2004年ルカの福音書第49講

あなたの信仰があなたを直したのです

御言葉:ルカ17:11-19
要 節:ルカ17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

先週、私たちはイエス様の御言葉を通してからし種ほどの信仰が与えられていることに気づかされました。そして、からし種ほどの信仰によって人を赦し、大いなる神様の力を体験しながら勝利の生活ができることも学びました。どうか、私たち一人一人がせっかく与えられた信仰を働かせてキリストの赦しの愛を実践し、大いなる神様の力も体験して行くことができるように祈ります。
今日の御言葉は、神様の御力、恵みを体験してからどうするべきかについて教えてくれます。イエス様は十人のらい病人の叫びの祈りを聞いて彼らを癒してくださいました。らい病人たちはイエス様の御言葉に従った時、病が癒されることを体験します。すると、そのうちのひとりはイエス様に戻ってきてイエス様に感謝します。すると、イエス様は彼に体の癒しだけではなく、さらに優れた祝福、特別な恵みを施してくださいます。私たちが癒され、神様の御力を体験するためにも信仰と祈りが必要であると思いますが、さらに優れた祝福、恵みをいただき続けるためにイエス様を神としてあがめて礼拝し、感謝することです。本当に、感謝することは大切な事です。?テサロニケ5章16-18節は言います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これがキリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」感謝することは神様が私たちに望んでおられることです。
この時間、聖霊が私たちのうちに働かれ、信仰生活において感謝することがいかに大切なことなのか、また、体もたましいも救われる信仰とは何かについて教え、悟らせてくださるように祈ります。

?.十人のらい病人に臨まれたイエス様のあわれみ(11-14)
11節をご覧ください。「そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。」とあります。著者ルカはイエス様がエルサレムに上られる途中であることを繰り返しています。9章51節を見ると「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐに向けられ」と書かれています。イエス様は、そこからずっとエルサレムへの旅を続けておられます。エルサレムで何が起るか、まだだれもそれを理解していませんでした。しかし、イエス様はすべてのことをよく知っておられたのです。それは十字架の苦しみと侮辱です。私たちの病を負い、私たちの痛みを担う十字架です。イエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれます。映画「パッション」をご覧になった方は十字架の道がいかに険しい道であったのかがある程度分かると思いますが、それは私たちの想像を越えているものです。それにもかかわらず、イエス様は十字架の道を避けることなく、エルサレムに向かっておられたのです。
時々、私たちは十字架の道を避けたくなります。使命の十字架が重く感じられる時もあります。なかなか話を聞いてくれないキャンパスの兄弟姉妹たちに毎週、福音を宣べ伝えることも重い十字架でしょう。時には毎週、休まずにSingaloneや特別賛美を準備して仕えることも重く感じられるかもしれません。食事の当番が回ってくることが重荷になっている時もあるでしょう。険しい世の中で生活のための十字架だけでも大変なのに、使命の十字架まで担うことは無理じゃないかと思われる時もあるでしょう。すると、今の十字架を減らしたくなるし、重い十字架を避けていきたくなります。しかし、イエス様は十字架を避けませんでした。私たちはこのイエス様から私たちの歩むべき道を学ぶことができます。イエス様は人々が分かってくれなくても神様が御自分に与えられた十字架の道を歩まれました。イエス様は十字架の道を避けられませんでした。
私たちの病を負い、罪を贖うために十字架が待っているエルサレムに向かって上られました。イエス様は信仰と祈りによってこの十字架の道を歩まれました。私たちはこのイエス様を見つめていきましょう。私たちがイエス様から目を離さない時、最後まで神様から与えられた使命の十字架を担うことができます。そして、復活の栄光、真の喜びを経験することができるようになります。ヘブル人への手紙12章2,3節は言います。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。」
