1997年使徒の働き第4講

このいのちのことばを、ことごとく語りなさい
御言葉:使徒の働き4:32ー6:7
要 節:使徒の働き5:20
「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った。

 私達は先週のメッセージを通してイエス・キリストの御名によって、生まれつき足のきかない人がいやされた出来事を学びました。また、権力者達の脅迫にも関らず聖霊に満たされて大胆にみことばを語るペテロとヨハネについて学びました。彼らはどんな状況の中でも積極的に御言葉を語りました。彼らは御言葉を語ることを通してすべての困難を乗り越えて勝利しました。今日の本文には外部、内部からの困難な状況の中でも毎日御言葉を語り続ける使徒達のことが記されています。今日の御言葉を通してどうしてもいのちの御言葉を語らせようとする神様の切なる心と使徒達の福音を語ろうとする熱情を学ぶことができるように祈ります。

?。聖霊を欺いたアナニヤとサッピラ(4:32ー5:11)

 ペテロとヨハネが迫害を受けて釈放された時に聖徒達はみな、心を一つにして、「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。」と祈りました。すると彼らは聖霊に満たされて神様のことばを大胆に語りました。それでは初代教会の聖徒達の生活はどうでしたか。4:32ー37節をご覧ください。彼らは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していました。彼らの中には、ひとりも乏しい者がありませんでした。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒達の足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからです。彼らはイエス様の中で一つの家族になり、互いに熱く愛し合いました。彼らには利己心と貪欲とお金を愛する心がありませんでした。彼らには神の国に対する望みとイエス・キリストに対する信仰と兄弟に対する愛が満ちていました。

 このような美しい信仰生活の基礎となったのは何ですか。33節をご覧ください。「使徒達は、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」このような信仰生活の基礎となったのは復活信仰でした。彼らは使徒達の復活のメッセージを聞いて復活信仰を持つようになりました。彼らは神の国に対する望みを持っていたので天に宝を積む生活をしました。彼らの望みは天にあったので地上の物に縛られず自由になりました。イエス様は「自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:20、21)と言われました。

 このように献身的に物質を捧げる人の中にキプロス生まれのレビ人で、使徒達によってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフがいました。彼は人を慰める賜物を持っていました。彼は失望している人、悲しんでいる人を慰め力と勇気を与える人でした。彼は畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置きました。このような中で、どんなサタンの仕業がありましたか。5:1、2節をご覧ください。アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置きました。なぜ彼らは地所を売った代金をみな捧げるふりをして、一部を残しておいたのでしょうか。彼らはすべてのものを捧げようとすると将来に対する心配と恐れが生じました。これから何を食べて生きるだろうと思いました。このような心配や恐れは不信仰から出て来ました。彼らには神様が必要な物を与えてくださることを信じる信仰がありませんでした。彼らには復活信仰がありませんでした。また、彼らは人々に認められたい心や体面のためにサタンに試みられました。

 人々は彼らを見て第二のバルナバが現われたと誉めたでしょう。誰も彼らの中に入って来たサタンの仕業を見分けることができませんでした。しかしぺテロは聖霊によってこのことを知るようになりました。ペテロはアナニヤにこう言いました。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」ペテロはアナニヤがサタンに心を奪われ、聖霊を欺き、神様を欺いたと指摘しました。アナニヤはこの言葉を聞くと、ショックを受けたか倒れて息が絶えました。神様がアナニヤを罰せられたのです。三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずに入って来ました。ペテロは彼女にこう言いました。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」ペテロは彼女に悔い改める機会を与えました。しかし、彼女は「はい。その値段です。」と言いました。そこで、ペテロは彼女に言いました。「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。見なさい、あなたの夫を葬った者達が、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えました。そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じ、神様と主のしもべ達に対して恐れ敬う心を持つようになりました。

