聖書別日ごとの糧   >>   ルカ[2007]

2007年 04月 14日 (土)

ルカ10:1-16
七十人を遣わされたイエス様

Ⅰ.収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい(1-3)
 イエス様が七十人を遣わされたのは、実りは多いが働き手が少ないことを残念に思われたからです。残念に思われるあまり、イエス様はまだ幼い羊のような彼らでも険しい世の中に遣わそうとされます(3)。イエス様は彼らを送りながら、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい、と言われました。
 私たちは、イエス様によって遣わされる時、おぼつかず、幼いために難しいと考えます。しかし世に向けられたイエス様の切なる思いを考える時、足りない小さな国であっても出て行かなければならないことを悟るようになります。
Ⅱ.神の国が近づいた(4-16)
 福音の働き人は人や財布に頼ってはいけません。宿所や食べ物を心配して、あちこち移動したり、あの人この人と訪問して行く人は主のしもべらしくありません。神様も、働き人が報酬を受けなければならないことは、知っておられます。それで神様がその働き人に必要なものを施してくださいます。
 また、福音のしもべたちは教養講座を開くことより、天の御国の福音を伝えなければなりません。そしてこの福音を受け入れる者はいのちを得、拒む者には神様のさばきが臨むことを、警告しなければなりません(11-16)。

祈り:主よ!主の働き人が足りないことを悟ります。私のように足りない幼い者であっても用いてください。

一言:収穫のための働き人を遣わしてください



2007年 04月 15日 (日)

ルカ10:17-24
ただあなたがたの名が

 伝道旅行を終えて来た弟子たちはイエス様を交えての報告会を開きました。彼らは大きなことを成し遂げたことで喜びに花を咲かせました。しかしイエス様は彼らが本当に喜ぶべきことは何であるのかを教えてくださいました。
Ⅰ.弟子たちが喜ばなければならないこと(17-20)
 弟子たちが喜んだのは、悪霊どもでさえ彼らに服従したのを、見たからです。しかしイエス様はそのようなことで有頂天になってはならないと言われます。イエス様は、そのような時にその権威をお授けになったイエス様を仰ぎ見て、信仰を学ぶことを願われました(19)。それだけではなく、彼らが事業的な成果で喜びを探すことより、神様の恵みで救いを得て、天のいのちの書にその名が書き記されていることを喜びなさい、と言われました(20)。
 罪ととがによって死んだ私たちが神様の恵みで救いを受け、永遠のいのちを得たことに比べれば、事業的な成果はとるに足りないものです。
Ⅱ.イエス様が喜ばれること(21-24)
 イエス様は弟子たちから伝道旅行の報告を聞き、聖霊によって喜ばれました(21)。イエス様はなぜこのように喜ばれたのでしょうか。幼子のように単純で、学ぼうとする心を持った弟子たちが神様の秘密を悟り、神様を知る目が開かれたからです。それが神様の御旨でした(22)。イエス様には、神様の御旨がこの地に成し遂げられ、弟子たちが霊的に成長することほど、大きな喜びはありませんでした。

祈り:主よ!それまで私に喜びがなかったのは事業的な考えにだけ陥っていたからだと悟りました。私の喜びが、もっと霊的で、主を学ぶところからくるように祈ります。

一言:いのちの書に記されている名前



2007年 04月 16日 (月)

ルカ10:25-37
何をしたら永遠のいのちを得るのか

Ⅰ.それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます(25-28)
ある律法の専門家が尋ねました。「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」。イエス様は彼に「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と問い返されました。この専門家は律法の核心をよく把握できていたほど、聖書に通じていました。イエス様はそんな彼に言われました。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」。行ないのない信仰は死んだ信仰です(ヤコ2:17)。神様の御言葉の知識を実行にうつす時、その生活が活気にあふれ、永遠のいのちを得るようになます。
Ⅱ.だれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか(29-37)
 彼は、自分が御言葉を理解できず実行できないことを現すために、「私の隣人とは、だれのことですか。」と尋ねました。イエス様は彼にひとつのたとえで話されました。強盗に襲われた人は本当に助けが必要な人です。しかし聖書をよく知っている祭司やレビ人は彼を見て、避けて行きました。ところが彼らが無視していたサマリヤ人は強盗に襲われた人を心から顧みました。隣人とは、今私のそばにいて助けが必要な人のことです。この隣人に、今助けを施すのが愛です。愛は難解な理論ではありません。たいへん具体的なものです。もちろん愛には犠牲と痛みが伴います。しかしそこから永遠のいのちを得ることができます。

祈り:主よ!私は実行が伴わず喜びがありませんでした。具体的に兄弟を愛するように助けてください。

一言:行ないがなければ、喜びもない



2007年 04月 17日 (火)

ルカ10:38-42
いろいろなことをすることより、御言葉を聞くこと

Ⅰ.不平を言うマルタ(38-40)
 マルタはイエス様が来られると、食事の準備を始めました。それはイエス様ご一行に仕えるのに必要なことです。ところがマリヤは全く手伝う考えをせずに、イエス様の足もとに座って御言葉に聞き入っていました。そこでマルタはイエス様に言いました(40)。多くのことで心が忙しいマルタはイエス様をお迎えした喜びを忘れてしまい、心配しました。比較意識によって不平をもらし、神経質になっていました。
Ⅱ.御言葉を聞いていたマリヤ(41,42)
 マリヤはイエス様をお迎えした際、御言葉を聞くほうを選びました。働くのが嫌で座ってばかりいる怠け者のように思えるかもしれません。しかしマリヤはイエス様を愛し、またイエス様の御言葉を慕い求めました。マリヤはイエス様の御言葉に耳を傾けることで、イエス様を受け入れました。
 イエス様は私たちが多くのことで気を遣うことを望んではいません。イエス様にとって、必要なことはわずかです。いや一つだけで十分です(42)。多くのことより大切なことはイエス様の御言葉を聞くことです。イエス様は私たちが多くの奉仕活動をすることよりも、まずその御言葉を慕い求める人となることを、願われます。

祈り:主よ!私が主の御言葉を聞くことより、多くの現実的なことに心が忙しくなり、不平が多かったことを悔い改めます。

一言:働く前に御言葉


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