聖書別日ごとの糧   >>   ヨハネ[2012]

2012年 06月 25日 (月)

ヨハネ12:1-11
愛のかおり

 過越しの祭りの六日前に、ベタニヤでイエス様のための晩餐が用意されていました。その時、マリヤは非常に高価な香油をイエス様の足に塗りました。そして自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐいました。この香油は純粋なナルドの香油で、三百グラムで三百デナリの価値がありました。何よりも、この香油はマリヤの夢と未来が詰まっていました。また、髪の毛は女のプライドであり、栄光の象徴でした。マリヤは、このように大切な全ての物を惜しみなくイエス様にささげました。なぜなら彼女は、ラザロをよみがえらせてくださったイエス様を通して、最も大切なものは何であるのかが分かったからです。彼女にとって、イエス様こそが最も大切な存在でした。イエス様こそが、他の誰よりも、愛するべき方でした。彼女は、そのイエス様に、自分の大切なものを注いで、その愛を表現しました。その愛のかおりが家中に広がって行きました。
 ユダはこのようなマリヤを理解できず、非難しました。彼は香油の価値は正確に知っていたようです。しかし香油を注ぐマリヤの心は、全く理解できませんでした。彼はイエス様より、お金をもっと愛しました。彼の価値観はお金中心でした。そのため、心はすさんで行きました。しかしイエス様は、マリヤの献身を、ご自分が葬られるためであることとして、受け入れてくださいました。世の中は、私たちの献身を理解できず、非難することもあります。しかしイエス様は、その意味をつけてくださいます。私たちの愛と献身のかおりを祝福してくださいます。

祈り:主よ!私が世の中のどんなものよりも、イエス様を最も大切に思い、愛する者になるように助けてください。

一言:愛のかおり



2012年 06月 26日 (火)

ヨハネ12:12-19
ろばの子に乗られたイエス様

 イエス様がエルサレムに入城された時でした。大勢の群れがしゅろの木の枝をふって叫びました。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」イエス様は、神様が約束された、救い主です。イエス様はイスラエルの王として来られました。イエス様は、私たちを罪と死から救うために、来られた王です。ところが人々はこのイエス様を政治的な王と勘違いしました。すなわち、イエス様が自分たちをローマの支配から救ってくださることを期待していました。イエス様の力で、自分たちの望みをかなえてくれることを、期待ました。
 しかしイエス様はろばの子を見つけて、それに乗られました。それは、「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」と書かれているゼカリヤ書の御言葉が成就するためでした。ろばの子は、馬のように早く走ることもできず、武装することもできません。ろばの子に乗られることは、低姿勢と貧しさと謙遜のしるしです。イエス様は力で支配する王として来られたのではありません。低姿勢と謙遜で、私たちに仕えるために、来られました。イエス様は平和の王です。謙遜の王です。そしてご自分のいのちを投げ出して、私たちを救ってくださる王です。イエス様の御国は、ご自分を低くし、謙遜になることで、成立します。十字架と死を通して成り立ちます。それで誰でも、このイエス様を受け入れるなら、罪と死から救われます。神様の御国が臨むようになります。ろばの子に乗って来られたイエス様に従うことが、正しい信仰です。

祈り:主よ!私が欲望を捨てて、ろばの子に乗って来られたイエス様を信じ、従って行く者になるように助けてください。

一言:謙遜の王、イエス様



2012年 06月 27日 (水)

ヨハネ12:20-36
一粒の麦

 祭りのとき礼拝のために上って来たギリシャ人たちがイエス様に会いに来ました。その時イエス様は、「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」と言われました。イエス様は、十字架の死を、栄光を受ける時だと思われました。イエス様はこれをたとえで話されました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」人々は「地に落ちて死なず」に栄光を受けることを願っています。しかしイエス様は「地に落ちて死ぬこと」によって、栄光を受けようとされます。イエス様の死は、一粒の麦が地に落ちて死ぬことに似ています。その結果、多くの実を結びます。
 しかし自分のいのちを愛する者は、それを失ってしまいます。反面、自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至ります。イエス様はこの真理を、身を持って、見せてくださいました。イエス様は、「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。」と言われました。神様は、イエス様に仕える者を、尊ばれます。イエス様も一粒の麦として死ぬことを考えると、ひどく心が痛まれました。しかしそれを通して、父の御名が栄光あるものになるように、祈られました。神様はイエス様の祈りに答えてくださいました。イエス様の死によって、この世を支配する者は追い出され、多くの人々が救いを得るようになります。このイエス様は救いの光りであり、いのちの光です。このイエス様は、やみの中を歩む人々を招いておられます。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい。」誰でも光を信じるなら、光の子どもになります。また、イエス様に従って生きることで、多くの実を結ぶようになります。

祈り:主よ!私がイエス様に見習ってついて行くことで、多くの実を結ぶように助けてください。

一言:死ねば、豊かな実を結びます。



2012年 06月 28日 (木)

ヨハネ12:37-50
光として来ました

 イエス様は多くのしるしをおこなわれましたが、ユダヤ人たちはイエス様を信じませんでした。彼らの不信仰は預言者イザヤのことばが成就するためでした。神様が彼らの目を見えなくして、彼らの心をかたくなにされたからです。これは、彼らの続く不信仰に対する神様のさばきでした。指導者たちの中にも、イエス様を信じる者がたくさんいましたが、告白しませんでした。それは、会堂から追放されることを恐れていたからです。彼らは人の栄誉を、神様から栄誉よりも愛しました。自分のいのちを憎むことができなければ、イエス様を信じることができません。彼らは結局、自分のいのちを失うようになります。
 イエス様を信じる者は神様を信じる者であり、イエス様を見る者は神様を信じる者です。イエス様がこの地に来られた目的は何でしょうか。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」イエス様は光として世に来られました。それでイエス様を信じる者はやみの中にとどまりません。恐れと悲しみとむなしさに悩まされません。何よりも、イエス様は世をさばくために来られたのではなく、救うために来られた救いの光です。イエス様を信じる時、救いを得ます。いのちと望みの中で、生きるようになります。しかしイエス様の御言葉を受け入れない者は神様のさばきを受けます。イエス様の御言葉は、すなわち神様の御言葉であり、さばきの基準になります。それで私たちはイエス様の御言葉を単純に信じ、その御言葉に従わなければなりません。

祈り:主よ!私が、光として来られたイエス様を信じることで、やみの中にとどまらず、救いを得るように助けてください。

一言:光として来られたイエス様


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