2004年ルカの福音書36講

答えられる祈り

御言葉:ルカ11:1-13
要 節:ルカ11:9、10「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

先週、私たちはサマリヤ人のたとえを通して、だれが隣人になったかを学びました。私たちにとって真の隣人になってくださった方はイエス様です。イエス様は罪と咎のために傷つけられ、病んでいる私たちをかわいそうに思い、近寄ってくださいました。そして、十字架の死によってイエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました。イエス様は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。そのイエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。私たちをかわいそうに思い、近寄ってくださった恵み、私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださった主の恵みを心から感謝します。そして私たちもイエス様のような愛を持って過去私たちのように傷ついている人々をかわいそうに思い、近寄って助ける隣人になって行くことができるように祈ります。言葉や口先だけではなく、真実と行いによって人々を愛する生活ができるように祈ります。
ところが、愛の生活は、自分の力ではなかなか出来ないものです。神様の助けを受けなければなりません。何よりも聖霊を受けなければ真に愛することは無理でしょう。ではどうやって聖霊を受けるでしょうか。今日の御言葉の結論として、イエス様は、答えられる祈りを続ける者に神様が聖霊を下さることを教えておられます。では答えられる祈りとはどのように祈り、どんな姿勢で祈ることでしょうか。

?.祈りの内容(1-4)

もし、この時間、イエス様が現われて皆さんに「何でも答えてあげるから一つだけを言いなさい」と聞かれるなら、なんと答えるでしょうか。想像してみてください。その時、皆さんは何を求めえるでしょうか。新しい職場でしょうか。お金でしょうか。病を癒してもらうことでしょうか。あるいは羊を送ってくださいと願うでしょうか。
1節を見ると、イエス様の弟子たちのひとりは「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」とお願いしました。弟子は「祈りを教えてください」とお願いしました。彼にもほしいものが数多くあったと思いますが、なぜ「祈りを教えてください」言ったのでしょうか。おそらく、イエス様の生活の中で現われた祈りの結果を直接に目撃したからでしょう。彼らはイエス様が祈っておられる姿を見たし、祈りを終えられたときの輝かしい姿、またその祈りが答えられることを直接に目撃しました。もちろん、弟子たちが見たことはイエス様の祈りだけではありませんでした。イエス様が権威と力あるメッセージを伝えておられる姿も見ました。病人を癒されることも見ました。数多くの奇蹟を見たし、甚だしくは死者を生き返らされることも目撃したのです。それなのに弟子たちは不思議にも「主よ。私たちに説教を教えてください。」「奇蹟を起こす方法を教えてください。」「死者を生き返らせる方法を教えてください」とお願いしていません。その代わりに「祈りを教えてください」とお願いしました。なぜでしょうか。それらのすべては祈りから始まっていたからでしょう。彼らは祈りこそイエス様の生活を支える核心であり、すべての力あるみわざの根源であることを体験したのです。イエス様があの偉大な説教をされる前にも、病人を癒される前にもまず祈られる姿を見ました。弟子たちがイエス様の生活を思い出して見ると、イエス様は何をしてもまず祈られ、祈ってから力あるわざを成し遂げておられました。弟子たちはこのイエス様を通して祈りこそ、学んでおかなければならない大切なことであると悟ったのです。そこで、彼らは「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」と祈りました。事実、クリスチャンのライフにおいて祈りほど重要なこともないしょう。
イエス様は弟子たちの質問に答えてまず祈りの模範を示して、祈りの内容を教え、祈りに関する適切なたとえを通して祈りの姿勢と約束について教えてくださいました。始めの祈りの模範として示された「主の祈り」は、祈りの典型で、何をどのように祈るべきかを教え、また祈りの精神を示したものです。この「主の祈り」は、今もなお教会の集会や敬虔な家庭で唱えられているものです。
2-4節を読んで見ましょう。「そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」
ここでイエス様は弟子たちに「主の祈りと」と呼ばれている祈りのモデルを教えてくださいました。始めの2節は神様のため、後半部の3,4節は自分のためにささげる祈りです。
まず、神様へ呼びかけです。イエス様は「祈るときには、こう言いなさい。『父よ』」と言われました。ここで『父』は注解によるとアラム語「アバ」のギリシャ語訳であるそうです。それはユダヤ人家庭で幼児が父に向かって呼びかける、親密な、いわば家族用語でした。ですから『父よ』と呼びかけることは、神様と私たちの関係が基本的に「父と幼い子どもの関係」であることを教えてくれます。同時に祈りとは父と子どもが交わされる親密な愛の対話であることを教えてくれます。 
