2004年ルカの福音書第57講                            

見捨てた石、それが礎の石となった

御言葉:ルカの福音書20:1?19
要 節:ルカの福音書20:17「イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。」

先週、私たちは、イエス様が「主の御名によってこられる王」であることを学びました。イエス様は主の主、王の王であられるお方ですが、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました。このイエス様こそ、主の御名によって来られた救いの王、謙遜と柔和の王、愛と平和の王です。だれでも謙遜にイエス様を王として受け入れるなら、罪から救われてイエス様に支配され、愛と平和の中で生きることができます。しかし、イエス様を受け入れるどころか、王なるイエス様の権威に反対し、イエス様を捨てた人たちには、神様の厳しいさばきがあります。
今日の御言葉は、そのことをはっきりと私たちに教えてくれます。イエス様が宮にはいられた時、商売人たちを追い出して宮をきよめ、主の宮は祈りの家であると宣言されました。そして、イエス様は毎日宮で教えられました。すると、宗教指導者たちはイエス様の権威に反対し、「何の権威によってこれらのことをしておられるのですか」と質問しました。そこで、イエス様は権威の源に関して教え、ぶどう園のたとえを話されました。それから、イエス様は人々から見捨てられて死なれますが、復活によって救いの礎の石となられるご自分のことも教えてくださいました。どうか、この時間、御言葉を通してイエス様の権威、神様の愛と恵みを悟り、神様から与えられたぶどう園で担うべき使命も新たにすることができるように祈ります。

?.イエス様の権威の源(1?8)

