聖書別日ごとの糧   >>   列王記Ⅱ[2019]

2019年 03月 02日 (土)

列王記第二2:1-11(11)
  エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った

 エリヤの天に上げられる時が近づくと、エリヤはエリシャに、ギルガルにとどまっていなさいと言いました。しかしエリシャは、「私は決してあなたから離れません。」と言って、彼らはエリコに来ました。エリヤはべテルでも、エリコでも、「ここにとどまっていなさい。」と言いましたが、エリシャはエリヤから離れませんでした。エリヤは彼の忠誠心を認め、彼に言いました。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言いました。彼は自分にも御霊が臨まれることを謙遜に求めました。
 しかし、これはエリヤにできることではありませんでした。エリヤはエリシャに、もし自分が彼のところから取り去られるとき、彼が自分を見ることができるのなら、そのことが彼にかなえられると言いました。彼らがなお進みながら話していると、なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行きました。
 苦難が多かったエリヤでしたが、この世ではなかなかその苦難からの実を結ぶことができなかった預言者でした。しかし、彼の働きはエリシャの時代にその実を結ぶことになります。エリヤは苦難ばかりの人生を終え、天に上りました。神様はこのようなエリヤに死を味わわせることなく、栄光の姿で、天に上らせました。
 私たちは神様に召され、福音の御業に献身していますが、私たちが生きている間にその実を結ぶことができないときもあります。それによって被害意識を持つこともあるでしょう。しかし、私たちが最後まで神様の御業に忠実に仕えるなら、エリヤの神様が私たちの人生の最後を美しいものにしてくださいます。私たちのすべてを知っておられ、慰めてくださる神様を最後まで信じる信仰の道を進むように祈ります。


適用:苦難の中でも神様に最後まで献身していますか

一言:天に上る栄光ある姿



2019年 03月 03日 (日)

列王記第二2:12-25(14)
   ヨルダン川を二つに引き裂いたエリシャ

 エリシャはエリヤの身から落ちた外套を取って、信仰によって水を打ちました。すると、水が両側に分かれたので、エリシャはエリヤが渡ったように渡りました。エリコの預言者のともがらは、遠くから彼を見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言い、エリシャを迎えに行って、地に伏してエリシャに礼をしました。彼らはエリヤの霊は主に運ばれたけれど、彼の体はどこかの山か谷に投げられたと信じました。それで、彼らは五十人を遣わして、三日間、捜しましたが、彼を見つけることはできず、帰って来ました。これによって神のしもべとして、エリシャの霊的な力が証明されました。
 エリコの町の人々が、水が悪くこの土地は流産が多いとエリシャに告げると、彼は水の源のところに行って、塩をそこに投げ込みながら、主が水をいやされた、と言いました。すると、水は良くなりました。エリシャが道を上って行くと、小さい子どもたちが出て来て、彼を「はげ頭」とからかったので、彼は振り向いて、彼らをにらみ、主の名によって彼らをのろいました。すると、森の中から二頭の雌熊が出て来て、彼らのうち、四十二人の子どもをかき裂きました。このようにエリシャは、片方では回復の御業をもって、また片方では裁きの御業をもって、イスラエルの神である主が生きておられることとその栄光を現しました。
 神のしもべの権威は、言葉ではなく能力によって現わされなければなりません。聖霊がその人を通して働かれるとき、主である神様の御力が現れます。私たちが聖霊に満たされ、信仰によって働くとき、主である神様が生きておられることとその栄光を現すことができるように祈ります。


適用:主の御力を現すことを願っています

一言:聖霊に拠り頼みましょう


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