1999年 創世記第17講

 

救いの御業にヨセフを用いられた神様

 

御言葉:創世記42?47章、50章

要 節:創世記45:7

「それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者を

この地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。」

 

私たちは先週のメッセージを通してヨセフとともにおられる神様について学びました。神様はヨセフが苦難の時にも、成功した時にもともにおられ、勝利の人生を過ごすようにしてくださいました。きょうの御言葉はヨセフの後半部の生涯として、神様が彼を救いの御業にどのように用いられたかを記しています。本文の御言葉を通して第一に、真の愛について、第二に、摂理を信じる信仰について、第三に、真の望みについて学びたいと思います。きょうの御言葉を通してヨセフのような信仰と愛と望みを持つことができるように祈ります。

 

?.兄たちを本当に愛したヨセフ(42:1-44:34)

 

ヨセフは17歳にエジプトに奴隷として売られて来て30歳にエジプトの総理大臣になりました。そして年月は経ち、7年間の大豊作は過ぎ去り、ひどい飢饉が続きました。飢饉はヤコブが住んでいたカナンの地にも同じでした。そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行きました。しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょに行かせませんでした。ヨセフはエジプトの権力者であり、この国のすべての人々に穀物を売っていました。そこにヨセフの兄弟たちは来て、顔を地につけて彼を伏し拝みました。ヨセフは兄弟たちを見て、それがわかりました。また、ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出しました。神様が啓示された夢が実現されたことがわかりました。同時に、自分を憎んで泣きながらあわれみを請う自分を奴隷として売った兄達のことも思い出したでしょう。ところが、彼らの中に弟ベニヤミンがいませんでした。ヨセフはベニヤミンも自分のように奴隷として売られたのではないかと思ったかも知れません。それでヨセフは、彼らに「あなたがたは間者だ。この国のすきをうかがいに来たのだろう。」と言いました。そして弟のベニヤミンを連れて来ることによって彼らの真実さを証明するように言いました。こうしてヨセフは彼らを三日間、監禁所にいっしょに入れて置きました。ヨセフは三日目に彼らに「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」それによって兄たちはどんな罪意識に陥りましたか。21節をご覧下さい。彼らは互いに言いました。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」ルベンが彼らに答えて言いました。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」(22)。彼らは20年前に犯した罪によって苦しんでいました。彼らは不幸なことが起こるたびに弟のことで罰を受けているのだと思い、苦しんでいました。このように罪の問題は神様に悔い改めて罪の赦しを受けない限り、いつまで経っても解決されません。人は罪を犯すとその時から心の幸せがなくなります。

兄達は、ヨセフと彼らの間には通訳者がいたのでヨセフが聞いていたとは知りませんでした。ヨセフは彼らが過去自分を奴隷として売った罪のゆえに苦しんでいることに心を痛めて彼らから離れて、泣きました。ヨセフが泣いたのを見ると、彼がどれほど純粋な人であり、心から兄達を愛していたかがわかります。ヨセフは彼らの中からシメオンをとって、彼らの目の前で彼を縛りました。そして、彼らの袋に穀物を満たし、彼らの銀をめいめいの袋に返し、また道中の食糧を彼らに与えるように命じました。さて、帰る途中の宿泊所で、袋をあけてみると、自分達の銀が袋の中にそのまま入っていました。彼らは心配し、身を震わせて互いに言いました。「神は、私たちにいったい何ということをなさったのだろう。」

 こうして、彼らはカナンの地にいる父ヤコブのもとに帰って、その身に起こったことをすべて彼に告げて言いました。ヤコブはヨセフを失ったのに、今度はシメオンもいなくなり、そして、ベニヤミンまでも失うのではないかと苦しみました。それでベニヤミンを彼らといっしょには行かせないと言いました。しかし、その地での飢饉は、ひどかったのでヤコブは兄たちがベニヤミンを連れて行くことに対して許さざるを得なくなりました。その時、ユダは父親に「私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。」と説得しました。それでヤコブは「全能の神がその方に、あなたがたをあわれませてくださるように。そしてもうひとりの兄弟とベニヤミンとをあなたがたに返してくださるように。私も、失うときには、失うのだ。」と言ってすべてのことを主にゆだねました。