 1a節をご覧ください。「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、」とあります。著者ルカはイエス様が宮で民衆を教えたとか、福音を宣べ伝えたと記しませんでした。つまり、イエス様は一時的なイベントとして御言葉を教えたのではなく、教えつづけておられたのです。実際に19:47a節によると「イエスは毎日、宮で教えておられた」とあります。教えることが日常生活になっていたのです。しかも口先だけの教えではありません。私たちが今までルカの福音書を通して学んできたように、イエス様が教え、福音を宣べ伝えると、力あるいのちのみわざが起こりました。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえるようになりました。死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられました(7:22)。ところが、このように素晴らしいイエス様の教えに立ち向かってくる人たちがいました。
1bと2節をご覧ください。祭司長、律法学者たちが、長老たちといっしょにイエス様に立ち向かって来ました。彼らは伝統やしきたりによって選ばれている宗教指導者たちです。宗教国家であるイスラエルにおいて彼らに与えられた公的権威は大きいものでした。彼らには、当時の精神的・宗教的な権威だけではなく、今の日本で言えば衆議院のようなサンヘドリン議会のメンバーとして政治的にも権威と権力が与えられていました。彼らはこの世の権威によって生きていました。宮で教えることも彼らの許可がなければできないことでした。それなのに、この世では何のライセンスも持っておられないイエス様が宮で教えることは彼らにとってむかつくことだったようです。そこで彼らは、イエス様に「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのはだれですか。それを言ってください。」と詰問したわけです。では、イエス様は彼らの質問に何と答えられましたか。
3,4節をごいっしょに読んでみましょう。「そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。」イエス様は彼らに直接に答えるより、問い返しています。イエス様は一言尋ねることによって彼らが本当の権威の源を考え、悟るように助けられました。バプテスマのヨハネは、ユダヤ人の間で認められている預言者でした。人々は「悔い改めなさい」と伝えている彼の所に来て、罪を悔い改め、水のパプテスマを受けました。そんな彼が、自分はキリストではなくイエス様がキリストであると指し示しました。ですから、ヨハネを認めることはイエス様を認めることになります。すると、民たちに宗教指導者としての権威を認められていた自分たちの立場がなくなります。だからといってヨハネを拒んで言うなら、すでにヨハネを信じている民衆の怒りをかうことになります。彼らはイエス様の権威について詰問しましたが、かえって逆襲されてしまうのです。彼らはどっちも肯定できない、ジレンマに陥ってしまいました。それで、彼らは言いました。
5-7節をご覧ください。「すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったか、と言うだろう。しかし、もし、人から、と言えば、民衆がみなで私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」そこで、「どこからか知りません。」と答えた。」とあります。彼らは神様の御前で真実に生きるより現実の状況によって自分の良心をだましました。真理に従うことを捨ててしまいました。そこでイエス様は何と言われましたか。
8節をご覧ください。「するとイエスは、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。」とあります。いたずらに主の権威の源を尋ねる者に、イエス様がお答えにならなかったのは当然なことです。けれども、イエス様がお答えにならなかった理由は彼らを困らせるためではありませんでした。むしろ、イエス様は彼らが権威の源を悟って神様がバプテスマのヨハネとイエス様による救いのみわざを受け入れ、神様からの権威に従うことを願われました。すべての権威の源は神様です。ローマ13:1を見ると「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあります。神様によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神様によって立てられたものです。イエス様はこの神様からの権威によって宮で教え、福音を宣べ伝えておられました。すると、民衆はみな、熱心にイエス様の話に耳を傾けていたし、イエス様が福音を宣べ伝える所々でいのちのみわざが起こりました。ですから、私たちはこの天からの権威、霊的な権威に頼って教え、福音を宣べ伝えなければなりません。また、すべてのことにおいて神様からの権威を認めて生きることも大切です。
この権威の問題は昔も今もあります。人々は確立されたこの世の権威によって権威のない人々を迫害してきました。中世カトリック教会は確立された権威に挑戦するすべての勢力はすべて異端として扱って迫害し、多くの人々を処刑しました。イギリスの国教もピューリタンたちを迫害したので、多くの福音主義者たちが追放されてアメリカに行きました。今日ドイツではUBF宣教師たちに「あなたがたは何の権威によって1:1で聖書を教えているのか。」と目に見えるライセンスを要求するそうです。しかし、人とが造ったライセンスが神様からの権威を表わすことはできません。神様からの権威が与えられているかどうかはその人を通して現われる実によって分かります。人が神様の福音のために働ける権威は人や団体から来るのではなく、神様から与えられます。ですから、だれでも神様からの霊的な権威をいただくとき、力ある福音のみわざに用いられます。また、神様からの権威に頼って生きる時、真にやすらぎのある平和な人生を生きることができます。
私は先週、 Gene Edwards牧師が書いた「A Tale of Three Kings」という本を読みましたが、イスラエルの初代王サウルとダビデ、ダビデとアブシャロムのことが記されています。著者はこの三人の王様の話を通して権威主義的な組織の中で傷つけられて慰めと癒し、希望を求めるクリスチャンたちが慰められ、癒されて平和であられるイエス様と歩んでいくことは望んでいます。私はこの本を読みながらすべての権威は神様から与えられることを信じて従うダビデの生き方を通して大きな恵みを受けました。サウルは謙虚な王として出発しましたが権威主義者になり、王の権威を守るために権力を振る舞う時、多くの人々を傷つけ、自分自身も悪霊に苦しむ惨めな人生となりました。アブシャロムは明確な判断力を持ち、人気者になりましたが神様から与えられたダビデの権威に逆らった時、彼の人生もモーセに反撃したコラのように惨めな死を迎えました。しかし、すべての権威の源が神様であることを信じて、その権威に従う人生を過してダビデは、真の権威を持つことができたし、彼自身がサウルによって苦しめられる時も、息子アブシャロムの反逆にも忍耐し、平和に生きることができました。彼は政治的な王の権威によって民を治めるのではなく、すべての権威の源である神様に従う従順によって民を治めたのです。すると、彼は神様に大いに用いられるだけではなく、自分自身も平和に、幸せに生きることができました。

