2004年ルカの福音書41講                               
忠実な思慮深い管理人
御言葉:ルカの福音書12:35?59
要 節:ルカの福音書12:42、43 “主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。”

先週、私たちは父なる神様が、喜んで御国をお与えになることを学びました。私たちが御国を所有するなら、貪欲も、心配も、恐れも克服することができます。聖なる御国の民として神様と深く交わりながら新しい人生を生きるようになります。同じ地球上に生きていても自分の力に頼って生きる人には不安と恐れがありますが、父なる神様に頼って生きる人には、平安と喜び、生きがいと大いなる祝福があります。何よりも今イエス様を信じて御国を所有している人は、やがてイエス様が再び来られるその日に朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない完全な天国の資産を受け継ぐようになります。神様は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて生ける望みを持つようにしてくださったからです(?ペテロ1:3,4)。
ですから、私たちは御国の民であることを大切にし、イエス様の再臨を備えなければなりません。ではどのような態度を持ってイエス・キリストの再臨を持つべきでしょうか。どうか、神様が本文の御言葉を通して、イエス様の再臨を準備する態度、生活について教え、悟らせてくださるように祈ります。

?.主人の帰りを待ち受けている人たちの態度(35-40)
35、36節をご覧ください。「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている人たちのようでありなさい。」とあります。ここで、イエス様は主人の帰りを待つ者の態度を通して、主人であるイエス・キリストの再臨に対する態度を教えておられます。当時、イスラエルの結婚式は夕方から始まりました。ですから、結婚式に参加して主人の帰りは夜遅くなりました。すると、しもべたちは、「腰に帯を締め、あかりをともして」、主人を待っていました。「主人が婚礼から帰って来て戸をたたいたら、すぐに戸をあけようと、その帰りを待ち受けている」のです。そうすると、帰って来たやさしい主人は目を覚まして待っているしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。
私は子どもの時、おじいさんが親戚の結婚式に行った時は、おじいちゃんの帰りを待っていました。なぜなら、あまり食べ物が豊富ではなかった時代であって、結婚式の帰りに持って来る美味しい物を待っていたのです。おじいちゃんが持ってきてくれたお菓子やお餅などを食べることは幸いでした。昔のイスラエルでは結婚式から帰って来る主人を美味しい物を持ってきたかどうかは知りませんが、優しい主人は目を覚まして自分の帰りを待っているしもべのために美味しいものを食べさせたようです。御言葉を見ると主人は自ら帯をしめてしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれました。素晴らしい光景です。あの最後の晩餐でのイエス様の姿が思い出します。イエス様は晩餐の席に着いた弟子たちの前にひざまずいて、手拭いを巻き、足を洗い始めました。このイエス様のような主人の思いをよく知り、主人を愛する者、主人の愛を日頃から感謝している者は、喜んで主人の帰りを待っていたでしょう。すると、主人の世話を受ける光栄があります。主人は彼らを食卓に招いて給仕してくれるからです。これはしもべにとって身に余る光栄を受けるようになったことでしょう。ですから、帰って来た主人に目をさましているところを見られるしもべたちは幸いです(37a)。本当に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、いつでもそのようであることを見られるなら、そのしもべたちは幸いです。」
このたとえで、主人はキリストで、しもべは弟子たちです。婚礼から帰って来られるとは、キリストが再び来られること、再臨のことを意味します。キリストがいつ帰って来られるかは知りません。今日、戻ってこられるかも知れません。今、この時間に戻って来られるかも知れません。そこで、イエス様は言われました。
39、40節をご一緒に読んでみましょう。「このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。 あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。」
