2003年ルカの福音書第18講
十二使徒をお選びになったイエス様
御言葉:ルカの福音書6:12?26
要 節:ルカの福音書6:13「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

  神様が夏修養会を通して私たちにイエス・キリストの十字架による赦しと癒しの恵みを施して下さり感謝します。特に、御言葉と宣教報告を通して新しい信仰とビジョンを持つようにしてくださり感謝します。今日の本文は、イエス様の弟子として、心を新たにして新しく出発しようとする私たちにとてもふさわしい御言葉であると思います。イエス様は山に行き、一晩中祈った後、弟子の中から十二使徒を選ばれました。イエス様はこの十二使徒によって「新しいイスラエル」を建て上げることを意図されたのです。実際にエペソ2章20節を見ると、この十二人を土台として、キリストの体なる教会が建てられて行ったことが分かります。では、イエス様はどのようにして十二人を選ばれたでしょうか。また使徒として選ばれた彼らはどんな価値観を持って生きるべきでしょうか。
この時間、私たちはイエス様が選ばれ、ご自身のものとされた者であることを確かめ、どんな価値観を持って生きるべきかを深く学ぶことができます。

?。十二使徒の選び(12-19)
12節を読んでみましょう。「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」ここで「このころ」とは宗教指導者たちの問題が浮かび上がってきたころのことです。当時の指導者たちは形式的であり、あまりにも律法的でした。そのことは6章の前半部を見ると、よく現われています。ある安息日に弟子たちが空腹のため、麦の穂を摘んで食べた時、彼らはイエス様たちを咎めました。別の安息日にはイエス様が片手のなえた人を癒されましたが、それを持ってイエス様を訴えようとしました。彼らは安息日であるという理由で、片手のなえた人に同情し、哀れむどころか、善を行なうことさえ禁じました。空腹をしのぐことさえ非難していました。そんな指導者たちのために、民たちは絶望し、苦しむしかありませんでした。人を非難し、論争ばかりしている指導者たちのために将来に対する希望を持つこともできませんでした。そのような時代に、イエス様は何をされましたか。国を根本的に直さなければならないと思って構造改革や聖域なき改革を訴えたでしょうか。あるいは指導者たちを変えるために当時の衆議院であるサンヘドリン議会を解散し、国民総選挙を実施することを主張しましたか。イエス様はご自分について来る多くの弟子たちと一緒にそれらのことができました。宗教指導者たちとの討論会を開き、彼らと議論して彼らを諭すこともできました。しかし、イエス様はそのようにしませんでした。人を非難することも、つぶやくこともなさいませんでした。祈るために山に行き、神様に祈りました。祈りながら夜を明かされました。一晩中祈られたのです。
ここで、私たちは時代の問題を感じられた時、問題が生じた時、まず第一に何をするべきかを学ぶことができます。イエス様は神様に祈られした。私は、今年のルカの福音書を学びながら、深く悟っていますが、イエス様は実によく祈られたお方でした。特に重大なことを決めたり、為さろうとされるときは徹夜祈りをされました。ご自分の働きの大事な節目において、よく祈られたのです。イエス様は、当時、問題だらけの指導者と戦いませんでした。彼らの問題を指摘し、非難することより神様に祈りました。それはイエス様が問題を避けたことではありません。むしろ、誰よりも問題を深刻に考えられたからこそ、その問題を持って神様の御前に出て行ったのです。人にはできないが、神様にできると信じたからこそ神様に祈りました。
私たちには問題がある時、急いで取り掛かり、言葉や力によって解決しようとする傾向があります。自分の知恵や経験によって解決しようとします。自分では、とてもできない困難や試練や苦しみにあった時にはどうします。「どうしよう、どうしよう」と動きまわって「あの手」、「この手」と考えます。時にそれも悪くはないと思います。人に助けてもらうことは必要でしょう。しかしまずその前に”神の前に静まる”という事を忘れない様にする必要があるのではないでしょうか。信仰の人は何よりも先に祈ります。自分の意見を主張したり、人に頼ったりするより、神様の御前に静まって祈ります。兄弟姉妹たちに対する心情があり、彼らをどうしても助けようとする人はまず祈ります。
