1999年ルカの福音書第16講

 

失われた人を捜して

 

御言葉:ルカの福音書19:1?10

要 節:ルカの福音書19:10

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

 本文には、失われたザアカイを捜して救われるイエス様の美しい話が出ています。ザアカイは取税人のかしらで、金持ちでしたが、失われた人でした。イエス様はザアカイを救ってからご自分がこの世に来られた目的について次のように言われました。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。イエス様が言われる「失われた人」とはどんな人でしょうか。失われた人を捜して救うために来られたイエス様はどんな方でしょうか。今日の御言葉の学びを通して「失われた人を捜して救うために来られたイエス様に会うことができるように祈ります。

 

?.いちじく桑の木に登ったザアカイ(1-4)

 

 1節をご覧下さい。イエス様は、エリコにはいって、町をお通りになりました。エリコは交通の中心地であり、商業が発達した都市だったのでそこには大きな収税所がありました。2節をご覧下さい。ここには、ザアカイという人がいましたが、彼は取税人のかしらで、金持ちでした。ザアカイという名前は「純潔、正義」という意味です。彼の親はザアカイが神様の前で純潔で、正しい人になるようにこういう名前をつけてくれたでしょう。それでは彼はどんな人でしたか。彼は取税人でした。取税人は主にローマ帝国の税金を徴収する人のことです。彼らは実際に定められた税金以上のものを徴収したので一般の人々から強奪者と呼ばれ、嫌われていました。外国のために同胞から重税を集めるため憎まれ、ユダヤ人社会の仲間入りをゆるされず、友人となることさえも嫌われました。彼らは当時遊女とともに公認された罪人でした。ザアカイはこのような取税人、それも取税人のかしらでした。

 彼が取税人のかしらになったのを見ると、努力家だったと思われます。当時大部分のイスラエル人はローマの植民地の民として貧しい生活をしていました。福音書を見ると、人々は貧困や様々な病気、悪霊につかれて苦しんでいました。それはその時代がどんなに住みにくい時代だったかを言ってくれます。しかし、ザアカイはそのような時代に屈服しませんでした。彼は自分を押し迫る状況に向かって戦いました。彼は弱肉強食の競争社会で生き残るためにどれほど頑張って来たでしょう。彼はお金さえあれば何でもできると思い、一生懸命お金を儲けたでしょう。

 また彼が取税人のかしらになったのを見ると、執念深い人だったと思います。どんな分野でも頂点に立つことはやさしいことではありません。他人の二倍,三倍の努力が必要です。特に取税人達は粘り強くて冷淡な人々ばかりです。そのような人々の中から彼がかしらになるためにはどれほど努力したことでしょう。特に彼は背も低かったのです。背が低い身体条件のために無視される時もあったと思います。彼は背が低いことで劣等感にさいなまれたかも知れません。しかし、彼はこのような人間条件を乗り越えて競争者達をひとりひとり勝ち抜いて来ました。不景気で回りの人々がリストラの対象になっても彼は生き残りました。そしてついに取税人のかしらになることができたのです。こうして彼は社会的な地位もお金も得ることができました。彼の家はプールがあってこのような暑い時にはそこで泳ぎました。出かける時にはベンツ馬車に乗りました。それでは彼は幸せになったでしょうか。いいえ。彼は決して幸せになることができませんでした。なぜなら彼は人々から認められなかったからです。人々は誰でも他人から認められたい心を持っています。ザアカイも人間だからこのような願いがあったでしょう。彼は人々から尊敬される人になりたがったでしょう。しかし、人々は彼の後ろから「泥棒、売国奴、裏切り者」と悪口を言いました。彼は人々から疎外されました。それで孤独でした。いくらお金があっても孤独でした。また虚しくなりました。しかし、自分の本音を言える相手が一人もいませんでした。

 また彼は自分を認めることができなかったので幸せではありませんでした。人々は誰でも純潔で、真実で、聖い生活を送りたいと願います。しかしザアカイはそれとはかけ離れた者でした。汚れた人生であり、偽りの人生でした。彼はこのような自分を認めることができませんでした。鏡の前に立つたびに「なぜお前はこんな者になったの」と悲しげに言いました。