 この出来事から何を学ぶことができますか。第一に、神様は私達に真実を願われるということです。?歴代誌16:9はこう言っています。「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」アナニヤとサッピラは神様を欺きました。それは神様を蔑ろにしたことです。私達は神様の御前に真実な信仰生活をしなければなりません。罪を犯したら神様に悔い改めて罪を赦していただかなければなりません。罪を犯したのに罪を犯してないふりをすることは神様を欺くことです。また、私達は神様に約束したことを守らなければなりません。皆さん。生きておられる神様の御前で真実な信仰生活をしましょう。私達の心をご覧になる神様の御前に常に真実に悔い改めて罪が赦された生活をしましょう。第二に、信仰の同労者の大切さです。もしアナニアが「おい、サッピラ、代金の一部は残しておこうか。」と言った時、サッピラが「あなた、何を言っていますか。最初に決めたように信仰によって捧げましょう。」言うべきでした。ところが2節を見ると「妻も承知のうえで」と書いてあります。また、ペテロはサッピラに「あなたがたは心を合わせて」と言いました。それはサッピラが信仰によって同労できなかったことを言っています。聖書を見ると兄弟を動かす人は姉妹です。アダムもその妻エバがくれた善悪の知識の木から取ったものを食べて罪を犯しました。反面、イサクはリベカの同労によって神様のみこころの通りにヤコブを祝福することができました。このように信仰によって同労することは大切なことです。私は感謝献金の金額を決める時に、サラ宣教師に任せる場合が多くあります。なぜならいつも私が思ったよりサラ宣教師のほうがもっと捧げるからです。

 それでは聖霊を欺くことが、なぜそれほどまでに深刻な罪になりますか。人間的に考えて見るとこの事件はなかなか納得できません。彼らは捧げたのにも関らず死んでしまいました。私達はペテロが厳しく責め過ぎたので彼らがショック死したのではないかと思うと彼らに同情したくなります。しかしアナニヤとサッピラの問題は単純に物質の問題ではありませんでした。それは故意的に聖霊のみわざを妨害する恐ろしいサタンの仕業でした。イエス様は「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者は誰でも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」(マルコ3:28、29)と言われました。彼らの罪は聖霊のみわざが盛んになっているところに水をかけることでした。もしそれをそのまま放っておけば直ちに聖徒達の共同体が崩れるようになるでしょう。神様の御前で真実に生きることがなく人々の前で偽善者のように生きるようになります。ペテロは内部から入って来るサタンの仕業を霊的に見分けて神様の側で大胆にそれを打ち切りました。

?。このいのちのことばを、ことごとく語りなさい(5:12ー42)

 アナニヤとサッピラの事件後に使徒達を通して、もっと大きなみわざが起こりました。12節を見ると、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれました。イエス様を信じる者は男も女もますますふえて行きました。人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになりました。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされました。

  そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕え、留置場に入れました。内部からの試練が終わると今度は外部からの迫害が始まりました。12使徒達が皆捕われ、留置場に入れられたので福音のみわざはここで止まってしまうように見えました。それでは神様は、牢に入れられた使徒達をどのように助けられ、どんな命令をされましたか。19、20節をご一緒に読んで見ましょう。「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し、『行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。』と言った。」この御言葉から何を学ぶことができますか。 

 第一に、神様が使徒達に願われることはいのちのことばを、ことごとく語ることです。神様は使徒達に「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言われました。神様が彼らを牢から連れ出したのは彼らに続けて御言葉を語らせるためでした。「ことごとく」は聞きやすいことばだけではなく、イエス様の十字架と復活、信仰による救い、イエス様の再臨と審判、悔い改めなど福音の内容をすべて伝えることです。神様はどうしても一人でも多くの人々を救うことを願っておられます。神様はどうしても一人でも多くの人々を救おうとする切なる心を持っておられます。ヨハネ3:16は次のように言っています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」サタンは御言葉を語ることを妨害するために使徒達を留置場に入れました。しかし、神様は彼らをそこから連れ出して、御言葉を語らせました。それは御言葉を語ることによっていのちの救いのみわざが起こるからです。いのちの救いのみわざと御言葉を宣べ伝えることは正比例します。しかし、御言葉を伝えなければ何の救いのみわざも起こりません。私達がどんな状況の中でも積極的に1:1聖書勉強によって福音を伝えようとする理由もここにあります。御言葉を宣べ伝えることは実に切迫したことです。福音を知らない人は霊的に応急患者と同じです。応急患者は優先的にいのちを助けなければなりません。ですから救急車は車線を無視しながらも「ピーポー、ピーポー。」と走るのです。神様は私達が黙っていないでいのちの御言葉を人々に語ることを願われます。使徒パウロがコリント教会を開拓する時でした。彼は御言葉を語ることを妨害するユダヤ人達によって心の中に恐れが生じました。その時、主は幻の中で彼に現われて言われました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。」使徒パウロはこの御言葉に従って1年6ヶ月の間熱心に御言葉を語り続けました。その時コリントに大きな御言葉のみわざ、聖霊のみわざが起こりました。