これは当時のイスラエル人にとって革命的なことでした。旧約の神様は審判の神様、恐れるべき神様、人間は近づけない聖なる聖なる方であることに対する認識だけがあったからです。彼らにとっては神聖な神様の御名を読むことや呼ぶことさえ神様への冒涜でした。父と子どもの関係になることは想像すらできないことだったのです。ところが、イエス様は神様を『父よ』と呼ぶように言われたのです。「お父ちゃん」と呼びかけて祈るように言われました。神様を『父よ』と呼べると言うのは神様の子どもであることの告白でもあります。神様は天地万物を造られた大いなるお方であると同時に、本当にやさしく包んで守ってくださる「お父さん」です。お父さんは子どもたちを守り、必要なものを満たしてくれます。お父さんは子どもたちにとって頼りの対象であり、信頼の対象です。もちろん、この世のお父さんは無能力で、無関心な方もいるし、厳しくて律法的な方もいます。小さな子どもを残して亡くなられたお父さんもいます。しかし、父なる神様はそのような方ではありません。「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です(イザヤ9:6)。私たちの罪を贖うために御子さえ惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛してくださる愛の神様です。私たちに必要なすべてを与えようとしておられるし、また十分に与えてくださる方です。ですから、私たちが神様を『父』と呼べるようになったことは言い尽くせない、本当に大きな恵みです。
過去、私たちはサタンの子どもでしたが、イエス・キリストの血潮によって救われて神様の子どもとなりました。神様の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。私たちは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。それで、私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼ぶようになりました。ですから、私たちは祈る時に、優しく、愛の豊かな父に対する親しみを持って祈ることができます。
時々、マリアちゃんは「パパ君」と呼びかけてきます。私は「もうマリアも小学生になるから『お父さん!』と呼んで。」と言います。すると娘は「お父ちゃん」と話しかけて、くっついて来ます。そして、いろんな話をしてくれます。時には自分がほしい物を頼みます。私も彼女にいろんな事を聞き、やってほしいこと、直してもらい事を言います。そこで、娘も私も大きな幸せを感じます。
私たちが父なる神様に祈ることもこのようなことではないでしょうか。祈りは仕方なくしなければならない義務では在りません。負担感をもってすることでもありません。愛する人と親密な対話をするようなものです。
今日、多くのクリスチャンが祈りに対して負担感を持っています。「祈らなければならないのに・・・」と思いながらも祈りません。インターネットに入っていろんなことを楽しみながらも祈ることは楽しみません。祈のることを重い十字架を担うことかのように思っています。しかし、祈りは楽しいものです。聖歌254章を見ると「たのしきいのりよ・・・」と始まっています。父なる神様に私の心のすべての話をすることです。人々と話し合う時は誤解される時もあります。また、人の話をよく聞き取るためにはよく努力しなければなりません。しかし、私の心をよく知っておられる方は父なる神様です。私たちの弱さを知っていて理解してくださいます。私の心が傷ついている時、寂しい時、悲しい時に神様の御前で「父よ」と呼んでみてください。主の御前に静まって祈る時「父よ」と呼ぶと、この世でのすべての疲れが癒されます。さまざま人々に出会って傷つけられた心も癒されて平安と安息を得ます。新しい力と勇気が湧いてきます。
私は皆に愛されているんだなあと思う時がよくあります。私の同労者マリヤ宣教師から愛されていることは言うまでもありません。でも、私はたまに寂しくなります。孤独を感じます。誰にも話せない心の痛み、心の苦しみがあります。しかし、神様の御前にひざまずいて「父なる神様!」と呼びかけると、主は私の所に来てくださいます。心を慰め、励ましてくださいます。30分、あるいは1時間祈ると、主の愛に包まれていることを悟らせてくださいます。私は主の愛に包まれて涙を流します。この世のどのカウンセラーもカウンセリングができないことを父なる神様は聖霊を通して助けてくださいます。新しい方向も、御言葉も与えてくださいます。そこで、愛されている者の幸せを感じます。これは本当に大きな祝福です。私たちが祈る時、「父よ」と呼ぶことによってこのような霊的な祝福をいただきましょう。では父なる神様に何を祈るでしょうか。
第一に、「御名があがめられますように。」と祈ることです。一般的にも「祈る」という言葉をよく使います。大体は自分の願い事を祈るでしょう。大体、商売が繁盛するようにとか、仕事に成功するようにとか、受験に合格するようにとか、家族の者が病気にならず、家内安全であるようにとか、交通事故にならないようにとか、色々な災難に遭わないように、といったすべて自分の願い事を祈るのです。もちろん、私たちクリスチャンもそのような祈りをします。私たちは日ごとの糧のために祈らなければなりません。しかし、イエス様は私たちがまず、「御名があがめられるように」と祈ることを教えておられます。では具体的に「御名があがめられる」ということは何を意味しているでしょうか。
