聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 02月 23日 (木)

ローマ人への手紙 2:1-5(4)
神様の慈愛と忍耐と寛容とを軽んじている者たち

 人は、他人を判断して、さばくことを好みます。これを通して、自分の正しさと、優越感を現わそうとします。しかし、彼らは他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。なぜなら、彼らは他人をさばきながら、自分で同じことをしているからです。このようなことをしている者たちを、神様は真理に基づいてさばかれます。他人をさばくことは、自分自身を神様の座に置く高ぶりの罪です。

 神様は、私たちが罪を犯したからといってすぐにさばかれるのではありません。神様は一人の人が悔い改めて、成熟した神様の人になるまで、長く忍耐しておられます。神様は慈愛と寛容と忍耐が豊かな方です。しかし、ユダヤ人はこの神様の愛を悟りませんでした。むしろ、彼らは神様の愛を絶えず無視しました。それは、彼らが、自分たちは神様のさばきを免れると思っていたからです。彼らはかたくなになって、悔い改めない心のゆえに神様の御怒りを蓄えました。

人は、いくら正しく生活をしたとしても、神様の御前では惨めな罪人でしかありません。人が主にあって霊的に成長すればするほど、惨めな罪人であることを悟って悔い改めるようになります。自分が罪人であることを深く知り、更に謙遜になります。自分は節制して、他人には寛大な人が、成熟したクリスチャンです。



祈り:主よ!私が他人をさばかずに、神様の憐れみと寛容を学ぶように、助けてください。

一言:まず、私自身を顧みよう



2023年 02月 24日 (金)

ローマ人への手紙 2:6-16(6)
その人の行いに応じて

ある人たちは、「神様は愛であるのだから、世を裁かれるはずがない。」と思っています。しかし、神様は正しい方です。ですから神様のさばきは徹底しています。神様のさばきには、偏見が起こり得ません。なぜなら、神様は、一人ひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになるからです。苦難があっても、耐え忍んで善を行ない、栄光と誉れと不滅のものを求める人には、永遠のいのちの祝福が与えられます。反面、党派心を持ち、真理の代わりに、不義に従う者には、神様は必ずお怒りになります。悪を行なうようになれば、たましいに安らぎがありません。患難と苦労で苦しめられます。誰かが見ていようと見ていなかろうと善を行なう人は、その内面に栄光と誉れと平和が臨むようになります。これは、ユダヤ人であっても、異邦人であっても、差別はありません。神様は、条件に関係なく、その人の行ないに従って公平にさばかれます(Ⅱコリ5:10)。

 神様のさばきは正しいです。律法なしに、罪を犯した者は、律法に関係なく滅び、律法がありながら、罪を犯した人は、律法に従って、さばきを受けます。律法がない異邦人には、彼らの良心と理性が律法の役割をします。良心が証言し、彼らの考えが、互いに、告発し、弁明するからです。最後には、イエス様がさばき主となり、見えない所で行なった全ての行ないまで、さばかれます。人々は、密かに罪を犯しますが、主がさばかれる日には、その罪が明らかにされ、みな現れるようになります。最後の瞬間に、主の御前に立った時を考え、一日一日を過ごさなければなりません。



祈り:主よ!私が人生を無駄にせずに、正しくさばかれる神様の御前で、日々、真実に生きるように助けてください。

一言:行ないに従ってさばかれる神様



2023年 02月 25日 (土)

ローマ人への手紙 2:17-29(21)
どうして自分自身を教えないのですか

ユダヤ人たちは、律法と形式に捕らわれて、神様を悲しませました。彼らは、目の見えない人の案内人、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自負していました。しかし彼らの実際の生活は、めちゃくちゃでした。彼らは他人を教えましたが、自分自身には教えませんでした。「姦淫するな」と言いながら姦淫し、偶像崇拝を忌み嫌いながら神殿の物をかすめ取りました(22,23)。律法を誇りながら、自分たちは律法に違反しました。彼らは神様の前に、生きませんでした。このような彼らの偽善のために、神様の御名が異邦人たちの中で、汚されるようになりました。信仰生活を長くした人々は、話だけをし、自分自身を教えようとしない傾向にあります。そのようになれば、彼らは幼い信者たちや不信者たちから侮られ、結果的に神様のお名前が侮られるようになります。信者は、まず自ら主に服従し、自分自身を教えることに力を入れなければなりません。

 ユダヤ人たちは、割礼を誇っていました。しかし、割礼のしるしが大切なのではありません。律法を守ることが大切であって、外的な割礼のしるしが救いを保障してくれるのではありません。神様は、体に刻まれている割礼のしるしをご覧にならず、生活の中に刻まれている悔い改めと従順のしるしをご覧になります。私たちが神様の子どもになった、という証しは、私が心から神様を信じ、御言葉を守って行なおうとするところにあります。人が見る目や、世の賞賛や認められることは、無意味なものです。神様が、私をどのようにご覧になり、私をどのように評価されるのか、が本当に大切なことです。それで、私たちは、うわべの形式や人々の称賛に縛られるのではなく、神様に認められ、称賛されることに、力を入れなければなりません。



祈り:主よ、私が、人々に見せるための、うわべの闘争をせずに、内面の闘争ができるように、助けてください。

一言:私自身を、まず教えます


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