2003年ルカの福音書第27講               
   
イエス様が求められる信仰

御言葉:ルカの福音書8:40-56
要 節:ルカの福音書8:50「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」

先週、私たちは悪霊につかれていた人が救われた次第を学びました。イエス様は墓場に住んでいた人を救い出してケラサ地方の牧者として立てて下さいました。彼は町に帰って神様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせる伝道者の人生を生きるようになったのです。神様は私たちにも大きなことをしてくださいました。イエス・キリストの十字架によって私たちを罪と悪霊の支配から救い出し、この素晴らしい福音をこの日本と世界に言い広める使命を与えてくださったのです。この大切な使命、最も価値ある使命を担うために必要なのは何でしょうか。この世では大切な使命であればあるほど高いレベルの学歴、実力などを求めます。しかし、神様が私たちに求められることは信仰です。信仰がなくては神様に喜ばれることはできません。ではイエス様が求められる信仰とは何でしょうか。
この時間、御言葉を通してイエス様が求められる信仰を学びたいと思います。一つはイエス様の御力が自分の身に働くという信仰であり、もう一つは自分の信仰を通して他人も生かされると信じる信仰です。イエス様が無名の女性の信仰を認めて彼女の病を癒しましたが、会堂管理者の娘は、彼女の父親の愛と信仰によって癒されました。彼女は父親の信仰によって死から生き返りました。この過程の中で、イエス様は二人の信仰が成長するように助けておられます。無名の女性は信仰によって自分の病が癒される恵みを受けましたが、それだけに留まらず、恵みを証しする信仰へと導かれました。会堂管理者は「ただ信じる信仰」、人が死んでも生き返らせるイエス様を信じる信仰へと導かれました。
今日の御言葉を通して自分の病が癒される恵みを受けるだけではなく、その恵みを証しする信仰へ、恐れないでただイエス様を信じるなら、死んだ人も生き返るということを信じる信仰へと成長していくことができるように祈ります。

?。父親の愛(40-42a)

 イエス様はケラサ地方で悪霊につかれた人を癒されたことで、その地方から追い出されて再びカペナウムに帰られました。すると、人々は喜んで迎えました。”Welcome home Jesus!”みなイエス様を待ちわびていたからです。特に会堂管理者ヤイロは大喜びでイエス様を迎えました。
41節をご覧ください。「するとそこに、ヤイロという人が来た。この人は会堂管理者であった。彼はイエスの足もとにひれ伏して自分の家に来ていただきたいと願った。」とあります。ヤイロとは「神の眼差しが注がれた人」「神に呼び覚まされた人、呼び起こされた人」という意味ですが、会堂管理者になっていました。会堂管理者とは新共同訳によると「会堂長」に訳されています。会堂長は、会堂中心のユダヤ社会においてとても重要な人物です。彼には、ユダヤでは最も大切な会堂での礼拝の祈りや聖書朗読や説教をする人を選ぶ権利が与えられていました。それで、当時の会堂管理者は、一般的に権威的であり、律法的でした(13:14)。今日も、社会的な地位が高ければ高いほど権威的になります。しかし、ヤイロは違いました。彼は身分の高い人でしたが、イエス様の前で謙遜になっています。彼は会堂長としての権威、自尊心、プライドを捨ててイエス様の足もとにひれ伏しました。そして、イエス様にお願いしました。「イエス様!どうか、私の家に来てください。娘が死にかけているのです。どうか、急いでください。」なぜ、こんなにも懇切に求めたでしょうか。
 42a節をご覧ください。「彼には十二歳ぐらいのひとり娘がいて、死にかけていたのである。」とあります。ヤイロには自分の一人娘、しかも12歳の娘が、今や死にかけていたのです。当時のユダヤでは12歳になると、そろそろ嫁にだす年齢でした。ですから、12歳というのは、彼女にとっても、ヤイロにとっても、希望に輝いた歳、明るい未来が開かれていく歳でした。ところがその希望も夢も幸せも、全てをぶちこわすような出来事が襲ってきました。一人娘が死にかけていたのです。ヤイロの心は暗くなり、絶望と悲しみの中に陥っていました。そんなに彼にとってイエス様がカペナウムに帰られたという知らせは本当に良い知らせでした。彼はイエス様がどんな病気の人でも癒されることを知っていたからです。それで、彼はイエス様が帰られたことを聞くや否や、会堂長という名誉も身分もかなぐり捨てて、主イエス様の所に行きました。そしてイエス様の足もとにひれ伏してお願いしました。藁をもすがる思いで、娘の癒しをお願いしたのです。
ここで娘のためなら、何でもする父親の愛を学ぶことができます。親馬鹿という言葉があります。人々はあまりにも卑屈に見えるヤイロの行動に対して親ばかだと言っていたかも知れません。しかし親以外に、一体誰が、その子どものためにバカにもなるでしょうか。親だからこそ、その子どものためにはバカにだってなれるのです。ヤイロは自分の名誉や地位よりも、自分の命よりも娘を愛しました。この親心は神様の御心です。父なる神様は私たちを罪から救うためにご自分のひとり子さえ惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛しておられます。使徒ヨハネは告白しました。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです(?ヨハネ4:9、10)。」そして、遣われた御子イエス様は私たちのためにご自分のいのちを投げ出して私たちを罪から救ってくださいました。ここに本当の愛があるのです。私たちがこの神の愛を持って子どもたちを愛し、兄弟姉妹たちを愛することができるように祈ります。特に父親のいない子どものような日本の若者たちのために親心を持って祈り、彼らに仕えることができるように祈ります。

