2003年ルカの福音書第4講
                救い主イエス様
御言葉:ルカ1:57‐80
要 節:ルカ1:74,75「われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」

先週はマリヤの信仰を通して、本当の「幸せ」についてご一緒に学ばせて頂きました。ほんとうに、主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、幸いな人です。」 
今日の御言葉は一般的に「ザカリヤの賛歌」と呼ばれている箇所です。ザカリヤは全生涯をささげて忠実に神様に仕えた祭司でした。今はもう年寄りになっていましたが、若者にまさる力を持って神様への賛美を歌いました。ある老人たちはこの世に対して不満を言いふらし、特に若者たちがやっていることに対する不満を言う生活をしています。あるいは過ぎ去った過去の思い出を語る日々を過ごしています。しかし、ザカリヤとエリサベツ夫婦は聖書勉強と祈りの生活を続けました。彼らは人々の牧者として生きていました。彼らは神様にひとりの子どもを願い求める祈りを決してあきらめませんでした。神様は彼らの祈りを聞かれ、天使を遣わして彼らに男の子が生まれることを知らせてくださいました。それはほんとうに素晴らしい喜びの知らせでした。しかし、不思議にもザカリヤはそれを信じることができませんでした。彼はもう年取って白髪になっている自分の姿、顔はしわしわとなり、腰も曲がっている妻のことを考えました。それで、彼は「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と言って神様を悲しませました。そこで御使いは彼を叱り、彼の子どもが生まれる日までおしになってものが言えない訓練を与えました。それから沈黙の九ヶ月の歳月が流れて、ザカリヤはものが言えるようになりましたが、その時、彼は神様への賛美を歌いました。彼の賛歌はご自分の民を救うために来られるメシヤに関することです。
ここで、私たちはイエス様が私たちをすべての敵の手から救い出す救いの角、救い主であることを学ぶことができます。この時間、救いの角であるイエス様が私たち一人一人に訪れてくださるように祈ります。

?. エリサベツ、ザカリヤの信仰(57-66)

