聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2007]

2007年 06月 10日 (日)

ローマ3:1-20
神様のさばきの下にある人々


Ⅰ.人々がさばかれることは正しいことである(1-8)

 ユダヤ人たちは神様から多くの特権と祝福を受けました。その中で最も大きな特権は神様の御言葉をゆだねられたことです。神様は、彼らを聖書の先生として、用いようとされました。しかし彼らは傲慢になり、イエス・キリストを殺し、神様の御言葉を捨てました。そうしながら彼らは、自分たちの罪によって神様が正しいことが現わされたので、賞を受けなければならないと主張しました。しかしこのような人々がさばかれるのは当然のことです。祝福と特権を受けることも大切ですが、それをよく担うことはもっと大切なことです。私たちは恐れおののく姿勢で、神様から与えられた祝福を担うべきです。

Ⅱ.「義人はいない。ひとりもいない。」(9-20)

 1:38-3:20節の結論は、「ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責められ、義人はいない、ひとりもいない。」です(9,10)。罪の下にいる人間は神様を求めません。彼らは霊的に無知です。また彼らが使う言葉は淫乱であり、偽りです。彼らの行ないも悪く、残忍です。彼らは神様を恐れません。結局人々は神様のさばきを受けるしかありません。全人類は、ユダヤ人もギリシャ人も、信者も不信者も、みな神様のさばきの台に立たなければなりません。だれも神様のさばきから逃れることはできません。一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています(ヘブ9:27)。


祈り:主よ!私も主のさばきの下にある罪人であることを告白します。ただ主の御前に出て行くので、赦して受け入れてください。

一言:義人はいない



2007年 06月 11日 (月)

ローマ3:21-25
その血による


 人は自分の力では誰も神様のさばきを逃れることができません。神様はこのような人間を憐れまれ、救いの御手を伸ばしてくださいました。「それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(25)。神様は、私たち人間を罪から救うために、イエス様をなだめの供え物として立ててくださいました。イエス様は神様の子羊として十字架で私たちのために供え物となりました。罪の代価は、歴史史上、これまで人が要求してきたどんな代価よりも大きなものです。罪はいのちの血を要求します。神様は御ひとり子の尊い血を流されることで、私たちの罪の代価を贖ってくださいました。みにくい私たちの罪の代価を支払うために、一人しかいない御ひとり子の血を流された神様の恵みは山よりも高く、海よりも深いものです。

 この大きな恵みが私たちの内で働くためには、イエス様の血の力を信じなければなりません。神様がイエス様の尊い血で私たちを買い取られたことを信じなければなりません。この歴史的な出来事は一度起こりました。しかし私たちがこのことを信じる時、私たちは神秘的な生まれ変わりを体験します。神様の聖なるものを慕い求めるようになり、神様の愛を体験するようになります。イエス様の誕生で人間の歴史の新しい時代が始まったように、私たちがイエス様の血の力を信じる時、私たちも新しい生活が始まります。


祈り:主よ!主の血によって私を救ってくださり感謝します。私はこの救いの恵みを忘れずに、生涯信仰によって生きます。

一言:血の力


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