?。十二年の間長血をわずらった女を癒されたイエス様(42b-48)

イエス様はヤイロの願いを聞いてお出かけになりました。すると、群衆が押し迫ってきました。ところが、この群衆の中に特別なひとりの女性がいました。
43節をご覧ください。「ときに、十二年の間長血をわずらった女がいた。だれにも直してもらえなかったこの女は」とあります。ここに名前も記されていない病気の女性が登場しています。この女性は、長血という一種の婦人病に苦しんでいました。2,3ヶ月間病気に苦しんでいたのではありません。2,3年間でもありません。彼女は12年間も闘病生活をしていました。ヤイロの娘が生まれたそのときから、この女性は病と戦う苦しみは始まりました。ヤイロにとっては、娘の成長を見る喜びの12年間が、彼女にとっては苦しみと戦いの12年だったのです。彼女はこの病気のためにどんなに苦労したことでしょうか。あちらに名医があると聞けばあちらを尋ね、こちらに良い薬があると聞けばこちらを尋ねる生活を続けて来たでしょう。そうやって戦いつづけた12年間でした。身体的な苦しみだけではありません。精神的な苦痛はもっとひどいものでした。律法の規定で、彼女自身も、彼女の使用するものも、彼女の触れる物すら全てが「汚れたもの」とされていたからです。彼女は家族を始め、人々とも接触も、交わりも禁じられました。彼女は一人孤独にひっそりと暮らすことを余儀なくされていたのです。結局、彼女は財産を失い、人からの信頼を失い、家族を失い、友を失って、なにもかも失いつづけたのです。それでも彼女を支えるものがあれば良いでしょう。しかし、彼女は病が直る見込みも全くないまま、わずかの希望さえ無くなって来ました。生命そのものである自分の血を一滴一滴失いつつありました。そんな彼女には良い知らせが聞こえてきました。多くの人々を癒されたイエス様に関するうわさです。イエス様に関する話は死んで行く彼女に生きる力と希望を与えてくれました。絶望が大きかっただけにイエス様に対する期待と希望も大きいものでした。彼女の心からはイエス様の着物に触ることだけでもできれば、自分の病もきっと直ると信じるようになりました。
しかし、彼女がイエス様の所まで行くことはやさしいことではありません。汚れた病による罪意識と自意識を克服しなければなりません。人々の汚れた病気のことがばれてしまう恐れも克服しなければなりませんでした。しかも、12年間も病気だった体で押し合いへし合いしている所に入って行かなければなりませんでした。彼女は、このような障害物にぶつかった時、どうしましたか。
44節をごいっしょに読んでみましょう。「イエスのうしろに近寄って、イエスの着物のふさにさわった。すると、たちどころに出血が止まった」彼女は信仰によって様々な障害物を乗り越えてイエス様のうしろに近寄りました。そしてせめて、お着物にさわることでもできれば、きっと直る(マルコ5:28)。」という信仰を持ってさわりました。すると、たちどころに出血が止まりました。これは実に驚くべきことでした。彼女がイエス様の着物のふさにさわったことは、小さな行動にすぎませんでしたが、その結果は驚くべきことになったのです。群衆の中には手で触るくらいではなく、押しすぎてイエス様が倒れそうになることもあったしょう。しかし、彼らには何も起りませんでした。ただこの女性だけが大きな恵みを受けました。特別な意思を持って、信仰と期待を持ってさわったために、彼女ひとりが恵みを受けたのです。今日も教会の行事に参加する人は少なくありません。聖書を読んでいる人も多くいます。しかし、ただ漫然とそうしている人は何の恵みも受けません。毎週ささげる礼拝も、賛美もそうでしょう。マンネリ化している人は何の恵みも受けません。特別な願いと信仰を持ってそうする人だけが恵みを受けるのです。そして恵みを受けた人は、必ず公にそれを証しして、主をあがめなければなりません。イエス様は私たちが受けた恵みを告白することを願っておられます。さらに、自分たちをやみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方の素晴らしいみわざを宣べ伝えることを願っておられます。
