1999年聖誕メッセージ(?)

 

恵まれた方

 

御言葉:ルカの福音書1:26?56

要 節:ルカの福音書1:30、31「

すると御使いが言った。『こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。』」

 

私達は先週のメッセージを通して正しい者の恥を取り除いてくださる神様について学びました。本文の御言葉はマリヤに臨まれた聖誕のメッセージです。この時間、マリヤが受けた恵みは何か、マリヤを通して生まれるイエス様はどんな方であるのかについて学びます。

 

?。恵まれた方(26?38)

 

26,27節をご覧下さい。「ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。」御使いガブリエルはザカリヤにヨハネの誕生を知らせた後、六か月目に今度はガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。

彼女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤと言いました。彼女は田舎町の平凡な処女でした。また、純潔な処女でした(34)。ユダヤの「いいなずけ」は事実上法的な「妻」です。しかし一年間同居せず、それぞれ自分の家で純潔を守り、一年後結婚式を行ないました。ヨセフと婚約したマリヤの心はどうだったのでしょうか。洪ヨセフ宣教師と婚約した安藤マリヤ牧者のような心だったでしょう。彼女は美しいバラ色の夢を見ていたでしょう。ヨセフは貧しい大工でしたがダビデ王の家系でした。彼は正しい人であり、信仰の人でした。マリヤはこのようなヨセフと結婚して子供を産んで暮らすことを考えると世の中の誰をもうらやましいとは思わなかったでしょう。マリヤは毎晩美しい夢を見ていました。マリヤはこの夢が永遠に続くことを願いました。

 ところがある日突然御使いガブリエルが彼女に現れて驚くべきあいさつをしました。28節をご覧下さい。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込みました。マリヤは現在ヨセフと結婚することだけでも満足し他の恵みは要りませんでした。それでは御使いはマリヤがどんな恵みを受けたことを知らせました。30,31節をご覧下さい。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」「恵まれる」とは必要なものが十分にあって、不平不満を感じない状態にあることを意味します。恵みとはギリシャ語でカリスと言いますが、それは美しいもの、喜び、楽しみ、感謝、親切などの意味を含めています。一般的に人々は健康に恵まれたとか、機会に恵まれたとか、天気に恵まれた、良い両親に恵まれたと言います。物質的に祝福を受けた時にも恵まれたと言います。しかしこのような恵みとはレベルが違う恵みがあります。何の資格もない者に値無しに与えられる高価な恵みがあります。それはイエス・キリストの犠牲によって私達に与えられる救いの恵みと神様に選ばれ人類の救いの御業に用いられる恵みです。マリヤは将来ヨセフの妻となり食事の用意をしたり、洗濯したり、子供の面倒を見ながら暮らすはずの田舎処女に過ぎませんでした。しかし彼女は神様の恵みを受けました。その恵みとはイエスという男の子を産むことです。つまり、イエス様の母親になることです。それはどうしてそれほど恵みとなるのでしょうか。それは彼女が産むイエス様がどんな方であるかを知れば、彼女が受けた恵みがどれほど大きいものであるかがわかります。

第一に、イエス様はすぐれた者となります。御使いは言いました。「その子はすぐれた者となり(32a)」ここですぐれた者とはグレートマン(GREAT MAN)として偉大な人を指します。偉大な人はどんな人ですか。他の人ができない立派なことをする人を偉大な人と言います。偉大な政治家、偉大なスポーツ選手などは才能や自分の努力がある場合が多くあります。しかし人間の偉大さは才能や自分の努力よりも罪悪な本性を克服して真理を行なうことにあります。人間の偉大さは人格とその人の生き方と使命、そしてどれほど多くの人々に仕えたかなどの内面性にあります。このような点からみるとイエス様は実に偉大な人でした。イエス様は人類を愛し、仕えたからです。イエス様は偉大な教育者であり、偉大な医者であり、偉大な説教者であり、偉大な弟子養成者でした。芸術活動はなさいませんでした。なぜなら天地創造の時にすでになさったからです。イエス様は人間の根本問題である罪と死の問題を解決し、人類の心を征服した偉大な征服者です。

第二に、イエス様はいと高き方の子と呼ばれます。これはイエス様が本来神様であられる方であり、神の御子であることを言ってくれます。イエス様は人間を支配するサタンの力に打ち勝ち、私達を罪と死から救うことができる力を持っておられる方です。イエス様はすべての被造物から誉れと栄光を受けるにふさわしい方です。

第三に、イエス様がダビデの家系から産まれた王である。32節をご覧下さい。「また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」イエス様はダビデの王位を受け継がれた王です。これはイエス様がダビデの子孫からメシヤをお遣わしになるという神様の約束が成就されたことであり、ダビデのように神様を愛し民を愛する王であることを言ってくれます。イエス様はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません(33)。これはイエス様のどのように民を治めるかを言ってくれます。世の王達は法律と制度、権力と武力によって民を治めます。しかしイエス様は選ばれた神様の民、ご自分を信じて従う人々を愛と平和、公平と正義によって治められます。世の国は一時的ですが、イエス様が治める国は永遠です。この国はイエス様の十字架と復活によって建設された国で滅びることがありません。その国は永遠の国であり、真理の国であり、愛の国であり、不正腐敗のない完全な公平と正義の国です。

