聖書別日ごとの糧   >>   ピリピ[2016]

2016年 10月 24日 (月)

ピリピ人への手紙2:1-11
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい

第一に、自己中心や虚栄からすることはいけません。
自己中心は自己中心的な野望であり、虚栄は虚しい自分の栄光を求めることです。神様の共同体を成すのに自己中心的な自分の野望を強く求めると、どうなりますか。教会で自分の声だけを出そうと思わず、謙遜な心で互いに人を自分よりもすぐれた者と思い、尊重する姿勢で仕えなければなりません。他人の立派な長所を見て高めてあげる姿勢が求められます。
第二、自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなければなりません。
一致を壊すのは、自分の野心、虚しい自尊心、高慢、利己心であり、これらはすべて自己中心的な心です。自己中心を捨てないと、共同体が一つとなるのは難しいです。
それでは、どのようにして自分を捨てて同じ愛の心を抱くことができますか。パウロは、“そのような心構えでいなさい"と勧めます。これは謙遜なイエスキリストの心構えでいれば、一つになれることを教えてくれます。謙遜は先に自分を無にして低くなることです。イエスキリストは本来神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとりました。このように自分を無にしないと、決して一つになることができません。次に、十字架の死にまでも従わなければなりません。自分を低くしようとすれば、十字架で死ぬ苦しみを味わわなければなりません。担いきれない苦しみですが、こうした十字架の苦しみがなくては決して謙遜になれません。このように私が完全に死ぬとき、神様が私を高めてくださいます。

適用:イエスキリストの心構えでいますか?

一言:自分を無にして死になさい



2016年 10月 25日 (火)

ピリピ人への手紙2:12-18
自分の救いの達成に努めなさい

こうした神様の働きが分かると、どんな姿勢で生きるべきですか。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うべきです。つぶやきは不平と不満であり、疑いは是非を疑って争うことです。神様が私たちの中で働いておられるのに、つぶやいたり、疑ったりすると、どうなりますか。イスラエルが荒野でつぶやいたり疑ったりしたとき、どうなりましたか。イエスキリストの共同体は、神様がなさるすべてのことを、つぶやかず、疑わずに行うべきです。そのとき、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、世の光として輝くようになります。ピリピ教会は暗い時代の中でいのちの御言葉を輝かせて真理の中で固く立つべきです。彼らがこのように救いを達成していくと、パウロがこれまで努力したことがむだではなくなります。パウロはピリピ教会のために最後の注ぎの供え物となっても、喜ぶと断言しています。自分のすべてを降り注いでも、彼らが完全に救われて成長することを願い、それを喜んでいます。

適用:自分と共同体の救いの達成に努めていますか?

一言:いつも従順で、恐れおののいて



2016年 10月 26日 (水)

ピリピ人への手紙2:19-30
彼のような人々には尊敬を払いなさい

パウロはテモテをすぐに送ることができなかったので、先にエパフロデトを大急ぎで送ろうとします。エパフロデトはピリピ教会の聖徒たちの贈り物をパウロに伝えただけではなく、ローマでパウロと一緒に同労してくれました。ところが、彼はローマに来て死ぬほどの病気にかかりましたが、神様のあわれみによって病気から治りました。彼は、自分の病気のことがピリピ教会の聖徒たちに伝わったことを気にしていました。これを見たパウロは、大急ぎで彼を送り、ピリピ教会の聖徒たちが彼を見て喜ぶようにしたいと思いました。パウロはピリピ教会の聖徒たちがエパフロデトを大きな喜びで迎えるように言っています。またエパフロデトのような人々には尊敬を払うように勧めています。何故なら、彼はイエスキリストのために働く最中に、死ぬほどの病気にかかりましたが、自分のいのちを惜しまず、忠誠を尽くしたからです。主と福音のために死ぬほど忠実に働いている宣教師と牧者たちこそ尊い人々です。

適用:だれに尊敬を払っていますか?

一言:死ぬほど仕える者!


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