ヨセフはなかなか来ない兄弟達のことで心配しながら彼らが来るのを毎日待っていたでしょう。そして彼らが来たことを聞いて非常に喜び、特にベニヤミンもいっしょに来たのを見て非常に喜んだでしょう。ヨセフは兄弟達を家へ連れて行き、豊かにもてなすようにしました。それからシメオンも彼らのところに連れて来ました。ヨセフが家に帰って来たとき、彼らは持って来た贈り物を家に持ち込み、地に伏して彼を拝みました。ヨセフはまず父の安否を尋ねました。そして同じ母の子である弟のベニヤミンを見て「わが子よ。神があなたを恵まれるように。」と祝福しました。弟ベニヤミンはヨセフがエジプトに売られて来る時、幼い子供でした。しかし、今は大人になって自分の目の前にいました。30節をご覧下さい。ヨセフは弟なつかしさに胸が熱くなり、泣きたくなって、急いで奥の部屋にはいって行って、そこで泣きました。やがて、彼は顔を洗って出て来ました。そして自分を制して、「食事を出せ。」と言いつけました。ここで「自分を制して」と書いてあるのを見ると、ヨセフは感情に支配されず、聖霊に支配されていることがわかります。ヨセフは母親なしに育った弟を21年ぶりに会った時、どれほど胸が熱くなったでしょうか。彼がそのような自分の感情を抑えることは自分の意志や力によっては不可能なことだったでしょう。ヨセフがもしここで自分の感情を抑えきれず、兄弟達の前で泣いてしまったなら、それ以上兄達を訓練することができなかったでしょう。しかし、彼は自分を制して彼らを最後まで訓練することができました。

ヨセフは年長者は年長の座に、年下の者は年下の座にすわらせました。また、ベニヤミンにはほかのだれの分け前よりも五倍も多く与えました。彼らが帰る時、ヨセフは兄たちの心を知るために再び事件を起こしました。ヨセフは家の管理者に、ベニヤミンの袋に自分の銀の杯を穀物の代金といっしょに入れておくように命じました。彼らが町を出てまだ遠くへ行かないうちに、ヨセフは家の管理者に彼らのあとを追いついて調べるようにしました。その結果、当然ベニヤミンの袋から銀の杯が見つかりました。そこで彼らは着物を引き裂き、おのおのろばに荷を負わせて町に引き返しました。彼らから盗まれたものが出たので弁解の余地がありませんでした。

過去だったらベニヤミンにすべての責任を負わせて自分達だけが生き残る道を考えていたでしょう。実際に兄達には罪がありませんでした。しかし、彼らは自分達に一緒にしもべになると言いました。ヨセフは「杯を持っているのを見つかった者だけが、私の奴隷となればよい。ほかのあなたがたは安心して父のもとへ帰るがよい。」と言いました。このようにしてヨセフはベニヤミンに対する兄達の心を試したのです。その時、ユダ゙は自分を犠牲にしてベニヤミンを救おうとしました。44:18-34節まではユダがそれをお願いする内容です。彼のお願いは非常に感動的で、説得力があります。彼はベニヤミンの代わりに自分が一生奴隷になると言いました。これはイエス様に似ています。イエス様は私たちの罪のためにご自分を購いの代価として捧げたからです。それによって私たちは罪の奴隷から解放され真の自由といのちが与えられました。

ユダの言葉を見ると、彼が真実に悔い改めたことがわかります。

第一に、彼には責任感がありました。彼はベニヤミンに何か問題が起こると自分が責任を負うと父に約束しました。その約束通りに彼はベニヤミンの代わりに奴隷になると言ったのです。過去彼は約束したことも自分に損になるようだったらその約束をやぶってしまう不真実な人でした。しかし、今は自分を犠牲にしてでも自分がしたことに対して責任を負う責任感のある人となりました。

第二に、弟に対する愛があります。過去彼は弟を憎み、奴隷として売る時に先頭に立ちました。彼はヨセフがどれほど苦しみ、悲しむかに関心がありませんでした。しかし、今はベニヤミンを失うと年老いた父がどれほど悲しみ、苦しむようになるかを考えました。彼は自分のいのちより父や弟のいのちをもっと愛する人になりました。彼はベニヤミンを罪に定めませんでした。神様は彼の真実な悔い改めを受け入れ、彼を救いの御業に貴く用いられました。

45:1節をご覧下さい。ヨセフは、兄達が悔い改めたことを知った時、それ以上自分を隠す必要がありませんでした。それで、自分を制することができなくなって、みなを、自分のところから出してから声をあげて泣きました。それがどれほど大きかったか、エジプト人はそれを聞き、パロの家の者もそれを聞きました。彼が今までわざと事件を起こして兄達を困らせたことは彼らに復讐するためではありませんでした。ヨセフは兄達を真に愛していました。ヨセフは彼らを訓練することによって彼らが罪を悟り、悔い改めることを願いました。

