルフィンが一度分泌されると、5分間効果が持続されますので、常に健康生活を維持するために、5分ごとに喜びを覚える必要がありますね。周りの人たちから変だと言われても、気にせず、神様から与えられた賜物を考えながら微笑む日々を過ごして生きましょう。?。愛と善を行いなさい(9−21)9節からは具体的に世の人々との間でどのように生きるべきかに対する具体的な指針となる御言葉です。第一に、偽りのない愛に基づき、悪を憎み、善に親しむように勧めています。9−10節をご一緒に読んでみましょう。「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。/兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」ここでの愛は、兄弟愛を意味しています。つまり、私たちの周りと互いに愛し合うことです。そうするためには、人を尊敬し、互いに人を自分よりまさっていると思うことが必要です。私たちは相手が自分を尊敬してくれれば自分もそのように思う準備ができているのに、と思う時が多くあります。しかし、聖書では「互いに思いなさい」となっています。兄弟愛のベースは相互の関係です。第二に、勤勉で、望みを抱き、旅人をもてなす生活です。11−13節を一緒に読んでみましょう。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。/望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。/聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。」神様は、クリスチャンに「勤勉」な生活を求めておられます。「努力に勝る天才無し」ということばは、たとえ天才的な才能を持っていても、コツコツ努力している人にはかなわないということを言っています。エジソンは、電球を作るとき、フィラメントの材料を見つけるのにとても苦労しました。電気を通すとそれが燃えて光るようにするのですが、すぐ燃え尽きるようではだめで、明るく輝き、しかも長く保つ材料をみつけるのに、エジソンはなんと1600もの材料を試したそうです。そして、やっと見つけたのが、日本の京都の竹であり、これを炭にし、細い線にして、電球が出来上がったという話があります。このことは、何かを成し遂げるのに一番大切なのは、勤勉でたゆまない努力であることを教えています。勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕える生活を送ると、すぐに報われる場合もありますが、あまり評価されない時もあります。そういった場合、望みを抱いて喜び、患難に耐えながら、絶えず祈っていきたいです。さらに、積極的に同じ教会の聖徒たちをサポートしながら、旅人ももてなす生活に励むべきです。クリスチャンライフは、かなりレベル高いことが求められているのです。第三に、迫害するものを祝福する生活です。ますますハイレベルの生活が求められています。14, 16節をご覧ください。「あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。/喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。/互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」今までの御言葉もかなり高い水準の御言葉でしたが、ここに至ると、本当に順従しにくい御言葉に違いありません。いや、私たちの人間の力では不可能な事でしょう。私たちの本性では、「迫害する者を祝福するどころか、迫害する者が喜ぶと、お腹が痛くなるし、迫害する者が泣くと、嬉しくなり、ご飯がもっと美味しくなるのが現実でしょう」。そこで、心の奥底では、「やったか!?へへっ、ざまみろ!いい気味だ」と快哉を叫びます。しかし、イエス様は、マタイ5章11−12節で、迫害されると幸いだと言われます。だから、むしろ、喜び踊るように言われました。何故なら、天での報いが大きくなるからです。最後に、悪に悪を報いず、すべての人と平和を保つ生活をすべきです。17−18節をご一緒に読んでみましょう。「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。/あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ここで、「悪に悪を報いることをせず」という意味は、復讐するなという御言葉です。なぜ、私たちは私たちに悪を行った人に復讐してはいけないのですか。その理由は、復讐は神様がするものだからです(19)。ある牧師は、“復讐を行動で実行しなくても、心で復讐の思いを持っている者は、神様の恵みを忘れてしまうので、自分で復讐してはいけない”と説明しています。何故なら、復讐しようとする考え自体がすでに神様の恵みを忘れてしまっている証拠だからです。私たちが直接復讐することより、神様の御手と神様の時に復讐をゆだねる必要があります。敵が飢え渇いている時、正常な心ではなかなか難しいので、その瞬間だけは、気違いになって、敵を食べさせ、飲ませると、彼の頭に燃える炭火を積むことになります(20)。つまり、世の法則であれば、敵同士であれば、憎むのが当然であるのに、かえって悪を悪で報いず、善を施すことで、私たちの敵は恥ずかしい思いで、頭が燃えるようになります。このように、悪に負けず、かえって、善をもって悪に打ち勝つことによって、私たちは世の人々を感動させることができるのです(21)。