 私たちはイエス・キリストがいつ帰って来るか分かりません。しかし、必ず帰って来られることは事実です。私たちはこのことを知って置かなければなりません。このことを知っておいて用心していなければなりません。では用心していることはどういうことでしょうか。
もう一度、35節を読んでみましょう「腰に帯を締め、あかりをともしていなさい。」とあります。
まず「腰に帯を締め」ることです。「腰に帯を締め」るとはどういう意味でしょうか。エペソ人への手紙6章14節を見ると「・・・腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け」とあります。まさにこの帯とは「真理の帯」を意味しているのです。ヨハネの福音書8章32節を見ると「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」とあります。真理の帯を締めている人たちには神様が自由と平安を与えてくださいます。主はその人のすべてを支え、保護し、守ってくださいます。私たちがズボンを着て帯を締めなければどうなるでしょうから。とりあえず、帯を締めなければズボンが下ろされてしまうことでしょう。軍人が戦争に出かける時は、強いベルトを締めます。そのベルトに水筒、実弾、拳銃などをつけても力強く走ることができます。強い帯がしっかりとくっついているからです。私たちクリスチャンは本当に腰に帯をしっかりと締めなければなりません。ここで帯とは真理の帯ですが、真理とは何でしょうか。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」と言われました(ヨハネ14:6b)。そうです。イエス様こそ真理です。イエス様を受け入れた人を真理の帯を締めていることです。私たちは何をしてもイエス様の帯を締めてしなければなりません。
 第二に、あかりをともしていることです。ここで、「あかり」とは信仰のあかりをともしていることは行動していなさいということです。御言葉を見ると「ともしなさい」ではなく、「ともしていなさい(your lamps burning)」です。というのは「あかり」をつけてから横になることではなく活動していなさいということです。横になって夢見ると、夢の中では博士にもなれるし、国会議員にも、総理大臣にもなれます。しかし、実際に博士になるためには論文を書かなければならないし、弁護士になるためには司法試験に合格しなければなりません。何か一つを成し遂げるためには血を流すほどに努力しなければならないのです。ですから、信仰のあかりをともしていることは、再び来られるキリストの再臨を信じてキリストが命じられた福音伝道、地の果てにまで福音を宣べ伝える世界宣教のために励みつづけることです。ところが、この信仰のあかりとともしてい続けるためには聖霊の油が絶えることなく給油されなければなりません。マタイの福音書25:8節に「ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』」とあります。愚かな娘たちのともし火は油がなくなって消えそうだったのです。私たちの信仰生活も聖霊の油が注がれなければ消えそうになってしまいます。修養会に行くときに見ると道路に面しているガソリンスタンドが見えますが、車に一度給油したら、どこまでも走れるものではないからでしょう。私たちの信仰のあかりも、時々聖霊の油を給油しなければ消えそうになってしまいます。
私たちは礼拝ごとにささげる賛美の時間と通して、御言葉を通して聖霊の給油をしなければなりません。時には叫ぶ祈りや断食祈りをし、夜明けの祈りをする時に聖霊の油が注がれます。御言葉を愛し、真実に悔い改める時に神様は聖霊の油を注いでくださいます。すると、私たちは聖霊に満たされ、心も潤されます。「みたまはあめよりわれにくだりて、よろこびやすきをみたしたまえり、わがこころしずかなりあらしはやみてイェスきみのみこえのみさやかにきこゆ」(573章)と歌えるようになります。こうして信仰のあかりをともしてい続ける時、私たちは不安と恐れの多い世の中でも勇気を持って力強く生きることができます。何よりも再び来られるイエス様が思いがけない時に来られても喜んでお迎えすることができます。

?.忠実な思慮深い管理人(41-48)
41節をご覧ください。「そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」」とあります。イエス様とともに生活しながらいつもイエス様のメッセージを聞いているペテロにとってはいつも目を覚ましているつもりだったようです。自分はいつもイエス様の側に立っているし、隣のヤコブだって目を覚ましていたと考えていたでしょう。ですから、イエス様のお話は弟子たちだけではなく、みなのためにも語られたのではないかと思ったのです。けれども、イエス様はなんと言われましたか。42をご一緒に読んでみましょう。「主は言われた。「では、主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人とは、いったいだれでしょう。」イエス様は、ペテロや他の弟子たちを管理人にたとえられています。他の信者たちを神様から任せられて、彼らを養うように命じられています。ここで、イエス様は弟子たちがどんな人になることを願っておられるかを学ぶことができます。