以上から私たちは真実の愛とはどんな愛であるかを学ぶことができます。真実な愛はプレゼントを買ってあげたり、食べ物を買ってあげたりすることではありません。ポティファルの奥さんがヨセフを愛したような肉的な愛でも、ヤコブがベニヤミンを愛したような愛でもありません。真実な愛は罪人が悔い改めて罪の赦しを受けるように助ける愛です。また、真実な愛は悔い改めた人が神様に用いられるように助けることです。しかし、これは大切なことですが、やさしいことではありません。ヨセフはこの愛が実を結ぶまで多くの涙を流しました。ヨセフはユダと兄弟達が悔い改めるまで様々な事件を起こしました。兄達にスパイという汚名を着せました。シメオンを監獄に入れました。愛するベニヤミンに泥棒の汚名を着せて苦しめました。ヨセフは兄弟達を愛していたのでそのようにすることは非常に心を痛めることでした。しかし、彼らが罪を悟り、悔い改めるまでそのようなすべての痛みを耐え忍びました。一言でヨセフの愛は、罪人が悔い改めて罪の赦しを受けるように助ける愛でした。兄達を神様に導く牧者の愛でした。命を生かす霊的な愛でした。この愛が実を結ぶまでヨセフは心を痛めながら多くの涙を流しました。この愛によってヨセフの兄達は罪の赦しを受けて新しい人生を過ごすようになりました。ヨセフは自分を奴隷として売った兄達が生まれ変わり、新しくなるまで愛によって仕えました。イエス様も敵である私たちが悔い改めて罪の赦しを受けるように十字架の苦しみを耐え忍ばれました。敵である私たちのためにご自分の尊いいのちを捨てられました。

私たちはヨセフを通してどのように人を愛することが本当に人を愛することであるかを学ぶことができます。それは聖書の御言葉を教えることによってその人が自分の罪を悟り、その罪の問題が解決されるように祈り、助けることです。それができなければいつかはその人は自分の内面の苦しみの問題を解決できず、離れて行きます。人々には誰にもヨセフの兄達のような罪の問題があります。ある人は子供の時に犯した罪の問題のために大人になっても苦しんでいます。また、ある人は自分の罪の問題を隠しておいて墓の中まで持ち込んで行こうとする人もいます。ある人は不幸なことが起こるたびに天罰が当たったと思います。しかし、人々の前では正しい人のように振舞います。ダビデは王でしたが、罪を犯した時、非常に苦しみました。このように罪は人の魂を病気にかからせます。人間関係で悩ませ、消極的で、排他的な人にします。運命的な考えを持つようにします。すべての希望を奪って行きます。鬱病など精神的な病気にかかるようにします。このように罪の問題は人間を不幸にする一番深刻な問題です。私たちはこのような人々を受け入れ、愛によって助けなければなりません。彼らが神様の御前に自分の罪を悟り、罪の赦しを受けるように助けることが本当にその人を愛することです。そのためには相手に対する深い関心と牧者の心がなければなりません。相手も自我が砕かれる痛みがありますが、助ける人もそれ以上の痛みがあります。ある時にはヨセフのように隠れて涙を流すこともあるでしょう。ある時には責めることも必要でしょう。しかし、痛みがあるとしてもその人を本当に愛しているなら、そのまま放っておくわけには行きません。神様は出エジプトしたイスラエル人を40年間荒野で訓練されました。彼らの関心はどうすれば一日も早く約束の地に入り、楽に暮らせるかにありました。しかし、神様の関心は彼らが聖なる国民、祭司の王国となり、万民の救いの御業に用いられることでした。そのために彼らに訓練が必要でした。神様は日ごとの糧を食べる訓練、安息日を守る訓練、律法を守る訓練などを40年間も行なわれました。それを通していつも人の目を気にし、依存心が強く、いつも不平不満を言う奴隷根性が強いイスラエル人が聖なる神の民となるように育てられました。これは神様の聖なる愛でした。私たちもヨセフのように人を愛することができるように祈ります。

 

?.神様が用いられるヨセフ(45:1-47:26)

 