先週、修養会の時、マリロペス宣教師は11年間の宣教師生活の中で祈りの力を学んだと告白しました。私は彼女の切実な祈り、具体的な祈りを通して感動し、自分の祈り生活を深く悔い改めるようになりました。彼女の祈りの生活は私に多くのことを教えてくれました。彼女は祈りによって開くはずのない扉が開くということを体験しました。彼女は旦那さんであるテリィ牧者が岩のような人になるように祈りました。忙しくて時間も心にも余裕のない学生たちが聖書勉強をするように祈りました。世の中で成功すること、人に認められ、受け入れられることばかり考えている学生たちがキリストの弟子として立てられるように祈りました。愛する家族が癒されるように祈りました。すると、神様は彼女の祈りを一つ一つ聞いてくださいました。具体的に切実に祈りつづける時、神様の働き、祈りの力を体験したのです。
神様が私たち一人一人にも「まず、第一に祈ろう」とする切なる願いをくださるように祈ります。もし、私たちが祈れないなら、何も解決できないはずです。人間的になり、結局は問題をますます複雑にしてしまいます。ですから、私たちは私たちの時代の問題を持って興奮し、非難するより、まず神様の御前に静まって祈るべきです。祈りますが、イエス様のように夜を明かすまで祈ることができなければなりません。これこそ、問題解決において一番積極的な方法です。神様のみわざに対して切に祈ることができないなら、兄弟姉妹たちのために、国と家族のために切実に祈ることができないなら、私たちは神様のみわざに対して話す資格を失ったことと同じです。一番中祈る経験なしに人のせいにすることはできないのです。なぜなら、私たちは神様の御心を伺わなかったからです。祈れないなら、もう霊的な指導者ではありません。今の時代について「あれこれ」言うことも恥ずかしいことです。知恵と力に満ちたイエス様も夜を明かされるまで祈られたのに、どうやって私たちが祈りもしないであれこれいえるでしょうか。哀れみ深い神様が私たちを助けてくださり、私たちが話し、行動する前に、まずイエス様のように祈ることができるように祈ります。そうして私たちのうちに神様の御心が現われ、神の国が建てられるように祈ります。
 イザヤ30章15節は言います。「神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」神様の前に静まる時、私達の心の中に平安や安らぎや冷静な判断力が出て来ます。困難、苦しみ、悩み、その他色々な事が出て来た時には、まず主の前に祈りましょう。呟いたり、不平を口に出したり、ただ動き廻る前に、「主よ、今こんな風に悩んでいます」と問題を神様の前に差し出していく姿勢を取って生きるように祈ります。
 ではイエス・キリストは山で何を祈っておられたのでしょう? 宗教指導者たちの問題、民たちの苦しみ、悲しみなどを考えながら神様の御心を求められたはずです。イエス様がご覧になったその時代の問題は、形式的であり、律法的な指導者たちにありました。彼らが変わらない限り、その時代に希望はありませんでした。ところが、彼らが変わる可能性は全く見えませんでした。新しい方向と新しい決断が必要な時でした。それでイエス様はその時代の問題を持って具体的な方向をつかむために山に行って祈られたのです。祈りながら夜を明かされたイエス様は何をされましたか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」この夜明けは、人類の歴史を変える夜明けになりました。長い夜の祈りが終わり、輝かしい太陽が昇りましたが、それとともに新しい歴史を始まるようになったのです。新しい人類の歴史の主役が生まれる夜明けであり、使徒の歴史の夜明けになりました。なぜなら、その夜明けに弟子の中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられたからです。イエス様の弟子の中から使徒チームが形成されたのです。