2003年ルカの福音書22講 

ヨハネの思いとイエス様の思い

御言葉;ルカ7:18-35
要 節;ルカ7:27、28「その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」

先週、私たちはひとり息子を亡くしたやもめに「泣かなくてもよい。」と言われたイエス様の哀れみと御言葉の力を学びました。イエス様は私たちの悲しみと苦しみ、様々な人生問題に深く同情し、御言葉によって助けてくださいます。そして、究極的には新しい天と新しい地に導いてくださいます。そこで、主は私たちの涙をすっかりぬぐいとってくださいます。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません(黙示録21:1-4)。私たちの悲しみを根本的に解決してくださる主の御名を賛美します。
今日の御言葉は神様のみわざの中心がバプテスマのヨハネからイエス様に替わる歴史の転換期に起った出来事です。歴史の転換期には価値観が揺れやすいですが、バプテスマのヨハネもそうでした。彼にも迷いがあったのです。私たちはどうでしょうか。イエス・キリストを信じてから何の迷いもなく順調に信仰生活を続けて来られた方もいるでしょう。しかし、多くの人は上ったり、下ったりしながら歩んできているのではないでしょうか。
この時間、信仰の勇者と言われた「バプテスマのヨハネ」の迷い、彼の思いに対するイエス様の思いを学ばせていただきたいと思います。

