聖書別日ごとの糧   >>   ヘブル[2022]

2022年 07月 17日 (日)

ヘブル人への手紙 11:1-6(6)
神様を喜ばせる信仰

神様が最も喜ばれる人は信仰のある人です。信仰とは、神様がおられることを信じ、その方がご自分を求める者たちには必ず報いてくださることを信じることです。信仰は具体的に神の国を信じることであり、その信仰によってこの世で神様を探し求め、苦難を勝ち抜くことです。先祖達はみな、このような信仰によって暮らしました。信仰の基礎は創造を信じることです。見える宇宙万物は偶然現れたものではありません。神様がその御手で創造されました。神様は、すべての被造物と人間を善なる計画と摂理の中で創造されたのです。それを信じて生きることが重要です。アベルは神様が生きておられることを信じていました。それで、神様の御前で生きようと努力し、神様が喜ばれるいけにえを丁寧に捧げました。信仰によって生き彼は死にましたが、そのささげ物が今でも彼の信仰を証しています。

エノクが生きていた時代は、不義と暴虐で満ちた時代でした。ネフィリムたちが数多く、娶ったり、嫁いだり、食べたり、飲んだりする時代でした。エノクは65歳でメトシェラを産み、この息子が死ぬ日、裁きが下ることを深く受け入れ、神様の御前で生きようと信仰によって決断しました。裁かれる神様の御前で神様とともに歩もうと決断しました。ところで、神様とともに歩むことは簡単だったのでしょうか。ともに歩むためには心が合わなければなりません。「約束もしていないのに、二人の者が一緒に歩くだろうか」(アモ3:3)エノクは、神様の御心に合わせるために日々、神様と会話して神様と交わりました。エノクは24時間、365日、神様とともに歩みました。それで彼の年齢が365歳になった時、神様は彼を神の国に連れて行かれました。神様を喜ばせる信仰を持っているのを見て、死を見ることがないように彼を神の国に移されたのです。信仰がある時、神様を喜ばせることができます。神様はご自分を求める者たちに必ず報いてくださいます。私たちが信仰を持って神様を探し求めることを祈ります。



適用:神様を喜ばせることを願いますか

一言:信仰がなければ



2022年 07月 18日 (月)

ヘブル人への手紙 11:7-16(16)
もっと良い故郷に憧れて

信仰は「目に見えないものを確信させるもの」です。これは目に見えない神の国を確信したという意味です。信者はみな、まだ見ぬ神の国を天の故郷として待ち望んでいます。このような私たちはこの世でどのように生きるべきですか。

第一に、ノアやアブラハムのように召しに従って生きなければなりません(7,8)。ノアは見ていない未来の事柄について警告されたとき、恐れかしこんで箱舟を造る生活をしました。アブラハムは75歳で召しを受けたときにそれに従い、土地、親戚、父の家を離れました。信仰は、神様の召しに従って生きることです。ノアのように晴れた日に箱舟を造ることもあるでしょう。アブラハムのようにどこに行くのかを知らずに未知の世界に出て行くこともあります。

第二に、約束の御言葉を掴んでこの世での天幕生活をすることです(9-12)。アブラハム、イサク、ヤコブは族長であり裕福でした。しかし、彼らは土地を所有せず、家も建てませんでした。3代共に天幕生活、即ちいつでも移動できるテント生活をしました。その理由は、この土地を定住地と考えないで、神様が設計され建てられる堅い基礎の上にある都を何よりも待ち望んだからです。サラ自身も不妊の女であったのに、約束してくださった神様を信じる信仰によって、子をもうける力を得、多くの子孫を生みました。第三に、もっと良い故郷に憧れて、旅人として、寄留者として生きなければなりません(13-16)。信仰の先祖たちは、自分達が出てきた故郷よりも、もっと良い故郷に憧れました。もっと良い故郷とは、神様が天に用意された都のことです。彼らはみな、その都を見て旅人として、寄留者として暮らし、神の国に思いを馳せました。神様は彼らのすばらしい信仰を見て、彼らの神と呼ばれることを全く恥となさいませんでした。私たちは世の祝福や成功を追い求めやすい者たちです。しかし何よりも、神様の召しの望みが何であり、その御国を受け継ぐことの栄光の豊かさとは何であるかを見ることが大切です。



適用:どんな故郷に憧れますか

一言:天の故郷



2022年 07月 19日 (火)

ヘブル人への手紙 11:17-28(17)
信仰によってイサクを献げました

神様はアブラハムに、一人息子イサクを供え物として捧げるように命じられました。これは従いにくい試みでした。しかし、アブラハムは信仰によってイサクを献げました。アブラハムに「イサクにあって、あなたの子孫が起こされる」という約束を与えたにも関わらず、一人息子を献げよ、と言われた神様の命令は矛盾していました。アブラハムが従うことができたのは、神様がイサクを死者の中からよみがえらせることができると信じたからです。復活信仰を持っている人は、自分の最も貴いものまで喜んで神に献げることができます。

モーセは、エジプトで王女の息子としての特権を受けながら成長しました。しかし、成人したとき、信仰によって王女の息子として呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみにふけるよりも、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。また彼は、キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。モーセがこのようにできたのは、神様がくださる報いから目を離さなかったからです。信仰の人は、神様がくださる将来の報いを期待し、キリストの苦難にあずかり、世の楽しみや宝をちりあくたのように捨てます(ピリ3:8-14)。



適用:どうすれば、貴いものを献げることができますか

一言:信仰によって



2022年 07月 20日 (水)

ヘブル人への手紙 11:29-40(38)
この世は彼らにふさわしくありませんでした

信仰によって、モーセとイスラエルの人々は紅海を陸地のように渡りました。 しかし、イスラエルの人々を追いかけたエジプトの軍隊は、水に吞み込まれてしまいました。紅海を渡ってから40年後、ヨシュアとイスラエルの人々はカナン征服戦争を始めました。ところが、カナンの最初の城、難攻不落と言われていたエリコ城が建っていました。信仰によって、彼らは七日間エリコの周囲を回りました。すると城壁が崩れ落ちました。遊女ラハブは異邦人であり、遊女の身分でしたが、信仰によって偵察者を隠して滅びから救われました。これらの歴史的な出来事は、信仰の勝利を示しています。私たちが弟子養成と世界宣教を成功させるために必要なのは、信仰です。

ヨシュアの時代以後、士師、ダビデ、サムエル、また他の預言者たちが成し遂げた信仰の歴史は数多くあります。彼らは信仰によって国々を征服し、正義を実践し、約束のものを手に入れ、時には獅子の口をふさぎ、火の勢いを消し、剣の刃を逃れたりしました。一方、多くの人が信仰によって耐え難い苦難と迫害を受けました。この世と妥協するなら、彼らはもっと楽に暮らすことができたかもしれません。しかし、彼らにとって、この世は何の価値もありませんでした。それで、彼らは最後まで信仰の純潔を守り抜きました。私たちも信仰によってこの世と区別され、聖なる人生を生きなければなりません。



適用:彼らのようにこの世にとってふさわしくない人でしょうか

一言:信仰によって


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