2003年ルカの福音書第3講

しあわせ者マリヤ

御言葉:ルカの福音書1:39?56
要 節:ルカの福音書1:47,48「わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」

 先週、私たちは「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また聖書に従って三日目によみがえられたこと」を学びました。イエス様が死者の中からよみがえられて私たちの主キリストであることを明らかにしてくださったことを感謝します。
今日の御言葉は、私の主イエス・キリストの母となったマリヤの賛歌です。マリヤは神様への賛美の中で「ほんとうにこれから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。」と告白しました。ではどんな人が幸せ者なのでしょうか。私たちが本文の御言葉を通して現に幸せ者となり、私たちの子孫からも幸せ者として呼ばれる者となることができるように祈ります。

第1に、主の御言葉を信じきった人は幸いです(39?45)

マリヤダビデの家系のヨセフという人のいいなずけになっていました。彼女の結婚問題は恵まれた環境の中で解決され、ただ、結婚の日を待っていました。彼女は時々独り言で「O! Joe, I want just to see you.」と言っていました。彼女は平凡な町でヨセフと幸せに生きることを願っていたのです。ところがある日、御使いが現われて神様が彼女とともにおられること、彼女は神から恵みを受けたことを知らせてくれました。また、身ごもって男の子を産むこと、名をイエスとつけることも教えてくれました。そこでマリヤはとまどいましたが、結局、御使いの説明を聞いて「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」と答えました。彼女は神様のみことばを信じて絶対的に従うことにしたのです。なぜなら、彼女は神様を愛したからです。ヨハネ14:21a節は言います。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。…」そうです。彼女は神様を愛したからこそ絶対的に神様の御言葉に従う決心をしました。
 もし彼女が人間的に考えたら、彼氏に会いに行ったことでしょう。そしてヨセフに自分のことを話しながら多くの涙を流したでしょう。しかし、マリヤはヨセフに行きませんでした。
 39、40節をご覧ください。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」とあります。マリヤはヨセフに行く代わりにエリサベツを訪問しました。御使いが告げられた神様のみわざを見るためです。マリヤがエリサベツを訪問することはやさしいことではありませんでした。山地にあるユダの町はナザレから遠いところにありました。また山地にある町だから多くの危険が伴う山を通らなければなりませんでした。何よりもサタンは彼女の心を困らせました。サタンは絶えずマリヤにヨセフに対するすまない心を植え付ました。”O! Joseph, O! Joseph。どうしたらいいのよ。” と叫ばせました。サタンはマリヤの心に家族と村人が失望する姿を思い浮かばせてエリサベツを訪問することを妨げました。「山地まで行かなくてもいいのよ。その道は大変だよ。」と言って心を揺るがせました。サタンはこのように私たちが神様に従おうとする時、十字架の道を歩もうとする時、人間的な情、人間関係、現実の状況などを通して心を揺るがせます。私たちはどんな試験も受けないで自分が願う大学に入り、論文も書かないで博士号を取れたら、ほんとうに楽でしょう。何の妨害もなく、神様のみわざに励むことができるなら、何と素晴らしいことでしょうか。しかし、私たちが神様のみわざに励もうとすると、サタンの妨害があるのです。サタンはマリヤに多くのことを思い浮かばせて信仰の行動を妨げました。しかし、神様は「おことばどおりこの身になりますように。」と御言葉に自分の身をゆだね切ったマリヤの信仰の行動を助けてくださいました。神様は御言葉に頼って行動する人と共におられます。そして御言葉を覚えて生きる人を助けてくださいます。神様はマリヤが自分の置かれた状況の中でエリサベツへ訪問ができるように助け、導いてくださいました。ではマリヤがエリサベツにあいさつした時、どんな事が起こりましたか。
エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどりました。たぶん、胎内の赤ちゃんもエリサベツのようにマリヤの訪問を喜んだでしょう。エリサベツは聖霊に満たされました。そして大声をあげて言いました。42,43節をご覧ください。「そして大聲をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の實も祝福されています。私の主の母が私のところに來られるとは、何ということでしょう。」とあります。
 結婚もしてないのに子どもを産まなければならないことは耐えがたい試練です。しかし、エリサベツは神様の御前で彼女が祝福されているとカウンセリングしました。そして、彼女はマリヤを「私の主の母」と呼んでいます。この「私の主」という言葉は、あまりにも私たちの耳になじんでいるため、当たり前のように聞こえるかも知れません。しかし、当時は、現在の私たちが思い浮かべるよりもはるかに大きな内容が含まれていました。これは、処女マリヤから生まれる子が遠い昔から約束されていたメシヤであり、ダビデが霊において「主」と預言したお方であるということです。すなわち、ペテロが告白したように「神のキリスト」であるということなのです。この信仰告白は聖霊によらなければできません。コリント人への手紙第一の12章3節にはこう書かれています。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことはできません」。エリサベツは聖霊に満たされてマリヤを通して生まれるイエス様が主キリストであると告白しました。
44、45節をご覧ください。「ほんとうに、あなたのあいさつの聲が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず實現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。 」
エリサベツは「信じきった人は、何と幸いなことでしょう」と励ましました。ここで私たちは人の幸いなについて学ぶことができます。
 間違いなく、エリサベツは旧約聖書によく通じていたと思います。彼女は、聖書を通してどんな人が幸いなのかを知りました。あらゆる時代における神様の聖徒たちの歴史はみな、信仰によってあかしされた男女の記録でした。アベル以来の単純な聖書の話はみな、贖われた罪人たちが信仰を持ち、祝福されていったことの証しだったのです。信仰によって彼らは神様の約束を喜び迎えていました。信仰によって彼らは生きました。信仰によって彼らは艱難を忍び通しました。信仰によって彼らは目に見えない救い主を待ち望み、後に来るすばらしいものを待ち望みました。信仰によって彼らは世と、肉と、悪魔と戦いました。信仰によって彼らは国々を征服し、正しい事を行ない、約束のものを得ました。エリサベツはマリヤがこの敬虔なグループのひとりであることを明らかにしました。ほんとうに主によって語られてことを信じきった人は幸いな人です。
 私たちはこの尊い信仰について、どれほど知っているでしょうか?神様に選ばれた人々の信仰と、神様の力を信じる信仰について、どれほど知っているでしょうか。御言葉を信じきって経験した信仰の体験をどれほど持っているでしょうか。使徒パウロはこう告白しています。「…私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです(テト1:1)。
この間、勉強会の時、張パウロ宣教師は「皆さん、今幸せですか。幸いですか。」と質問しました。私たちは信仰を体験的に知るまで決してほんとうの幸いを知らないはずです。ですから、まず御言葉を信じきった経験のない方は、まず神様の御言葉を体験しなければなりません。そして一度それを知ったなら、自分の信仰が大きく成長するようにしましょう。決して休むことなく祈り続けて自分の信仰をもっと大きく、もっと厚くしましょう。お金に富むよりも信仰に富む方が千倍もすぐれています。黄金も、権力も、名誉も、私たちが人生の旅を終えてたどり着く、目に見えない世界では何の価値もありません。その世界では、父なる神様と聖い御使いたちの前で信仰だけが認められます。新約の歴史書と言われるヘブル人への手紙11章には信仰によって行なったことだけが記されています。私たちが死者の中からよみがえられたイエス様のようによみがえらされて神様の御前に立った時は、信仰がいかに価値あるものであったかがついに余すところなく知られることとなります。そのとき、人々は、たとえそれ以前にさとっていなかったとしても、この言葉がいかに真実であるかをさとるでしょう。イエス様もトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。(ヨハネ20:29)」と言われました。見ないで信じる者は幸いなのです。
 