私たちひとりひとりが十字架を担うためにエルサレムに上られるイエス様を見つめましょう。十字架上のイエス様のことを考えましょう。すると、私たちは元気を失い、疲れ果ててしまうことなく、十字架の道を歩みつづけることができます。
イエス様はエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られました。サマリヤ人とユダヤ人の間にある憎悪の根が深いものです。今日までも続いているほどです。彼らは互いに付き合うことさえ拒んでいました。ところが、サマリヤ人とユダヤ人が混在した十人のらい病人が群れをなしていました。らい病という困難な戦いが、当時の分裂の壁を突き破らせたようです。十人のらい病人は体の病だけではなく、人々から捨てられた悲しみを共有していました。彼らの苦しみ、悲しみは健康な体を持っている私たちにとって理解しがたいものだったでしょう。らい病人は、律法によって人に近づくことも禁じられていました。近づいてくる人を迎え入れることも禁じられていました。だれかが近づいて来たら、「汚れている。汚れている。」と叫ばなければなりませんでした(レビ13:45)。そういう生活を続ける彼らはどんなに寂しく孤独な思いをしたことでしょう。友達にも会えない、家族のもとに行くことさえできない状況です。
そんな彼らに一つの良き知らせがはいってきました。それは様々や病を治したイエス・キリストが自分たちの町を通られる話でした。彼らはその話を聞いて「この方に是非会って、私たちも治してもらいたい」と願っていました。ところが、彼らはイエス様の所に近づいて行くことができません。イエス様が彼らの所に近づいて来ることも拒まなければなりません。でも、彼らはあきらめませんでした。彼らは自分たちの立場をわきまえて遠く離れたところに立ちました。そして、声を張り上げて、叫びました。「イエス様、先生。どうぞあわれんでください。」と言ったのです。何としてもイエス様に聞こえてほしい、こちらを向いてほしいと、彼らは声を張り上げたのではないかと思います。彼らはイエス様のあわれみを信じて必死に叫びました。すると、どうなりましたか。
14節をご覧ください。「イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。」とあります。当時の一般的な人々はらい病人が見えると、その道を避けました。話を掛けられても答えようとしませんでした。しかし、イエス様はあわれみを求める彼らの叫びを無視しませんでした。イエス様は止まって彼らをご覧になりました。彼らの叫びを聞いて彼らを癒そうと決心されました。
そして、彼らに言われました。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」イエス様にとって彼らはすでに癒されていました。しかし、イエス様は御手を伸ばして癒すポーズを見せたり、「あなたがたの病は癒された」と言ったりしませんでした。その代わりに、イエス様は彼らに「自分を祭司に見せなさい。」と命じられました。そして、彼らは行く途中で癒されました。
ここで、私たちは二つのことを学ぶことができます。
一つ目はらい病人たちの叫びの祈りです。彼らは声を張り上げて願いを求めました。皆さんはお祈りの中で叫ぶ経験があるでしょうか。私は子どもの頃、村の小さい教会の夜明けの祈り会に参加していました。すると、人々は祈りながら叫んだり、泣いたりしていました。中学生になってから教会に通うことさえよく出来ませんでしたが、大学生になってUBFに通い始めると、ここでも叫びの祈りがありました。夜明けに先輩たちと一緒に祈ると、声を張り上げて叫びました。声の大きさを競い合うような感じでした。私は声だけは大きい者なのでが、大きい声のおかげで周りから「すごいね。」と言われる時もありました。私は祈りについてよく知りませんでしたが、様々な問題を持ってひざまずいて祈りの中で叫ぶ時、数多くの主のあわれみを体験しました。私だけではなく、韓国のキリスト教は夜明けに叫ぶ祈りを通して数多い癒し、大いなるリバイバルを体験してきたと言われています。世界的な伝道者ビリ・グラハムはリバイバルの秘訣について聞かれる記者に第一は祈りですと答えたそうです。続ける質問に対して第二も祈りであり、第三も祈りであると答えたそうです。本当に祈りは大切です。
ところが、今、私たちの祈りの生活はどうでしょうか。確かに韓国での祈りに比べたら、日本教会の祈りは弱いかなと思います。そう言われています。私自身も祈りの生活を考えてみると悔い改めざるを得ません。今年は何よりも祈りに励もうと決断したものの、実際には叫ぶ祈りがよく出来ませんでした。私が声を張り上げて叫ぶ祈りを回復し、もっと祈りに励みたいと思います。皆さんも毎日でなくても本当に「ここぞ!」と思う時には声を張り上げて祈ってみてください。「病気が癒されてほしい。この問題が解決されてほしい。」「神様!!」と叫ぶこの気持ち、こういう迫っていく祈りをしてみましょう。
