1999年コリント人への手紙第二 第8講(♪525)

 

主にあって誇りなさい

 

御言葉:コリント人への手紙第二10:1?11:33

要 節:コリント人への手紙第二10:17

「誇る者は、主にあって誇りなさい。」

 

 今日の御言葉はパウロの使徒職に対する弁護です。使徒パウロが心を尽くしてコリント教会を開拓して離れた後、コリント教会の中には様々な問題が発生しました。それでパウロはその問題を解決するためにコリント人への手紙第一を書いて送りました。しかし、問題は解決されず、もっと広がりました。その中で一番深刻な問題は党派心の問題でした。コリント教会の中ではユダヤの律法主義者達が勢力を得て高慢になり、パウロの使徒職に異議を申し立てて人々を混乱させました。それでパウロはコリント人への手紙第一を書いて送った後、急いでコリント教会を訪問しました。しかし、問題は解決されず、悲しみを抱いて帰らなければなりませんでした。その後、パウロは自分の使徒職を弁護するコリント人への手紙第二を書くようになりました。パウロが自分の使徒職に対して積極的に弁護する理由は、自分の名誉を回復するためではなく、にせ使徒達によって破壊されて行く神の教会を立て直し、彼らによって惑わされているコリント教会の人々の信仰を助けるためでした。

 今日の御言葉を通して私達が戦うべき霊的な戦いの特徴は何であり、また、私達が本当に誇るべきことは何であるかを学びたいと思います。

 

?.主にあって誇るパウロ(10章)

 

第一に、キリストの柔和と寛容を持って勧めるパウロ(1,2)

 1節をご覧下さい。「さて、私パウロは、キリストの柔和と寛容をもって、あなたがたにお勧めします。私は、あなたがたの間にいて、面と向かっているときはおとなしく、離れているあなたがたに対しては強気な者です。」コリント教会の中にはパウロを非難するにせ使徒達がいました。彼らはパウロが離れていながら手紙を書く時には強気な者ですが、面と向かっている時には軟弱な者だと非難しました。このような非難はパウロを人間的な目で見てキリストに見習う彼を理解できなかったから生じたことです。パウロが人々に柔和と寛容を持って仕えたのは、キリストに見習っていたからです。

 弱肉強食の社会では強い人だけが認められ、病んでいる人や弱い人は、無視されたり、いじめられたりします。しかし、イエス様は神の御子ですが、この世に来られ、私たちの弱さを深く理解し、同情してくださいました。イエス様は病んでいる人々を哀れみ、癒してくださいました。そして、弱くて罪を犯した罪人を罪に定めず、赦してくださいました。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは決して罪を犯してはなりません。」イエス様は痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく、大きな愛によって生き返らせてくださいました。このイエス様の心は疲れ果てている人々を招く御言葉によく現われています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:28、29)。

 イエス様は神の羊の群れに対しては柔和と寛容を持って仕えてくださいましたが、福音に敵対する人々に対しては少しも妥協せず、強気でした。イエス様は偽善のパリサイ人や律法学者達に向かって「おまえたち蛇ども、まむしのすえども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。」(マタイ23:33)と厳しく言われました。このようなイエス様は両面性を持っておられる方です。

 使徒パウロはこのようなイエス様を学ぶことを願いました。彼は元々柔和な人、寛容な人ではありませんでした。彼はパリサイ人出身として律法的であり、柔和と寛容な心とはかけ離れた残忍な人でした。しかし、彼が復活されたイエス様に出会ってイエス様の心を見習うことに励んだ時、彼は柔和な人、寛容な人として新しく変えられました。彼もイエス様のように神の羊の群れに対してはキリストの柔和と寛容を持って仕えましたが、福音に敵対する人々に対しては強気でした。パウロが第一次伝導旅行の時、キプロスに行って総督に福音を宣べ伝えていた時でした。その時、バルイエスというユダヤ人の魔術師が福音を宣べ伝えるのを妨害しました。その時、パウロは聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、言いました。「ああ、あらゆる偽りとよこしまに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵。おまえは、主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。見よ。主の御手が今、おまえの上にある。おまえは盲になって、しばらくの間、日の光を見ることができなくなる。」するとたちまち、彼は盲人になってしまいました(使徒13:10、11)。このようにパウロがキリストに見習う生活に励んだ時、両面性を持つ神様のしもべになることができました。

 

第二に、要塞をも破るほどに力のある私達の戦いの武器(3?6)

 3?6節をご覧下さい。「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。

私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。

私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」この御言葉から私達の霊的な戦いで必ず知らなければならない幾つの原則を学ぶことができます。