ユダの言葉を聞いたヨセフは兄たちに自分を現しました。そして驚きのあまり、声も出せない兄達に神様の摂理を証しました。4-8節はヨセフの証しです。5節をご覧下さい。「今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」ここで私たちはヨセフが兄達を赦し、彼らを暖かく受け入れることができたのは、彼に信仰があったからであることがわかります。ヨセフは自分の人生が兄達の手によって左右されたのではなく、神様の主権と摂理の中で導かれたことを証ししました。兄達はヨセフを憎んで奴隷として売りましたが、神様はそれを働かせて益としてくださいました。彼を鍛錬してエジプトの総理大臣として立てられました。8節をご覧下さい。「だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。」それを通して神様がなさろうとしたことは何でしょうか。

第一に、ヤコブの家族のいのちを救われました。ヨセフの兄弟たちが来たという知らせが、パロの家に伝えられると、パロもその家臣たちも喜びました。そして彼らに車や食糧を与えて家族を連れてエジプトに来るように言って送り出しました。彼らは父に「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」と言いましたが、父は彼らを信じることができなかったのでぼんやりしていました。ヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見てやっと「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」と元気良く言いました。エジプトに行ったヤコブの家族はみなで七十人でした。神様はヨセフを通して飢饉によって飢え死にするしかなかったヤコブの家族を救われました。また、エジプトで非常に増えて大きな民族になるようにしました。

第二に、多くの人々を救われました。47:13-26節を見ると、ヨセフがどれほど智恵を尽くして働いたかが出ています。ヨセフは飢饉が非常に激しかったので、全地に食物がなくなった時、人々に穀物を売って代金としてすべての銀を集めました。そして、それをパロの家に納めました。銀が尽きたら、今度は家畜と引き替えに穀物を与えました。次の年には農地と引き替えに穀物を与え、ついに人々はパロの奴隷となりました。こうしてその土地はパロのものとなりました。そして彼らに種を与え、収穫の時になったら、その五分の一はパロに納め、五分の四は彼らのものとするようにしました。総理大臣になったヨセフは高慢にならず、パロのために忠実に働きました。そのようにしてエジプトやその周りの国々の人々を生かしました。神様はヨセフをいのちを生かす御業に貴く用いられました。

このようにヨセフが苦難を克服して神様の御業に貴く用いられた秘訣は何でしょうか。それは神様の摂理を信じる信仰があったからです。50:20節をご覧下さい。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」ヨセフは自分がエジプトに奴隷として売られたのは偶然ではないと思いました。兄達に売られたからでもなく、神様が彼を命を生かす御業に用いるために遣わしてくださったと信じていました。彼には神様の絶対的な主権と摂理を信じる信仰がありました。彼がこの信仰の目で自分の人生を顧みた時、彼の人生は美しく見えました。

もし彼に信仰がなかったなら彼の人生はどれほど惨めに見えたでしょうか。彼はヤコブの12息子の中で11番目として生まれました。彼の10人の兄達は違う母親から生まれたので彼は兄達から苛めながら育ちました。幼い時に母親がなくなったので彼は悲しい人生を過ごすしかありませんでした。夢の話をしたことで奴隷として売られ、異邦人の地で奴隷生活をしなければなりませんでした。幸いにポティファルの家の管理人になりましたが、汚名を受けて監獄に入れられました。それはどんなに悲惨なことでしょうか。ヨセフは自分の人生がこんなに不幸になったのを悲しみながらこの世と神様を呪うしかありませんでした。「ああ。僕なんか生まれなかったほうが良かった。」と冷たい監獄の中で涙を流すしかありませんでした。

しかし、ヨセフは自分の生涯をそのように悲しくて悲惨な人生として見ていません。彼は神様が自分を家族と多くの人々の救いのために先に遣わしてくださったと言っています。ローマ8:28節は次のように言っています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ヨセフは神様が完璧なご計画の中で自分の人生を導いておられることを信じていました。神様の摂理を信じる彼には運命という単語がふさわしくありませんでした。運命、虚無、失敗などの言葉は神様を信じる人々にはふさわしくない言葉です。ですから、私たちが自分の人生をどんな観点から見るかによって完全に違います。神様なしに自分の人生を見ると、虚しくなり、悲しくなります。しかし、神様を信じる人にとっては神様が自分の人生を常にベストの道に導いておられることがわかります。

