聖書別日ごとの糧   >>   民数記[2005]

2005年 09月 27日 (火)

民数記11:1-15
牧者モーセの苦しみ


Ⅰ.不平を鳴らし、欲望にかられた民(1-9)

 民が悪いことばで不平を鳴らしました。彼らは過去事ある毎にエジプト人を恨んだように、神様とモーセを恨みました。恨みが口ぐせになっていました。それで、主は主の火で宿営の端をなめ尽くすようにされました。イスラエルは激しい欲望を抱いていました。今の生活に感謝せずに、エジプトで食べていた食物を懐かしく思い、不平を言い、泣きました。今の霊的な祝福より、昔食べた魚やにんにくなどがもっと大きく見えました。民たちはまだ食べる問題を乗り越えることができませんでした。

Ⅱ.苦しむモーセ(10-15)

 イスラエルは出エジプトをして、外的には自由を得ました。しかし内面的には奴隷の状態のままでした。イスラエルは食べる問題で不満を言い、不平を鳴らしました。そのような彼らによって牧者モーセは苦痛を受けました。モーセにとってこのような民を担うことは大きな重荷でした。そのような民を背負わせた神様が腹立たしく思いました。モーセは牧者として自分の限界にぶつかりました(13,14)。彼は死にたいと思いました。不満をもらす民が負担になりました。モーセは牧者としての責任感と自分の無力さの間で苦しみました。民を愛しただけに裏切られたとさえ思ったかも知れません。それでその重荷から逃れたいと思いました。しかし召されのために、そうすることができませんでした。彼は神様に進み出て自分の心と苦しみを正直に話しました。


祈り:主よ!私たちが不平と貪欲を悔い改めます。私が兄弟のために苦しくどうしようもなく思う時に、神様に全ての苦しみを話します。

一言:苦しい時、祈りなさい



2005年 09月 28日 (水)

民数記11:16-23
主の手は短いのだろうか


Ⅰ.七十人の同労者たち(16,17)

 モーセは一人で全ての民を背負って、担おうとして疲れ果てました。神様はモーセに七十人の長老を立てるように、命じられました。神様は彼らにも御霊をくださり、モーセと共に民の重荷を担うようにされました。今モーセはさらに大きな重荷を担うことができ、最後まで民たちを担うことができました。共に働くことは、一人で働くことより自分に与えられる栄光は少ないですが、それが神様の知恵なのです。自分の能力に対する過信や自分の栄光に対する執着心から、一人で全てのことを担おうとするなら、結局は倒れてしまいます。

Ⅱ.主の手は短いのだろうか(18-23)

 イスラエルは肉を食べたいと言い、モーセはどうすることもできませんでした。モーセは祈りました。神様はモーセを助けてくださいました。神様は不満をもらし泣く民たちにそれほどまでに食べたいと思う肉を与えると言われました。それも一日や二日、五日だけではなく、鼻から出て来て、吐き気を催すほどに一ヶ月の間与えると言われました。モーセはその言葉が信じられませんでした。どんな方法で、一ヶ月もの間肉を与えることができるのか、疑いが生じました。しかし神様は言われました。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」主の手は短くはありません。神様はその御言葉の通りに行なうことができるのです。神様は全能なる方です。


祈り:主よ!私が同労者と共に働きます。主の手が短くないことを信じます。御言葉の通りに行なわれることを信じます。

一言:主の手は短いのだろうか



2005年 09月 29日 (木)

民数記11:24-35
欲望の結末


Ⅰ.独占欲がないモーセ(26-30)

 エルダデとメダデが天幕にて行われたリーダー会に参加しませんでした。ところが神様は彼らにも聖霊を注がれ、預言するようにされました。この知らせを聞いたヨシュアはひどく驚いて言いました。「わが主、モーセよ。彼らをやめさせてください。」しかしモーセはやめさせませんでした。「あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。主の民がみな、預言者となればよいのに。主が彼らの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。」モーセは自分だけが預言者になるべきだという独占欲がありませんでした。誰でも霊的な預言者になることができると信じました。この地の指導者たちもモーセのような寛大さを学ぶ時、聖霊で満たされるほどの聖書の先生を多く育てることができるのです。

Ⅱ.キブロテ・ハタアワ(31-35)

 神様を信じない人々の最も大きな問題は欲望です。いくら所有しても満足を知りません。欲望(貪欲)は偶像崇拝の罪です(コロ3:5)。欲望の結末は何でしょうか。神様は人間が想像できない方法で肉を用意してくださいました(31)。民たちは夢中でうずらを集め、自分たちのために宿営の回りに広く広げました。ところが彼らがその肉をまだかまないうちに神様が彼らを打たれました。それでキブロテ・ハタアワ、すなわち欲望の墓場という新しい地名が生じました。欲望の結末は死であり、墓場です。欲望があるところに墓場が生じます。欲望にかられると、自ら墓穴を掘るのです。私たちは欲望でかき集めることより、むしろ持っているものを惜しみなく、施さなければなりません。


祈り:主よ!モーセの寛大さを学びます。この国の指導者と民が欲望を捨てて、与える生活を熱心に行なうようにしてください。

一言:欲望の結末は墓場


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