聖書別日ごとの糧   >>   歴代誌Ⅱ[2019]

2019年 09月 15日 (日)

歴代誌第二32:1-23(22)
セナケリブの手から救われたユダ

 本文は、アッシリヤの王セナケリブの侵略についてです。北イスラエルを滅ぼしたアッシリヤの前で、ユダは風前の灯火のようでした。しかし、歴代誌の著者はこの絶体絶命の事件を霊的に見ています。1節で「これらの誠実なことが示されて後」にこのことが起きたと言っています。ですから、この出来事は神様の摂理がある出来事であり、過越の祭りと礼拝信仰を守ったユダを神様がどのように守ってくださったのかを教えてくださる出来事です。
 ヒゼキヤと彼のつかさたち、勇士たちは民とともにすべての泉と、川をふさぎました。くずれていた城壁を全部建て直し、もう一つの城壁を築きました。そして、ヒゼキヤは民に励ましのことばを与えて言いました。「強くあれ。雄々しくあれ。彼とともにいる者よりも大いなる方が私たちとともにおられるからである。彼とともにいる者は肉の腕であり、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる方である。」(7,8)。誠実に神様に仕えて来たヒゼキヤには、恐れるものはありませんでした。
 セナケリブは家来たちをエルサレムに遣わし、アッシリヤの王の手から救われた国や民族はどこにもないと言って脅かしました。ヒゼキヤも神様も信じてはならない、と言いました。そこで、ヒゼキヤ王とイザヤは、このことのゆえに、祈りをささげ、天に叫び求めました。すると、驚くべきことが起こりました。主はひとりの御使いを遣わし、アッシリヤの王の陣営にいたすべての勇士、隊長、首長を全滅させました。セナケリブは恥じて国へ帰り、彼の神の宮に入りましたが、自分の子どもたちによって殺されました。ヒゼキヤは剣や槍を使わず、アッシリヤを退けました。それを見た多くの人が主への贈り物を携え、ユダの王ヒゼキヤに贈る品々を持って、エルサレムに来ました。ヒゼキヤはすべての国々から尊敬の目で見られるようになりました。誠実に神様に仕える人を主は守り、救ってくださいます。


適用:救いの道はどこにありますか

一言:神様が救ってくださる



2019年 09月 16日 (月)

歴代誌第二32:24-33(25)
恵みにしたがって報いようとしなかったヒゼキヤ

 ヒゼキヤは病気で死にかけましたが、彼が主に祈った時、主は彼に答え、しるしを与えて下さいました。その時までは彼の心は謙遜でした。ところが、ヒゼキヤは、自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえって心を高ぶらせました。そこで、彼の上に、またユダとエルサレムの上に御怒りが下りました。しかしヒゼキヤが、その心の高ぶりを捨ててへりくだり、彼およびエルサレムの住民もそうしたので、主の怒りは、ヒゼキヤの時代には彼らの上に臨みませんでした。
 ヒゼキヤは、富と誉れに非常に恵まれました。しかしバビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、しるしについて説明を求めた時には、神様の試みに不合格となりました。彼の心には、神様の恵みに対する感謝ではなく、高ぶりがありました。
 祈りか答えられた時や恵みを受けた時、高ぶってはいけません。高ぶった人は自分の力でそのようになったと思い考えます。高慢になると自分がよく祈ったからそのようになったと思い、自分を偉く思います。恵みは資格のない者に与えられるプレゼントです。自分がよく祈ったこともあるかもしれませんが、根本的には神様が恵みを与えてくださったからです。いくら祈っても、神様が答えてくださらなければ何も起こりません。祈りが答えられるのも、神様の主権であり、恵みです。困難な時、人は謙遜になります。しかし、物事がうまく進むようになると、考えが変わります。神様の恵みもあるけれど、自分も偉いのだ、と思うのです。そのような考えは神様の栄光を現すものではありません。


適用:恵みを受けた時、どうしますか

一言:高ぶらず、恵みに報いよう


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