 彼は存在の意味と目的を失ったので少しも幸せではありませんでした。彼は夜昼も努力して社会的なな地位や富を得ることが出来ました。しかし、これらのものを通して人生の意味や目的を知ることができませんでした。彼は取税人のかしらになる目標を目指していた時にはその目標に至ると幸せになるだろうと思いました。しかしそれは大きな錯覚でした。彼は目標を達成した時からひどい虚無感にさいなまれるようになりました。彼の魂は虚無の深淵に陥り、絶望という死の病を患うようになりました。彼が方向を失った鳥のようにさまよう時、悪魔は彼を自分の奴隷にしてしまいました。彼は罪と死から来る不安でいっぱいでした。彼が自分の歩いてきた道が間違ったことに気づいた時にはもう取り返しがつかない状況になっていました。

 このような彼はある日、イエス様がエリコを通られるという噂を聞くようになりました。3a節をご覧下さい。「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが」。彼はイエス様がどんな方か見ようとしました。それは単なる好奇心からではなく、霊的な好奇心、霊的な望みでした。彼はすでにイエス様に対して多くの噂を聞いていたでしょう。彼はイエス様が罪人と取税人を受け入れ、ともに食事をするという噂を聞きました。また、イエス様の弟子達の中には元取税人だった人もいると聞きました。彼はこれらの噂を聞いて段々イエス様に会いたくなりました。ところが、そのイエス様がエリコを通られるということでした。彼は今度の機会にどうしてもイエス様に会おうとしました。しかし、彼がイエス様に会うためには克服しなければならない障害物がありました。

 第一に、彼が克服しなければならない障害物は群衆でした。ザアカイが群衆の間を通り抜けてイエス様のところに行くことはやさしいことではありませんでした。人々は彼をすごく憎んでいたので彼を見たらサッカーボールみたいにあちこち蹴ってしまうでしょう。また、彼の顔を野球ボールみたいに打つ人もいるでしょう。彼は怒った群衆に袋叩きにされるかも知れません。ですから、彼がイエス様に会うことは勇気が必要でした。

 第二に、彼が克服しなければならない障害物は背が低いことでした。彼はイエス様を見ようとしましたが、背が低かったので、群衆のためにイエス様を見ることができませんでした。彼はウサギのようにぴょんぴょん跳ねてみても見ることができませんでした。子供達はそのような彼の様子を見て「ウサギちゃん。ウサギちゃん」とからかいました。彼は背が低いことで絶望するしかありませんでした。普通の人なら「しょうがないな。」と思って諦めてしまうと思います。しかし、彼は諦めませんでした。彼はどうしてもイエス様を見ようとしました。彼は周りを見ました。すると、いちじく桑の木が見えました。それで彼は前方に走り出て、取税人のかしらとしてのプライドも捨てていちじく桑の木に登りました。背が低く、お腹が出ている太った彼にって木に登ることはやさしくありませんでした。しかし、彼はどうしてもイエス様に会いたい切なる心を持っていたので、何度も挑戦していちじく桑の木に登りました。彼はまるで木の上に座っている熊のようでした。

 ここで私達はイエス様に会おうとする時、必ず障害物があることとそれを克服するためには何よりも霊的な望みが重要であることを学びます。私達がイエス様に会おうとする時、回りの人々が障害物になることがあります。普段はあまり関心を示さなかった人々も聖書勉強を始めたり修養会に参加しようとすれば強い関心を持って妨害します。また、内的な障害物もあります。多くの人々が集まっているところを恐れる人もいます。修養会に参加すれば自分も変わってしまうのではないかと恐れる人もいます。しかし、このような障害物を克服することができるのは霊的な望みです。イエス様に会おうとする切なる望みがある時、どんな障害物も克服することができます。エレミヤ29:13節は次のように言っています。「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」

 

?.ザアカイの家に泊まるイエス様(5-10)

 

 5節をご覧下さい。イエス様は、ちょうどそこに来られて、いちじく桑の木に熊のように座っているザアカイを見上げて彼に言われました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」この御言葉から私達はイエス様について二つのことを考えてみたいと思います。