 第二に、神様は状況や条件に左右されず大胆に御言葉を語ることを願っておられます。神様は使徒達を牢から連れ出して「今は迫害が激しいから、どこかに隠れていなさい。迫害が静まったら御言葉を語りなさい。」と言いませんでした。神様は使徒達に「宮の中に立って」御言葉を語るようにしました。そのようにすると彼らはすぐ逮捕されるはずです。実際に使徒達は何時間後に再び逮捕されました。しかし、神様は彼らが迫害者を恐れないで復活信仰によってチャレンジするようにされました。20節は「行きなさい。立ちなさい。語りなさい。」という三つの動詞で成り立っています。福音の働き人はどんな状況の中でも福音を行って、立って、語らなければなりません。神様は使徒達がどんな状況の中でもいのちのことばを語る信仰の勇士になることを願われました。私達がキャンパスに行って、そこに立って、大胆に御言葉を語ることができるように祈ります。

 それでは使徒達はどのように聞き従いましたか。21a節を見ると彼らは、夜明けごろ宮にはいって教え始めました。彼らはどんな犠牲を払っても、どんな状況の中であっても、まず第一に神様の御言葉に従いました。彼らは自分達の安全を考えず、主の御言葉に従って夜明けから大胆に御言葉を宣べ伝えました。一方、大祭司とその仲間たちは集まって来て、議会とイスラエル人のすべての長老を召集し、使徒たちを引き出して来させるために、人を獄舎にやりました。ところが役人たちが行ってみると、牢の中には彼らがいなかったので、引き返してこう報告しました。「獄舎は完全にしまっており、番人たちが戸口に立っていましたが、あけてみると、中にはだれもおりませんでした。」宮の守衛長や祭司長たちは、このことばを聞いて、いったいこれはどうなって行くのかと、使徒たちのことで当惑しました。そこへ、ある人がやって来て、「大変です。あなたがたが牢に入れた人たちが、宮の中に立って、人々を教えています。」と告げました。そこで、宮の守衛長は役人たちといっしょに出て行き、使徒たちを連れて来ました。しかし、手荒なことはしませんでした。なぜなら人々に石で打ち殺されるのを恐れたからです。宗教指導者達は使徒達を連れて来て議会の中に立たせ、「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」と言いました。しかし使徒達はなぜ、続けて福音を証しするしかない、と言いましたか。29節をご覧ください。「人に従うより、神に従うべきです。」使徒達は人に従うより、神様に従っていたので権力のある人々も恐れず大胆に御言葉を語り続けることができました。使徒達は彼らにイエス様の復活を証ししました。30ー32節をご覧ください。「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」宗教指導者達はこれを聞いて悔い改めなければなりませんでした。しかし、彼らは怒り狂い、使徒たちを殺そうと計りました。ところが、神様はすべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人の賢いアドバイスを通して使徒達を保護してくださいました。結局宗教指導者達は、使徒たちを呼んで、彼らをむちで打ち、イエスの名によって語ってはならないと言い渡したうえで釈放しました。

 むちに打たれた使徒達はどうでしたか。涙を流しながら悲しんでいましたか。41節をご覧ください。「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」彼らはむちで打たれたことで悲しんだり、福音を伝える意欲を失ったりしませんでした。むしろ使徒達は、御名のために迫害されるに価する者とされたことを喜びました。「ハレルヤ、主よ。感謝します。私のような者が主の御名のために鞭に打たれるなんて、何とすばらしいことでしょう。」使徒達は迫害に対して積極的な姿勢を持っていました。イエス様はマタイ5:11、12で言われました。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜び踊りなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」福音をよく理解している人は迫害の中でも喜ぶことができます。私達にはどんな迫害がありますか。また、迫害に対してどんな姿勢を持っていますか。私達が使徒たちのように迫害に対して積極的な姿勢を持つことができるように祈ります。