 第一に、私達の信仰の戦いは血肉の戦いではなくサタンとの霊的な戦いです。戦いの相手が悪霊だという事実を認識する時、血肉の戦いをせず、霊的な戦いをするようになります。すなわち、人を憎んだり、感情的になったり、暴力によって解決しようとせず、祈りと御言葉によって問題を解決しようと努力します。問題が発生した時、人間的な方法によって解決しようとすると問題が解決されるどころか、もっと大きな問題が発生するようになります。しかし、祈りと御言葉によって霊的に解決しようとすれば、神様の助けによってすべての問題が解決されます。

 第二に、私達は戦うべき対象の本質が何かを知らなければなりません。福音の敵達の本質は一言で高慢です。高慢は神様の主権に服従せず、神様と同じくなろうとする心であり、神様に逆らう心です。神様を知っていながら、その神様を神様としてあがめず、感謝もせず、心の欲望のままに生きようとする心です(ローマ1:21)。高慢は神様を知ろうとしたがらない心です(ローマ1:28)。私達が戦うべき相手の本質が何かを知ることは大切なことです。「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」という言葉のように相手の兵力、長短を知り、味方の兵力、長短を知って、戦えば、どんな戦いでも勝つことができるのです。

 サタンは非常に狡猾に自分の姿を偽装して現われますが、その本質はいつも同じです。19世紀初めの頃現れたダーウィンの進化論や20世紀の初めの頃現われた共産主義の本質は神様の存在を否認し、神様に逆らう高慢です。今日は欧米文明が段々没落するにつれて人々は東洋思想に多くの関心を持っています。特に気功や超能力、気の思想などに好奇心を持っています。ところが、東洋思想は神と人が同じであるという思想です。気の思想も人間に内在する究極的な気が宇宙の究極的な気と同一化するとき、人間は完成され究極的な存在としての自覚と喜びが与えられるという思想です。すなわち、人が神のような能力を持つ存在になれるという思想です。科学主義も結局人間の力によって神様の主権に逆らっています。また、肉の快楽を求める人は神様を知ろうとしたがらない高慢な心を持っています。このように福音に敵対しているものの本質は神様に逆らう高慢なのです。

 第三に、私達が持っている武器について知る必要があります。私達の戦いの武器は核ミサイルのような武器ではなく霊的な武器です。これは、要塞をも破るほどに力のあるものです。この武器は聖霊の剣、すなわち、神様の御言葉です。もっと具体的に言えば、イエス・キリストの十字架と復活によって完成された福音です。この福音はさまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させることができる驚くべき力があります。すなわち、どんな罪人も新しく生まれさせる力があります。私達がサタンとの霊的な戦いで勝つためには、神様が与えられる霊的な武器を持っていなければなりません。サタンとの戦いで私達の知恵や力によっては決して勝つことができません。戦いにおいて勝敗の要因はいろいろありますが、その中で大切な要因になるのが武器です。神様が下さった福音はすべての武器の中で一番優れた最先端の武器です。コリントの町は天然の要塞であり、難攻不落であったと言います。しかし、福音はこれを粉みじんに破壊してしまう力があります。それは神の力だからです。私達は一人でも多くの人々を主に導きたい切なる心を持っています。ところが、人々を信仰に導くのは、人の言葉や知恵ではありません。言葉や知恵で多少は人を感心させたり感動させたりはできます。しかし、人の魂はどうすることもできません。人の魂は、親子とか夫婦とかいった関係でも、どうにもならないものです。子供の時には親の言うことを聞きますが、中学生くらいになると、親の言うことを聞きたがらず、反発します。ですから、自分の子供だとしても親としての権威と力によって主に導くことができないのです。まことに、人の言葉によって、人が悔い改めたり、神様を信じるということは起こりません。だから、一人の人が信仰生活に入っていくことは、奇跡としか言いようがありません。全く神様のみわざなのです。そして私達に、伝導の武器として与えられているものは、世のものではなく天からのものです。これによって、どんな障害をも乗り越え、キリストに服従させていくことができるのです。私達が神様の力によって戦っているなら、障害などはすべて問題ではありません。パウロはその神様の武器の力を体験して次のように言いました。「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:18)。私達に与えられた戦いの武器を持ってキャンパスの学生達を主に導き、主に従わせることができるように祈ります。

 

第三に、本当の誇り(12?18)

 パウロは12節で自己推薦をしている人々の愚かさを指摘しています。彼らは自ら作った基準を持って自分達の間で自分を量ったり、比較したりしました。使徒パウロは神様が定めてくださった限度を超えて誇りはしまんでした。彼がコリントに福音を宣べ伝えたのも自分の領域を広げようとする人間的な野心を持ってしたのではなく、神様から遣わされたので彼らに純粋に福音を宣べ伝えるためでした。また、パウロは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしませんでした。ただ、コリント教会の人々の信仰が成長し、彼らによって、彼の働きが広げられることを望んでいました。