 一つ目忠実な管理人:管理人とは主人の財産としもべたちを任せられて管理する人です。子どもの教育までも担当する管理人もいます。管理人の求められる資格の中で最も大切なことは忠実さでした。いかに頭の回転が速く、多くの才能を持っていても忠実でなければ立派な管理人になることはできません。「忠実」とは国語辞典によると「主人・上司などの言いつけ通りにまじめに務めを果たす様子」です。事実、忠実な人は自分にとっては大変なことであっても主人や上司の言いつけ通りにまじめに務めを果たします。「言いつけ通りにまじめに」ということばから分かるように「忠実」ということばには真実性が含まれています。主人に見られても見られなくてもまじめに行ないます。また、「務めを果たす」ということは責任感を表わしています。任せられた務めに対して責任感を持って行ないます。言い訳はいりません。このように忠実な人とは一言で言えば「信頼できる人」です。主人が安心して財産としもべを任せることができます。
 私たちが神様に用いられるためにはまず忠実な人にならなければなりません。忠実でなければどこに行っても歓迎されません。霊的な世界だけではなく、この世の職場生活もそうです。自分のことで凝縮ですが、私は日本に来て日本語学校から紹介されたアルバイトをその学校を卒業するまで忠実に担いました。すると会社からボーナスもくれました。今の職場でも最初に就職した時、あまり歓迎されませんでした。しかし、5年間時間講師として働くとき、週に8時間しか与えられなかった時も辞めないで忠実に仕事をしました。すると、学校側から専任教師として採用してくれました。忠実な態度は神様を敬う信仰から生まれるものです。神様を敬う時、人に見られなくても、人から認められなくても自分に与えられた務めを真実に責任を持って果たす人として成長することができます。神様を恐れ敬う人は神様の目を意識し、神様の賞賛と報いを期待して働きます。
 二つ目は思慮深い管理人;何をしても忠実とともに思慮深さを求められます。思慮深さは英語の聖書に「wise」となっています。知恵です。忠実であっても知恵がなければ財産としもべたちをよく管理することができません。財産としもべたちをよく管理して主人に有益を与えるためには知恵が必要です。愛することも知恵がなければなりません。知恵がなければ自分なりに愛していたつもりなのに夫婦喧嘩になったり、羊をつまずかせたりする時もあります。箴言3:15-18節にはこう書いてあります。「知恵は真珠よりも尊く、あなたの望むどんなものも、これとは比べられない。その右の手には長寿があり、その左の手には富と誉れがある。その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である。知恵は、これを堅く握る者にはいのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」
ではどうやって私たちは知恵ある人になれるでしょうか。箴言9:10節に「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」とあります。知恵は神様を恐れることから生まれるのです。神様を恐れる時、物事を正しく見分けることができます。また、ヤコブの手紙1章5節を見ると「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」とあります。私たちは神様を恐れ、神様に知恵を求める時、神様から与えられる知恵によって思慮深い者として生きることができます。
 イエス様は弟子たちがこのように忠実で知恵ある人になることを願われました。では忠実な思慮深い人に与えられる報いは何でしょうか。43、44節をご覧ください。「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。わたしは真実をあなたがたに告げます。主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。」
 ものすごいですね。キリストがもっておられる富をすべて任せられるのです。キリストの富は、どのくらいあるのでしょう。この地球、宇宙はみなキリストのものです。それをみな、任せられるのです。
45?48節をご覧ごランください。「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに合わせるに違いありません。主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しかし、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。 」とあります。