45-46節をご覧ください。イエス様は、イエス様にさわった人を探しました。すると彼女は、隠しきれないと知って、震えながら進み出て、御前にひれ伏し、すべての民の前で、イエス様にさわったわけと、たちどころにいやされた次第とを話しました。ここで、イエス様は彼女の身体の病を癒されるだけではなく、癒された恵みを証しするように助けておられることが分かります。彼女が神様をあがめ、神様に感謝する信仰を持つように導かれました。私たちは神様を知り、その恵みを知っていることが大切ですが、それだけではなく、神様をあがめ、神様に感謝しなければなりません。 
ローマ人への手紙1章21節は言います。「というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。」とあります。彼女はイエス様を信じて自分の病が癒されたことを知っていました。しかし、イエス様をあがめることも、感謝することもしませんでした。彼女はイエス様を通して自分の目的が満たされると、自分の道に去っていこうとしていたのです。彼女の信仰はまだ自己中心的であり、利己的なものだったのです。彼女が霊的にも完全に癒されて平安に生きるためには、神様に感謝し、神様をあがめることが必要でした。ですから、イエス様は彼女が信仰によって自分の問題を解決してもらうことに留まらず、神様をあがめ、神様に感謝する信仰へと成長するように助けられたのです。
神様は神様の恵みを知っている人たちがそれを証し、すべてのことにおいて感謝する信仰を持つことを願っておられます。だからといって、神様に感謝しない信仰を無視してしまわれるのではありません。私は神様の恵みを知っているはずの人が、つぶやいたり、教会から離れて行ったりするとなかなかその人の信仰を認めることができませんでした。しかし、哀れみ深いイエス様はからし種ほどの信仰があってもそれを認められ、祝福してくださいます。 
48節をご覧ください。「 そこで、イエスは彼女に言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」」とあります。
確かに彼女は、弱り果てた身体を押して、何とか主に近づこうとしました。しかし癒されたにもかかわらず、彼女は何事もなかったかのように、そっとその場を離れ去ろうとしました。誰が触ったかをイエス様が尋ねられた時にもすぐに告白できませんでした。隠し切れないと知った時にやっと恐れ、震えながら進み出てきました。彼女はしかたがないと思われた時に主の前にひれ伏したのです。それに関わらずイエス様は彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。自分の病が癒されればいいというような自己中心的な、利己的なその信仰でも、イエス様は認めてくださったのです。もちろん、それは彼女の信仰が立派だったとか、信仰が強かったということではありません。そうではなく、全てを失い、もはや頼るものの一切をなくした彼女が、ささやかながらもイエス様に信頼を寄せ、頼ったこと、その信仰を認めてくださったのです。その信仰の故にあなたは癒されたということを示してくださったのです。そして、その弱い信仰だからこそ、もっと信仰が成長するように、イエス様は彼女を人々の前に引き出されました。彼女が主の癒し、主の恵みを告白することによって霊的にも救われるように助けてくださいました。それとともに、彼女が完全に癒されたことを町の人々に宣言してくださったのです。彼女が癒されてきよくなったことが分かるようにされたのです。すなわち、社会生活までもよくできるように助けてくださいました。安心して生きる環境を整えさせてから「安心して行きなさい」と言われたのです。主の深い哀れみと繊細な導き、思いやりに驚きます。
 イエス様は私たちの信仰が弱くてもイエス様に頼る時、私たちのうちに働いてくださいます。身体を癒し、救いに導いてくださいます。わらをもすがる思いで祈る時に、その祈りを答えてくださいます。そして、私たちが受けた恵み、救いを証しし、神様に感謝する信仰へ成長するように助けて下さいます。からし種ほどの信仰でもそれを認めて祝福し、さらに強い信仰へと成長させてくださる主の哀れみと恵みを心から感謝します。