 第一に、ザアカイの名前を知っておられるイエス様です。ザアカイは嫌われ者で取税人の自分の名前など有名なイエス様が知っているとは思っていませんでした。彼は久しぶりに自分の名前が呼ばれました。人々は彼をザアカイと呼ばず、「売国奴、裏切り者、泥棒」と呼んでいたからです。彼は自分の名前を失っていました。ところが、イエス様は「ザアカイ」と呼んでくださったのです。イエス様は彼を尊い存在として扱ってくださいました。彼はイエス様から名前を呼ばれた時にショックを受けて木から落ちそうになったでしょう。良い牧者イエス様は彼の名前を知っておられました。イエス様は彼の内面を知っておられました。彼の心の渇きを知っておられました。彼の魂が谷川の流れを慕う鹿のように救いを求めていることを知っておられました。それでイエス様はザアカイに対して深い関心と愛情と理解を持って彼の名前を呼ばれました。「ザアカイ。急いで降りて来なさい」これは失われた人を捜すイエス様の御声です。イエス様は私達の名前を知っておられます。私の問題を知っておられ、私の必要を知っておられます。私の苦しみも悩みも知っておられます。

 第二に、イエス様は彼の家に泊まろうとされました。イエス様はザアカイを知ることだけではなく彼と人格的な関係性を結ぼうとされました。それで彼の家に泊まることにされました。人々は彼を遠ざけていました。誰も彼と付き合いをしませんでした。それで彼は孤独でした。彼には話し合う友達がいませんでした。彼は愛に飢えていました。イエス様は彼の家で一緒に食事をしながら話し合おうとしました。イエス様は彼の友となってくださいました。イエス様は彼を愛してくださいました。イエス様は彼を助けるためにご自分を低くされました。このイエス様は罪人に仕えるために来られた方です。

 イエス様は私の家に泊まることを願っておられます。私と一緒に食事をし、話し合うことを願っておられます。黙3:20には次のように書いてあります。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」イエス様は私を天の御国の宴会に招かれます。イエス様は私と深い愛の関係性を結ぶことを願っておられます。私の友となることを願っておられます。

 それではザアカイはどのようにイエス様を迎えましたか。6節をご覧下さい。ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエス様を迎えました。神様にも人にも見向きもされないと思っていた自分のところに、主イエスはご自分の方から来て下さいました。それはザアカイにとって罪の赦しを意味することであり、また神様の恵みの現れでした。神の国はこうしてザアカイの心に入って来ました。それでザアカイは大喜びでイエス様を迎えました。木から降りて来るとき、ズボンが木の枝に引っ掛かって少し破れましたが、気にしませんでした。彼はイエス様の愛に感動を受けました。彼の目からは感謝の涙が出ました。彼は喜びのあまり踊りました。そしてイエス様を自分の家に案内しました。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやきました。人々は、失われた人を捜し救うために来られたイエス様の心を知りませんでした。

 イエス様を迎えたザアカイの心にどんな変化が起こりましたか。8節をご覧下さい。ザアカイは立って、主に言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエス様に会ったザアカイは完全に変わりました。彼は新しく生まれました。彼はどんな点で変わりましたか。

 第一に、彼の価値観が変わりました。彼が自分の財産の半分を貧しい人達に施し、また、騙し取った物は、四倍にして返すということは過去の彼にとっては考えられないことでした。過去彼はお金の奴隷でした。彼はお金を儲けるためなら何でもやりました。彼の価値観は曲がっていました。神様、人間、万物、これが神様が立てられた創造の秩序です。しかし、彼はお金を自分の神として仕えていました。ところが彼がイエス様に出会ってからは価値観が変わりました。これからはイエス様が自分の人生の意味であり、目的になりました。その時、彼はお金の奴隷から解放されました。彼は自分の財産の半分を貧しい人たちに施しても少しも惜しむ心がありませんでした。彼の心にイエス様の愛が臨まれると隣人に対する愛が生じました。彼はもうお金の奴隷ではなく、お金を支配する人になりました。そして、そのお金を価値あるところに使うようになりました。

 もう一つは、彼は自己中心から神様中心、隣人中心にその人生が変わりました。過去彼は自分しか知らない利己主義者でした。考えることも話すことも自己中心的でした。食べるにも飲むにも何をするにも自分だけを考えました。彼の考えは自分から初めて自分に終わりました。彼は他人のことは少しも考えませんでした。ただすべての人々を競争の相手として考えました。しかし、イエス様に出会ってから彼は他人を考える人に変わりました。彼は失った神様のかたちを回復したのです。