二つ目はらい病人たちの従順です。イエス様は「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と命じられました。イエス様は彼らが従順を通して癒しを体験するように助けられました。らい病人たちは癒されるためにイエス様に叫びました。しかし、イエス様は彼らにイエス様の御言葉を信頼し、従うよう信仰を持つように助けられした。もちろん、イエス様は彼らが癒されること、結婚して幸せな人生を生きることも願っておられます。しかし、彼らにとってそれよりも大切なことは、従順の信仰を学び、霊的に神様の子どもとして成長することです。御言葉への従順を通してもっともっと素晴らしい霊的な世界を体験し、イエス様との交わりを続けることができるからです。でも、らい病人たちにとって自分たちの体に何の変化も見えないのに、ただ従うことはやさしくありません。彼らに従順の信仰がなかったら、素直に従うことができなかったでしょう。ただ「行け」とはあまりにも簡単すぎるのではないかと思われます。でも、彼らは従いました。イエス様の御言葉に従順であったのです。彼らはイエス様の御言葉に従って祭司の所に向かって行ったのです。この従順を通してらい病が癒される奇跡を体験しました。
私たちは、毎週、毎日神様の御言葉を聞いています。多くの御言葉を知っています。聖書的な知識を持って論じ合う時もあります。ところが、私たちはどれだけ従っているでしょうか。果たして神様の御言葉を聞いて守っているか、従っているか、考えてみましょう。先週はどんな御言葉に従って来ましたか。本当に幸いな人はイエス様の御言葉を聞いて守り、従う人です。ルカ11章27?28節は言います。「イエスがこれらのことを話しておられると、群集の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエス様に言われた。「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」しかし、イエスは言われた。「いや。幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
私たちが御言葉を聞くだけであっては、恵みになりません。聞いて守る人、従う人こそが幸いなのです。神様に祈り求めたものが、まだ見えなくても御言葉に従う時に、主の癒しと素晴らしい神様の恵みを体験することができるのです。どうか、私たちがこの素晴らしい霊的な世界に入ることができるように祈ります。
次はさらに祝福された人の話です。

?.感謝する人を祝福されたイエス様(15-19)
十人のらい病人たちはイエス様に叫ぶ祈りと従順を通して素晴らしい神様の恵みを体験しました。これから、彼らは健康な社会人として生活をするために祭司のところに行きました。ところが、そのうちのひとりは違いました。
15節をご覧ください。そのうちのひとりは、自分の癒されたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て」とあります。私たちは彼がいかに喜んだのか、彼の姿をイメージすることができます。「イエス様。ありがとうございます。何と感謝してよいのか分かりません。」と言っていたことでしょう。らい病人に臨まれた神様のあわれみは、実に大きなものです。彼はイエス・キリストにある神様の哀れみと愛を見ました。彼は神様に愛されていたことに感激しました。さらに、御言葉に従った時、癒されたことに驚きました。もう黙っていられなくなりました。彼は声を張り上げて神様のあわれみを求めたように、今度は大声で「ハレルヤ!ハレルヤ!」と神様のあわれみをほめたたえました。それは言葉だけではありません。彼は礼拝し、感謝するために引き返して来ました。
16節をご覧ください。「イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。」とあります。彼は、イエス様の足もとにひれ伏して感謝しました。彼がイエス様の足もとにひれ伏したことはイエス様が神様から来られた方であると認めたことです。また、著者ルカは彼がサマリヤ人であったと記しています。メシヤを待ち望み、メシヤを信じていたのは本来ユダヤ人なのに、サマリヤ人がイエス様のみもとに来ました。特に18節にあるイエス様の言葉から彼は神様をあがめるために戻ってきたことが分かります。