 57,58節をご覧下さい。「さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて彼女とともに喜んだ。」とあります。エリサベツが年寄りであったにもかかわらず、産みの苦しみを無事に乗り切れたのは、神様のあわれみでした。彼女が健やかな赤ちゃんを産めたことは、大きなあわれみでした。ザカリヤは自分の家庭の出産について主の特別なあわれみとして受けとめていました。自分たちに与えられた祝福を神様のあわれみとして受けとめることはなんと幸いなことでしょうか。私は時々何事もうまく行っているようなクリスチャンと話し合ってみると、よく感謝していることに気づかされます。何よりも、彼らは祝福されているから感謝しているのではなく、すべてのことにおいて感謝しているからこそ祝福されていることを悟る時が多くあります。自分の家庭のあらゆることに対して主の特別なあわれみとして受けとめている家庭はほんとうに幸いです。また、近所の人々や親族はエリサベツの出産を「彼女とともに喜んだ。」書かれています。素晴らしい光景ですね。ローマ人への手紙12章15節に「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」とあります。互いの喜びや悲しみに同情を寄せることは、ほんとうに強力な力のある恵みです。祝い事や悔やみ事のある時に語られた親切な言葉は、ほんの一言でもめったに忘れ去られることがありません。良い知らせによって暖かめられた心、あるいは患難によって苦しめられた心は、特に感じやすくなっています。そしてそうした心に対する同情心はしばしば黄金よりもずっと貴重なものなのです。
私たちは、礼拝の後、食事会をしています。主にあって愛する兄弟姉妹たちが一緒に食事をすることはほんとうに素晴らしいことでしょう。ところが、この食事会が食べるのに忙しく、話し合いも、この世の情報交換や冗談だけで終わるなら、何だか物足りなくないでしょうか。私たちの食事会がエリサベツ家庭のように主があわれみをおかけになったことを知らせ、それをともに喜ぶものとなりますように祈ります。「朴エズラ宣教師は、主が特別に哀れんでくださり文部省奨学金をもらうんだって。ステパノ宣教師は、この不景気の中でも、外国人なのに、あの有名な横河電機会社に就職したんだよ。ほんとうに大きな主のあわれみですね。彼の同労者リベカ宣教師は3年前の羊に会って礼拝に来る約束ができたんだよ。それも主のあわれみですね。」と言うような話が交わされるように祈ります。
59-66節をご覧下さい。さて、エリサベツの出産から八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしました。当時は子供に親の名前を入れるのが、普通になされていたようです。集まった人達は”ザカリヤ”という名前にしようとしました。その時、母親エリサベツが『いいえそうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません。』と言いました。あくまでも”ヨハネ”という名前にしなければならないと主張するので、周りの親族の人達も困ってしまいました。そこで彼らは、父親ザカリヤに身振り手振りで”子どもの名前はどうするつもりか”といった訳です。すると彼は書き板の上に『彼の名はヨハネ』と書きました。すると、たちどころに、今まで約九ヶ月間、聞こえなくなっていた耳が解かれ、口も開かれて、話せるようになりました。では、この事件は一体私達に何を語り、何を教えているのでしょうか? いろいろ考えられるでしょうが、私は、神様が私たちに「信仰」について教えて下さると思います。ザカリヤに”バプテスマのヨハネ”の誕生が知らされた時、彼は不信仰だった為に口が閉ざされました。しかし、彼が信仰に立ったその日に口が開かれ、再び話せるようになりました。信仰の行いをしたその時、彼へのおしの訓練は終わったのです。  
私達は信仰的に恵まれている時には、あまり否定的なことを考えません。しかし、何か嫌な事が立て続けてあったり、自分の思い通りにならなかったりすると、どうなりますか。私達は神様に対して人に対して疑いを持ったり、嫌な気持ちを抱いてしまったり、不信仰になってしまう事があります。神様はそんな時にこそ、私達がザカリヤにあった出来事の一つ一つ、その事実をしっかりと踏まえて生きること願っておられるのです。私達の感情が神様を喜ぶ感情であろうが、反対に神様に対して熱心な気持ちが薄れている時であろうが、神様がおられて、神様が”救い主”を送って下さり、信じた私達が救われている、永遠の命を頂いている。この事実に変わりはありません。 ですから私達はこの事をしっかりと受け止め、それによって揺るがない信仰を頂く事が大切になります。ザカリヤが子どもの名前を”ヨハネ”と書き板に記した瞬間に、彼は口がとけました。「この子は本当に神様から与えられた者なんだ」という事を心から信じた証として、子供の名前御使いから言われたとおりに”ヨハネ”と付けると書いたその時、驚くべきことが起こりました。彼が信仰に立ちきった時に、恵みと祝福が注がれたのです。

?.ザカリヤの賛歌(67-80)