日本でも「名は体を表わす」と言われていますが、古代イスラエル人にとって、名は、そのものの本質を表わしました。ですから、御名があがめられるということは神様の本質、全人格が表わされることです。すなわち、生きていて私たちを愛し、私たちに働きかけ、私たちを導かれる神様の本質がよく表れるようになることです。それは私たちが父なる神様の子どもらしい子どもになることによってできます。私たちは不平不満が多い世の中でもいつも喜び、すべての事について感謝することによって聖なる神の子どもらしく生きることができます。ヨブ記を見ると、ヨブはサタンの嫉妬のために一夜に数多い財産と愛する子どもたちを失いました。しかし、彼はその時に、神様に礼拝し、神様を賛美しました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ記1:20,21)。ヨセフは父の家にいるときも、奴隷になった時も、監獄にいる時や総理大臣になった時も、いつも神様が彼とともにおられることを表わしました。このように、私たちが聖なる神様の子どもらしく生きる時、神様の御名があがめられます。神様は私たちを祭司の王国、聖なる国民として育て、導くことによって御自分の御名があがめられるようにされるのです。
次の祈りは「御国が来ますように」という祈りです。御国とは「神のご支配」という意味です。イエス様は公の生涯を始めるに当たって、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)。と言われました。イエス様は神の国の到来を告げるためにやって来られました。そして告げるだけではなく、ご自分の言葉と行動において、真の神の支配を実現されました。しかし、それは、この世的権力による支配ではありません。神の国は、神の支配に全く服従する所から実現します。神の支配に服従することは、悔い改めて福音を信じることです。そして、悔い改めることは神様に立ち帰ることです。今まで神の支配服することなく、神様の意志に逆らって生きて来た者が、真の支配者である神様に立ち帰り、神様の意思に従って歩もうとすることです。ですから、私たちは自分の内側から悔い改めて神様の支配に服従するように祈るのです。さらにサタンに支配されている人々がイエス・キリストによって救われて神様の支配に服従するように祈ることです。
そして、主の祈りの後半部は私たちのための祈りです。神様の御名と御国のために祈る崇高な祈りと同時に私たちのために祈るのです。それは三つのRequestです。まず「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」と祈ることです。非常に身近で現実的な事のために祈るべきことを教えています。ある方は「何でそんな幼稚なことのために祈るの!」思うかも知りません。「ダイエットのためではなく、食べ物ために祈るんだって恥ずかしいよ。」と思うかも知りません。しかし、イエス様は私たちがこの世で生きて行くのに基本的に必要なことのために祈るように教えています。日ごとの糧のために祈ることが幼稚なことではありません。レベルの低い祈りでもありません。イエス様が教えてくださる祈りです。「あなたがたはこう祈りなさい。私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」という祈りです。私たちの食事のために、私たちの健康のために、私たちの職場のために、一日の生活のために、経済的な必要のために祈らなければならないのです。なぜ、このように祈ることが重要なことでしょう。私たちが、このようなことを祈ることは、神様への信仰告白であるからです。主よ!僕は僕の力で生きるものでありません。自分の力では一食のご飯も得ることができません。自分に能力によって職場の仕事もできません。父なる神様。私を助けてください。と神様に頼ることになるのです。すると、父なる神様が私たちの必要を満たし、守ってくださいます。
二番目は「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」という祈りです。体のいのちのために日ごとの糧が必要であることと同様に霊的ないのちのために罪の赦しが絶対的に必要です。罪は神様と人間の間を断絶させて神様の支配から離れるようにします。罪はまた、人と人の関係も破壊させます。罪はらい病のようで人間を醜くし、汚れるようにします。ところが、この罪の問題は人間の努力や行いによってできるものではありません。神様の赦しを受けなければなりません。ですから、私たちは神様に「私たちの罪をお赦しください。」と祈らなければなりません。同時に、「私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。」と告白しなければなりません。本当に自分の罪を自覚して「私の罪をお赦しください。」と祈ることができる人は「私たちも私たちに負い目のある人たちを赦します」という祈りができるでしょう。私たちはまず、自分の罪を赦してもらうためにへりくだる祈りが必要なのです。私は神様の御前に出る資格もない者であると感じている人には神様のすぐ近くにいる人です。反対に私は立派なクリスチャンです、自分は何とかやっていると思っているなら、実は大変神様から離れていることでしょう。
