1999年ルカの福音書第12講

 

神の国で食事をする人

 

御言葉:ルカの福音書14:15?24

要 節:ルカの福音書14:23「主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、

    この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」

 

 本文は救いがどうやって異邦の世界に流れるようになったかを説明しています。ここには救いの宴会を催し、罪人を切なる心で招かれる神様の愛がよく現われています。今日の御言葉を通して切なる心で神の国の宴会に招く神様の愛を学び、私達もキャンパスの兄弟姉妹達をサマー・バイブル・キャンプに招くことができるように祈ります。

 

?.神の国で食事をする人(15-24)

 

 今日の御言葉はイエス様がある安息日に、パリサイ派のある指導者の家に招かれた時に言われた御言葉です。安息日の礼拝が終わってから高名なラビや他の友人を宴会に招くことは今日もユダヤ人の間に習慣となって受け継がれています。ラビ達はいくら貧しくても安息日に客にもてなすように教え、それを宗教的な義務として考えていました。ところが、イエス様はパリサイ人達がことごとく言葉じりをつかもうとしたり、つぶやいたりしたため気楽に食事ができるところではありませんでした。1b節を見てもみんながじっとイエス様を見つめていました。このような雰囲気の中ではなるべく早く食事を済ませてから帰りたくなります。しかしイエス様はゆっくり彼らと話しながら助けが必要な人々を助けてくださいました。

 15節をご覧下さい。イエス様が義人の復活とその時受ける祝福について言われると、いっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエス様に、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言いました。彼は自分のように律法をよく守る人は当然神の国の宴会に参加することができると考えていたようです。正統派のユダヤ人は、異邦人や罪人がその宴会に参加することは考えもしませんでした。イエス様はこのような彼らに誰が神の国で食事をすることができるかについてたとえで教えてくださいました。

 16節をご覧下さい。ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招きました。「盛大な宴会」と言ったのを見ると、それは普通の宴会ではないことがわかります。マタイ22:2節にはある王が王子のために結婚の披露宴を設けたと書いてあります。王子は将来王位を受け継ぐ人なので彼の結婚の披露宴は王や王子や民にとって非常に大切な宴会です。ここには特別に選ばれた人々だけが参加することができます。王に招かれることは大きな特権です。本文の宴会は神様が人々の救いのために設けられた宴会です。それは神様が長い年月をかけて用意され、ついにイエス・キリストを通して設けられた救いの宴会であり、いのちの宴会です。この宴会に招かれて食事をする人は、何と幸いなことでしょう。

 17節をご覧下さい。主人は宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせました。それでは「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから」とは、どういう意味でしょうか。神様は人間を救うために何を用意されたのでしょうか。神様は人間が罪を犯した時、創世記3:15節で人類の救いの計画を立てられ、長い年月の間、預言者達を送ってメシヤの道を用意させられました。ついに時になると約束の通りにイエス・キリストをこのように救い主として遣わしてくださいました。イエス様はこの世に来られ、罪人に仕え、人類のすべての罪を背負って十字架につけられ死なれました。それによってイエス様は私達が払うべき罪の代価を代わりに払ってくださいました。イエス様は十字架を背負って罪の問題を解決し、また死者の中からよみがえられたことによって死の問題を解決してくださいました。神様はイエス・キリストの十字架と復活によって私達に永遠のいのちを与えられ、神の国に対する生ける望みを与えてくださいました。また、私達に使命を与えてくださり、過去自分のように罪の勢力に縛られて苦しんでいる人々に福音を宣べ伝え、いのちを生かす祝福を与えてくださいました。このように神様が用意された救いの宴会は乏しいことがありません。神様は私達の救いと幸せのためにすべての必要なものを用意されたのです。ですから救いのために私達にできることは何もありません。ただ信仰によってその招きに応じればいいのです。神様は100%完璧に救いの宴会を用意してしもべ達を遣わし、人々を切なる心を持って招いておられます。「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから」。神様は私達が暗闇と絶望の状態から離れて救いの宴会に参加することを切に願っておられます。

 ところが、招かれた人々の反応はどうでしたか。18節をご覧下さい。彼らはみな同じように断り始めました。パレスチナでは、宴会が催される時には、その日付が相当以前から知らされていて、招待状が前もって送り届けられます。ですから彼らはすでに約束しておいたので招きを断ることは考えられないことでした。当時二度目の招きを断ることは、招いた人に対する侮辱でした。それでは彼らが招きを断った理由は何でしょうか。

