聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 06月 14日 (水)

ローマ人への手紙9:1-18(8)
約束の子ども

パウロは同じ民族であるユダヤ人から排斥される苦しみを受けていました。それでも、パウロは福音を拒絶した同族に対して悲しみ、彼らを救うことさえできるなら、自分の持っているすべてのものを犠牲にする、という愛と救いの情熱を持っていました。私たちは、救われていない家族と兄弟たちに対して、パウロのような救いの情熱と愛を持っているでしょうか。

 イスラエルは、神様の子として選ばれました。神様は自分の聖なる栄光を彼らに現されました。異邦人が偶像崇拝の奴隷になっていた時も、イスラエルは創造主神様を礼拝し、仕えることができました。また、神様はイスラエルの中でアブラハム、モーセ、ダビデ、ダニエルのような信仰の父祖たちをくださいました。何よりも、キリストがユダヤ人の姿で生まれました。彼らは、イエス様の御言葉を直接聞いて学ぶことが出来ました。しかし、イスラエル人は、神様がくださった祝福を担わないで、むしろキリストを十字架につけて死なせました。パウロは、このような同胞イスラエルを考える時、非常に心が痛くなりました。

神様は、イスラエルを祭司の国とし、彼らを通して人類を救おうとされました。しかし、イスラエルはイエス様を排斥しました。こうなると、イスラエルに置かれた神様の望みが無効になったように見えます。しかし、パウロは、だれが真の意味でイスラエルなのかについて考えました。アブラハムには多くの息子がありましたが、神様はイサクから出る者があなたの子孫と呼ばれると言われました。肉的にアブラハムの子孫だからと言ってイスラエルではありません。神様の約束の子孫であるイサクだけがイスラエルになりえます。私たちが神様の約束を真実に信じる時こそ、アブラハムの真の子孫であり、救いの子孫になりえます。



祈り:主よ、異邦人であった私を選び分け、約束の子としてくださり、感謝します。私にも、パウロのような、主を知らない兄弟姉妹たちに対する熱い牧者の心情を与えてください。

一言:信仰によって約束の子に



2023年 06月 15日 (木)

ローマ人への手紙9:19-33(25)
わたしの民、愛される者

神様が人を頑なにされ、頑なな人を裁かれるなら、神様が間違っているのではないかと、私たちは考えたくなります。しかし、私たちは神様に言い返すことができません。なぜなら、神様は陶器師であられ、私たちは土に過ぎないからです。陶器師は土を持って自由に様々な種類の器を作ることも出来ますし、気にいらない器は壊すことも出来ます。しかし、神様の主権は善です。神様の怒りの器である異邦人を滅亡させないで、長い間耐え忍んで憐れみを施し、神様の子とされます。また、あわれみの器であるイスラエルのなかで残った者たちとさせて下さいます。神様は彼らを通してその栄光を知らせます。神様は絶対主権を持っておられますが、少しも不義を行われません。いつも善たる自分の主権を行われます。

私たちは、救いの問題だけでなく、生活の全ての問題においても、神様の主権を深く受け入れなければなりません。神様の行われることに対して、「どうして私をこのように造ったのか。」と反問する人がいます。神様の主権を認めない心が固い岩となって、つまずきやすくするのです。「神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。」(20)。創造主であられる神様の御前では、自分の主張にこだわるのを止め、主の主権と行いを深く受け入れ、聞き従い、信じて、感謝することが、正しい姿勢です。

神様は、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも、ご自分の民を召してくださいました。神様は、ご自分の民ではない人をご自分の民と呼ばれ、愛されない者を愛する者と呼ばれました(25)。自分が優れているから神様に召され、愛する民になったのではありません。自分が素晴らしいから、イエス様の中に残っているのでもありません。神様によって残されたのです(27,28)。



祈り:主よ、私は滅ぼされるはずの怒りの器でした。でも今は、主の民、主に愛されている者となりました。驚くべき恵みを賛美します。主の深いあわれみと豊かな栄光を知らせる器らしく生きるように助けて下さい。

一言:わたしの民と呼ばれる者


<<(1)    前のページ(8)    9    次のページ(10)    (16)>>

聖書別日ごとの糧