ここで不忠実な者とは、不信者と訳すことができます。ですから、キリストの弟子と呼ばれる人であっても、ゲヘナに投げ込まれる可能性は十分あります。管理人が堕落してしまうと、ノンクリスチャンと同じく扱われるのです。イエス様を信じてから、神様に申し開きをする責任がなくなったと考えると、とても危険です。私たちは出エジプトしたイスラエルの民を通してそれを知ることができます。彼らは多くの祝福を約束されましたが、不信、偶像崇拝の罪のために40年間も荒野をさまよい、荒野でしかばねをさらしました。クリスチャンも多くの約束を与えられていますが、約束を手にすることなく滅びることもありえるのです。自分が特別だ、ということは決してありません。パウロも言いました。「だまされてはいけません。あなたがたは、正しくない者が神の国を相続できないことを、知らないのですか。(1コリント6:9参照)」 私たちは、神のことについて多くを知っています。ですから、多く要求されているのです。

?.真の平和(49-59)
49?53節をご覧ください。「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ、分裂です。今から、一家五人は、三人がふたりに、ふたりが三人に対抗して分かれるようになります。父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」とあります。私達はイエス様が平和のためにこの地に来られたと思っています。それは間違いありません。しかし、ここで言われている「分裂」とは本当の平和をもたらすための痛みです。私たちは信仰を持ったばかりに、家族との間がギクシャクしてしまった、友人が離れてしまったということを経験しています。ただ五人家族なのに三人が二人に、二人が三人に対抗して分かれるようになることがあるのです。では私たちに分裂をもたらす「火」とは、一体何のことでしょうか。聖書では「火」が象徴的に用いられています。それは神様の臨在、神様がそこにいてくださることを目に見える形で表わすしるしでした。燃える柴の木、火の柱、火の戦車、神殿の中にあるともし火、クリスマスの夜に羊飼いを照らしたまばゆい光、光り輝く神様の御使い、それらみな、神様がともにいてくださることの象徴でした。ですから、イエス様が投げ込まれる火によって分裂がありますが、それによって私たちのうちにある不純物、罪と悪が取り除かれ、かたくなな自我が打ち砕かれて行くことです。それは大きな大きな痛みです。しかし、私たちはそのような痛みを通して家族の間に友人の間、真実の交わりと平和が作り出されて行きます。痛みがあっても信仰を守り通すことによってこの地上に限らない永遠の交わり、本当の平和を所有するようになるのです。
54-59節は時代を見分け、イエス様と和解しなければならないことを教えてくれます。56節をご覧ください。「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」とあります。ここで、今のこの時代とは、キリストが来られた時代です。彼らは数多くのしるしが見てもイエス様をキリストとして受け入れませんでした。当時、ダニエル書9章によると、エルサレムに神殿が再建されてから、油注がれた者、キリストが来られる預言がありました。そして預言の通りに神殿は再建され、イエス様がキリストとして来られたのです。ところが、彼らはそれを見逃していました。私たちの世界もそのとおりです。キリスト教は昔の宗教だ、西洋の宗教だといい、奇跡などは信じられないと話す人たち大勢います。しかし、どうでしょうか。歴史を見たら、イスラエルの滅亡も、建設も聖書の預言どおりに行われました。それで、イスラエル、パレスチナ問題や、イラク問題なども聖書研究を通して解決しようとしている人たちが多くいます。私たちは聖書の御言葉を通してこの時代を見分けなければなりません。日本において教育問題はどうでしょうか。日本において経済の問題はどうでしょうか。日本において政治はどのように流れているでしょうか。私たちはこの時代を正しく見分けて悪い時代に流れ込んでしまうのではなく、悔い改めて神様に立ち返るべきです。私たちが罪を悔い改めず、イエス様を受け入れなければ神様のさばきを逃れることはできません(58、59)。
結論的に、私たちは真理の帯を締め、信仰のあかりをともしていなければなりません。神様は私たちがイエス様の再臨の時まで忠実な思慮深いしもべとして信仰のあかりをともしていることを願っておられます。イエス様が遺言的に命じられた世界宣教の使命を忠実に知恵を持って果たすことを切実に願っておられます。どうか、私たちひとりひとりに聖霊の油が注がれて忠実な思慮深いしもべとして主の再臨を備えることができるように祈ります。