 17,18節をご覧ください。「そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」とあります。引き返して来なかった九人に対するイエス様の寂しい思いがうかがえます。イエス様は「九人はどこにいるのか」と言われました。
ではこのサマリヤ人と、他の9人との違いは何でしょうか。もちろん、サマリヤ人とユダヤ人であることの違いがあります。しかし、それよりも癒されてからの態度の違いが大きいものです。他の9人にとっても、イエス様は自分のらい病をいやされる方でありました。しかし、彼らにとってはイエス様が自分のすべてではありませんでした。彼らにとってイエス様は自分の病の癒してくれれば、それでいいというような存在です。けれども、このサマリヤ人にとって、イエス様は自分のすべてとなりました。イエス様が自分の人生の根拠であり、目的である神様となったのです。生活の中で起こることは、すべてイエス様によるものであり、自分の全存在はイエス様により頼まなければならないものとなりました。
私たちはとにかく、恵みを喜びます。実際に多くの恵みを受けています。ところが、私たちは恵みを与える方に振り向くことを忘れてしまう時が多くあるのではないでしょうか。「助けてください。この困難な状況から救い出してください。」と祈ったのに、いったん救い出されたら神のことを忘れてしまいます。サマリヤ人のように、イエス様に「戻って来る」ことをしないのです。しかし、神様をあがめるために戻って来る者は、今まで経験しなかった恵みをいただけるようになります。続けてイエス様と交わりができ、無限の恵を頂けるようになります。ですから、イエス様をあがめ、感謝するために戻ってくることはとても大切です。九人のユダヤ人も神様に感謝したと思います。しかし、イエス様中心の生活に戻って来ませんでした。この異邦人だけが戻ってきました。しかも、神様をあがめ、感謝するために戻ってきました。サマリヤ人はイエス様が神様であると認めたのです。だから神様をあがめるためにイエス様のみもとに戻ってきました。彼は神殿の祭司に行く代わりにイエス様に戻ってきたのです。それはイエス様を神殿として、真の祭司、キリストとして信じたからです。イエス様はその信仰を認めてくださいました。
 19節をご一緒に読んでみましょう。それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」新共同訳によると「あなたの信仰があなたを救った。」とあります。つまり、体だかけが直ったのではなく、霊も魂も救いを得たのです。イエス様は「あなたの信仰が、あなたを直したのです。」と言われました。その信仰とはイエス様を神様として認めて、信じる信仰です。その信仰が彼を直したのです。祭司に行くことは、社会生活のために必要です。イエス様も「祭司に見せなさい」と言われました。それも大切です。私たちも、社会生活において多くの付き合いが必要です。それらを大切にしなければこの世の生活はうまく出来ません。しかし、もっと霊的に成長し、もっと大いなる神様の救いを経験するためにはイエス様のところに戻って来る生活に励むことです。イエス様に関心を持ってイエス様に戻って来ることが大切です。何をしてもイエス様中心にすることがとても大切なのです。

結論的に、十人が癒されましたが、サマリヤ人だけが、イエス様と交わりを回復しました。私達もこのことをしっかりと学ばせていただきましょう。また、『立ちあがって、行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。』と言われた言葉には彼の新しい生活に対する励ましがあると思います。おそらく、彼は「自分みたいな者が、社会生活にうまく適応できるか」と思ったかも知れません。自分が恵みに与るに相応しくないと感じていたかもしれません。しかし、イエス様はあなたの信仰があなたを直したのです。信仰によって生きなさい。と言われたのです。「あなたは私への正しい信仰を持った。この信仰で行きなさい」と保証して下さったのです。実にイエス様への正しい信仰があれば、この世の生活においても勝利します。だからこそ、私達はイエス様に戻ってきてイエス様との親しい交わりを持つことが大切です。
どうか、私たちがどこにいてもイエス様中心に生きる者として歩むことができるように祈ります。特に感謝する生活ができるように祈ります。私達は本当に受けた恵みを直ぐに忘れてしまう者です。そして嫌な事だけを思い出してイライラとするのです。神様にどれだけ感謝しているでしょうか。人の良くしてくれたことも、神様の良くしてくれたことも感謝する週間を身につけましょう。毎日、毎日感謝を持って一日を出発し、寝る前にも感謝する習慣を身につけて行きたいものです。