マリヤがこのようなイエス様を産むことは大きな恵みです。マリヤはイエス様を産み、育てることによって人類歴史上一番偉大な人として多くの人々から尊敬され、慕われる女性になりました。今日も多くの人々がマリヤを人類の母として崇めています。作曲家シュベルートはマリヤの美しい生涯に感動されて「アベマリヤ」を作曲しました。この曲はとてもきよく美しいためカトリックではむやみに歌うことを禁じているそうです。ミケラン・ゼロは聖母マリヤが死んだイエス様を抱いている有名なエビタ像を彫刻しました。数多くの美術家達が聖母マリヤを描きました。今日カトリック教ではマリヤを尊敬するあまりマリヤの名によって祈りさえ捧げています。マリヤは本当に恵まれた人です。ところがこの恵みを受けるためには痛みと犠牲と苦難が伴いました。受けた恵みが大きかったほどに苦しみも大きかったのです。マリヤがイエス様を産むことによって愛するヨセフから誤解され、結婚の夢が壊れる痛みがあります。処女がみごもると、石に打たれ殺される律法時代でした。マリヤがイエス様をみごもることはいのちをかけた冒険でした。何よりも愛するヨセフのことを考えるととてもできないことでした。自分がみごもったことがわかるとヨセフはどう思うか考えると痛みがありました。また、イエス様は人々から捨てられ、十字架につけられ死なれます。それを見る母親としての苦しみがあります。愛する息子が人々から徹底的に捨てられ、殺されることを見る母親の心はどれほど痛かったでしょうか。その時の苦しみに対して聖書は「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。」(2:35)と記されています。イエス様が死なれた後にもマリヤはイエス様を信じる人を迫害する人々のゆえに苦しみました。しかし、彼女が受ける苦しみには意味があり、将来栄光が保証されている苦しみでした。このような苦しみと痛みの中でマリヤは人類の母として成長することができました。

真の恵みにはこのように犠牲と苦しみが伴います。世の中で受ける苦しみは人を惨めにします。しかし、私達がキリストのために受ける苦しみには意味があります。私達はキリストとともに苦しむことを通してキリストと深く交わることができます。その時、私達は神様はどんな方であり、イエス様はどんな方であり、自分はどんな存在であるかを知ることができます。苦しみの中で神様が与えてくださる慰めと愛を受け、神の国に対する生ける望みを持つようになります。キリストとともにする苦しみは私達を力ある人、偉大な人にします。その苦しみは永遠の価値があります。神様に用いられた人々はみな、苦難のしもべでした。アブラハム、モーセ、ダビデ、使徒パウロなど誰一人苦しみなしに偉大な人になった人はいません。

私たちにはキャンパスの学生たちを弟子として育てる使命があります。これは私達が受けた恵みです。ところがこの恵みとともに苦しみがあります。私達の集まりは弟子を養う集まりなのでもっと大きな苦しみがあります。人を助けることは簡単なことではありません。ある時は傷つけられたり、自尊心が砕かれる苦しみがあります。学校の勉強だけでも大変なのにアルバイトをしながら自立し、それにキャンパスの兄弟姉妹たちに仕えることには多くの苦しみが伴います。今年一年間一人の羊に仕えるために時間やお金や心を注ぎましたが、「ありがとう」と一言も言わず、離れてしまった兄弟姉妹のゆえに心を痛めて苦しんだ方もいます。また、何とか一人の兄弟姉妹に仕えようと頑張りましたが、それができず今年もわずか残っていることに対して心を痛める方もいます。

しかしこのような苦しみはキリストの苦しみに参加することですから恵みです。また私達を通して命の実が結ばれることを考えると恵みです。中国のことわざにこのようなものがあります。「一年を計る人は花を育てる。10年を計る人は木を育てる。100年を計る人は人を育てる。」私達が将来この国と世界の指導者になるキャンパスの兄弟姉妹達をイエス様の弟子として育てることは100年を計ってする偉大な仕事です。私達の受ける苦しみを通して偉大な宣教師が出て来るでしょう。この時代の偉大な指導者が産まれ育つでしょう。このような苦しみを通してこの時代さまよっているキャンパスの兄弟姉妹達が救われます。また、私達の心にはイエス・キリストのかたちが作られます。私達が神様の御前に立ったその時、主は私達を誉めてくださるでしょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。」