?。恐れないで、ただ、信じなさい(49-56)

 イエス様は会堂管理者ヤイロの娘を癒すために行かれる途中に無名の女性を癒されました。この世の人々は社会的な地位がある人、財産がある人、権力のある人などの要求を優先的に答えようとします。しかし、イエス様は財産もなく、力もない無名の女性を優先的に助けて下さいました。そのためにヤイロの家に行かれることが遅れてしまいました。その間に、ヤイロの娘はどうなりましたか。
49節をご覧ください。「イエスがまだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人が来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。もう、先生を煩わすことはありません。」」とあります。この知らせはいい知らせではありませんでした。ヤイロの心を暗くし、イエス様に対する信仰を失わせるものでした。サタンはこのような場合に力強く働いて、人の心に悲しみと絶望、恐れを植え付けます。まさにその時、イエス様はヤイロをどのように助けられましたか。
50節をご一緒に読んでみましょう。「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」イエス様は恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」と言われました。ここでイエス様が求められる信仰を学ぶことができます。
第一に恐れないことです。ヤイロが娘の死に対する悪いニュースを聞いています。すると悪魔は恐れを通して彼の心を支配してきました。しかし、イエス様は「恐れるな(Don’t, be afraid.)。」と言われました。もし彼が恐れつづけているなら、悪魔が彼にはいってイエス様を非難し、無名の女性を憎み、群衆を混乱させたことでしょう。しかし、彼は心に悪魔の植え付ける恐れを抱きませんでした。彼はイエス様が「恐れるな」と言われた御言葉をつかみ、生死の問題として悪魔に抵抗しました。私たちクリスチャンは日ごろの生活にも恐れてはいけませんが、特に危機の時には一番最初に恐れを克服しなければなりません。恐れを克服することがなくては神様に用いられることも信仰が成長することもできません。イエス様は「恐れるな」と言われます
 第二にただ信じることです。「ただ信じなさい」とは何を意味していますか。それはただ信じることです。人々はただ信じることを愚かなことのように思います。しかし、ただ信じる時、死の力に打ち勝ち、復活の力を体験することができます。ただ信じる時、悲しみと運命を乗り越え、絶望を克服して勝利の人生を生きるようになります。ただ信じる時、神様はすべてのことを働かせて益としてくださいます。ただ信じるということはすべてを神様に委ねることです。健康の問題、就職の問題、結婚の問題、将来も神様に委ねてただ信仰によって生きるのです。すると、イエス様はその信仰を祝福してくださり必要なものも満たしてくださいます。イエス様は神様です。イエス様には突風をも治める力があります。イエス様には悪霊を追い出せる力があります。どんな病も癒される力があります。イエス様には死者を生き返らせる力があります。イエス様が言われると、何でもそのとおりになります。ですから、ヤイロはただ信じなければなりません。
 第三に、自分に与えられたイエス様の約束を受けなければなりません。ヤイロは信仰によってイエス様の所に来ていました。彼の信仰はイエス様が人々になさったことに基づいていました。そして、彼はイエス様が長血をわずらっている女を癒されたことを目撃しました。それらを通して信仰を持つことは大切です。ところが、今はイエス様が「あなたの娘は直ります」と彼自身に約束してくださいました。イエス様は彼に自分に与えられた約束の御言葉に基づいた人格的な信仰を持つことを願われたのです。アブラハムに与えられた約束の御言葉を信じて生まれ故郷を離れて神様が示す地へ旅立ちました。信仰によってサラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです(ヘブル11:11)。約束を信じる信仰のように偉大な信仰です。もちろん、私たちは様々な出来事を通して人々の信仰を学ぶ必要があります。しかし、イエス様は私たちが自分に与えられた約束の御言葉に基づいて人格的な信仰を持つことを願っておられます。ヤイロはイエス様の約束を受け入れて自分の家までイエス様について行きました。そしてイエス様は家にはいられたが、ペテロとヨハネとヤコブ、それに子どもの父と母のほかは、だれもいっしょにはいることをお許しになりませんでした。人々はみな、娘のために泣き悲しんでいました。しかし、イエス様は言われました。「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」人々は、娘が死んだことを知っていたので、イエスをあざ笑っていました。しかしイエス様は、娘の手を取って、叫んで言われました。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がりました。それでイエス様は、娘に食事をさせるように言いつけられました。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられました。
この出来事を通してヤイロはイエス様に病人を癒されることだけではなく、死者を生き返らせる力があることを信じる信仰を持つようになったでしょう。そうです。イエス様にとって死は一生懸命に働いてからぐっすり眠る眠りのようなものです。イエス様にとって死は神の国に行く一つの過程にすぎません。ですから、私たちはキリストにあって死を恐れる理由がありません。キリストにある信仰は私たちに死の勢力にも打ち勝つ勝利を与えてくれます。イエス・キリストにある信仰は私たちに永遠のいのちを与えてくれるのです。

結論的に、以上で、私たちはイエス様にどんな病も癒される力があることを学びました。イエス様には死んでいる人も生き返らせる力があります。そして私たちは信仰によって自分の病が癒されるだけではなく、ヤイロのように私たちの信仰によって私たちの娘、息子、兄弟姉妹たちも生き返ることも学びました。ですから、私たちが様々な自分の問題をイエス様の所に持って行くことができます。兄弟姉妹たちの問題もイエス様にお願いすることができます。すると、イエス様は私たちと兄弟姉妹たちを助けてくださることだけではなく、私たちの信仰が成長するように助けて下さいます。私たちは自分に直面する問題を避けてはなりません。私たち一人一人が恐れと死の勢力をも克服する信仰を学び、ただ信仰によって神様に栄光を帰す生活ができるように祈ります。イエス様は言われます。「恐れないで、ただ信じなさい。」