聖書別日ごとの糧   >>   マタイ[2015]

2015年 05月 20日 (水)

マタイ10:16-23
蛇のようにさとく、鳩のようにすなおに

Ⅰ.蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい(16)
 福音伝道のために、弟子たちを世に遣わせながら、イエス様は、まるで狼の中に羊を送りだすような心情でした。それでも、イエス様が弟子たちを遣わすのは、弟子たちを懐で育てることより、強い者として育てるためであり、また、弱い弟子たちであっても、遣わさなければならないほど、福音伝道が緊急性を要するからです。イエス様は世に出る弟子たちに、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい、と言われました。世は、悪くずる賢いサタンの支配下にあります。このような世の中で、福音を伝え、救いの御業を成し遂げるためには、蛇のような賢さがなければなりません。しかし、さとくなければならないからと言って、不義を行なってはいけません。福音の働き人は、鳩のようにすなおでなければなりません。すると、御霊が共におられ、サタンの働きに打ち勝つ力と知恵をくださいます。
Ⅱ.最後まで耐え忍びなさい(17-23)
 イエス様は、弟子たちが福音を伝える時、世の権力者たちに連れて行かれ、迫害を受けるようになる、と言われました。その時、弟子たちは、それがむしろ彼らに福音を伝える機会だと思い、積極的に福音を伝えなければなりません。何を離そうかと心配するには及びません。聖霊が話すべきことを示してくださいます。弟子たちはまた、愛する家族から捨てられ、全ての人々から憎まれるようになります。しかし妥協せずに、最後まで耐え忍ばなければなりません。すると、主は救ってくださいます(23)。

祈り:主よ!私をも遣わして、福音を伝えようとする主の御心を受け入れます。この使命を担うように、信仰と忍耐をください。

一言:最後まで、耐え忍ぶ者



2015年 05月 21日 (木)

マタイ10:24-33
彼らを恐れてはならない

Ⅰ.彼らを恐れてはならない(24-31)
 宗教指導者たちはイエス様をベルゼブルと呼んで、迫害しました。先生であるイエス様が、このような誤解と迫害を受けるので、弟子たちが迫害を受けるのは当然のことです(26)。しかし、イエス様は、彼らを恐れてはならない、と言われました(31)。彼らは、私たちの体は殺すことができるかも知れませんが、私たちのたましいを殺すことはできないからです。私たちの体とたましいをゲヘナで滅ぼすことのできる方は、神様だけです。それで、私たちが恐れるのは、人ではなく、神様です。私たちが神様を恐れるなら、恐れる者は誰もいません。一羽の雀も、神様の許しがなければ、地に落ちて来ません。私たちのいのちと将来は、神様の摂理の中にあります。神様は、私たちの頭の毛の数を知っているほどに、私たちを惜しまれます。神様がお許しにならなければ、誰も私の頭の毛1本でさえ、損なうことはできません。私たちがこの神様を信じる時、大胆に福音を伝えることができます。
Ⅱ.人の前でわたしを知らないと言うなら(32,33)
 私たちが恐れに打ち勝ち、人の前でイエス様を認めるなら、イエス様も、神様の御前で私たちを認めてくださいます。しかし恐れのために、人の前でイエス様を知らないと言うなら、イエス様も、神様の御前で私たちを知らないと言われます。苦難と患難があっても、イエス様に対する信仰を守ることで、永遠の勝利と祝福にあずかるべきでしょうか。

祈り:主よ!私が恐れなければならない方は、神様だけです。私がただ、主の命令に従って、大胆に福音を伝えます。

一言:あなたは頭の毛の数さえも数えられている



2015年 05月 22日 (金)

マタイ10:34-42
剣をもたらすために来られたイエス様

Ⅰ.剣をもたらすために来られたイエス様(34-39)
 イエス様は地に平和をもたらすために来られたのではなく、「剣をもたらすために来た」と言われました(34)。私たちが、福音の真理に従って生き、福音を伝えようとすると、私たちが望んでいるわけではないのに、家族と親せき、両親との摩擦と不和が生じます。他の人はどうであっても、家族が最も理解し、助けてくれるように思いますが、実は、彼らが最も大きな敵になります(36)。愛する人々との不和は、心を痛くします。サタンはこれを利用して、私たちに、イエス様に対する疑いと福音に対する疑いを抱かせるように、します。勿論、私たちが福音を捨てれば、家族と和解することができます。しかし、イエス様は平和ではなく、剣をもたらすために来られました。この痛みを担えない人は、イエス様にふさわしい者ではありません(37)。また、自分の十字架を負って、イエス様について来ない者も、イエス様にふさわしい者ではありません(38)。イエス様について行こうと思うなら、自分の夢と計画を放棄して、さらには、いのちまで失う覚悟をしなければなりません。しかし、イエス様のために、いのちを失うなら、むしろ、いのちを得るようになります(39)。いのちを失わないように努力をして、いのちを浪費せず、イエス様のために、貴く用いられるからです。
Ⅱ.決して報いに漏れることがない人々(40-42)
 イエス様のために、生きることは漠然としたことではありません。一人の小さい人を、イエス様のように貴く思い、一杯の冷たい水でも飲ませることです。このような人は、必ず報いを受けるようになります。

祈り:主よ!私のいのちを、主と福音のために捧げることで、貴いいのちを浪費せずに、用いられることを願い求めます。助けてください。

一言:自分のいのちを失う者は得る


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