 9節をご覧下さい。イエス様は、彼に言われました。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」イエス様はザアカイに救いを宣布されました。「きょう」という言葉は救いの現在性を言ってくれます。彼が悔い改めたその瞬間から彼は罪に定められず、救われたのです。彼がイエス様を受け入れた瞬間から彼の心の中で働いていた罪の意識、不安、虚無と絶望、裁きに対する恐れなどが消え去りました。その代わりに神の国の喜びと愛、平安が心の中に満たされました。彼は信仰によってアブラハムの子となりました。過去彼はサタンの奴隷でしたが、今は神様の子供となりました。人々は彼を希望がないと思い、捨てましたが、イエス様は彼に希望を置かれ、生かして下さいました。人々は彼が裁かれ地獄に落ちることを願っていましたが、イエス様は彼のすべての罪を赦し、救ってくださいました。イエス様は彼が悔い改めた時、非常に喜ばれました。

 イエス様は10節でご自分がこの地に来られた目的は何であるかを言われました。ご一緒に10節を読んで見ましょう。「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」ここでイエス様が言われた「失われた人」とはどんな人でしょうか。私達は元気よく過ごしているキャンパスの若者達や社会的な地位のある人や金持ちなどを見ると失われた人のように思われません。しかし、戸山公園に住んでいるホームレースは失われた人のように思われます。しかし、聖書的に見ると神様から離れて罪の中にいる人はどんな人でも失われた人です。神様から離れた人は人生の意味や目的を失いました。自我を失いました。本来の使命を失いました。尊い神様のかたちを失いました。神の国を失いました。このように神様から離れた人はみなさまようさすらい人になりました。ザアカイは社会的な地位や富を所有していましたが、イエス様がご覧になると失われた人でした。イエス様はこのような彼を哀れみ、捜して救ってくださいました。イエス様は失われた人をあわれみ、捜して救うためにこの世に来られました。そのためにイエス様は創造主ですが、被造物である人となられました。イエス様は失われた人を捜して救うためにご自分の尊いいのちを捨てられました。このイエス様に出会う人だけが失った神様との関係性を回復することができます。失った神様のかたち、失った自我を回復することができます。この神様に帰って来る道のみ唯一の救いの道です。

 今年のサマー・バイブル・キャンプに失われた多くの人々が参加し、イエス様に出会い、救われるように祈ります。今週から毎日夜の祈り会を行ないます。私達がザアカイのような失われた人を捜してサマー・バイブル・キャンプに連れて行くことができるように祈ります。先週火曜日に菊地康之兄弟がセンターに来ました。彼は8年前にセンターで聖書勉強をした兄弟です。ところが、大阪にある大学を卒業してからセンターから離れるようになりました。それから8年が過ぎた今彼は帰って来たのです。彼は三重県で8年間会社生活をして来たそうですが、御言葉に飢えていました。彼はザアカイのようにイエス様に会いたい望みを持って一人でここまで捜して来たのです。私は彼をサマー・バイブル・キャンプに招きました。彼はちょうどサマー・バイブル・キャンプが行なわれる8月12日から15日まで休暇を取っておいていました。私は聖書を学ぶ良いチャンスですから、ぜひ参加してほしいと言いました。そして、部分登録でもするように勧めました。すると彼はしばらく考えてからペテロのことを考えたと言いました。ペテロがイエス様に召された時、何もかも捨ててイエス様に従ったところです。そして、自分のいろいろな計画を後に回して完全登録をしました。私はそれを通して二つのことを学びました。一つは、私達は彼を忘れていましたが、神様は彼を忘れず、常に捜して救おうとされたことです。そして、一方的な恵みによって彼を導いてくださいました。もう一つは、私達が蒔く福音の種は決してむだではないということです。8年前に彼の卒業式の時に私は宣教師達と彼のところを訪問しました。しかし、彼は私達を見たら逃げてしまいました。私達はあまり話をかけることもできず、悲しみを持って東京に帰って来ました。しかし、私達が彼に蒔いた福音の種は決してむだではなかったのです。今年のサマー・バイブル・キャンプを通して菊池兄弟がイエス様に出会い、新しく生まれるように祈ります。イエス様は今もザアカイのような人々を招いておられます。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」。私達がこのイエス様の声を聞いて心の戸を開き、イエス様を迎え入れることができるように祈ります。