?。ヨハネの思い(18-23)
 18節をご覧ください。「さて、ヨハネの弟子たちは、これらのことをすべてヨハネに報告した。」とあります。時はバプテスマのヨハネの時代が終わり、イエス様が福音のみわざのために活発に働いておられる時でした。当時、ヨハネは、ヘロデによって牢屋に閉じ込められていました。なぜなら、自分の兄弟の妻だったヘロデヤを奪い取って自分の妻にしてしまったヘロデの悪事をヨハネが厳しく責めたからです(3:19、20)。ヨハネは正義のためなら、国王さえ恐れることなく、罪を糾弾したのです。正しい者には正しい神様のさばき、悪者には悪者に対する裁きがあると語った訳です。
そして彼は自分の状況をイエス様が知り、キリストとして何とかすごい事をしてくれるのではないかと思っていたようです。イエス様が正しいさばきでヘロデのような悪者たちを打ち砕き、イスラエル国の真の王として君臨してくれるのを待っていたと思われるのです。ところが、自分の弟子たちの報告によると、イエス様は、政治には触れることなく、百人隊長のしもべを癒されたり、やもめのひとり息子を生き返らせたりしておられました。彼はメシヤが来られて全ての不義と悪を取り除き、正義と公平の社会を建設してくださることを期待しましたが、イエス様はひたすら福音のみわざに励んでおられたのです。牢屋にいる自分を釈放してくれるどころか、訪問してくれることさえありませんでした。ひたすら神の国の福音だけを熱心に教えておられました。そこで、ヨハネの心の中に疑いが生じました。信仰生活に迷いが出てきてしまったのです。そのとき、彼はどうしましたか。
19、20節をご覧ください。ヨハネはイエス様のみもとに弟子を送って聞きました。『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか。』と。彼は信仰生活に迷いが出てきたとき、一人で迷いつづけるのではなく、イエス様に尋ねたのです。ちょうどそのころ、イエス様は、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされました。これは実に驚くべきみわざでした。イエス様はこの働きに基づいてヨハネの弟子たちに答えて言われました。
22節をごいっしょに読んでみましょう。「 そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。」この御言葉はかつてイザヤ預言者がメシヤの働きについてイザヤ36:5,6と61:1,2節で預言された御言葉です。イエス様は預言の御言葉のとおりに働いておられたのです。そして、イエス様は、質問に対して説明して上げるのではなく、ご自分の生活そのままをヨハネに報告するように答えられました。このイエス様の答えから私たちは二つのことを学ぶことができます。
一つ目に、イエス様は神様が預言者たちを通して預言され、約束されたメシヤであるということです。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返ることは人間の力ではできないことです。イエス様はこのような力あるわざを行なうことによってご自分が神の御子キリストであることを証しされたのです。
二つ目は、神様のみわざが活発に起っているということです。ヨハネの神様のみわざのために働きながら牢屋に入れられてしまいました。何も出来なくなりました。悔い改めのみわざ、福音のみわざはもう終わってしまったかのように思われました。しかし、神様のみわざはどんな場合にも決して滅びることなく、続けて盛んに行なわれていることを見せられたのです。ヨハネが牢屋に入れられたことは、人間的に見ると、不幸なことです。しかし、神様の側から考えてみると、彼は先駆者の使命を果たしたことによって彼の時代は終わり、イエス様の時代が始まって、イエス様ご自身が救いのみわざを担っておられました。
神様はイエス様を通して力強く働いておられました。盲人はものが見えないのでその苦しさは言い尽くせません。彼の世界は暗黒の世界です。ところが、そんな彼がイエス様によって目が見えるようになり、いのちの光を見るようになります。足なえは歩くことも、飛び出すことも出来ません。しかし、イエス様が歩かせると、子牛のように跳ね回るようになります。また、らい病人はその病気のために汚れた人生を生きるしかありませんが、イエス様によって純潔で聖なる生活ができるようになります。安逸と無気力のために死者のようになっていた人がイエス様の御声を聞いて生かされます。イエス様の行かれる所々でいのちが生かされる素晴らしいみわざが起るようになるのです。ですから、イエス様はヨハネの質問に対して概念的に説明しませんでした。ご自分がキリストであることを説明して上げなかったのです。ただ、現在神様のみわざが盛んに起っていることを知らせるようにされました。イエス様は概念や教説ではなく、そこに起きている事実を見よと言われたのです。それによってヨハネの労苦が決して無駄にならず、ヨハネが先駆者として働いてくれたので、今キリストによって実が結ばれているのだということを明らかにしてくださいました。さらに、神様のみわざはどんな状況の中でも決して滅びることがなく、行なわれているという確信を植え付けてくださいました。
時には私たちも、不義と不公平に満ちているようなこの世を考える時、正義の神様は生きて働いておられるのかと思うかも知りません。神様のみわざに対しても迷いが出てきます。私たちには何でも”自分の考えが一番良い”と思う傾向があるからです。だから「それ以外の道はない」と思っているのです。でも神様は「それはあなたの思いであって、意外な道がある。神様の道はあなたの考えよりもっと高いという事を知るべきだ」言われるのです。バプテスマのヨハネも恐らく「自分は神様の前に真実に歩んだのだから、無実の罪で捕らえられているのだから、当然イエスが正しい裁きをなさり、今こそ神の国を建てあげるのだ」と思ったに違いないと思います。それをしないのは”おかしい”と思ったのだろうと思われるのです。でも神様の御心は違った訳です。私達の中にはいつも(自分の考えが正しい)と思う考えがあります。そしてこれが私達に神の恵みを奪わせ、疑わせてしまう時が多くあるのです。
しかし、箴言3章5?6節は言います。「心を尽くして主に拠り頼め。 自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」
私達は自分の思い、考えにこり固まってしまうのではなくて、神様に拠り頼み、神様の導きに従っていく時に、神様はその道をまっすぐにされます。何よりも、神様は今も生きて働いておられます。神様のみわざは世界の国々で活発に起っています。
イザヤ預言者は腐敗している国を見て絶望の中に陥っていました。また、周りの国々によって戦争が起ると、弱いユダヤは滅んでしまうのではないかと言う不安と恐れに陥っていました。特に、ウジヤ王が死んだ年には、国が危機に書せられました。そのような時、イザヤは、ある日、重い心で神殿に入りました。すると、彼は、高くあげられた王座に座しておられる主を見ました。そして、御使いたちが互いに呼び交わして言っていることを聞きました。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」彼がその叫ぶ者の声を聞き、聖なる神様に出会うと、自分がくちびるの汚れた者であることを悟るようになりました。世を鋭く批判していたイザヤは、自分の罪深い姿を見て自分に絶望するようになりました。そして彼は自分の不平不満、神様に対する不信と疑いを悔い改めました。その時、彼は罪が赦され、確信を持って福音のメッセージを伝える使命を担うようになりました。
初代クリスチャンは数多い迫害を受けていろんな所に散らされて行きました。使徒ヨハネも神様のことばとイエス様の証しとのゆえに、パトモスという島に流されました。しかし、彼は神様の愛を疑いませんでした。彼は、その時、生きて働いておられるイエス様の御姿を見、御声を来ました。「恐れるな。わたしは最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」(黙示録1:17b、18)。神様は今も生きておられ、全世界の歴史を御心のとおりに支配し、導いておられます。ですから、イエス様につまずかない者は幸いです。 
23節をご覧ください。「 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」とあります。イエス様は人々がつまずかないように警告の御言葉を与えられました。ここで、イエス様が「だれでも」と言われたことを考えてみると、信仰の勇者でもつまずく可能性があることが分かります。ヨハネのような人でもつまずく可能性はあるのです。私たちがヨハネのように忠実に主のみわざに自分を犠牲にして兄弟姉妹たちに仕えたのに、結果が良くないと心から迷いが出てきてつまずきやすいです。また、教会の中で自分が正しく評価されていないと思われる時、いつまでも我慢しながら、イエス様のゆえに犠牲すべきなのかという疑いも生じてつまずきやすいです。しかし、つまずくようになると、何もかも失ってしまいます。私たちがキリストのゆえにどんなに難しい状況の中でも最後まで信仰の中心を守る時、幸いな者になります。神様はそういう人に永遠のいのちを与えられ、神様の救いのみわざに貴く用いてくださいます。

