聖書別日ごとの糧   >>   歴代誌Ⅰ[2019]

2019年 06月 07日 (金)

歴代誌第一21:1-17 (15)
ダビデの罪と神様の哀れみ

 この箇所では、ダビデの人口調査の強行とその結果、そして神の哀れみについて記されています。ダビデは、王国の最南端から最北端までの人口調査を計画します。人口調査そのものは、民数記でも行われているように、罪ではありません。しかし、ダビデによる人口調査は、「サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで」(1)行われたものです。なぜ人口調査がダビデの罪になるのでしょうか。それは2-3節のダビデとヨアブの対話から考えてみると、ダビデが神に信頼することよりも、自らの力、数の力に頼ろうとしていたことがうかがえます。主に信頼するよりも、自分の力に頼り、ダビデは部下の誠実な進言に耳を傾けず、頑固に自分の主張を押し通したのです。聖書は、「立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい」(Ⅰコリ10:12)と言っています。ダビデが戦いに勝利した成功者として、自らの力を過信し、人口調査によって数の力を誇ろうとした時、彼は「神のみこころをそこなった」(7)のです。それで、民に三日間の疫病が下されて七万人が死にました(14)。この光景をご覧になっていた神様は、思い直して災いを止められました。ここに神様の愛と哀れみがよく現れています。このように、神である主は、心砕かれてへりくだった人の心、悔いた心を哀れむお方です(詩篇51:17,イザ57:15)。
 ダビデは、自分の罪のせいで多くの民が死んだことに心を痛めて、主にこう叫びました。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください」(17)。彼のことばと行いは、イスラエルの民に大きな影響を与えました。だから、私たちは主だけに寄り頼み、常に高慢と頑固の心を悔い改めましょう。


適用 :私の勝利はどこから来たものでしょうか

一言:ただ神である主の哀れみと恵みによって



2019年 06月 08日 (土)

歴代誌第一21:18-22:1 (28)
オルナンの打ち場

主の使いは、先見者ガドを通して、ダビデに、「エブス人オルナンの打ち場に、主のために祭壇を築かなければならない」と命じました(18)。「打ち場」とは、ヘブル語で「ゴーレン」ですが、穀物を打穀して実を収穫するところを意味します。エブス人オルナンの打ち場は、アブラハムがイサクをいけにえとしてささげた所であり、ダビデの意思を継いでソロモン王が神殿を建てた所でもあります(Ⅱ歴代誌3:1)。ダビデは十分な金額((the full price)を払って、その打ち場を買い取りました。それは、後になって主にささげたその地所が、少しでもトラブルに巻き込まれることがないようにしたかったからです。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげました。すると、主はそれを通してダビデの罪のゆえに壊れかけていた関係を回復させ、ダビデに対するさばきの剣をもさやに納められたのです。そこで、ダビデはこの場所こそ、神である主の宮であり、イスラエルの全焼のいけにえの祭壇であると、告白したわけです。また、ダビデはここに自分の子ソロモンを通して主の宮を建てさせたのです。これを見ますと、神殿とはどういう所なのかが分かります。神殿は、罪を犯したゆえ神様を恐れている者に、主が先に訪れて来て、赦しの御恵みと哀れみを与えられる所です。また、神殿は神に贖罪のいけにえをささげる場所でもあり、神との関係性を回復して頂く場所でもあるのです。
 主イエス・キリストは、まことの神殿となられます。主は十字架の上でご自分の肉体をささげ物とし、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげたのです。これによって、私たちは神の子としての身分が回復されました。ダビデが神の赦しを体験したオルナンの打ち場(ソロモンの神殿)も、私たちに神の御恵みを体験させた主イエス・キリスト(霊的な神殿)も、神の素晴らしい、超越的な愛を示してくれています。ここで私たちは神からの赦しをいただくのです。


適用:罪によって倒れそうになる時、どこに行けば良いですか

一言:恵みと赦しの地所


<<(1)    前のページ(16)    17    次のページ(18)    (25)>>

聖書別日ごとの糧