聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2007]

2007年 06月 19日 (火)

ローマ7:1-6
新しい御霊によって仕えているのです


 イエス・キリストを信じることで、義と認められても、昔のように律法に従って生きている人がいます。このような人は依然信仰生活に喜びがなく、自発的ではなく、依存心が強く、弱く、神様に喜ばれる実も結べません。私たちクリスチャンはこれ以上律法的な生活をしてはいけません。それは私たちが律法に対して死んだからです。

 私たちは、前は律法氏と結婚し、律法氏の要求を満足させようとした女のようでした。その時、私たちは律法の要求に達することができず、非難されなければなりませんでした。

 律法氏に仕える生活は、私たちを疲れさせ、反発心を持たせ、死の実を結ばせました。ところがイエス様は私たちの代わりに十字架で死んでくださいました。それで私たちは律法の支配から抜け出すようになりました。イエス様のこのような聖なる犠牲は、私たちが恵みと愛の主イエス様のところに行き、神様のための聖なる実を結ばせる大切な基礎になります(4)。

 「しかし、今は、私たちは自分を捕えていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(6)。信仰によって生まれ変わった者は、今昔の律法の要求に従って生きてはいけません。その代わりに、その中に生きておられる御霊によってイエス・キリストを愛し、仕えるようになり、私たちの中に神様が喜ばれる本当の望みの実が次々と結ばれるようになります。


祈り:主よ!古い律法によって生きず、御霊によってイエス様を愛し、仕える生活をして、実を結ぶ者になります。

一言:新しい霊によって仕えているのです



2007年 06月 20日 (水)

ローマ7:7-25
律法は聖なるものである


 律法は私たちにいのちを与えることができず、むしろ死の実を結ばせたからと言って(7:5)、律法無用論を主張しやすいです。

 しかし律法は、第一に、罪を悟らせてくれます(7)。むさぼりは心の中にあるものなので、人々はそれを罪とは思いません。しかし神様は「むさぼってはならない」という律法をくださることで、むさぼりが罪であることを教えてくださいました。この世は相対的で、義に対する絶対基準がありません。律法はこのような人々に義についての絶対基準となり、何が義で、罪であるのかを教える役割を果たします。

 第二に、律法は私たちはイエス様に導いてくれます(8-13)。パウロはむさぼりが罪であることを知った後、むさぼらないように努力しました。するとさらに多くのむさぼりが彼の中にあることが現われました(8)。戒めがなかった時は、自分が生きて、死が死んでいたのに、戒めが現われると自分が死に、罪が生きていました(9)。律法が罪を極度に罪深いものとしました(13b)。これはまるで私たちが最初に聖書を勉強すればするほど、自分が罪人であることを発見するようなものです。しかしそのようにして自分の行ないで、義とされないことが分かれば、謙遜に信仰による神様の義を受け入れるようになります(25)。

 それで律法は人を罪人にし、イエス様に導くために必要なものです。こうして見ると、律法は聖なるもので、正しく、良いものです(12)。生まれ変わった私たちは律法の教えと精神に従って、教えなければなりません。


祈り:主よ!私は信仰によって義と認められましたが、良い律法の教えに従って、霊的に成長する者になるように、してください。

一言:律法の教えを受けなければならない


<<(1)    前のページ(6)    7    次のページ(8)    (16)>>

聖書別日ごとの糧