聖書別日ごとの糧   >>   出エジプト記[2015]

2015年 09月 04日 (金)

出エジプト記3:1-12
モーセを召された神様

Ⅰ.あなたの足のくつを脱げ(1-5)
 イスラエルの民は、苦役によってうめき、わめきました。神様は、彼らの苦しみの声を聞かれ、アブラハムとイサクとヤコブとの契約を思い起こされて、彼らをご覧になりました(2:23-25)。そして、四十年間、荒野訓練を受けていたモーセを、柴の中から呼ばれました(4)。神様は彼を召された時、「あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」と命じられました(5)。モーセは、自分が立った地が、絶望と挫折の地、呪いの地だと思いました。しかし、神様は、そこでモーセを召され、その地が聖なる地なので、あなたの足の靴を脱げと言われました。自分がどんな状況に処せられても、このように神様がご臨在され、召されがある所は、聖なる地です。それで現状を嘆き、恨むのではなく、私たちを召してくださる神様の御声を聞き、恐れ敬う姿勢で、聖なる神様の御前に、立たなければなりません。
Ⅱ.わたしはあなたをパロのもとに遣わそう(6-12)
 モーセが、足のくつを脱いだ時、神様は彼に使命をお与えになりました。それは、神様が下って行って、イスラエル人をエジプトから連れ出し、乳と蜜の流れるカナン人の地に導こうとされるからです。神様は、そのために、モーセをパロのところに遣わそうとされました。モーセは、四十年前とは違い、血気がおさまり、謙遜になりました(11)。神様は、このような彼と共におられる、と約束してくださいました。(12)。

祈り:主よ!運命と絶望の中で、絶望していた私を召させ、日本の福音化と世界宣教のビジョンと、使命をくださり感謝します。

一言:私が立った地は聖なる所



2015年 09月 05日 (土)

出エジプト記3:13-22
わたしはある

Ⅰ.わたしは、「わたしはある。」という者である(13-16)
 モーセは、使命を抱いてパロのところに行けと、言われる神様に、その御名を尋ねました。その時、神様はお答えになりました。「わたしは、『わたしはある。』という者である(I am who I am)」。では、これはどんな意味があるのでしょうか。
 第一に、神様はみずからおられる方です。神様は、何か別のものによって存在するようになったのではなく、全てのものを存在させる「第一原因者」、すなわち、創造主です。この神様は、いつも生きておられる方として、昨日もおられ、今日もおられ、永遠におられる方です。
 第二に、父祖の神様です。神様は、ご自分が、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主」と言われました。これが、神様の永遠の名であり、代々にわたっての呼び名です。この神様は、歴史の中で、生きて働いておられる方であり、人格的な個々人の神様です。この神様が、モーセの神様であり、また、私の神様です。
Ⅱ.強い御手で打った後に行かせよう(17-22)
 「わたしはある」と言われた神様が、モーセを民たちのところに遣わして、彼らを乳と蜜の流れるカナンの地に導こうとされました。そのために、強い御手でパロを打ち、あらゆる不思議で打とう、と言われました(19,20)。こうしたあとで、パロが去らせるので、その時、民たちはエジプト人の持ち物をはぎ取って、エジプトから出るように、と言われました。パロは強い勢力を持っていますが、神様はもっと強い力を持っておられます。

祈り:主よ!私が、「わたしはある」と言われた神様の御前で、生きることができなかった罪を悔い改めます。この神様の御前に、恐れおののいて生きるように、助けてください。

一言:みずからおられる方、主なる神様


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