聖書別日ごとの糧   >>   マルコ[2022]

2022年 05月 11日 (水)

マルコの福音書10:1-16(9)
人が引き離してはなりません

 パリサイ人たちは、イエス様を試みるために、質問を投げかけました。「夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか」(2)。彼らの質問から、当時の女性たちは物のように扱われていたことがうかがえます。パリサイ人たちは、イエス様が離縁してはならないと言われたら、モーセの律法に反していると非難しようとしました。もしくは、離縁するように言われたら、女性を蔑視していると非難しようと待ち構えていました。彼らの意図を察したイエス様は「モーセはあなたがたに何と命じているか」(3)と尋ねられました。彼らは離縁状を書いて妻を離縁することを許したと答えました。イエス様は、モーセがこの戒めを書いたのは彼らの心が頑なだからと説明されました。モーセがそのような律法を与えた目的は、理由もなく理不尽に捨てられる女性たちを守るためでした。実際に、この律法を悪用するユダヤの男性たちは多くいました。様々な理由をつけて離縁し、別の女性を妻にしていました。

 イエス様は、結婚の在り方について教えられます。結婚とは、創造の初めに男と女を造られた神様が、人間の幸福のために設けられた制度です。それぞれが父と母を離れ、一体となって行く過程なのです。それゆえ、神様が結婚制度を造られ、二人を結び合わせたので人が引き離すことはできません。離縁は結婚を造られた神様の御心に反する罪です。イエス様は、パリサイ人たちが創造の初めに造られた結婚観を持つことを望んでおられました。

 今日、離婚が増えてきているのは、イエス様の教えに基づいた結婚観を持って結婚しないからです。真理に基づいてではなく、欲望に従って簡単に結婚するので、簡単に離婚してしまいます。結婚というのは、神様が結び合わせてくださったものであり、人格の異なる二人が神様の愛の中で一体となって行く過程であることが分かれば、幸せな家庭を築き上げることができます。



適用:聖書的結婚観を持っていますか

一言:ふたりではなく一体



2022年 05月 12日 (木)

マルコの福音書10:17-31(21)
永遠のいのちを受け継ぐためには

 一人の人が御前にひざまずいてイエス様に尋ねました。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか」(17)。彼はイエス様を良い先生と呼びました。彼がこのように呼んだのは、良いことをたくさん行えば永遠のいのちを勝ち取ることができると思っていたからでしょう。イエス様は彼に戒めについて語られました。彼は少年の頃からそれらすべての戒めを守ってきたと答えました。彼は善良で、戒めを良く守り、高い地位と富を極めたこの世で成功した者でした。しかし、彼には永遠のいのちがありませんでした。イエス様は彼を見つめ、いつくしんで言われました。「あなたに欠けていることが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい」(21)。

 イエス様のお言葉を聞いた彼は、顔を曇らせて悲しみながらイエス様から立ち去って行きました。イエス様に従おうとした時、彼の持っていた多くの財産が妨げとなりました。イエス様は周囲を見回して、弟子たちに言われました。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう」(23)。弟子たちはイエス様のお言葉に驚きました。なぜなら、富は神様からの祝福だと見なされていたからです。イエス様は、金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいと言われます。弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われることができるでしょう」といぶかしがりました。イエス様は、「それは、人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです」と言われました。神様の恵みによって、妨げとなる財産を売り払って、イエス様に従う人には永遠のいのちが与えられます。



適用:富の欲を捨てましたか

一言:イエス様に従いなさい



2022年 05月 13日 (金)

マルコの福音書10:32-45(45)
仕えられるためではなく仕えるために

 イエス様はエルサレムに上る途上で、これから起こるご自分の死と復活について話されました。そこで、ヤコブとヨハネがイエス様のところに来てお願いしました。「あなたが栄光をお受けになるとき、一人があなたの右に、もう一人が左に座るようにしてください」(37)。彼らは、イエス様がエルサレムに上ると、ダビデ王国を受け継いだ輝かしいメシヤ王国の王座に着かれると誤解していました。その際にイエス様の右と左に座る栄光をつかみたいと思っていました。イエス様は二人の弟子に「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません」(38)と言われました。実は、イエス様がエルサレムに上って十字架にかかられる時、イエス様の右と左には二人の十字架にかけられた強盗がいることになるのです。そんな、彼らが予想だにしないことが起ころうとしていたのに、彼らは、どうしたら栄光の座に着けるかばかりを考えていました。ほかの十人はこれを聞いて、ヤコブとヨハネに腹を立てました。ほかの弟子たちも同じように、栄光の座を欲しがっていたことが分かります。

 弟子たちはイエス様に従っていましたが、心の中は、権力を追い求める世の人々と何ら変わりがありませんでした。イエス様は、彼らには、横柄に権力をふるうような者になってほしくありませんでした。この世では、高い地位に着いて指示する人が偉い人だと見なされています。ところが、イエス様はしもべのように低くなって皆に仕える者が偉い人だと言われます。弟子たちにこの真理を教えるために、自ら模範を示されました。イエス様は神の御子なので仕えられるべきお方です。しかし、仕えられたい心を捨て、代わりに、積極的に進んで仕えることを心掛けられました。そのために、限りなく低くなられ、すべてを捨てられました。ご自分のいのちを多くの人の罪の贖いのために捨てられました。仕えるためにこの世に来られたイエス様の生涯は偉大です。神の国で偉い人は、高い地位に着いている人ではなく、低くなって仕える人です。



適用:偉くなりたいですか

一言:仕える者になりなさい



2022年 05月 14日 (土)

マルコの福音書10:46-52(48)
私をあわれんでください

 イエス様と弟子たちがエリコを出て行かれると、多くの群衆が集まって来ました。そこに、ティマイの子のバルティマイという目の見えない、しかも、物乞いをしている人が道端に座っていました。彼はそこを通る方がナザレのイエス様だと聞くと、叫び始めました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」(47)。彼はイエス様をダビデの子、即ち、メシヤだと信じていました。メシヤが来られると、自分のような目の見えない人の目が開かれると信じていました。そして、待っていましたといわんばかりに叫び始めました。周りにいた多くの人たちは、彼を黙らせようとたしなめました。彼は人々の反対や無視する視線にめげることなく、ますます大きな声で叫びました。

 彼の叫び声を聞いたイエス様は立ち止まって、彼を呼んで来るように言われました。彼は上着を脱ぎ棄てて、躍り上がってイエス様の所に行きました。イエス様は彼に尋ねられました。「わたしに何をしてほしいのですか」。彼は「先生、目が見えるようにしてください」(51)。と答えました。彼には目が見えるようになりたいという切実な願いがありました。イエス様は彼の返事を聞いて、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救いました」(52)と言われました。すると、彼はすぐに見えるようになって、そのまま道を進むイエス様について行きました。

 イエス様に癒してもらった目の見えない人の信仰は、どんな信仰でしょうか。彼はイエス様が約束されたメシヤであることを信じていました。また、イエス様は自分の目を癒すことができると信じていました。このような信仰があったので、困難や壁があってもイエス様に叫び続けることができました。イエス様は信じて叫ぶ祈りに目を留められ、彼の目を癒してくださいました。



適用:切実な祈りの課題がありますか

一言:ますます叫んで


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