三番目は、「私たちを試みに会わせないでください。」と祈ることです。私たちは正直に「弱い者」と認めて良いでしょう。「主の祈り」は、強い信仰の持ち主の祈りではなく、弱い者の祈りです。強い者なら、祈る必要がないかも知れません。弱いからこそ祈るのです。ここで、イエス様が「試みに会わせないでください。」という祈りを私たちに教えられたことは、大いなる慰めです。このような祈りを私たちは、主から受けていることを感謝したいと思います。私たちが自分の弱さを認めて祈る時、神様は私たちを勝利に導いてくださいます。

?。祈りの姿勢(5-13)
イエス様は弟子たちに祈りの内容を教えられた後に、引き続いてどんな姿勢で祈るべきかについて教えてくださいました。それは、主の祈りがただ抽象的な祈りではなく、具体的な祈りであり、また私たちの真剣な祈り、あくまで頼み続ける祈りは必ず聞かれることを教えるためであったと思います。主の祈りはとても簡潔ですが、十分な祈りでもあります。何を祈ったらよいか分からない時は、この祈りをすればいいと思います。何も言葉を整えて上手に祈る必要はありません。問題は心から祈る、真剣な気持ちで祈るということです。イエス様はここで、そのことをたとえによって教えられたのです。
5-8節をご覧ください。ある人が真夜中に友だちの所に来て「パンを三つ貸してくれ、友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。」と言いました。真夜中にパンを借りに行くというのは、はなはだ非常識ではないかと思われるでしょう。パンを三つ貸す位のことなら、何でもないかも知れませんが、それを真夜中に借りに行くのは、いささか非常識だと思われるのです。良識ある者なら、そのようなことは差し控えるでしょう。特に、この当時のパレスチナの普通の庶民の家は、お粗末なもので、一つの部屋に家族全員で寝ました。従って、皆が寝込んだ時に、自分がごそごそ起きて用事をすると、家族全員を起こしてしまいます。そこで、家の主人は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』そんな面倒はかけないでくれと言うのです。最もな話です。普通なら、ここで引き下がります。多少の迷惑を掛けたり掛けられたりするのが友人かも知れませんが、そこにも限度というものがあります。しかし、この男は、なおドアをたたき続けて求めました。その結果がどうなりますか、主人も起きるし、奥さんも起きます。子どもたちも起きました。家族全員を起こしてしまいました。「火事か」とドアを開けてみると、何と言われましたか。「パンを貸してちょうだい」と言われたのです。
 イエス様がこのたとえを教えられたポイントはどこにあったでしょうか。私たちが祈る時、どんな姿勢で祈るべきであることを教えられたのでしょうか。
8節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」ここで、重要な言葉は「あくまで頼み続ける」ことです。この言葉は原語で「アナイディアン」ですが、これは「恥知らず」という言葉だそうです。厚顔無恥、厚かましい、しつこいということです。厚かましく、ずうずうしいと言われるほど祈るのです。あまりにも執拗に祈るので、頼まれる側も聞いて上げなければ自分が恥知らず人間になると思われるほどに願うのだ、それが祈りだと教えています。すなわち、頼まれる神様を困らせるほどの願い、それが祈りだと言われているのです。イエス様はこのたとえを基礎にして積極的な姿勢で祈ることを言われました。
9,10節をご一緒に読んでみましょう。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。これは積極的に、しつこい姿勢で頼み続ける祈りをすることを教えてくれます。このように祈る時、主は必ず祈りに答えてくださいます。しかも、神様から見て最も良いものをくださいます。
11-13節をご覧ください。「子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」ここで、私たちの父なる神様は、私たちに良いものをくださらないはずがないということを教えてくれます。使徒パウロは言いました。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」神様は私たちに最高のプレゼントくださいます。それは聖霊です。では聖霊はなぜ最も素晴らしいプレゼントになりますか。聖霊は私たちの助け主です。あらゆる面で私たちを助けてくださいます。力が必要な時は力を与えられ、落ち込んでいるときは励ましてくださいます。祈りも助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。何よりも聖霊は私たちの内に留まって、私たちが愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結ぶようにしてくださいます。
私たちが「主の祈り」の意味を知って正しく祈り、あくまで頼み続ける祈りをして答えられる祈り生活ができるように祈ります。