神様の摂理を信じる信仰を持っている人は明るくなり、肯定的になります。すべての弱さと孤独に打ち勝ち、感謝と恵みに満たされた人生を過ごすことができます。ヨセフは神様の摂理を信じる信仰によって勝利の人生を過ごしました。神様の摂理を信じる信仰は異邦人の地での悲しみと孤独を克服できる力を与えてくれました。また、誘惑に打ち勝つ力を与えてくれました。監獄という最悪の状況を耐え忍ぶことができる力を与えてくれました。総理大臣になった時にも謙遜に任された仕事を忠実に果たすことができました。摂理を信じる信仰によって兄達を訓練し、赦し、愛することができました。彼の人生はある時には失敗したかのように思われましたが、人生の全体を考えて見る時、それは決して失敗ではありませんでした。私たちも自分の人生を目先のことだけ見るのではなく、長い目で見る必要があります。すると、当時には失敗したかのように思われたり、苦しみばかりあるかのように思われたりしても、年月が経ってから自分の人生を顧みるとすべてが神様の導きであったことがわかります。ですから、私たちは苦難の時にも祝福の時にも神様の摂理を信じて生きるべきです。すると、人生が終わる時、悔いのない人生を送ったと言えるでしょう。

 

?.ヨセフの望み(47:27-31,50:1-26)

 

さて、イスラエルはエジプトの国でゴシェンの地に住みました。彼らはそこに所有地を得、多くの子を生み、非常にふえました。ヤコブはエジプトの地で十七年生きながらえました。彼に死ぬべき日が近づいたとき、その子ヨセフを呼び寄せて自分が死んだら、エジプトから運び出して、先祖たちの墓であるマクペラのほら穴に葬ってくれるように頼みました。彼が死んだ時、エジプトは彼のために七十日間、泣き悲しみました。葬式の行列にはヤコブの家族だけではなく、エジプトのパロの家臣達や長老達もいっしょだったので非常に大きなものでした。そこで彼らは非常に荘厳な、りっぱな哀悼の式を行ない、ヨセフは父のため七日間、葬儀を行ないました。ヤコブの葬儀は彼が多くの国民の父らしいものでした。

父が死んだ後、兄たちの心にヨセフが自分達を恨んで、彼らが犯したすべての悪の仕返しをするかもしれないと恐れました。そこで彼らはことづけしてヨセフに言いました。「あなたの父は死ぬ前に命じて言われました。『ヨセフにこう言いなさい。あなたの兄弟たちは実に、あなたに悪いことをしたが、どうか、あなたの兄弟たちのそむきと彼らの罪を赦してやりなさい、と。』今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください。」ヨセフは彼らのこのことばを聞いて泣きました。そして彼らを慰めました。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」ここで罪を悔い改めることも大切なことですが、悔い改めた罪が赦されたことを信じて自由になることも大切であることがわかります。主がすべての罪を赦してくださると約束してくださったのにそれを信じることができず、重い罪意識にさいなまれているならどれほど不幸なことでしょうか。

ヨセフは百十歳まで生きました。ヨセフは17歳にエジプトに来て30歳に総理大臣になり、110歳に死にました。彼は80年間先進国であるエジプトで豊かな生活をしました。彼はその文化に同化されるに充分な年月でした。しかし、彼は少しも同化されず信仰の中心を守りました。彼が臨終の時に持っていた望みは何ですか。50:24、25節をご覧下さい。彼はイスラエル人が出エジプトすることを予言し、そのとき、自分の遺体をここから携え上ってアブラハム、イサク、ヤコブが葬られているところに葬ってくれるように頼みました。彼は神様の人としてのはっきりとしたアイデンティティを持っていました。彼の望みはエジプトにあったのではなく、約束の地、カナンにありました。さらに新しいカナン、神の国にありました。このようなはっきりとした望みのゆえに彼はエジプトでの富や権力に心を奪われず、神の人として勝利の人生を過ごすことができました。

結論、以上から学んだヨセフの生涯を考えて見ると、彼は本当にすばらしい人物であったと思われます。それでヨセフはヨセフで私とは関係がないと思います。しかし、ヨセフの生涯を美しくしたのは神様です。創世記の著者は繰り返して「神が彼とともにおられた」と記しています。神様がヨセフの人生を導いてくださいました。神様が彼とともにおられたので彼は運命を克服していのちを生かす神様の御業に貴く用いられました。神様は私たち一人一人ともともにおられ、導いておられます。神様は私に完全なご計画を置かれ、導いておられます。この神様を信じる信仰によって私たちもいのちを生かす神様の御業に貴く用いられるように祈ります。