聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2012]

2012年 05月 07日 (月)

ヨハネ7:1-13
イエス様の時

Ⅰ.わたしの時がまだ満ちていないからです(1-9)
 ユダヤ人の祭りである仮庵の祭りが近づいて来た時のことです。仮庵の祭りはイスラエルの民が荒野で生活をしていたことを記念する日です。その日には、大部分の人がエルサレムに集まって来ました。それでイエス様の兄弟たちは、「この時こそ、イエス様の名前が世に現れる時だ」と考え、イエス様に、エルサレムに上って行くようにと勧めました(4)。彼らの目には、イエス様が田舎で埋もれたままの状態でいることは愚かなことである、と移りました。彼らは世の栄光を求める心から、霊的な目がさえぎられました。その時、イエス様は兄弟たちに言われました。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。」(6)。
 イエス様は、神様が定められた時に従って、動かれる方です。兄弟たちは、自分の考えと利益に従って行なおうとしましたが、イエス様は人々の言葉や考えには従われませんでした。イエス様がいつエルサレムに上って行かれるのか、という問題は、神様の救いの御業において、最も大切な問題であるからです。
Ⅱ.内密に上って行かれたイエス様(10-13)
 イエス様は、兄弟たちが祭りに行った後、内密に上って行かれました。このようにされたのは、イエス様が人々の要求よりも、神様の時に従って動かれたからです。また、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうと捜していたからです。イエス様は、世の栄光よりも、神様の栄光を求めておられたので、神様の時に敏感でした。

祈り:主よ!私が世の流れと人々の言葉に敏感であったことを悔い改めます。ただ、主の時にだけ敏感な者になるように、助けてください。

一言:神様の時に敏感であれ



2012年 05月 08日 (火)

ヨハネ7:14-36
正しいさばき

Ⅰ.だれでも神のみこころを行なおうと願うなら(14-24)
 密かにエルサレムに上って来られたイエス様は、祭りの中ごろ、宮に上って御言葉を教えることで、積極的にご自分を現わされました。ユダヤ人たちは、イエス様が教育も受けていないのに、どこからそのような学識を持つことができたのか、不思議に思いました。その時イエス様は、ご自分の教えは神様から来たものであることを、証しされました。そして、言われました。「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(17)。イエス様が教えられた御言葉は、人の知識から出たものではなく、神様の知恵から出たものです。ところがユダヤ人たちがイエス様を受け入れることができなかったのは、彼らがイエス様をうわべだけで判断し、正しいさばきをしなかったからです。私たちが本当に神様の御業を行なおうとするなら、イエス様の教えが神様から来たことを悟るようになります。
Ⅱ.その行なわれるしるしを通して(25-31)
 人々は、人間の目でイエス様を見て、うわべで判断した時、キリストとして信じることができませんでした。イエス様は大声をあげて言われました。「わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」(29)。すると宗教指導者たちは、神聖冒?罪でイエス様を捕らえようとしました。しかし群衆のうち多くの者がイエス様の御言葉と行なわれたしるしを根拠に、キリストとして認めたので、捕らえることができませんでした(31)。

祈り:主よ!私が、うわべを見て判断する偏見を捨てて、正しいさばきを行なえる霊的な目を持つように、助けてください。

一言:正しいさばきを行なおう



2012年 05月 09日 (水)

ヨハネ7:37-52
生ける水の川

Ⅰ.わたしのもとに来て飲みなさい(37-39)
 仮庵の祭りの終わりの日は、祭りのクライマックスに当たる日です。その時は、行列を作ってシロアムに行き、金の器に水を汲んで、祭壇の前に注ぎました。それは、次の一年も日照りにならず、豊かな雨を降らせて欲しいと願う行事でした。イエス様はまさにその時に立って、大声で渇いている人々を招かれました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(37)。「渇いている」とは何だか満たされない状態を言います。人々は、この渇きを、世の中のもので満たそうと努力しますが、このような努力は、結局さらに大きな渇きを招くだけです。それは、人がたましいを持った存在だからです。誰でもイエス様のもとに出て行く時にだけ、たましいの渇きを癒すことができます。イエス様を信じる者には、聖霊が生ける水の川のように流れるようになります。生ける水の川のように流れる聖霊で満たされる時、人は本当の満足と幸福を得ることができます。
Ⅱ.役人たちの変化(40-52)
 宗教指導者たちが送った役人たちは、イエス様を捕まえようと行きましたが、捕らえることができず、そのまま帰って来ました。それは、彼らがイエス様の御言葉を聞いて、心に感動を受けたからです。イエス様の御言葉を心から聞こうとする者は、必ずその心が変えられ、いのちを得るようになります。しかしパリサイ人たちのように、傲慢と偽善によって、御言葉を受け入れない時、その心には永遠のいのちの喜びがありません。いつも渇き、疲れ切った人生を生きるようになります。主の御言葉を聞く者は幸いです。

祈り:主よ!私が渇いている私のたましいを持って、主の所に出て行きます。私に聖霊を注いで、たましいの真の満足をください。

一言:渇いている者は来て、飲みなさい



2012年 05月 10日 (木)

ヨハネ7:53-8:11
罪のない者が石を投げなさい

Ⅰ.罪のない者が、最初に石を投げなさい(7:53-8:9)
 イエス様は、夜オリーブ山で祈られた後、朝早くもう一度宮に入られ、民たちに御言葉を教えておられました。イエス様が御言葉を教えておられた時、パリサイ人と律法学者たちは姦淫した女をその現場で捕らえて連れて来ました。彼らが姦淫のうちに捕らえた女を連れて来たのは、モーセの律法を守るためではありませんでした。イエス様をわなにかけ、訴える口実を探すためでした。
 イエス様は黙々と指で地面に何かを書いていましたが、身を起して彼らに言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7)。この御言葉を聞いたパリサイ人たちは良心の呵責を受け、みな離れて行ってしまいました。罪人が罪人をさばくことができません。本質の上で罪人である人間が、むやみに他の人をさばくことはできません。判断し、さばくことのできる方は、ただ神様だけです。私たちが他人を判断することは、自分は罪がない義人だと自称する大きな傲慢です。
Ⅱ.行きなさい。決して罪を犯してはなりません(10,11)
 イエス様は一人残された女に言われました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11)。パリサイ人は、判断とさばきで、羊たちに重い律法のくびきを負わせました。しかしイエス様は罪人を憐れまれ、受け入れ、罪を赦してくださいました。さらに進んで、新しい人生を生きるように、悔い改めにふさわしい実を結ぶように、とはっきりとした人生の方向をくださいました。

祈り:主よ!私が犯した罪によって、律法のさばきと判断を避けることができません。ただ、主の大いなる赦しの愛に、感謝します。

一言:わたしもあなたを罪に定めない


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