 67,68節をご覧下さい。「さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、」とあります。ザカリヤの賛歌は彼の強い意思的な努力や勉強によって作られたのではありません。彼が聖霊に満たされた時、彼らの心とたましいから賛美が沸いてきました。聖霊は彼の心の中に喜びと平安、預言者的な洞察力と大胆にイエス様について証しできる力を与えてくださいました。
ザカリヤはご自分の民を顧みて、贖いをなしてくださったことを賛美しました。ここで「顧みる」とは「訪れる」「探し出す」などの意味が含まれています。それは通り道にしばらくよったことではありません。いつも深い関心を持っていて時になると訪れることを意味します。神様はご自分を低くしてご自分の民に訪ねて来られました。もともと民には神様の訪問を受けられるような価値がありませんでした。彼らは罪深い民であり、奴隷の民でした。神様は彼らを奴隷から解放させて祭司の王国、聖なる国民として立てられました。そして彼らに数多い特権と祝福をくださいました。世界の中でも神様の宝として愛され、用いられるようになったのです。しかし、彼らは神様に感謝することも、忠実に神様の使命を担うこともしませんでした。彼らは、ただ、乳と蜜が流れる神様の約束の地を楽しんでいました。彼らは偶像礼拝をし、神様を捨てました。神様はそんな民を捨ててしまうこともできました。しかし、神様は幼子イエス様を通して彼らに訪ねて来られたのです。
イエス様は罪人たちに訪ねるために天の御国でのすべての栄光と尊厳と誉れを捨ててこの地に降りて来られました。使徒パウロはピリピ2:5-7節でイエス様の聖なる謙遜について語りました。「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」私たちの神様は全能の方です。栄光と尊厳、威厳と誉れに満ちた方です。しかし、神様は私たちを訪れるためにご自分を無にして卑しい私たちと同じようになられました。神様の大きな謙遜と犠牲を心から感謝します。
私たち人間は本質的に高慢な者で罪深い者です。聖なる神様が罪人たちを訪れ、彼らの間に住まわれることはありえないことです。しかし、神様はご自分を低くしてこの地に来られ、私たちの所まで訪ねてきてくださったのです。
ではその目的は何ですか。もう一度68節をご覧ください。「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、」とあります。イエス様は私達の罪を贖うために来られました。「贖う」とは「救い」「解放」「自由」などの意味で、奴隷を代価を払って自由にすることを意味しています。ですから贖いという言葉は人間が奴隷状態にあったことを意味します。今日の日本人は奴隷の状態についてよく理解できません。なぜなら、人間的には自由と平和を楽しんでいるからです。しかし、私たち人間は神様に罪を犯したのでサタンの奴隷となりました。サタンの奴隷となった人間は一生の間、恐れと不安と罪悪感にさいなまれ、ついには死ななければない存在です。そして自分が奴隷だから、高慢と罪の奴隷から自由になることができません。心の中ではきよく正しく、謙遜に生きようとしても罪の誘惑に負けてしまい、惨めに生きるしかない状態になっているのです。このような惨めな奴隷状態から解放されるためには代価を払わなければなりません。まるで誘拐犯が身代金を要求することのようです。ところがサタンが要求する身代金は人のいのちです。イエス様は私達の罪の代価を払うためにご自分の尊いいのちを捨てられました。神様は私たちに訪ねて来られるだけではなく、貴いご自分のいのちを私たちの罪の代価を払って贖いをなしてくださいました。私たちを贖い、ご自分の愛する子どもとして迎え入れてくださいました。神様の贖いによって私達はサタンの奴隷から神様の子供となりました。身分が完全に変わったのです。ここに私達に向かう神様の驚くべき贖いの愛があります。