使徒とは、その漢字が意味しているように、「派遣される者」という意味です。すなわちキリストから派遣される大使のような役目の者なのです。彼らはキリストの全権大使として神様が願われるなら、メッセージを持って世界のどこにも出て行かなければなりません。アメリカの大使として、PNGの大使として出て行きます。世界のどこにも出て行くのです。イエス様は結局、12人をそのような使徒として育てようとされました。イエス様は既存の宗教指導者たちを変化させるより、ご自分について来る弟子たちの中から使徒を立てて新しい歴史を始められたのです。律法や形式的な指導者よりイエス様の人格と信仰と、その御言葉に基づいた使徒を要請しようとされました。この世の身分や学歴を問わず、イエス様を学び、イエス様に従う12名の少数精鋭を要請しようとされたのです。
 ではイエス様は選ばれた十二使徒たちはどんな人たちでしたか。13-15節をご覧ください。
第一に、ここで選ばれた彼らはごく普通の、ありふれた人たちでした。宗教的に優れているとか、この世的に立派であるといった人々ではありません。むしろ「無学な普通の人」(使徒4章13節)でした。彼らの側には、主イエス様から選ばれるに足る資格や根拠があるというのではなかったのです。それにもかかわらず、彼らは選ばれました。それは主イエス様の選びが、どこまでも一方的な選びであり、それは恵みに他ならないということです。むしろ「世の無に等しい者」(1コリント1章26節以下)をあえて選び、彼らに特別な使命と働きを委ねられました。主の弟子として生き、教会を建て上げるために労する務めは、自分から選びとったことではなく、主が私たちを選んで、その務めへと召し出されたことによります。主イエス様の選びこそが、私たちの信仰生活の根拠です。主が選ばれたのですから、私たちのすべては、選んでくださった方の愛と力によります。ですから、私たちは肩の力を抜いて、自分のすべての重荷をイエス様に下ろすことができます。自分の努力によらず、自分を選び、この務めへと建てられたイエス様により頼んで行くことができます。聖書は言います。「したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ロ?マ9章16節)。
 第二に、ここで選ばれた人々は、実に多様で、多彩な顔ぶれです。性格、個性、職業、賜物それぞれ、実に色々な人が集められています。おっちょこちょい男ペテロがいるかと思えば、疑い深く慎重なトマスがいます。「雷の子」とあだ名されるほど短気なヤコブとヨハネがいれば、「まことのイスラエル人」と言われたナタナエル(バルトロマイ)がいます。職業も様々で、漁師、収税人、右翼のテロリストもいます。ヨハネは大祭司と知己の関係にある資産家でありましたし、マタイはしがない雇われサラリ?マンでした。ガリラヤのベツサイダやカペナウム出身もいれば、ユダヤの南部のカリヨテ出身もいます。特に熱心党員シモンは、一人必殺を合言葉にした極右テロリストであり、彼らからすれば収税人は、憎むべき売国奴、裏切り者であって暗殺の対象でした。そのような者たちが、一つの集団を為すこと自体、奇跡と言っていいでしょう。ところが、それが主の弟子たちの集団であり、教会なのです。
私たちの中にも多様、多彩な顔ぶれがいます。それで、だまに自分の考え方が違う人との争いも生じます。しかし、だまに争うことはしようがないけれども、自分と同じタイプになることを要求してはいけません。私たちの教会は、様々な違い、国籍も、身分も考え方の違いさえ乗り越えられて、主イエスにあって一つとせられる集まりであるからです。人間によって築かれた壁は、主イエスによって砕かれ、主イエスにあってこそ一つとされていく集まり、それが教会なのです(エペソ2章14?22節)。ですから、私たちは一人一人の違いを認めて互いに尊重しなければなりません。
