聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 04月 27日 (木)

ローマ人への手紙 8:1-8(6)
御霊の思い

 肉のうちに流れる悪によって、絶望し嘆いていたパウロは、驚くべき宣言をしました。「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(1)なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、私たちを解放したからです。律法は良いものです。しかし、肉の思いに勝てない人間に対して、律法は、律法を全うする力を与えることはできませんでした。人は、いくら頑張って律法に従おうとしても、罪から自由を得ることはできず、死に至るだけでした。しかし、律法が弱くてできなかったことを、神様がなさいました。神様は、ご自分の御子を罪深い肉と同じ形にして遣わされ、私たちの罪を背負わせました。その結果、キリスト・イエスの中にある者は、罪と死の原理から解放され、いのちの御霊の原理の下に、生きるようになりました。キリスト・イエスの中では、どんな罪人でも、罪に定められることは、決してありません。解放されました。

 このようなことから、私たちは肉の思いではなく、御霊の思いを持たなければなりません。肉の思いとは、人間の善行や資格によって神さまに認められるようにしよう、と考えることです。御霊の思いは、キリストの義と恵みによって自分は神さまに赦され、愛され、認められていると考えることです。肉の思いをする者は死に至ります。肉の思いは、一見すると謙遜なようですが、神様の御心とは敵対しています。それだけではなく、神様の教えを守ることができず、神様を喜ばせることができません。御霊の思いを持つなら、いのちの平安を得ます。私たちは、肉の思いを捨て、御霊の思いを持たなければなりません。



祈り:主よ、御霊の思いを持つことが、なぜ大切であるのかを悟ります。沸き起こる肉の思いを見分け、御霊の思いのほうを選んでいけるように助けてください。

一言:いのちと平安を与える思い



2023年 04月 28日 (金)

ローマ人への手紙 8:9-17(14)
神の御霊に導かれる人

キリストのものとなっている人には、キリストの御霊があります。体は、罪のゆえに死んでいても、キリストの中にあるなら、神様と正しい関係にあるため、霊は生きています。キリストの御霊は、私たちの死ぬべき体をも生かします。外見だけを見るなら、クリスチャンも、ノンクリスチャンも、何の違いも無いように見えます。むしろ、ノンクリスチャンの方が優って見える時があります。しかし、キリストのものとなっている人は、キリストの御霊のゆえに、霊が生きていて、死ぬべき体も生かされています。私のうちに、キリストの御霊があること、これこそが、本当に大きな祝福であり、特権です。

ある者は言うでしょう。「キリストのものとなって罪に定められることがないのなら、適当に罪を犯しても良いのではないか。」しかし、キリストの御霊を持った人は、肉に従って生きません。キリストの御霊の導きを受けるので、からだの行ないを殺します。キリストの御霊を持った人は、これ以上、恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けません。子としてくださる御霊を受けたことで、神様を「アバ、父。」と呼んで、仕えます。罰を受けるのを恐れて、神様に仕えるのではなく、父に対する愛のゆえに、神様に仕えます。昔のように、肉に従って生きることが苦痛に感じられます。そのように生きることが、耐えられません。キリストの御霊は、神様の子どもらしく生きたい願いを与えます。私たちは体のおこないのまま生きるのではなく、キリストの御霊に導かれる人にならなければなりません。



祈り:主よ、私のうちに、キリストの御霊があることが、どんなに大きな特権であり、祝福であるかが分かりました。私が積極的に体のおこないを殺し、御霊に従って生きるように助けてください。

一言:私は、神の御霊に導かれる神の子ども



2023年 04月 29日 (土)

ローマ人への手紙 8:18-30(28)
ともに働いて益となる

 私たちがイエス様を受け入れると、大きな祝福と幸福もありますが、苦難もあります。信仰のゆえに損することもあり、迫害を受けることもあります。まだ救いを受けられない体のために、受ける苦しみもあります(23)。これらの苦難のために、信仰生活を放棄する人、世と妥協して生きているクリスチャンがいます。しかし、今の苦難はしばらくの間だけです。将来、神様は、この世の栄光とは比べられない、完全で、輝かしい神様の御国の栄光をくださいます。

 私達は弱いので、厳しいこの世で果たして信仰を守り通すことができるだろうかと疑いが生じる時があります。しかし、御霊が私たちの弱さを助けてくださいます。私達は、祈ろうとしても、どのように祈ったらよいのか、分からない時がよくあります。また、神様の御心が理解できず、深い絶望を感じ、ため息が出るもあります。しかし、そのような時、私たちは言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる御霊に頼って、続けて祈るべきです。この時、御霊が私たちの代わりに神様の御心のとおりに祈ってくださいます。

 私たちは信仰によって生きていますが、逆境に遭うと、神様の愛を疑い、絶望して、感情のままに生きてしまいがちです。しかし神様は、ご自分を愛する者、神様のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことがともに働いて益となるようにしてくださいます(28)。私たちの人生の断面、断面は、失敗したことのように見えても、神様は全体をご覧になり善を成して行かれます。私たちがこの神様の主権と愛を信じる時、ヨセフのようにどんな逆境の中でも勝利の人生を生きるようになります。神様が私たち一人一人に置かれた御旨は、私たちが御子イエス様のかたちと同じ姿になることです。私たちを知っておられ、定められ、召され、義と認められた神様が、私たちを必ず栄光あるものにしてくださいます。



祈り:主によって、すべてのことがともに働いて益となるとことを信じて、神様が行かれた道を大胆に行けるように助けてください。

一言:主がすべてを益としてくださる



2023年 04月 30日 (日)

ローマ人への手紙 8:31-39(37)
私たちは圧倒的な勝利者です

私たちは、自分が世の苦しみを満足に担うことができずに、もしかしたら、神様に捨てられてしまうのではないか、と不安になる時があります。しかし、使徒パウロは、私たちが受けた救いがどれだけ確実なものであり、安全であるのかを、話しています。全能なる神様が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。誰がつまずかせることができるでしょうか。神様は私たちを愛され、ご自分のひとり子さえも惜しまずに、差し出された方です。このような方が、私に咎があるからと言って、救いと栄光と全ての賜物をくださるのに、惜しむ方でしょうか。

 私たちの罪は、あまりも大きく、告訴された時、何の申し開きもできません。特に、私の罪と咎をよく知っているサタンが私を訴える時、反論する資格がありません。それにも関わらず、誰も私たちを訴えることはできません。なぜなら、私たちを義と認めてくださったのは、まさに裁判長である神様だからです。まして、キリストが神様の右の座に着いて、私たちのためにとりなしていてくださいます。心配する必要がありません。それだけではなく、激しい迫害や辛い環境、霊的などんな存在も、その他のどの被造物であっても、私たちを、神様の愛から引き離すことはできません。私たちの救いが、私たち自身から始まったものであれば、私たちの状態によって、神様の愛から引き離されることはあります。しかし、すでに私たちを知っており、定めて、召してくださった方は神様です。私たちが神様を愛したのではなく、神様が私たちを愛されました。この神様の愛のために、私たちは圧倒的な勝利者になりました。



祈り:主よ、私の弱さと咎のために、落胆した時にも、圧倒的な勝利者であることが確信できるように、助けてください。

一言:私たちを愛してくださった方によって


<<(1)    前のページ(7)    8    次のページ(9)    (16)>>

聖書別日ごとの糧