聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 06月 25日 (日)

ローマ人への手紙14:1-12(1)
その意見をさばいてはいけません

 信仰には、本質的な部分と、そうでない部分があります。本質的な部分では、私たちは真理に対して、態度をはっきりとさせておかなければならず、妥協してはいけません。しかし、本質的でない部分においては、理解と寛容の精神を持たなければなりません。信仰生活をしながら、本質的でないことでお互いにさばいてしまうことが、よく起こります。今日の本文にあるように、当時は、食物を食べることと、特定の日を尊ぶことにおいて、兄弟を裁いたり、軽んじたりする問題がありました。私たちは、人によって信仰の水準が互いに違うことを、まず知っておかなければなりません。それで、意見が違うのです。自分の基準と考えだけで、さばいてはいけません。

 さばいてはならない理由は、第一に、神様がその人を受け入れてくださったからです。自分が見た時、心に引っ掛かり、気に入らなくても、神様が受け入れた兄弟であれば、どのようにして彼をさばくことができるでしょうか。他人の使用人を裁くようなものであり、これは自分の身の程をわきまえない越権行為のようなものです。第二に、さばくことは、信仰の最も本質的なことを害することだからです。各自の信仰の水準や考えが、違っていても、私たちはみな主のものです。自分のためではなく、主のために、主の栄光のために、信仰生活をしている人たちです。兄弟をさばくことは、自己満足を追求するようなことであり、神様の栄光を遮る行為です。第三に、私たちはみな、神様のさばきの座に立つことになります。みなが、神様の御前で、各自、自分の人生を決算するのです。むやみに兄弟を裁いたり、軽んじたりしてはなりません。ただ謙遜に自分を顧みることに、力を入れなければなりません。



祈り:主よ、広い心、寛容な心が足りない私をどうかおゆるしください。信仰の弱い人を受け入れ、またその意見を裁くことがないよう助けてください。生きるにしても、死ぬにしても、私は主のものですと告白しながら日々を生きることが出来ますように祈ります。

一言:受け入れなさい



2023年 06月 26日 (月)

ローマ人への手紙14:13-23(13)
兄弟にとってつまずきとなるものを置かない

 クリスチャンは、信仰の中で自由を得ています。しかし、自分の自由が、ある兄弟には、さまたげになることがあります。食物の場合、どの食物であっても、御言葉と祈りによって、きよくなっていることを信じ、感謝することで食べることができます。しかし、ある食物を汚れた物として考える兄弟には、それはつまずきとなります。自分の信仰では、食べることができますが、それが兄弟をつまずかせるのであれば、食べてはいけません。主が身代わりとなって死んでくださった兄弟を、食物のことで滅ぼしてはなりません。ちょっと食物が食べられないからと言って、それが一体何になるでしょうか。神様の御国は、飲み食いする為にあるのではなく、ただ、聖霊の中で、義と平和と喜びを分かちあうことにあります。食べないこともあるし、飲まないこともあるし、兄弟をつまずかせないためなら、それをしないことは良いことです。全てのものはみな聖いのですが、もし、信仰が弱い兄弟にとってつまずきとなるのに食べるなら、それはその人の罪となります。信仰によって、行わなかったからです。

 自分に信仰があって、自由があるからと言っても、自分の行いがほかの兄弟にとってさまたげとなったり、つまずきになったりしないか、注意しなければなりません。自分は信仰があるからといって、むやみに行動してはいけません。弱い兄弟を配慮しなければなりません。何としても和解をはかり、お互いの信仰を建て上げることに、力を入れなければなりません。このような姿勢で主に仕える者が、神様を喜ばせ、人からも称賛されます。



祈り:父なる神様。私に福音の真理の土台に立ちながら、信仰の弱い兄弟姉妹を受け入れる寛容な心を与えてください。開かれた心をもって互いに受け入れる教会になるよう祈ります。

一言:信仰が弱い兄弟を配慮しよう


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