第三に、最も大事なことは、ここで選ばれた彼らはユダを含めて、結局は主イエス様を裏切る、裏切り者の集団であるということです。ペテロは主イエス様から、第一の弟子として、いつも主イエス様と一緒でした。最後の晩餐においても、他の弟子は裏切っても自分は決して裏切らないと、宣言しました。しかしその彼こそ、イエス様を三度も知らないと神様に誓って言い切ったのです。他の弟子も同じです。主を裏切り、見捨ててしまいました。その事実は決して消えることはありません。それにもかかわらず主はご自身の弟子として、彼らを選ばれたのです。自分の生命を守るためには、あれほど愛した主をさえ裏切ってしまう彼ら、いや裏切ることしか出来ないほど弱い彼らを、イエス様は使徒として選ばれたのです。イエス様はいずれ彼らが、一人残らずご自身を裏切ることを承知の上で、彼らを選ばれたのです。
以上で、イエス様は私たちが無学で弱い人であっても、それをご承知の上で、私たちを選ばれたことが分かります。何よりも大切なことは、あんなに弱い人であっても、イエス様は彼らが世界を変化させる使徒として成長するビジョンを持って選ばれたことです。結局、彼らは初代教会を導き、キリスト教の土台を築き上げました。私たちがどんなに弱く、咎だらけであってもイエス様は希望の目で見て私たちを育ててくださいます。私たちのありのままを認めた上で、期待し、ビジョンを持って導いてくださるのです。
人には認めてあげるとおりに変わり、信頼してあげるとおりに行動する傾向があります。ですから、ある人に対してビジョンを持ってその人を認め、信じてあげると、その人は驚くほど成長し始めます。これはイエス様が弟子たちに接する方法です。イエス様が弟子たちと出会った時、彼らはみすぼらしい姿でした。しかし、イエス様は彼らから大きなビジョンをご覧になりました。世界を変化させるビジョンをご覧になりました。それで、イエス様は彼らを有能人であり、大物のように見て仕えました。その結果、彼らは有能な人であり、大物、大使徒になりました。
イエス様は私たち一人一人にも有能なクリスチャンであり、王である祭司として見てくださいます。私は自分には宣教師として支部長として資格がないと思う時がしばしばありました。韓国の牧者や先輩の宣教師から「ダニエル宣教師、いつまでもそのままでいいの?」と言われたらどうしようと恐れる時もありました。しかし、ヨシュア宣教師やヨハネ宣教師、先輩の支部長たちは、足りない私を助け、環境を備えて励ましてくださいました。その中で、私は力を得、イエス様の希望に頼りながらイエス様を学ぶことができました。まさに、このようなことが私たちに向けられたイエス様の御心であり、希望でした。足りない私に使徒としてビジョンを持って世界宣教のみわざに用いてくださる神様に感謝と賛美をささげます。
私たちが私たちを使徒として選ばれたイエス様のビジョンをつかんで絶えずイエス様を学びながら成長することができるように祈ります。私たちは夏修養会を終えて新しく出発しようとしています。2000年前、イエス様が12使徒を選ばれた時のイエス様のビジョンと、足りなくてもその時の彼らを使徒として呼ばれた神様の御心を私たちに新たにしてくださるように祈ります。それとともにイエス様が使徒養成に希望を置かれたように私たちも使徒養成のために励むことができるように祈ります。神様が私たちに使徒養成の方向を与えられ、少人数であっても福音的なキリストの弟子を養成するみわざに用いてくださることを感謝します。
17-19節をご覧ください。イエス様は使徒たちとともに山を下り、平らな所にお立ちになりました。すると、多くの弟子たちの群れや、ユダヤ全土、エルサレム、さてはツロやシドンの海べから来た大ぜいの民衆がそこにいました。皆が「イエスさま、イエスさま」と迫って来るのです。イエス様は疲れきっていたと思います。でも全ての者を癒されました。

?。弟子の価値観(20-26)
 20-23節をごいっしょに読んでみましょう。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだからです。いま飢えている者は、幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天であなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。」