相当難しいレベルですが、ここに本当の意味でのクリスチャンライフの魅力があるのではないでしょうか。また、感動があるのです。上で説明したように、感動を受け、感動を与える生活をすることで「ダイドルフィン」がたくさん分泌され、私たちの体が健康になりますし、人を癒すことができます。皆様、数年前、双子のニュースがテレビで報道されたことがありましたが、ご覧になったことがありますか。生まれたばかりの双子のうち、妹が死にかけていました。インキュベーターの中で死にかけていた双子の妹を、元気なお姉さんのそばに横たえると、お姉さんが腕を伸ばして死にかけていた赤ん坊の妹を抱いてあげました。すると、妹の赤ん坊の心臓が徐々に正常に帰って来て、赤ん坊の妹を生かすことができたのです。感動を受けた妹の脳から奇跡的にダイドルフィンが分泌されたでしょう。この時間、十字架の上で死なれることで、敵であった私たちを愛し、救ってくださったイエス様を思い、そのイエス様に感動され、悪に対して、善を持って打ち勝つ生活ができるように祈りたいと思います。私たちが、周りの人々を感動させる格好いいクリスチャンになれるように切に祈りたいと思います。

13Romans16M 主イエス・キリストを着なさい

13romans16m, 主イエス・キリストを着なさい, 2013年ローマ人への手紙第16講  主イエス・キリストを着なさい御言葉:ローマ人への手紙13:1〜14要, 節:ローマ人への手紙13:14「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」 先週、私たちは朴エズラ宣教師を通して霊的礼拝、愛と善を行なうことについて学びました。かなり高いレベルの教えでもありましたが、あきらめることなく、神様に受け入れられる聖よい生きた供え物として自分をささげ、人に対して善を持って悪に打ち勝つ生活ができるように祈ります。 今日は教会の外にいる人たちに対する態度について学ぶことができます。具体的に言うなら、上の権威に対する態度、隣人に対する態度、自分自身に対する態度を学ことができます?.国家に対する態度‐上の権威に従うこと, 1節をご覧ください。「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」とあります。ここで、パウロは上に立つ権威に対する大原則を明らかにしています。それは「上に立つ権威に従うべきである」と言うことです。今の世界では「民主主義、平等、人権」と言うことで上に立つ権威を軽蔑する風潮があります。総理大臣の権威を無視し、政治家が嫌だと言いながら国家の権威に対しても無視する発言を言います。上の人の欠点や間違いを言うことを通して彼らの権威を無視しているのです。今回、このメッセージを準備しながら私自身もそういう過ちを犯して来たことに気づいて悔い改めました。よくよく考えてみると、権威ある人たちに対して非難ばかりするのは聖書的な態度ではないことが分かりました。神様によらない権威はなく、存在している権威はすべて神様によって立てられたものだと信じているからです。上に立つ権威を尊重しないで無視することは自分の国家や社会に悪い影響を与えています。「武士道」によると昔の日本人は上の権威によく従っていたと思われます。しかし、最近の若い子どもたちは親の権威を認めているでしょうか。先生の権威を認めるでしょうか。きよく正しく生きようとしている人々の権威さえも認めようとしない風潮が蔓延しています。ある調査結果をご紹介します。日本とアメリカ、中国の高校生に規範意識の調査をしたものです。「してはいけないこと」について、「どう思うか」ということを聞いています。日本の高校生は「先生に反抗すること」に対しては79%、「親に反抗すること」に対しては84.7%が「本人の自由でよい」と答えています。反抗してもいいということです。先生や親の権威に逆らってはいけないと思っている人は20%に過ぎないのです。ところが、アメリカ、中国は「本人の自由でよい」というのは、だいたい15%です。85%ぐらいの人たちは、これは「してはいけない悪いことだ」と考えているのです。子どもたちが大人の権威を認めないということは、大人の中に自分たちが学ぶべきものがないと思っていることです。こういう子どものまなざしがある以上、家庭でも学校でも地域社会全体でも教育というものが非常に難しくなるわけです。それだけではありません。「大人の権威を子どもたちが認めない」という風潮が蔓延していると、国家の秩序維持、社会生活においても大きな問題になります。ですから、私たちクリスチャンだけでも先に上に立つ権威に従う雰囲気を作り上げていかなければならないと思います。こう言いますと、悪王の代名詞であるヘロデ大王やヒットラーのような者の権威にも従うべきかと言う問題もあります。これは非常に難しい問題です。使徒の働き5章を見ると、使徒たちは「人に従うより、神に従うべきです。」と言っています。ペテロをはじめ使徒たちは宮の中に立って御言葉を宣べ伝えることが禁じられる時は大祭司の権威に従わなかったのです。ですから、私たちは神様に従うために人の権威に逆らう場合もありうるのです。ノンクリスチャンだから従わないとか、権威への服従より、不服従が優先になってはいけません。私たちは神様が許された権威に従い、命令に従い、善を行なうべきです。学生たちはよく自分の担当教授の悪口を言ったりしますが、クリスチャンの学生はそうした真似をしてはいけません。逆に、先生を心から尊敬し、その権威を重んじなければなりません。