聖書別日ごとの糧   >>   士師記[2024]

2024年 04月 01日 (月)

士師記19:1-30(1)
イスラエルに王がいなかった時代

 19章の出来事は士師の時代がどれほど霊的に暗い時代であったかを物語っています。「イスラエルに王がなかった時代」という言葉は、イスラエルの民が絶対的な基準を持つことなく、無法状態で暮らしていたということです。今日の本文にはエフライム山地に住む一人のレビ人が出てきます。このレビ人はベツレヘムの実家に戻ってしまったそばめを連れ戻そうと出かけ、その帰りにベニヤミン族の町ギブアに泊まりました。すると、町のよこしまな男たちが家を取り囲み、「あの男を知りたい」と戸をたたき続けました。彼らは同性愛者でした。老人の説得も虚しく決裂し、レビ人は自分のそばめを代わりに差し出しました。そばめは夜通し暴行を受けた果てに、死んでしまいました。翌朝、レビ人は彼女をろばに乗せ自分の家に帰りました。彼女を弔うことをせず、その肢体を十二の部分に切り分けて、イスラエルの国中に送りつけて復讐を企みました。

 中東文化では昔から、旅人をもてなすことを大切に重んじていました。ところが、ギブアのベニヤミン族は、同族である旅人を性的な快楽の対象としか考えませんでした。そもそもなぜレビ人はそばめを放したのでしょうか。そばめが逃げた理由もこのレビ人にある残忍さのせいではないでしょうか。キブアの堕落は大きな罪です。しかし、レビ人も非常に自分勝手でした。

 士師の時代の無秩序さは現代に通じるところがあります。めいめいが自分の好きなことをし、自分の正義をかざし、被害を受ければ復讐をする。自分勝手な正義と復讐は、現代の社会に通じることではないでしょうか。だからこそ、王であるイエス様に私たちは頼るのです。イエス様なしには、自分勝手な言動を繰り返すしかないことを認め、祈る中で、自分の罪と咎を主に照らして頂き、悔い改め、主の血潮のゆるしときよめを受け取っていくことが大切です。



祈り:私も被害を受ければ自分が正義と感じ、自分の好き勝手にしている者です。しかし、本当に正しく統治される方を抜きにして生きていることを主あなたに改めていただくように祈ります。

一言:王であるキリストにならう


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