69節をご一緒に読んで見ましょう。「救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。」神様はダビデに約束してくださった通りに彼の子孫の中から救いの角を立てられました(?サムエル7:13、使徒13:22、23)。動物の角は、身を守り、報復する際の武器であるとともに、その身の飾りであり、美しさでもあります。それゆえ、聖書ではこの角が強大な権力と力を象徴しています。つまり、贖い主イエス様がこの上もない偉大さ、力を持っておられることを現わしています。同時にその力によって私たちを守り、その偉大な力によって私たちをサタンの奴隷から解放して自由にしてくださることを教えてくれます。サタンは十本の角の強力な力によって人間の弱点を突き刺します。サタンは性的な誘惑の角で人を突き刺します。多くの若者達が雑誌やビデオ、インターネットなどを通して攻撃するサタンの角に突き刺されています。その他にもサタンは異端、高慢、恐れ、安逸、眠り、不信など多くの角を持ってその人の弱いところを突き刺します。神様に罪を犯してサタンの奴隷になっている人間はそのサタンの支配から解放される事ができません。奴隷が奴隷を救うことはできないのです。しかし、イエス様はサタンよりも強い救いの角です。イエス様はサタンより知恵が優れた方です。イエス様はイザヤが預言したように知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊に満ちた方です(イザヤ11:2)。このイエス様は人々を感動させ、生かす御言葉の力を持っておられます。悪霊を追い出す霊的な権威者であり、嵐を静める自然界の権威者です。今、世界は中国から始まった伝染病「SARS」のために大騒ぎになっていますが、イエス様はどんな病も癒す癒し主です。何よりもイエス様は私たちの罪を赦してくださる権威を持っておられます。イエス様は天と地のすべての権威を持っておられる方です。死の力を打ち破り、よみがえられた復活の主であり、いのちの主です。ですから救いの角であるイエス様は私たちをすべての敵から、私たちを憎む者の手から救ってくださる救い主です。救いの角であるイエス様をほめたたえます。では、救いの角であるイエス様によって贖われ、救われた私たちはどのように生きるべきでしょうか。
 74、75節をご覧ください。「我々を敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」この御言葉は神様が私たちを罪とサタンの力から救ってくださった目的が何かを教えてくれます。神様に仕えることを縛られることのように思っている方がいます。また、救われてクリスチャンになることは、この世でこの世の恵みを受けつづけ、祝福されることだと思っている方もいます。もちろん、クリスチャンは恵みを受け、祝福されます。しかし、それは神様に仕えることがどれほど祝福であるかを知らないからです。本当に自ら進んで神様に仕えることができるというのは大きな恵みです。過去私達は神様に仕えたくても罪と恐れのために聖なる神様の御前に出て行くことができませんでした。しかし、私達は神様の御子イエス・キリストの贖いのゆえにいつでも神様の御前に出て行くことができるようになりました。生涯のすべての日に、「きよく、正しく、恐れなく」、神様に仕えることができるのは、何と大きな祝福でしょうか。私達には生涯のすべての日に仕える方がおられます。人が定年になると、収入よりも仕えるところがなくて困るそうです。ところが、私たちには定年なく仕える方、聖なる使命が与えられているのです。これは何と大きな恵みでしょうか。神様は私たちが生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく主に仕えるように救ってくださいました。そして、私たちがきよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕える時、私たちは夜空に輝く星のように輝かしい人生を生きることができます。主に仕える人には、毎朝太陽が昇ることと同じく、毎日その人の心に日の出が上ります。
 78、79節をご覧ください。「これはわれらの神の深い哀れみによる。その哀れみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者達を照らし、われらの足を平和の道に導く。」とあります。日の出のイエス様は暗闇と死の陰にすわっている人々にいのちの光を照らして下さいます。すると、暗黒と死の陰は消え去り、平安と希望に満たされます。何だか生活に力がなく、不安と恐れを感じている方がいらっしゃるでしょうか。日の出イエス様に照らされていると、私たちはどんな状況の中でも明るく輝いている生活ができます。歩いてもたゆまず、走っても疲れないわしのように力ある人生を過ごすようになります。日の出イエス様は私達にいのちを与え、生きる希望を与え、私達の足を平和の道に導いてくださるからです。それで、日の出イエス様が私達を照らすと私達は外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回るようになります(マラキ4:2)。
私は自分の罪と足りなさのために暗くて絶望的な人生を生きるしかない者です。もともと私はほんとうに暗く悲しい人生を過ごしていました。しかし、救い主イエス様のおかげで死の影に座っていた人生から救われました。神様に仕える特権と恵みが与えられています。それで、今は私の心がどんなに暗くなっても毎朝日ごとの糧を食べる時、メッセージを準備する時、日の出のイエス様が私の心を照らしてくださいます。神様に「主よ!」呼びかけるとき、哀れんでくださいます。今日もこのイエス様のおかげで、メッセージを伝えることができて感謝です。神様が私たちを哀れんでくださり、毎日、日の出のイエス様に照らされてイエス様に仕える生活を許してくださるように祈ります。経済的に、政治的に、何よりも霊的に暗くなっているこの日本が日の出のイエス様を受け入れて、明るく希望に満ちた国、祭司の王国、聖なる国民となるように祈ります。

 結論的に、私たちは救い主イエス様に会いました。私たちが私たちを哀れんで救ってくださった主の哀れみに感謝し、毎日きよく正しく主に仕える生活ができるように祈ります。