社会人であれば、上司の悪口を言ったり、安易に逆らったりするのではなく、かえって上司のために祈り、よく聞き従わなければなりません。家庭においても同じことが言えます。子どもたちが自分の父と母の権威に従うとき、それは神に従うことになります。また、子どもたちが親に逆らうとき、それは神様に対して逆らうことになります。神様が親に権威を与えたので、子どもは親に従わなければならないのです。それが神様のみこころであり、神様が立てた秩序なのです。3, 5節をご覧ください。「支配者を恐ろしいと思うのは、良い行ないをするときではなく、悪を行なうときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行ないなさい。そうすれば、支配者からほめられます。それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。」とあります。良いことをして怒られるというようなことはめったにありません。一般的には良いことをする人はほめられるでしょう。良いことをすればクリスチャンを迫害する指導者からも褒められるのです。ですから、クリスチャンはすべての権威に従い、善を行なうことに励むべきです。それこそクリスチャンとしてふさわしい態度です。そして、上の権威によって決まっている義務も果たさなければなりません。6, 7節をご覧ください。「同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」とあります。ここで「みつぎ」とか「税」という言葉が出てきますが、当時の世界ではそれぞれ違った税を表わしていました。今日ではその両者を含めて税金全般のことです。つまり、納税の義務を果たしなさいるということです。私たち教会はこの教会堂を購入してから固定資産税という税金を払い、毎年確定申告をしてからそれに応じた税金を払っています。ところが、私の心の中ではこれに対する不満がありました。銀行からお金を借りていてそれの返済も大変なのに税金も払わなければならないと思われたからです。でも、納税の義務を果たさなければならないことを学びます。?.隣人社会に対する態度‐互いに愛し合うこと, 。この箇所ではパウロが何度も繰り返して教えている愛についてまた教えています。それで、皆さんの中には、「また、愛ですか」と言いたくなる方がいらっしゃるかも知れません。事実、私自身も同じテーマを繰り返して伝えることもやさしくありません。しかし、愛ほど重要なテーマもないでしょう。パウロは?コリント13, 1、2で「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていていても、愛がないなら、何の値うもありません。」と言いました。ですから、「愛」は何度も何度も語り合い、実践して行くべきテーマだと思います。何よりも社会生活においてなくてならないものが愛です。8節をご覧ください。「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は律法を完全に守っているのです。」とあります。ここで「借り」と言うのは約束した日までに借金を返済していないことを意味しています。つまり、一円も借りてもいけないということよりも、借りたら約束のとおりに返しなさいという意味があるということです。しかし、ここでそれより強調されるのは愛です。新共同訳を見ると互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」とあります。そしてパウロは、「互いに愛し合うことについては借りがあっても良い」と言うことです。愛の借りは常にあるから、それを返さなければならないということです。 事実、私たちは皆、測り知れない愛の負債を負っています。誕生の時から私たちは親に返すことのできない負債を負って生まれます。この間、パウロチームの勉強会の時、朴エステル宣教師は一番目の娘を産んだ時、生みの苦しみがあまりにも大きかったために二番目が考えられないと思ったと言いました。それほど苦しみは大きいということでしょう。私たちは生まれただけで、母から返すことのできない愛の負債を負っているのです。 親だけではなく私に関わった友達、親せき、先生や牧者たち、隣人たちの愛に支えられています。何よりも私たちは神様の子どもとしてどんなに愛されていることでしょうか。?ヨハネ3, 1節をみると「私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。」とあります。神様は一方的に私たちを愛してご自分のひとり子イエス・キリストを世に遣わされ、十字架にかけて死なせられました。その十字架の死によって私のような者も救われています。私たちには返すことのできない愛の負債があるのです。それに対してパウロは「あなたがたは、すでに返すことのできない愛の借りがあるのだ。それは無くすことができない。だから、あなたがたが愛されてきた、その愛によって互いに愛し合わなければならないのだ」と言っているのです。 皆さん、負債を負っている人の気持ちを経験したことがあるでしょうか。私にありますがそれほど深刻には経験していません。しかし、私の父は何度も眠れない夜を過ごすほどに経験していました。私は高校生の時から父と離れて生活をしたので父が借金のために苦しんでいることを感じていませんでした。でも大人になって弟たちから父はいつも借金を返すことばかり考えていたと聞きました。また、夢の中でも「借金を返さなければならないという思いのために苦しめられていたそうです。 ところが、私たちには返さなければならない愛の借りがあります。