聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2008]

2008年 05月 28日 (水)

ヨハネノ福音書6:1-15
五つのパンと二匹の魚

 イエス様が湖の向こう岸へ行かれると、大勢の人の群れがついて来ました。彼らは、イエス様が行なわれるしるしを見て、集まって来ました。イエス様はピリポに尋ねました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」イエス様は、ご自分では、しようとしていることを知っておられました。ピリポは、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」と答えました。彼の計算は早く正確でした。しかし彼はイエス様の心を知りませんでした。またイエス様に対する信仰もありませんでした。彼はイエス様の弟子でしたが、彼の心にイエス様がいませんでした。
 その時、アンデレは少年の大麦のパン五つと小さい魚を二匹をイエス様のところに持って行きました。彼は、それがこの多くの群衆を食べさせるのに取るに足りないものだと知っていました。しかし彼は何とかして空腹な群衆を食べさせようとされるイエス様の心を知っていました。またイエス様に対する信仰がありました。同じ状況であっても、ピリポとは違い、アンデレにはイエス様がいました。イエス様はこの小さなものを祝福され、それで五千人をお腹いっぱい食べさせられました。残ったパン切れが十二かごに満たされるほど、豊かに食べさせられました。主が私に任してくださったことに比べ、私の能力と財産と時間はいつも足りない状態です。それにも関わらず、私たちにはイエス様がおられます。私の小さなものを受け入れられ、豊かに食べさせてくださるイエス様がおられます。このイエス様を信じ、私の小さなものをささげるなら、キャンパスの学生たちを豊かに食べさせることができます。

祈り:主よ!小さなものを受け入れられ、豊かに食べさせられる主を信じ、私の小さなものであっても、ささげる者になるように助けてください。

一言:小さなものでも主にささげよう



2008年 05月 29日 (木)

ヨハネノ福音書6:16-21
わたしだ。恐れることはない。

 弟子たちは大勢の群衆に仕え、疲れの中で舟に乗り込みました。イエス様は、ご自分を王にしようとする人々を避けて、山に行かれました。弟子たちだけが湖の向こう岸カペナウムに行きましたが、日が沈んで暗くなりました。ところが突然強風が吹いて、波が荒れ始めました。弟子たちは波と戦いながら、苦労して魯をこいでいました。私たちの人生の航海にも、予期しない突風が待っています。予期しなかった人生の失敗、疾病、失業などの突風が吹いて来ます。その時、私たちは自分なりにその突風を乗り越えようと、苦労して魯をこぎます。しかし限界にぶつかる時が多くあります。イエス様はこのような私たちをどのように助けてくださるのでしょうか。
 イエス様は、苦労して魯をこいでいる弟子たちの方に向かって湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。しかし弟子たちは幽霊だと思って恐れていました。イエス様は恐れている弟子たちに言われました。「わたしだ。恐れることはない。」その時になって弟子たちはイエス様だと分かり、喜んで舟に迎え入れました。風と波はやんで、彼らはすぐに目的の地に着きました。イエス様は人生の予期しなかった突風に会った私たちを決して見過ごされません。私たちを助けようと湖の上を歩いてでも、私たちのところに来られます。そして「わたしだ。恐れることはない。」と言われます。私たちはこの主の御言葉を聞かなければなりません。そうすれば私たちの中にある恐れと心配が消え去ります。そしてイエス様と共に無事に目的地に着くことができます。

祈り:主よ!私が強風の中で、恐れおののくことより、主の御声を聞いて、無事に目的地に着くように助けてください。

一言:わたしだ。恐れることはない。



2008年 05月 30日 (金)

ヨハネノ福音書6:22-40
いのちのパン

 イエス様が五千人をお腹いっぱいに食べさせられた次の日でした。群衆はあきらめずにイエス様に尋ねて行こうとさまよいました。その目的はしるしを見て、イエス様を信じようとしたからではありません。ただパンを食べて満腹したからです。彼らはしるしの本当の意味を知りませんでした。イエス様は彼らに言われました。「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」イエス様は私たちが何のために働くべきか、人生の本当の目的を教えてくださいました。永遠のいのちに至る食物はただイエス様だけが与えることができます。この食物を得るためには、ただイエス様だけを信じなければなりません。私たちはなくなる食物のために生きるものではありません。イエス様を信じ、イエス様のために生きる者です。
 ユダヤ人たちはしつこくモーセの例を上げて、同じしるしを求めました。しかしマナもモーセが与えたのではなく、神様がくださったものです。神様のパンは天から降りて、世の中でいのちを与えるものです。ユダヤ人たちは続けてパンの話をしてパンを求めました。しかしいのちのパンはイエス様です。イエス様は天から降りて来たまことのパンであり、いのちのパンです。このイエス様に来る者は決して飢えることはありません。イエス様を信じる者は永遠に渇くことはありません。イエス様は、ご自分を信じて従う者たちを、決して見捨てはしません。一人でも失わないだけではなく、最後の日に再び生かして、永遠のいのちを得させてくださいます。このイエス様は私たちにいのちを与える本当のキリストです。

祈り:主よ!私がなくなる食物に縛られずに、いのちのパンであるイエス様を信じて、永遠のいのちを得る者になるように助けてください。

一言:いのちのパン、イエス様



2008年 05月 31日 (土)

ヨハネノ福音書6:41-59
イエス様の肉と血

 イエス様は、ご自分が天から下って来たパンである、と言われると、ユダヤ人たちはつぶやきました。「われわれはその父も母も知っている、そのイエスではないか。どうしていま彼は『わたしは天から下って来た。』と言うのか。」イエス様を正しく知り、信じようとするなら、神様が導かなければなりません。神様のおしえを聞いて、学ぶ人だけがイエス様に来ることができます。私たちがイエス様を正しく知り信じようとするなら、人としての偏見を捨てなければなりません。御霊の導きに従って、謙遜に御言葉を聞いて従わなければなりません。
 イエス様はいのちのパンです(48)。ユダヤ人たちは荒野でマナを食べて死にました。しかしいのちのパンであるイエス様は人々が食べて死なないようにされます。このパンは他の場所から得ることができません。このパンはただイエス様だけが与えることのできるものです。イエス様が与えるこのパンは世のいのちのためのその体です。イエス様の体は私たちのたましいの食物であり、その血はまことの飲み物です。イエス様の肉を食べず、その血を飲まない者はその中にいのちがありません。ただイエス様の肉を食べ、その血を飲む者は永遠のいのちを持っています。また終わりの日に、イエス様はその人を再び生かしてくださいます。では、私たちがどのようにしてイエス様の肉を食べ、その血を飲むことができるのでしょうか。それは、私の罪のためにむちに打たれ、十字架で血を流されたイエス様の愛と恵みを信じて、受け入れることです。そうすれば私たちはイエス様の中にとどまるようになります。またイエス様も私の中にとどまります。本当のいのちは世のパンにあるのではありません。イエス・キリストの十字架を信じるところにあるのです。

祈り:主よ!私がパンからいのちを探さずに、イエス・キリストを信じることで、永遠のいのちを得る者になるように助けてください。

一言:イエス様の血、永遠のいのち


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