2018年 05月 28日 (月)
非常に高価な香油をイエス様の足に塗り
ところが、イスカリオテ・ユダがこれを叱りました。ユダの目にはこの献身が浪費であり、無駄のように見えたのでしょう。貧しい人々への施しを云々言いましたが、それは彼が彼女たちのことを心にかけたからではありません。ただ貪欲のためにこの上なくもったいないと思ったのです。イエス様はどうされましたでしょうか。イエス様はマリヤをユダの批難から助けられました。マリヤの献身を、イエス様はご自分の十字架の死のためだと捉えられました。イエス様に捧げる心からの愛や献身は決して浪費ではありません。主はそれを認めて下さり、受け取ってくださり、救いの御業に大きく用いて下さるのです。
適用:献身を浪費だと考えていないでしょうか
一言:献身は尊い行いです
2018年 05月 29日 (火)
あなたの王が来られる。ロバの子に乗って
イエス様は祭りの最後の日に、ろばの子に乗られ、エルサレムに入城されました。どうしてろばの子に乗られたのでしょうか。それは、ゼカリヤ書9:9「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」の御言葉が成就するためです。普通であれば、王は自身の権威と威厳を示すために白馬に乗り華麗に入城します。でも、イエス様はろばに乗り、謙遜に入城されました。権威と威厳で威張る王には、誰も近づくことが出来ません。しかし、ロバに乗られたイエス様には幼い子供でさえ近づくことが出来ます。人は自分を治めてくれる王が必要な存在です。サタンに支配されては、人は罪を犯し、罪の呵責と不安と恐れによる苦しみを受けます。しかし、イエス様に治められるなら、いのちとまことの平和を得ることが出来ます。イエス様は私たちの心にも柔和に入場される謙遜な王であられます。
適用:誰の支配を受けていますか
一言:王であるイエス様
2018年 05月 30日 (水)
もし死ねば、豊かな実を結びます
イエス様は、ご自身の死が意味するところを教えられました。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、その小さな一粒の麦が死ねば、多くの実を結びます。イエス様はご自分の死を一粒の麦にたとえられました。そして、ご自分が死なれることで、数多くの霊的な実を見ておられました。人は誰でも自分を犠牲することを負担に思います。犠牲することなく実を結ぼうとします。しかし、実は死と犠牲があるところでのみ結ばれます。一粒の麦となられたイエス様の生涯を学び、お手本とすることで、私たちも多くの実を結ぶことができるのです。
十字架への道を歩まれようと決意されたものの、イエス様も生身の体を持っておられたので、心は騒いでいました。父なる神様にでてゆき、この時からご自身をお救いくださいと求められました。一方では、御名の栄光を現すようにとも祈られました。十字架の死と復活はイエス様の栄光への道でありましたが、それは同時に、この世から追い出され、さばかれる道でもありました。イエス様はこの世にて地上から上げられた後、すべての人をご自分のところに引き寄せられるのです。
適用:多くの実がなることを願っていますか
一言:死ななければ
2018年 05月 31日 (木)
このように多くのしるしを行われたのに信じなかった
このユダヤ人たちに神様はさばきをなされ、彼らの目を盲目にされ、心をかたくなにしてしまわれます。このようにして神様は、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、神様が彼らをいやすことをされません。信じず、排除する者は福音からの祝福を受けることができません。福音の祝福は、ただ謙遜になって信じ、受け入れる者に臨まれるのです。
指導者の中にもイエス様を信じる者はたくさんいましたが、パリサイ人をはばかり、会堂からの追放を恐れ、告白しませんでした。彼らの信仰は弱く、信仰を隠し、恐れていました。彼らは、神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛していました。イエス様は世をさばくために来たのではなく、世を救うために来られました。しかし、イエス様を拒み、イエス様の言うことを受け入れない者には、イエス様が話したことばが、終わりの日にその人をさばくことになるのです。
適用:わざと信じないでいませんか
一言:さばきを免れません
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