 18-20節をご覧下さい。最初の人は、畑を買ったので、どうしても見に出かけなければならないと言いました。もうひとりは、五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところだと言いました。また、別の人は結婚したので、行くことができないと言いました。事実彼らの言うことはみな言い訳に過ぎません。なぜなら、彼らはすでに宴会に参加すると約束しておいたからです。彼らが救いの宴会を一番大切に思っていたなら何はともあれ、参加することができたでしょう。土地は購入済みで他人の手に渡る心配はなくなったから、今こそ宴会にゆっくり出席できるはずです。牛をためすことも後でもいくらできることです。結婚した人は夫婦同伴で参加すればもっといいでしょう。彼らの問題は彼らの関心が宴会より他のところにあったことです。彼らは霊的なことより肉的なことにもっと関心がありました。この世の快楽を求めることに関心がありました。彼らはノア時代の人々のように神様のことより世のことをもっと大切に思っていました。

 最初に招かれていた人達とはユダヤ人のことです。彼らは神の到来を待ち望んでいました。ところが、その到来が現実になると、皮肉にも彼らはその招きを拒否したのです。今日も人々はお金や体のことには関心が多くありますが、霊的なことには無関心です。コンピュータや英語勉強には関心がありますが、聖書勉強にはあまり関心がありません。アルバイトやサークル活動で朝から晩まで忙しい生活をしていますが、聖書を学ぶために時間を使うことは惜しむ心があります。松坂先週が出る試合を見るためには、朝早くから競技場の前に列を組んで並びますが、サマー・バイブル・キャンプに参加するためにはそれほど熱心がありません。しかし、私達に本当に大切なことは何でしょうか。体のことでしょうか。たましいのことでしょうか。今日世界の科学文明はものすごく発達していますが、霊的にはどんな時代よりも荒れ果てています。霊的な腐敗は必然的に道徳的な腐敗を伴います。私達はこのような時代にこの世と調子を合わせてはなりません。科学文明が私達を罪から救うことができますか。コンピュータが私達を死から救うことができますか。私達を罪と死から救うことができるのはただ福音だけです。

 

?。無理にでも連れて来なさい(21-24)

 

 21節をご覧下さい。しもべは帰って、このことを主人に報告しました。すると、おこった主人は、そのしもべに言いました。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』ここで貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえはイエス様の弟子達のように貧しい人であり、取税人や遊女のような罪人達です。彼らは本来何の資格もなく、招かれなかった人々でした。しかし彼らは一方的な恵みによって招かれるようになりました。

 主人は急いで出て行って、彼らを連れて来るように言いました。それは救いの宴会は決して延期したり諦めたりするものではないことを言い表します。救いの福音は霊的ないのちに関わるものだから急いで宣べ伝えなければなりません。私達は身近な人々が福音を知らずに病気や事故で死ぬことに接すると彼らに急いで福音を宣べ伝えなかったことで心を痛める時があります。福音を知らない人々は霊的に見るとまるで死にかけている患者のようです。その人々が死ぬか生きるかは時間との戦いです。そのまま放っておくと、いつか死ぬしかありません。ですから、私達は彼らが救いの宴会に参加するように急いで福音を宣べ伝えなければなりません。22節をご覧下さい。しもべ達は主人から言われた通りに多くの人々を連れて来て言いました。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』すると、主人はどんな命令をしましたか。23節をご一緒に読んで見ましょう。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』ここで「街道や垣根」は異邦の世界を指し、そこに住んでいる人々は異邦人を指します。彼らは救いの知らせを全然聞いたことがない霊的に無知な人々でした。偶像崇拝をしながら霊的に暗闇の中に住んでいました。彼らは本来神の国の宴会に参加する資格がない人々でした。しかしユダヤ人の違反によって、救いが異邦人に及んだのです(ローマ11:11)。神様はユダヤ人でも異邦人でもイエス・キリストを信じる人は誰でも救われる恵みを与えてくださいました(ローマ10:11、12)。事実私達も本来異邦人としてこの恵みを受ける資格のない者でした。罪と咎だらけの者でした。この世と調子を合わせながら神様の御心に逆らっている人々でした。私達はみな、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、生まれながら神様の御怒りを受けるべき人々でした。しかし、哀れみ豊かな神様は、私達を愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪の中に死んでいた私達をキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのです(エペソ2:1-5)。