 使徒達は議会の人々の脅迫と迫害にも関らず、何をしましたか。42節をご覧ください。「そして、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けた。」彼らは毎日、御言葉を教えました。彼らが教える聖書勉強の主題は「イエスはキリスト」でした。彼らは時が良くて悪くても御言葉を宣べ伝え続けました。彼らは福音を知らずに死んで行く人々を考えると心が痛くて絶えられないほどでした。寝ても覚めても御言葉を宣べ伝えることを考えました。夢の中でも福音を宣べ伝えるほどでした。彼らはいのちをかけて「イエスはキリストです」と宣べ伝えました。私達は福音を伝えるためにどれほど涙を流しているでしょうか。どれほど熱心に御言葉を宣べ伝えているでしょうか。福音を知らずに死んで行くこの国の人々をどんな目で見ているのでしょうか。私は使徒達のようにどうしても福音を宣べ伝えようとする情熱がなく福音を語るのに怠けていました。東京センターの今年の祈り題目の一つである1:180チームをどうしても達成しようとする心が燃えていませんでした。神様が私をこの国に宣教師として遣わして下さったのは、職場生活をするためではありませんでした。私を通してこの国のキャンパスの学生達にいのちのことばを、ことごとく語らせるために遣わして下さったのです。主は今もこの国の人々に福音を宣べ伝え、ひとりも滅びることなく永遠のいのちを持つことを切に願っておられます。私が?テモテ2:15の御言葉に基づいて真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神様にささげるよう、努め励むことができるように祈ります。私達も使徒達のようにどんな状況の中でも毎日「イエスがキリストである」と宣べ伝え続けることができるように祈ります。

?。祈りとみことばの奉仕に励んだ使徒達(6:1ー7)

 そのころ、弟子達がふえるにつれて、ギリシャ語を使うユダヤ人達は、ヘブル語を使うユダヤ人達に対して苦情を申し立てました。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからです。人々が増えると使徒達がすべてのことに仕えることは限界にぶつかりました。集まりの中に不平不満が生じるとサタンはそれを通して働き教会の中に分裂を起こします。ですから彼らに新しい方向が必要でした。その時、使徒達はその問題をどのように解決しましたか。

 2ー4節をご覧ください。そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言いました。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」使徒達は信仰によって問題を解決しました。彼らは神様のみわざにおいて一番大切なことは祈りとみことばの奉仕であることを悟り、それに励むことにしました。私達がアルバイトや仕事、学問などで忙しくて祈りと御言葉をおろそかにしやすいです。しかし、何よりも優先しなければならないことは祈ることと御言葉を読む生活です。7節をご覧ください。「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった。」これは御言葉のみわざの勝利を現わしています。

 結論、以上を学びながら、エルサレム教会にこのように大きな御業が起きた秘訣は御言葉を語り続けることにあったことがわかります。使徒達は「このいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」と言った聖霊の指示に従って御言葉を宣べ伝え続けました。また、みわざが大きくなって内部から問題が生じた時も祈りとみことばの奉仕に励むことにしました。彼らは外部や内部からの様々な困難の中でも御言葉に従い、御言葉を宣べ伝え続けました。その時困難を乗り越えて勝利し、神様のことばは、ますます広まって行きました。神様のみわざは御言葉を宣べ伝えることを通して成し遂げられます。?コリント1:21には「神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。」と言っています。また、ローマ10:17節には「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」と言っています。イエス様はこの世に来られ、休まず御言葉を教えられました。

 神様のみことばはいのちのことばです。今日の私達は情報の洪水の中で暮らしています。しかし私達にいのちを与える情報は少ないのです。この世の知識はむしろ私達を悩ませ、高慢にならせます。またある知識は人々の魂を滅びに導きます。しかし、神様の御言葉は私達に真のいのちを与えます。神様の御言葉は私達のしおれたたましいを生かし、真の喜びと平安を与えます。神様の御言葉は私達にわしのように上る力を与え、どんな状況の中でも勝利の人生を送るようにします。神様の御言葉は私達が罪人であることを悟らせ救いに至らせる知恵を与えます。神様の御言葉を通して人生の意味と目的と使命を見つけることができます。ですから御言葉を宣べ伝えることは至急のことであり、大切なことです。私達が御言葉を宣べ伝えなければ人々は霊的な無知の中でそのまま死んで行くのです。神様は切なる心で私達に言われます。「人々にこのいのちのことばを、ことごとく語りなさい。」