?.ぶどう園のたとえ

 イエス様はぶどう園のたとえの中で、権威の由来を暗示されました。つまり、ご自分に神の御子としての権威が与えられていることを示唆してくださいました。
9?12節をご覧ください。「また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。」とあります。ここで語られているたとえはイザヤ書5章1?7節をベースにしています。たとえで、ぶどう園は、イスラエルを指しています。農夫たちは、イスラエルの宗教指導者たちです。しもべとは預言者たちのことです。広い意味で見ると、農夫は人間、ぶどう園はこの世を指しています。神様は美しい世界を創造され、それを我々人間にくださいました。そして、この地を耕し、管理して甘くてよい実を結ぶ使命を与えてくださいました。人間は神様から与えられたぶどう園で熱心に働きながら良い実を結ぶことができます。これは人間に与えられた恵みであり、大いなる祝福です。人間にとって働ける良い環境が与えられ、そこで生涯をあげて担える使命が与えられていることはどんなに大きな祝福でしょうか。
神様は、特別にイスラエルをよく肥えた山腹に素晴らしいぶどう園にして祭司の王国、聖なる国民としての使命を与えてくださいました。そして、彼らと契約を結び、宝なる約束の御言葉をくださいました。イスラエルが契約を破り、真理の道を歩まず、さまよい始めたときにも彼らを見捨てになりませんでした。預言者たちを遣わして、ご自分のところに戻って来るように声をかけてくださいました。しかし、イスラエルの指導者たちは、その預言者をまっさきに迫害しました。神様の恵みと祝福を裏切ったのです。それでも、忍耐深い神様は、あきらめずに預言者を続けて送られました。彼らが悔い改めて帰って来る日を待ち望んでおられたのです。イスラエルの指導者たちは神様が遣わされた預言者を最後まで受け入れませんでした。そこで、神様はどうなさいましたか。
13節をご覧ください。「ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』とあります。今度はしもべではなく、愛する自分の息子を送ろうとしました。この「息子」とは紛れもないイエス・キリストご自身のことです。イエス様はご自分が神様から遣わされたひとり子としての権威を持っておられることを示唆しました。イエス様は、地上において神様から遣わされた預言者としての働きをしておられたのですが、その本性は神様のひとり子です。神様はご自分のひとり子をお与えになるほどに世を愛しておられます。
 どころが、農夫たちは送られた息子をどのように扱いましたか。14、15a節をご覧ください。「ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。」とあります。彼らは取り返しのできない罪を犯してしまいました。 彼らは、神のひとり子イエス様を殺す罪まで犯してしまうのです。では、ここまで罪を犯してしまう動機は何でしょうか。「あれはあと取りだ。あれを殺せば、財産はこちらのものだ。」とあります。貪欲です。貸してくださったことに感謝するどころか、その所有権までも奪い取ろうとしたのです。
主人は農夫たちに貸しました。ですから、所有権は主人にあります。農夫に所有権があるのではありません。農夫は借りているし、主人ではありません。借りている農夫は、与えられたぶどう園で働かなければなりません。そして彼らには収穫の一部を税金として納める納税の義務が与えられています。このたとえで税金がいくらかは書いてありませんが、聖書的に見ると十分の一です。彼は収穫の一割だけを主人に納めるなら、続けて働くことができるし、九割は自分のものとして自由に使うことができます。主人は九割に対しては何も関与しません。ところが、農夫は主人の所有を自分の所有にしようとしました。主人の所有権までむさぼったのです。それは絶対にできないことなのに、それをむさぼったのです。その結果、どうなりましたか。15b、16a節をご覧ください。「こうなると、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」とあります。借りていたものまでも奪われるようになりました。農夫どもは打ち滅ぼされてしまうようになりました。ヤコブ1:15に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」とありますが、そのとおりです。
