聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 04月 23日 (日)

ローマ人への手紙 6:1-14(4)
新しいいのちに歩む者

パウロは、「罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。」と言いました(5:20)。これは、律法によって罪が定められたところに、キリストによる救いが現れ、十字架の贖いによって贖われない罪は無いという意味です。ある人は、この御言葉を基に、「私たちのうちにさらに大きな恵みが増し加わるために、罪をもっと犯したほうがいい」と冗談のように言ったりもします。しかし、私たちクリスチャンは、そのようにはできません。

 それは私たちがキリストと共にバプテスマを受けたからです。バプテスマの霊的な意味はキリストとつながることです(3,4)。私たちクリスチャンは、キリストの死にあずかり、罪の支配を受けた昔の人が死に、キリストの復活にあずかって新しいいのちでよみがえったのです。それで私たちはこれ以上自分を罪の奴隷として引き渡してはいけません。私たちは、私たち自身とその手足を義の器として神様にささげなければなりません(12,13)。

 私たちのからだは、義の器のようです。誰が私たちを用いるかによって、その結果は違って来ます。罪が私たちのからだを治めれば、私たちは不義の器になります。しかし私たち自身を神様にささげれば、義の器になって、神様の栄光を現し、いのちを生かすことに尊く用いられるようになります。私たちは、一度死んで再びよみがえった者のように、私たち自身を神様にささげ、献身しなければなりません。その時、罪はその人を支配できなくなり、その人は美しいいのちの実を結ぶ義の器になります。



祈り:主よ、この死ぬべきからだを新しいいのちに歩む者に変えて下さった神様にささげます。私を義の器として尊く用いて下さい。

一言:私のからだは義の器



2023年 04月 24日 (月)

ローマ人への手紙 6:15-23(16)
罪の奴隷か、義の奴隷か

今、私たちは律法の下にではなく、恵みの下にいます。ところが、私たちは恵みの下にいるのだから、自由に罪を犯して、恵みによって罪の赦しの恵みを受ければ良いのではないか、と考えやすいです。これは、あやまった考え方です。なぜなら、私たちが何に従うかによって、その奴隷になってしまうからです。罪に自分の身をささげて服従すれば、罪の奴隷になります(16)。罪の奴隷になれば、自由を失って、恥ずかしい罪の実を結ぶようになります。結局、死に至るようになります。以前、私たちは罪の奴隷でした。しかし、福音を受け入れ、神さまに心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となりました。新しい身分に変わりました。そして、私たちは、手足を義の奴隷としてささげ、聖潔に進まなければなりません。私たちの手足を義にささげることは、私たちのからだを神様のしもべとしてささげることです。これは、神様の栄光を現すことを人生の目的として、神様の御旨を成し遂げるために、自分の時間と財産と能力をささげることを、指します。このように神様の栄光のために自分をささげれば、私たちは本当の自由と幸福を味わい、霊的に成長し、永遠のいのちに至る霊的な実を結ぶようになります。



祈り:主よ、私が恵みを勝手に使い、罪を犯したことを悔い改めます。これからは自分を義の奴隷としてささげ、聖なる実を結びたいです。聖霊様、助けて下さい。

一言:今日も私の手足を義の奴隷として


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