第二に、主に目を留められた人は幸いです(46‐56)
マリヤは、まだ見ぬ将来を信仰によって見て、神様を賛美しました。次から始まるマリヤの賛歌は、「マグニフィカト」と呼ばれる有名な個所です。旧約聖書の知識と背景が色濃く出ています。マリヤが13、14歳の少女であることを考えると、彼女が非常に霊的な人であることがわかります。
 46節をご覧ください。マリヤは言いました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」マリヤは、たましいから、霊から神様を喜びたたえました。口先ではなく、心の奥底から、からだ全体からあふれ出るものでした。そして、賛美をしている対象は、「わが救い主」でした。抽象的な神様ではなく、自分と個人的な関わりをもつ神様だったのです。キリスト教の神様ではなく、私の救い主なる神様を賛美したのです。その理由は何でしょうか。48節をご一緒に読んでみましょう。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私を幸せ者と思うでしょう」と告白しています。
マリヤは、ナザレという町の、比較的貧しい家庭で育っていました。社会的に低い立場、卑しい状況の中に置かれていたのに、主は、そのような者をも心に留めてくださったと言っています。ほんとうに、主が目を留めてくださった者は幸いです。それで彼女は「ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と言うでしょう。」と言っています。
 エリサベツがマリヤを幸せ者と言いましたが、マリヤはこれからもずっと、人々が自分を幸せ者と言う、と言っています。なぜなら、主は自分に目を留めてくださったからです。主はマリヤに目を留めて何をなさいましたか。49節をご覧ください。「力ある方が、大きなことをしてださいました。その御名は聖く、」とあります。
 マリヤは、神様を「力ある方」として表現しています。神様は処女に子を宿らせたのですから、力強いのです。マリヤ自身が身を持って体験しているところです。マリヤが今、主をほめたたえているのは、この神様の大きなみわざに基づくものでした。ここから、私たちは賛美について大事なことを学びます。賛美は、私たちが神様の注意を引き寄せて、神様に祝福してもらうための手段ではありません。たくさん賛美したら祝福される、というものではありません。賛美は、神様がすでに良いことをしてくださったことを思って、自然に発生してくるものなのです。神様がこんなに大きなことを私の生活にしてくださった。神様がこんなに良くしてくださった。そう考えていると、このマリヤのように、たましいから、霊から、神様をほめたたえるようになります。
 50節をご覧ください。マリヤは、自分が受けたことは、主を恐れかしこむ、すべての人にも当てはまることを話しています。マリヤが主の器として選ばれましたが、私はそんな祝福を受け取ることはできないと思う方がいるかも知れません。しかし、マリヤだけが特別なのではないのです。聖書は、注意深く、読んで見ると、主に用いられた人々はスーパーマンではないことが分かります。彼らは私たちと同じ普通の人間でした。アブラハムにもダビデにも、失敗があり、罪のために苦しみ悩んだことがありました。彼らが祝福されるのを見て、私たち自身も祝福される希望があることを、知るように促されているのです。ローマ書15章に、こう書かれています。「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。(4節)」
 51?53節をご覧ください。「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き下ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。」とあります。
疑いもなく彼女は、旧約聖書の歴史を思い起こしつつ語っているでしょう。彼女は、イスラエルの神がいかにパロや、カナン人や、ペリシテ人や、ハマンや、ベルシャツァルをひねりつぶしたかを記憶していました。神様がいかにヨセフや、モーセや、サムエルや、ダビデや、エステルや、ダニエルを高く引き上げられたかを覚えていました。そして彼女に対する神のお取り扱いのすべてにおいて神様の御手のわざを思い巡らしていました。
 真のキリスト者は常に聖書の歴史に、また個々の聖徒たちの生涯に、注意深く目を配っているべきです。そうした学びによって私たちは、神様がご自分の民をどのように扱われるかを悟るようになります。神様の御心は変わりません。過去において神様が御民のために、また御民に対してなされたことは、今後も同じようになされると考えられます。そうした学びによって私たちは、何を期待すべきかを教えられ、何を期待する権利がないかを教えられます。幸いな人は、その心にこうした知識をふんだんに蓄えている人です。私たちは、自分のしていること、人のしていることに思いを寄せることが多いですが、神様のみわざに目を留めるとき、マリヤのように心に喜びが湧き出ます。
 次に、マリヤは、自分に起こったことが、イスラエル民族にも起こることを歌っています。54節をご覧ください。「主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもベイスラエルをお助けになりました。」とあります。イスラエルほど、多くの敵を持った国はありません。けれども、イスラエルは残っています。そして、終わりの日にイスラエルは回復されて、大いなる国となることが預言されています(創世12:1?3)。そして、イスラエルが助けられたのは、主の「あわれみ」によると書かれています。私たちは、この神のあわれみのことを考えると、マリヤのように、神様をほめたたえざるを得なくなるのです。55節をご覧ください。「私たちの先祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」とあります。神様がイスラエルを助けたのは、初めにイスラエルに約束をされていたのです。イスラエルの父祖アブラハムをはじめとして、イサク、ヤコブなど、数多くのイスラエル人に約束されました。神様は、人と違って、決して約束を破ったりせず、必ずそれを実現されます。現に、マリヤのお腹の中には、イスラエルを救う方キリストがおられたのです。
 これでマリヤの賛美は終わりましたが、ここで一つ注意したいことがあります。この賛歌に示されている幅広い聖書知識です。マリヤの賛美の中には詩篇に出てくる多くの表現があります。何よりも思い出されるのは、サムエル記にあるハンナの歌です(Iサム2:2以下)。明らかにマリヤは、聖書の多くの箇所を暗記していました。彼女は、耳で聞くか目で読むかして、旧約聖書に親しんでいたに違いありません。それで彼女は、感極まって言葉が口にほとばしり出たとき、自分の感情を聖書の言葉で表現できたのです。彼女は、聖霊が過去すでに聖別し、お用いになった言葉を選んでいるのです。まだ14、15歳であったと言われるマリヤの聖書知識がどんなに優れていたのかが分かります。彼女は聖書の達人のようになっていました。
 ここで私たちは、生きる限りはより深く聖書を学ばなければならないことを学びます。聖書を学び、聖書を黙想して、聖書を私たちのうちに豊かに住ませるようにしましょう(コロ3:16)。特に、詩篇のように、聖徒たちの経験が真実に書きつづられた聖書箇所に親しむように努めましょう。それは私たちが神様に近づく歩みをする上で、非常に役に立ちます。そこから私たちは、自分の願いであれ感謝であれ、最良に、また最適に云い表わせるような言葉を授けられるでしょう。疑いもなくそうした聖書知識に到達するには、規則正しく毎日学び続けるしかありません。私たちには幸いに日ごとの糧があります。ところが、毎日夜明けにデボションの時間を持ち、日ごとの糧を食べることはやさしくありません。しかしそうした学びに費やされた時間は決して無駄に費やされることはありません。ずっと後の日になって、それは実を結ぶのです。(私は・・・)

 以上で、私たちは幸せ者について学びまたし。幸せ者は神様に選ばれ、神様が目を留めてくださる人です。何よりも、神様の御言葉を信じきって行なう人です。主の御言葉に通じた人です。神様は私たちに目を留めてくださいました。罪から救って神様の子どもとし、生ける望みを与えてくださいました。神様の哀れみを心から、たましいから感謝し、御言葉を信じきった者として生きるように祈ります。御言葉に通じた聖書の達人として神様に祝福された幸せな人生を生きるように祈ります。