何もない者にとってはぶどう園が働けるようになったことだけでも大いに感謝するべきことです。収穫ができて九割も自分のものになることは、さらに大きな恵みであってますます感謝するべきです。それなのに、農夫たちは感謝するどころか所有権さえもむさぼり、主人の子どもを殺してしまう罪までも犯してしまいました。何と悪辣なことでしょうか。
どころが、このことはただ、イスラエルの宗教指導者たちだけの問題ではないでしょう。私たちはどうでしょうか。私たちは自分のすべてが神様の所有であると認めているでしょうか。仕事がない時は、仕事さえ与えられたらと思いますが、いざと仕事が与えられて給料をもらうようになると、すべてが自分のものだと思う時はないでしょうか。十分の一をささげることさえ惜しくなるときはないでしょうか。しかし、欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生むことを覚えなければなりません。何よりも私たちに与えられたすべてのものの所有権は神様にあることを覚えなければなりません。私たちは何も持たずにこの世に生まれましたが、死ぬときも何も持って行くことができません。すべての所有権は神様にあるのです。ですから、今与えられたすべてのものに感謝し、神様のものは神様に返す生活をしなければなりません。
それなのに、貪欲を捨てよと説いている宗教指導者たちが、貪欲を満たすためにその立場を利用することは悪質なことです。これほどの偽善はありません。神様はすべての所有権を持ち、すべてを支配されていることを覚えて生きなければなりません。宗教生活、つまり信仰生活を、自分の欲望を満たす手段としている者には、格別に厳しい罰を用意してくださっています。
16b節をご覧ください。「これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません。」と言いました。しかし、イエス様は人間の罪のゆえに詩篇に記録されたとおりになることを言われました。17、18節をごいっしょに読んでみましょう。「イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
これは、イスラエルが滅んでしまうこと、また、異邦人に救いの手が伸ばされることを意味します。詩篇118編には、メシヤが来られる喜びの時を告げていると同時に、メシヤが宗教指導者たちに見捨てられる時も告げています。けれども、「礎の石となった」とあるとおり、イエス様の復活によってすべての者の、救いの土台が据えられます。イエス様は人々から捨てられて十字架につけられて過越の祭のいけにえとなられました。それによって私たちの罪を負われました。ですから、このイエス様の十字架の死による贖いを信じる者は救われます。しかし、神様の御子としてのイエス様の権威を認めず、信じなかった者たちには神様のさばきがあります。それはイスラエルへのさばきもあるし、異邦人の国々へのさばきもあります。キリストが予告されたエルサレムの荒廃が、イスラエルにもたらされました。石が落ちて、粉々に砕けたのです。けれども、今度は、キリストがふたたび来られるとき、異邦人の国々をことごとくさばかれて、神の御国を立てられます。ですから、イスラエル人も、異邦人も、高慢になって、キリストのあれわみと恵みを受け入れないのなら、皆が粉みじんになれるのです。火と硫黄の池、暗やみと呼ばれるところに投げ込まれるのです。
19節をご覧ください。律法学者、祭司長たちは、イエス様が自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づきました。それで、この際イエス様に手をかけて捕えようとしましたが、やはり民衆を恐れました。彼らは、イエス様を捕らえようと思いましたが、民衆がどう出てくるかわからず、やむを得ず手を引きました。

以上で、すべての権威の源は神様にあることが分かりました。イエス様は神様から授けられた権威によって御言葉を教え、福音を宣べ伝えました。また、人々はイエス様を見捨てて十字架につけて殺しましたが、神様は大いなる権威と御力によって死者の中からよみがえらせてくださいました。何よりも神様はこのイエス・キリストによって私たちを罪と永遠の破滅から救ってくださいました。そして、世界中のキャンパスのぶどう園で働ける特権を与えてくださいました。次の世代のリーダーになるキャンパスの兄弟姉妹たちに御言葉を教え、福音を宣べ伝えることができることは大きな恵みです。私たちがこの恵みを感謝しつつ、与えられた使命を謙遜に担うことができるように祈ります。全世界の所有権を持っておられる神様が与えてくださった祭司の王国、聖なる国民としての使命をよく担うことができるように祈ります。