 ところがマリヤはどんな点を理解することができませんでしたか。34節をご覧下さい。そこで、マリヤは御使いに言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」マリヤは処女が子供を産むことに対して理解することができませんでした。それでは御使いはこれがどのようにして可能であると言いましたか。35節をご覧下さい。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」イエス様は処女マリヤの体を借りてお生まれになるので人間の罪から区別された聖なる者となります。ところがイエス様が処女降誕は人類歴史上たった一度しかない事件なので私たちの理性によっては理解することができません。これはただ信仰によって受け入れるしかありません。御使いは理解することができないマリヤに不妊の女といわれていたエリサベツも神様の力によって年老いてから男の子を宿していると言いました。そして最後に「神にとって不可能なことは一つもありません。」(37)と言いました。ここで「こと」は「おことば」(38)と同語で、創18:14の引用です。「主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今頃、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」全能の神様の御言葉には不可能なことがありません。無から有を創造する方はいくらでもこのようなことが可能です。マリヤは御使いの言葉を聞いてどのようにしましたか。38節をご一緒に読んでみましょう。「マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。」これは偉大な信仰の決断であり、偉大な従順でした。普通の人だったら「恵みもいいですが、少し考えさせていただきます。」とか「ヨセフと話し合ってから決めます。」と言ったでしょう。しかしマリヤは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。彼女はどうやってこのように決断することができたでしょうか。それは彼女がヨセフのいいなずけであり、親の娘であることより主のはしためとしての姿勢があったからです。はしためは主人の言うことに対して文句を言う事ができません。はしためは主人に言われたことに絶対的に従います。マリヤはいつも主のはしためとして主の御言葉に聞き従う生活をして来ました。また、彼女は神様を信じていました。神様がなさることだから神様にすべてのことをゆだねることができました。このような信仰がある時、ためらうことなく神様の御言葉に聞き従うことができます。彼女は従順の人として主が願われる時、いつでも自分を捧げることができる準備ができている人でした。神様はこのような人を用いられます。

このような信仰の従順があったのでマリヤは聖母マリヤとして貴く用いられました。マリヤは神様のくださる祝福に対して信仰によって応答しました。神様の祝福を受けるためには信仰によって答える必要があります。神様がいくら祝福しようとしても私達が信仰によって応答しなければ祝福を受けることができません。

 

?。信じきった人は、何と幸いでしょう(39ー56)

 

そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急ぎました。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつしました。彼女は信仰の先輩を訪ねて行きました。ここで私達は難しい問題がある時、信仰の先輩を訪ねて行くことがどれほど大切なことであるかを学びます。難しい時には誰のアドバイスを聞くかによって霊的な状態が左右されやすいです。人間的な友達を訪ねて行くとつまずきやすいです。しかし信仰の先輩を訪ねて行くと霊的な慰めを受け、霊的な方向をつかむことができます。エリサベツがマリヤの挨拶を聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされました。そして大声をあげて言いました。42?45節をご覧下さい。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子供が喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じ切った人は、何と幸いなことでしょう。」エリサベツはマリヤをねたみませんでした。マリヤを見て「どうしてみごもるようになったの。大変だね。どうしよう。」と言いませんでした。エリサベツはマリヤに信仰と確信を与えました。エリサベツの慰めと励ましを受けたマリヤの心にはすべての心配と不安と恐れが消え去り、神様に対する賛美が流れて来ました。46-48節をご覧下さい。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」マリヤは心から主に感謝し、喜びを持って主をほめたたえました。そしてこれから後、どの時代の人々も、マリヤを幸せ者と思うビジョンに燃えるようになりました。49-55節までは、すべての主を恐れる信徒への神の恵み、とりわけ低い飢えた人々への顧み、敵へのさばき、イスラエルの救いをたたえています。彼女はこの事件を通して神様はどんな方であり、神様が遣わすメシヤによって始まるビジョンを見てほめたたえています。神様は全能な方であり、聖なる方であり、あわれみの方です。高ぶる者、権力ある者、富む者ではなく、謙遜な者、低い者、飢えた者を選ばれ、用いられる神様をほめたたえています。イエス様の誕生はイスラエルの歴史と救いの御業において先祖達に語られたとおりに働かれる神様、真実な神様であることを悟り、神様をほめたたえています。

 私は今日のメッセージを準備しながら私のような惨めな者に大きな御旨を置かれ、キャンパスの救いの御業に用いられる神様の恵みを新しく悟り、感謝と賛美を捧げるようになりました。私は一生罪と死の奴隷となって惨めに人生を終えるはずの者でした。このような者さえ主は希望を置かれ、この時代、キャンパスの兄弟姉妹達に仕える大きな恵みを与えてくださいました。将来この国の指導者になる人々を育てる牧者の人生、宣教師の人生を過ごすようにしてくださいました。この恵みとともに苦しみもありますが、それを通して主との深い交わりができるし、信仰が成長する喜びがあります。足りない者ですが、今年一年間も毎週主日礼拝のメッセージを伝えるようにしてくださいました。私の罪を赦し、私の健康を支え、今年一年間も主の御業に仕える恵みを与えてくださいました。私をこの時代、キャンパスの牧者であり、この国の宣教師として用いてくださった主に感謝と賛美をささげます。今度のクリスマスには神様が私達に施してくださった恵みを覚えて主に感謝と賛美を捧げることができるように祈ります。