 初めて聞いた方は、「『貧しい者は幸い』そんなはずはない」と思われるでしょう。なぜ貧しい者が幸いなのでしょう。それは『神の国はあなたがたのものだからです』と次の言葉にあるからです。「神の国”とは、『神の御支配する所』という意味です。神様に従う所、又は神に頼る所、そこが正しく”神の国”という事なのです。本当に自分が貧しいと思う者。その人は神様に頼らざるを得なくなります。自分に自信を持って堂々と歩める人は別に頼る必要はないとしか思わないでしょう。その人は神様に頼りません。ですから「神の国」を経験する事もない訳です。しかし、実際的な生活面、また心の面において、もし私達が貧しければ、飢えているなら、その人は神様を本当に追い求めていくでしょう。だから幸いなのですと語る訳です。更に『いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから』。ともあります。 アブラハムの妻サラは90歳になるまで子供が生まれませんでした。神様の使いがサラに子供が生まれると言った時に彼女は馬鹿馬鹿しいと笑ったのです。しかし、1年後に「本当に神様がこの私に子供を下さった」と笑いました。悲しんで涙していた彼女が、神様の祝福によって後に笑う様になったのです。今私たちの中でも色々な事で、あるいは一つのことで、苦しんで涙しているかも知れません。しかし神様は私たち一人一人を遠大なご計画の中で導いていらっしゃいます。今は何故こんな事が起こるのか?何故こんな風になってしまうのかと思うかもしれませんが、後の日になってアブラハムの妻サラのように心からの笑えるのです。
また、人の子とのために、憎まれ、辱められる時、喜びなさいと言われました。何故ですか。『天ではあなたがたの報いは大きいからです』
24-26節にはどんな人が哀れな者であるかを教えてくださいます。
24-26節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、富んでいるあながたたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。」
 普通なら、お金が無いよりも有る方が良いでしょう。これは私達のごく自然な考え方だと思います。普通の人はそのような価値観を持って生きています。しかし、イエス・キリストは『富んでいるあなたがたは、哀れな者』と言われました。それは『慰めを、すでに受けているからです。』地上で既に富みを得てしまったが為に、天国ではもうもらえないのです。また、『いま食べ飽きているあなたがたは、哀れなものです。やがて、飢えるようになるからです』とあります。日本のテレビではだれがもっと食べられるかを争う大会もありますが、食べ飽きることは幸いではなくて、神様の目から見たら哀れなです。また『いま笑っているあなたがたは、哀れなものです。やがて悲しみ泣くようになるからです。』と言われました。例えば「自分こそ全てに打ち勝った。成功者だ」と笑っている人が、永遠の裁きの日にはどう思うのでしょうか? 私達の目はいつもこの世ばかりを見ています。地上で幸せならばそれで良いと思ってしまいます。しかしそれは間違っているという事なのです。ここでイエス・キリストが語っている事は何であるのか。私達が価値観を変えなければならないという事です。イエス・キリストを信じた時に、神様は「新しい命、新しい価値観に生きる事が出来る力」を下さいました。それをしっかりと受けとめて、新しい価値観に生きましょう。私たちは人々から認められることや人の称賛より神様に認められること、神様から報われることを求めて生きる価値観です。
私たちは、今、何を第一として、何を求めて、生きているのでしょうか。一体、何によって満たされ、何に富んでいるのでしょうか。私たちは、自分の貧しさ、弱さ、足りなさを深く自覚して、神様に富む者に、ただひたすら神様を求め、神様によって満たされる者とされていきたいと思います。人を喜ばせるより神様に喜ばれるために励む生活をしていきたいのです。そういう価値観を持って生きる、その時に私たちの心には真に喜びがあり、美しい実が結ばれるようになります。弟子養成の実も結ぶようになります。

結論的に、イエス様は私たちを主の弟子として選ばれ、使徒としての大きな希望を持って育てておられます。私たちが自分に置かれたイエス様のビジョンを受け入れ、天国の価値観を持ってイエス様を学んで行く良い弟子になれるように祈ります。さらに、使徒を養成する使徒養成家として成長できるように祈ります。