私たちが地上で経験する金銭的な負債とは比べることができない愛の負債を負っているのです。私の代わりにご自分のひとり子をこの世に遣わされ、十字架につけて死なせられた神様からの愛の負債です。私たちはどれだけこの愛の負債を返そうとしているでしょうか。夢の中でも愛するべき人々の顔が見えてくるほどに愛の借りを返そうとする気持ちがあるでしょうか。ちょっと寂しいことを言われてもそれは私の愛が足りなくてそうなんだ、もっともっと愛して行こう。」と思う気持ちがあるでしょうか。どうか、返さなければならない負債のために眠れない夜を過ごす人のように隣人を愛しようと決断することができるように祈ります。ではこの世に、こういう愛がなければこの社会はどうなるでしょうか。9, 10節をご一緒に読んでみましょう。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」この御言葉は愛がなければこの社会がどうなってしまうのかを教えてくれます。姦淫するようになります。それ性暴力です。最近、性暴力が増えています。性的犯罪は被害者の人格を破壊するだけではなく、家族にも言い尽くせない痛みと苦しみを与えます。隣人を自分自身のように愛するなら、相手の性的同具としてみません。本当に愛するなら、自分の利益も求めず、自制し、忍耐します。愛はいい感じの感情ではなく、意志的な行動です。また愛がなければ人を殺すようになります。殺すことは心から人を憎しみ、腹を立てることから初めて人をバカにすることまでも含まれています。人に害を与えるすべての行為です。昔は殺人ほどの大きな犯罪にはなんだかの恨みとか、被害を受けたことに対する原因がありました。しかし、最近の犯罪はただムカつくから殴ったり、殺したりしてしまう時もあります。この社会に隣人愛がなく、冷たくなっているからです。本当に隣人を愛するなら殺すことも盗むことも、むさぼることもしないのです。それゆえ、愛は律法を全うするのです。イエス様ご自身も律法の中でもっとも大切な戒めは、「主なる神を愛する」ことと、「自分自身のように隣人を愛する」ことであると言われました。もし、本当に隣人を愛しているなら、その人の妻と姦淫の関係に入ることは考えもしないでしょう。もちろん殺しません。その人のことを愛しているなら、盗むこともしません。むさぼりもしません。本当に隣人を愛していれば、たくさんある律法をすべて守っているのです。だから、愛によって律法を全うしているとパウロは言っているのです。ですから、私たちクリスチャンは社会生活において神様を愛し、隣人を愛する愛の使徒として生きなければなりません。イエス様も言われました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 ?.自分自身に対する態度‐主イエス・キリストを着ること, 11節をご覧ください。「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。」とあります。パウロは、「救いは近づいている」と記しています。主の再臨の時が近い、ということです。そして、確かなことは、パウロがこの手紙を書いた時よりも今がキリストの再臨に近づいているということです。私たちは霊的に無感覚で鈍感になっているなら悔い改め、霊的に眠っている状態から目覚める必要があるのです。 12節をご覧ください。「夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。」とあります。ここでパウロは決断を促しています。私たちが愛を実践するためには決断をしなければなりません。私たちが決断しなくても、夜はふけて、昼が近づいて来ます。しかし、私たちが心から決断をしなければ、昼になってもやみのわざを続けます。姦淫、殺人、盗み、むさぼりのような夜のわざを続けるのです。ですから、心から決断して闇のわざを打ち捨てて、光の武具を着けなければならないのです。光の武具を着けることはどのようにすることでしょうか。 13、14節をご一緒に読んでみましょう。「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」パウロは、私たち自身に対して果たさなければいけない責任について話し始めます。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。と強く決断を促しているのです。そして、「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」と命じています。私たちが心からパウロの勧めを受け入れて新たな決断をして行きましょう。 最近の世の中は闇のわざが発達し、インターネットによる淫乱、好色、不健全なゲームなどがはびこっています。自分も知らずに誘惑を受けます。昨日、子どもの学校のpta交流会に出席して来ましたが、携帯やスマートフォンから守ることが大変だとよく言われました。それは子どもたちも自覚していましてあるクラスでは生徒たちが自ら中間考査の間はお互いに電源を切って連絡しないことにした話も聞きました。どうか、私たちもやみのわざを打ち捨てて主イエス・キリストを身に着ける決断をして行きます。私たちが心から決断すると、神様の力ある働きによって決断を守ることができるようになります。神様の力ある働きによって私たちは主イエス・キリストを着てイエス・キリストの御姿にまで成長して行くことができます。どうか、謙遜になって上の権威に従い、隣人を自分自身のように愛する生活ができるように祈ります。特に自分自身に対して厳しくなって聖なる決断をし、主イエス・キリストを着て生きるように祈ります。