 パウロは17、18節で本当の誇りはどんなものであるかを言います。「誇る者は、主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」パウロは伝道者として、実に大きな働きをしました。しかし、彼は「誇る者は、主にあって誇りなさい」と言っています。この御言葉は私達が本当に誇るべきことは、自分を誇ったり、人間的なものを誇るのではなく主にあって誇り、さらに、主を誇るべきであることを教えてくれます。また、本当に受け入れられる人は自分で自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人であることを教えてくれます。

 人々はよく自分を誇ります。家を誇り、車を誇ります。富を誇り、学問を誇り、地位を誇り、業績を誇ります。親達は集まると自分の子供を誇り、その話を聞いて見ると、まるで彼らの子供達はみな天才のように聞こえます。女性は美しさを誇り、男性は強さを誇ります。背の高い人は背を誇ります。人々は自分を誇りたくて仕方がありません。人々の話をよく聞いていると、その内容はほとんど自分を誇っていることがわかります。しかし、このような人間の誇りは神様がご覧になる時、無価値なものであり、むなしいものです。エレミヤ9:23、24節は次のように言っています。「主はこう仰せられる。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。・・主の御告げ。・・」私達が本当に誇るべきことは創造主である神様を知っていることと神様の品性です。

 私達は主にあって誇るべきです。これは主が私達のうちになさった出来事や私達を通してなさった神様の力あるみわざを誇るのです。さらに、主を誇ることです。私達は神様の偉大な創造の力と一人子さえ惜しまずにお与えになった神様の愛を誇らなければなりません。また、私達を罪から救うために十字架につけられ死なれたイエス・キリストの犠牲的な愛を誇るべきです。そして、その方の謙遜と柔和、哀れみを誇るべきです。イエス様を誇ることはいくらしても言い過ぎではありません。なぜなら、イエス様は私達が誇るのにふさわしい方だからです。誇ることは宣伝することです。私達に誇りたいことがあれば、熱心に宣伝するようになります。主が私達を、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった目的は、イエス様のすばらしいみわざを、宣伝させるためです(?ペテロ2:9b)。今年熱心にイエス様を宣伝してキャンパスの学生達と1:1聖書勉強ができるように祈ります。

 

?.弱いことを誇るパウロ(11章)

 

 この章は、パウロがいかにコリント教会の人を愛したかを語っているところです。彼は神の熱心をもって、熱心に彼らを愛していることを語っています。11:2節をご覧下さい。「というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。」パウロは神の熱心をもって、コリント教会の人々がキリストに対する純粋な愛、真実な愛を回復するように助けています。パウロはコリント教会の人々を清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストに捧げようと婚約させました。クリスチャンはキリストと婚約した者ですから、キリストに対する真実と貞潔を失ってはなりません。真実とはひたすら思うことであり、貞潔とは誘惑に負けないことです。パウロはコリント教会の人々がキリストと結び合わされて真に幸せになることを望んで仲立ちをしたのです。しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にも彼らの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、パウロは心配しています(3)。

 パウロは自分に対してどんな自負心がありましたか。彼は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いませんでした。たとい、話は巧みでないにしても、知識についてはそうではありませんでした。彼の手紙はほとんど聖書になったほどです。また、彼は自分にある権利を使わず、コリント教会の人々を高めるために、自分を低くして報酬を受けずに神の福音を彼らに宣べ伝えました。パウロは純粋に彼らを愛していました。しかし、にせ使徒たちはコリント教会の人々の心にパウロの愛に対して疑わせました。こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです(13)。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するからです(14)。悪魔が悪魔の姿であったら問題ではありません。最も天使らしい、神の使いらしい姿こそ、警戒しなければなりません。神様よりも自分のことを思ってくれる、心配してくれるような姿で近づくからです。しかし、行ないの実はだますことができません。行ないの実を通して真の使徒か、にせ使徒かを区別することができます。

 16?33節まではパウロの誇りです。パウロは自分を誇ることが愚かなことですが、誇ろうとします。それはパウロに対する彼らの誤解を解いて信頼関係を結ぶためでした。パウロは自分について何を誇りますか。彼の誇りの中には彼がキリストの働き人としてどれほど多くの苦しみがあったのかがよく現われています。彼がそのような多くの苦しみを受けたのはキリストを愛していたからです。また、イエス・キリストの尊い血によって買い取られた兄弟姉妹を自分のように愛していたからです。

 30節をご覧下さい。「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」パウロは、自分の弱さを誇りました。それは自分の弱さを通して主の力が現われるからです。

 

 結論、神様は私達に要塞をも破る戦いの武器を与えてくださいました。それは福音です。私達が、この福音を持って霊的な戦いで勝利することが出来るよう祈ります。また、自分の一生懸命に誇るこの時代に、私達は主にあって誇ることができるように祈ります。