聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2007]

2007年 06月 17日 (日)

ローマ6:1-14
あなたがた自身を神様にささげなさい


 パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」と言いました(5:20)。これは律法が罪をさらに罪に定めることによって、キリストの恵みがさらに大きくなるという意味です。ある人はこの御言葉を基に、「私たちのうちにさらに大きな恵みが増し加わるために、罪をもっと犯したほうがいい」と冗談のように言ったりもします。しかし私たちクリスチャンはそうすることができません。

 それは私たちがキリストと共にバプテスマを受けたからです。バプテスマの霊的な意味はキリストとつながることです(3,4)。私たちクリスチャンはキリストの死にあずかり、罪を支配の受けた昔の人が死に、キリストの復活にあずかって新しいいのちでよみがえったのです。それで私たちはこれ以上自分を罪の奴隷として引き渡してはいけません。私たちは、私たち自身とその手足を義の器として神様にささげなければなりません(12,13)。

 私たちのからだは義の器のようです。誰が私たちを用いるかによってその結果は違って来ます。罪が私たちのからだを治めれば、私たちは不義の器になります。

 しかし私たち自身を神様にささげれば、義の器になって、神様の栄光を現し、いのちを生かすことに尊く用いられるようになります。私たちは一度死んで再びよみがえった者のように、私たち自身を神様にささげ、献身しなければなりません。その時、罪はその人を支配できなくなり、その人は美しいいのちの実を結ぶ義の器になります。


祈り:主よ!私はこの死ぬべきからだを罪にささげずに、私を生かしてくださった神様にささげます。私を義の器として尊く用いてください。

一言:私のからだは義の器



2007年 06月 18日 (月)

ローマ6:15-23
その手足を


「その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。」(19)

Ⅰ.罪の奴隷となって死に至り(15-16)

 今私たちは律法の下にではなく、恵みの下にいます。ところが私たちは恵みの下にいるのだから、自由に罪を犯して、恵みによって罪の赦しの恵みを受ければ良いのではないか、と考えやすいです。これは非常にあやまった考え方です。私たちが何に従うかによって、その奴隷になります。罪に自分の身をささげて服従すれば、罪の奴隷になります(16)。罪の奴隷になれば、自由を失って罪に引き渡され、恥ずかしい実を結ぶようになります。結局死に至るようになります。それで恵みの下にいても、罪に自分の身をささげることを恐れなければなりません。

Ⅱ.その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。(17-23)

 以前、私たちは罪の奴隷でした。しかし福音を受け入れ、心から聞き従うことで罪から解放され、義の奴隷になりました(18)。義の奴隷になった私たちは、その手足を義の奴隷としてささげ、聖潔に進まなければなりません。私たちの手足を義にささげることは、私たちのからだを神様のしもべとしてささげることです。これは神様の栄光を現すことを人生の目的として、神様の御旨を成し遂げるために、自分の時間と財産と能力をささげることを、指します。このように神様の栄光のために自分をささげれば、私たちは本当の自由と幸福を味わい、霊的な成長をし、永遠のいのちに至る霊的な実を結ぶようになります。


祈り:主よ!私が恵みを乱用して罪を楽しんだことを悔い改めます。今、私を義の奴隷としてささげ、聖なる実を結びます。

一言:今日も私の手足を義の奴隷として


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