 この譬え話から私達は切なる主人の心を学ぶことができます。街道や垣根のところに出かけて行って、人々を連れて来るのは難しいことです。しかし主人はこの家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来るように言いました。「無理にでも」この言葉は主の招きの熱心さを示しています。人々は霊的な無知のために救いの宴会に来ようとしません。人々は罪が何であり、神様はどんな方なのか、イエス様はどんな方なのかをよく知りません。それで神様が用意されたその宴会がどれほど大切な宴会であるかがわかりません。何よりも光よりもやみを愛する心があります。また、悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ません(ヨハネ3:19、20)。このような人々は無理にでも連れて来なければ宴会に参加させることが難しいことです。

 「無理にでも人々を連れて来なさい」という言葉にはどうしてでも天の御国の宴会に連れて来ることを願われる神様の切なる愛がよく現れています。神様は一人も滅びることなく救われることを願われます。神様の愛は無理にでも人々を招く愛です。私達はこの愛のゆえに救われました。ある人は宣教師がしつこく訪ねて来るから修養会の登録費を払いました。そしてそのお金が惜しくて修養会に参加しましたが、イエス様に出会い、救いの恵みを受けました。私も神様の無理やりにひぱってくださる愛がなかったならここに立ってメッセージを語ることはなかったでしょう。私は大学2年の時、聖書勉強を通してイエス様を信じるようになりました。ところが、軍隊に入ってからは以前の状態に戻り、神様から離れるようになりました。軍隊生活が終わると牧者たちがしつこく1:1聖書勉強に招いたので、仕方なく聖書勉強を再開しました。ところが、すでにかたくなになっている心には御言葉が入りませんでした。それで1:1牧者が変わったりして私を助けましたが、私は全然変わりませんでした。その年の夏修養会に参加する私はお金を払ったので何か得よと思って毎日一番前の席に座り、御言葉を聞きました。ところが、一日、二日、三日が過ぎても何の感動も変化もありませんでした。私はもう諦めて三日目の夜には一番後の席に下がりました。ところが、その日の夜の講義の時間が始まろうとした時、不思議なことが起こりました。何と私の目から思いがけなかった涙が出ているのではありませんか。私は涙を流そうとする意志がまったくなかったのに、自然に涙が出ていたのです。その涙は夜の講義が伝えられている間、ますますあふれ出て、ついに鼻水まで一緒に出ました。その涙は夜の講義が終わっても止まりませんでした。その時のメッセージは羊のためにいのちを捨ててくださった良い牧者、イエス様でした。私はその時、やっと自分の罪を悟り、神様から離れて自分勝手な道を歩んでいたことを悔い改めました。神様は心がかたくなになってなかなか悔い改めない私を無理やりに悔い改めさせてくださいました。私はその神様の愛と恵みによって今の私になりました。もし牧者たちの切なる心と神様の愛がなかったなら私は今どうなっていたでしょう。

 この世には外見は丈夫ですが霊的に貧しい人や、不具の人や、目が見えない人や、足の不自由な人が多くいます。彼らは街道や垣根のところでさまよっています。天の御国の宴会を知らないので世の快楽を求めています。真の神様を知らないので偶像崇拝をしています。神様は8月12日からサマー・バイブル・キャンプを用意してくださいました。この世には多くの宴会がありますが、私達のたましいを生き返らせ、私達に命を与える宴会は多くありません。神様は私達に真の人生の意味と目的を悟らせ、真の勇気と希望を与える宴会を用意しておられます。私達を苦しめる罪の問題、死の問題を解決してくれる宴会が用意しておられます。私達は4月から毎日夜明けの祈り会を設けてこの宴会を用意して来ました。これからはメッセージや所感、演劇、賛美などのプログラムを用意します。私達が招いた人々がみな満腹できるごちそうを用意できるように祈ります。また、私達が神様の切なる心や愛を学び、人々を招くことができるように祈ります。主は私達に言われます。「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」。神様が私達を遣わし、今年のサマー・バイブル・キャンプに150名の人々を招いてくださるように祈ります。