聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2016]

2016年 01月 21日 (木)

マルコ2:1-12
罪を赦す権威を持っておられるイエス様

1.あなたの罪は赦されました(1-5)
 イエス様が家におられることが知れ渡ると、多くの人々がその家に集まって来ました。それによって、戸口のところまですきまもないほどになりました。ところが、そこに、ひとりの中風の人が四人の人にかつがれて、来ました。当時、中風はツァラアトのように不治の病であり、罪に対する罰と考えられていました。彼がイエス様のところに出て行きましたが、多くの人々のため、イエス様の御前に出ることができませんでした。しかし、彼らは放棄しませんでした。彼らは屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろしました(4)。人の目から見ると、彼らの行ないは非常識なことでした。しかし、イエス様は彼らの信仰をご覧になりました。そして彼に言われました。「子よ。あなたの罪は赦されました。」(5)。当時、多くの人々は、イエス様を病を癒す方だと考えていましたが、彼らは、イエス様が罪を赦すために上から来られたキリストであること、を信じていました。イエス様は、信仰によって出て来る者はだれでも、全ての罪を赦してくださいます。
2.起きなさい、寝床をたたんで、家に帰りなさい(6-12)
 そこにいた律法学者たちは、心の中でイエス様を非難しました(7)。イエス様は、このような彼らに、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを知らせるために、まだ寝床に横たわっている中風の人に言われました。「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい。」(11)。すると、彼はすぐに起き上がり、床を取り上げて、群衆の間をすりぬけて、出て行きました。人が罪の赦しを受ける時、その生活は変えられ、力ある人生を生きることができます。

祈り:主よ!私が日々、信仰によって主に出て行き、罪の赦しの恵みを受けて、力ある人生を生きるように、助けてください。

一言:罪を赦す権威



2016年 01月 22日 (金)

マルコ2:13-17
罪人を招くために来られたイエス様

1.わたしについて来なさい(13,14)
 イエス様は道を通りながら、取税人レビが収税所に座っているのを、ご覧になりました。当時、取税人は同族から、決められたものより多くの税金を取って、着服していました。人々は、取税人の不正と悪辣な行動を知っていましたが、ローマ政府の権力のために、どうすることもできませんでした。人々は、彼に後ろ指を指して、相手にもしませんでした。しかし、イエス様はこのようなレビに言われました。「わたしについて来なさい。」イエス様がご覧になる時、レビが罪に落ちたのは、お金について行ったからです。人生の方向が間違っていました。イエス様は、レビがご自分について行くことで、彼の人生の方向を正しく修正してくださいました。イエス様がレビを弟子として立てるなら、多くの非難を受けることでしょう。しかし、イエス様は彼を弟子として召し、育てることで、彼を聖マタイに変えてくださいました。
2.わたしは罪人を招くために来たのです(15-17)
 レビは、イエス様のために、自分の家で宴会を開いて、彼の同僚である取税人と多くの人々を招きました(15)。パリサイ人と律法学者たちは、彼らと共におられるイエス様を、非難しました。このような彼らにイエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」イエス様にとって、罪人は殺す相手ではなく、病人でした。そして、その病が癒されれば、彼らの生活が健全になり、彼らの可能性が生かされると、考えておられました。

祈り:主よ!罪によって病んだ私を赦し、弟子として召してくださり感謝します。私が全ての物を捨てて、イエス様について行けるように、助けてください。

一言:イエス様について行きます



2016年 01月 23日 (土)

マルコ2:18-28
安息日の主であるイエス様

1.花婿であるイエス様(18-22)
 パリサイ人たちが、断食の問題で、イエス様に難癖をつけました。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食をするのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」(18)。イエス様は、このような彼らに、言われました。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。」(19)。
 旧約聖書では、来るべきキリストを、花婿としてたとえる御言葉があります。イエス様は、この御言葉を通して、ご自分がキリストであることを明らかにされました。そして、信仰生活は、断食のような苦行ではなく、披露宴のような楽しく、喜びの生活であることを教えてくださいました。
2.人の子は安息日にも主です(23-28)
 弟子たちが、安息日に麦畑の中を通って行き、穂を摘んでは食べていました。ところが、彼らの後について行って、監視していたパリサイ人たちが、それを見て、「安息日に仕事をした。」と言いがかりをつけました(24)。
 その時、イエス様はダビデの例を上げて、律法の基本精神を教えてくださいました。安息日が人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではありません(27)。神様が律法をお与えになったのは、人の命と尊厳を守り、幸せな生活を送らせるためです。
 それだけではなく、イエス様は安息日の主です。安息日は、イエス様を中心に迎え、心と体が安らぎを得る日です。

祈り:主よ!私が律法に縛られて、堅苦しい信仰をせずに、愛であるイエス様を心の中心にお迎えして、喜びと安らぎを得るように助けてください。

一言:イエス様の中で、喜びと安らぎを


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