?。ヨハネに対するイエス様の思い(24?28)
イエス様はヨハネの弟子たちを帰らせてからヨハネについて言われました。24-26節を読んでみましょう。「ヨハネの使いが帰ってから、イエスは群衆に、ヨハネについて話しだされた。「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。風に揺れる葦ですか。でなかったら、何を見に行ったのですか。柔らかい着物を着た人ですか。きらびやかな着物を着て、ぜいたくに暮らしている人たちなら宮殿にいます。でなかったら、何を見に行ったのですか。預言者ですか。そのとおり。だが、わたしが言いましょう。預言者よりもすぐれた者をです。」人々はバプテスマのヨハネが成功的に福音のみわざに仕えている時は、彼を認め、称賛しました。彼を見、彼のメッセージを聞くために荒野まで行きました。しかし、ヨハネが牢屋に入れられ、歴史の舞台から消えていくと、彼をあまり貴く思わなくなりました。しかし、ヨハネに対するイエス様の思いはどうでしたか。イエス様は彼が歴史的にどんなに偉大な人であるか、を称賛してくださいました。ヨハネはどの預言者よりもすぐれた預言者です。どんな点でそうですか。27節をご覧ください。「その人こそ、『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』と書かれているその人です。」この御言葉からヨハネの偉大さは、彼が担った使命にあることが分かります。ヨハネはメシヤの先駆者としてメシヤの道を忠実に備えました。彼はその使命を担うためにこの世の楽な生活を捨てました。はかない罪の楽しみを捨てました。また、自分の人気が上がった時も、自分を誇らないで謙虚にイエス様を証ししました。彼は名もなく、誉れもなく、自分に与えられた使命に生き、その使命のために死ぬ生活をしたのです。イエス様はそのような彼を女から生まれた者の中で一番すぐれていると誉められました。
28b節をご覧ください。「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」とあります。この御言葉はヨハネの偉大さを引き下ろすことを意味するのではありません。ヨハネが偉大さは彼の歴史的な位置がそれほど重要であるということです。ヨハネは旧約と新約の分岐点において使命を担いました。旧約のすべての預言者たちは来るべきメシヤを遠くから見ながら使命を担いました。しかし、ヨハネは歴史的な時点で、イエス様の道を備え、イエス様にバプテスマを授けました。それにもかかわらず、彼はまだ旧約の律法の時代に属する預言者でした。しかし、神の国では一番小さい者でもイエス様の十字架と復活のゆえに恵みの時代に属する者になるのでヨハネよりすぐれた者になるのです。

?。悪い時代を叱られたイエス様(29-35)
 イエス様の御言葉に対する民たちの反応はどうでしたか29節をご覧ください。すべての民は、収税人たちさえ、ヨハネのバプテスマを受けたので、神様の正しいことを認めました。彼らはヨハネが悔い改めのメッセージを伝える時、自分たちの罪を告白して罪の赦しを受けました。それで、彼らはイエス様の御言葉を心から認め、受け入れました。しかし、パリサイ人、律法の専門家たちは意図的にヨハネのバプテスマを受けませんでした。彼らは自分たちの罪を認めなかったために、悔い改めませんでした。彼らは高慢でかたくななになっていました。結局、彼らはヨハネも拒み、ヨハネが証ししたキリストも拒んでキリストによる神様の救いのみわざに逆らってしまったのです。
31、32節をご覧ください。イエス様はたとえを通してその時代の人々がいかにかたくななになっているかを教えてくださいました。彼らは「市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ていました。当時、市場では子どもたちが結婚式こことお葬式ここをしていました。それで、二組に分けてやりましたが、一つの組が笛を吹いてやると、他の組は踊るべきでした。また、弔いの歌を歌ってやると泣かなければなりませんでした。それがよく守れなかった時は互いに「お前のせいだ。」と言いながら喧嘩し、遊びが喧嘩で終わってしまいました。イエス様のその時代の人々がまるで規則を破った子どもたちのように自己中心的になっていることを叱られました。彼らは神様のみわざに無関心で無感覚でした。彼らは神様のみわざに批判的でした。ヨハネが来てパンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』と非難しました。また、イエス様が人々と一緒に食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていると「あいつは大食いの大酒飲み」と非難しました。彼らはどちらにしても悪口を言ってさばく心で非難していたのです。しかし、真理はそういう人々の言葉によって判断されるのではありません。
35節をご覧ください。だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」ここで知恵は神様の真理を指し、特別にキリストを指しています。すべての子どもたちとは、神様の御業、実を指しています。神様の真理はその実によって評価されます。神様から最も遠いと思われていた収税人たちは、神様の御言葉を受け入れた時に、本当に変えられていって神様のみわざ、栄光を証明しました。彼らは真実な知恵、真実な力をいただいたのです。しかし、知恵があり、力があると思われていた律法学者やパリサイ人は本当の神様の恵みにあずかることが出来なかったのです。
結論的に、今日の御言葉を通して私たちは神様のみわざを正しく見る力を持つことができるように祈ります。神様はこの不義の時代の中でも生きていて力強く働いておられます。人々のすべてを見ておられ、ヨハネのように福音のために、正義のために生きている人々を正しく評価してくださいます。私たちが神様の御前で風に揺れる葦のような人生ではなく、イエス様に称賛される人生を生きることができるように祈ります。