聖書別日ごとの糧   >>   ローマ[2023]

2023年 02月 28日 (火)

ローマ人への手紙 4:1-8(6)
アブラハムとダビデの信仰

ユダヤ人たちは、彼らの先祖アブラハムを誇らしく思っていました。しかし、アブラハムも、行ないによって義と認められたのではありません。子どもの問題で不信仰に陥っていましたが、神様の御言葉を聞いて、神様を信じました。神様は、彼に夜空の星を見せて、多くの子孫を与えるという、望みを見せてくださいました。すると、アブラハムは神様に対する不平不満を捨て、神様を信じました。神様はアブラハムのその信仰をご覧になり、これをアブラハムの義と見なされました(創15:6) 。同じように、神様は、私たちに対しても、信仰だけを求めておられます。それで、私たちは信仰の人になるべきです。

 ユダヤ人たちがそれほどまでに尊敬していたダビデも、行ないによって神様に認められたのではありません。彼は情欲の罪に倒れ、骨が朽ちるような苦痛を味わいました。彼が、いくらすばらしい業績を多く積んだとしても、彼の義は一瞬のうちに、崩れしまいました。しかし、彼が切に悔い改めた時、神様は彼に罪の赦しの恵みを施してくださいました(Ⅱサム12章) 。ダビデは、罪を赦された恵みが最も幸いである、と告白しました。罪によって、さばかれ、死ななければならない私たちは、神様の御前に何も差し出せるものがありません。ただ、私たちの罪のために、代わりに死なれたイエス様を信じることによってのみ、神様の御前に大胆に出て行くことができます。



祈り:主よ、私がただ信仰一つを持って、主の御前に出て行く、謙遜な者になるように助けてください。

一言:信仰だけを堅くつかもう



2023年 04月 20日 (木)

ローマ人への手紙 4:9-25(18)
望みえない時に

信仰の父と呼ばれているアブラハムは、割礼を受けたユダヤ人でした。すると、初代教会の中で、割礼を受けたユダヤ人だけが赦しの恵みと幸いを味わうことができるのではないかという疑いが生じました。しかし、パウロは、割礼者も無割礼者も信仰によって生きる時、幸いを味わうようになると言います。アブラハムが割礼を受けたのは、彼が99才の時でした(創17:26)。反面、彼が神様に義と見なされたのは、信仰生活の初期でした(創15:6)。すなわち、彼は割礼を受ける前に、すでに義と見なされていたのです。彼が神様に義とみなされたのは、割礼のためではなく、信仰のためでした。アブラハムが割礼を受ける前に信仰によって義と認められたということは、割礼を受けていない異邦人たちも、信仰によって義とみなされるということです。ですから、だれでも信仰さえあれば、アブラハムのように罪の赦しの恵みを受け、幸いを味わうことができるのです。

アブラハムは、“大いなる国民”として下さる、という神様の約束を信じて、生まれ故郷父の家を出て、神様が示す地へ行きました(創12:1-3)。しかし、神様の約束は、待てど暮らせど実現しませんでした。ある夜、神様がアブラハムを訪れ、外に連れ出して仰せられました。「天を見上げなさい。星を数えられるなら、数えなさい。…あなたの子孫は、このようになる(創15:5)」。アブラハムはこの神様の約束を信じました。月日がたって、子を生めないくらい年取っても、その約束は成し遂げられませんでした。けれども、彼は神様を信じました。望み得ないときに望みを抱いて信じました。彼は、状況に変化が見えなくても、信仰が弱まることなく、神様の約束を疑いませんでした。むしろ信仰が強められて、神に栄光を帰し、神様には自分に約束したことを実行する力があると、確信しました。



祈り:主よ、状況が少し変わるだけでも神様の約束を疑ってしまうことを悔い改めます。見えるものによらず、信仰によって歩むように助けて下さい。

一言:望みえない時に信じなさい


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