2004年ルカの福音書第60講

新しい契約

御言葉:ルカの福音書22:1?23
要 節:ルカの福音書22:20「食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」
 
 先週、私たちはイエス様が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来られることを学びました。イエス様が再び来られるその日は、最後まで信仰の中心を守り通した人々にとって、勝利の日であり、栄光の日です。また、その日は、私たちクリスチャンが待ち望むべき希望の日です。それで、パウロは言いました。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。そうです。私たちは信仰によって聖なる国民として生きようとする時、いろいろの苦しみを受けます。しかし、それはイエス様が力と輝かしい栄光を帯びて来られる日に受ける栄光に比べれば取るに足らないものなのです。私たち一人一人がその日の栄光を待ち望みながら最後まで信仰を守り、与えられた使命に忠実でありますように祈ります。
 今日の御言葉はイエス様が流される血によって結ばれる新しい契約について教えてくれます。キリストの血による新しい契約は、クリスチャンの信仰の核心です。イエス様はこの地上では最後に行なわれる過越の食事の時にご自分の血による新しい契約について弟子達に教えてくださいました。この時間、聖霊が御言葉を通してイエス・キリストの御血による新しい契約の意味を悟らせてくださるように祈ります。

?.ユダの裏切り(1?6) 
 1節をご覧ください。時は、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた頃でした。過越の祭りはイスラエルがエジプトの奴隷として苦しみ、嘆いていた状態から解放されたことを記念する祭りです。皆さんは祭りの時に何をするでしょうか。大体はみな喜び、楽しみます。先週、私の家の周辺では祭りが三つもありましたが、地域の人々が集って踊ったり、飲んだり、大声を出したりしていました。過越の祭りも祭りです。特にこの祭りはエジプトに恐ろしい神様のさばきが襲って来た時、イスラエル人の所は過ぎ越されて行ったことを記念する祭りでした。イスラエルは全国民が集って救われた恵み、エジプトから解放された恵みを覚えて七日間も祭りをしました。ですから、イスラエルの指導者たちは毎年過越の祭りが近づいて来ると、祭りの準備をしなければなりませんでした。
 ところが、当時の宗教指導者たちは何をしていましたか。2節をご覧ください。彼らは、イエス様を殺すための良い方法を捜していました。彼らは民衆を恐れていたので公の場では逮捕することもできず、良い方法を捜していたのです。そんな彼らに誰が来ましたか。
3,4節をご覧ください。十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダにサタンが入りました。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエス様を彼らに引き渡そうかと相談しました。すると、彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をしました。ここで、著者ルカはユダが十二弟子のひとりであったこと、イスカリオテと呼ばれるユダであることを明らかにしています。イエス様は彼をどんなに愛しておられたでしょうか。彼を選ばれ、使徒として立てられるときは、祈るために山に行き、神様に祈りながら夜を明かされました(ルカ6:12,13)。また、イエス様は彼を遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるために弟子として立てられました。そして、イエス様は彼とともに共同生活をしながら彼を助け、彼に仕えました。つまり、ユダは、この世の人々の中でも特別に選ばれてイエス・キリストの十二弟子のひとりとして特別に愛され、特別な恵みを受けていたのです。それなのに、彼は尊敬すべき自分の先生を裏切って、イエス様を殺そうとしている人々の手に渡そうとしました。あまり親しくない友達を裏切ることでも人間としてやるべきことではありません。それなのに、自分を愛し、自分を助け、自分のためにいのちさえも惜しまないキリストを裏切るということは考えられないことです。それなのに、なぜ、ユダは尊敬するべきイエス様を裏切る気になったのでしょうか。それは本当に理解しがたいことです。他の弟子たちもいたのに、なぜユダにサタンが入ったのかも不思議なことです。しかし、5節を見るとその理由が分かります。
 5節をごいっしょに読んでみましょう。「彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。」とあります。彼らがユダに金をやる約束をしたということは、ユダが金を求めたことが分かります。彼はお金をほしがっていたのです。ユダはイエス様の弟子になってからもこの世のものに未練がありました。お金を愛し、お金をほしがっていました。ところが、聖書には「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」とあります(?テモテ6:10)。ユダが表面的には立派な弟子生活をしているように見えても、彼の心の中には悪の根があったのです。この悪の根があったので、キリストに最も近く生活し、常に権威と力ある御言葉を耳にしても恵みを受けることができませんでした。悪の根があるために御言葉が心にはいりませんでした。使徒の働き20章を見ると、ユテコという青年はパウロがメッセージを伝える時、眠り込んでしまって三階から下に落ちたことが記されています。おそらく、ユダはイエス様がメッセージを伝え始める時から居眠りしたのではなかったでしょうか。
結局、ユダは金銭を愛する悪の根があった時、主なるイエス様を裏切ってしまう大きな罪を犯してしまいました。そして、最後は自殺して永遠の滅びに陥るに至りました。ヤコブの手紙1章15節に「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」とありますがそのとおりです。ですから、イエス様は「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えると言うことはできません」(マタイ6:24b)と言われました。この世の富、お金を愛する心と神様を愛する心とは、両立できないものです。ユダのように金を愛する悪の根を掘り出して捨てなければ、イエス様を裏切るような者になってしまいます。また、ユダのように、特別に選ばれて、特別な恵みを受けていても感謝しないときに、裏切り者になってしまいます。
ですから、私たちは心に少しでもユダ的な要素がある時は悔い改めなければなりません。特に、私たちは弱い存在です。特にお金に弱い存在ではないでしょうか。だからこそ、私たちは祈らなければなりません。イエス様が「主の祈り」で教えてくださったように祈るべきです。自分の弱さを認めて毎日「私をサタンの試みに会わせないでください」と祈らなければならないのです。
 
 ?.最後の過越の食事を準備したイエス様と弟子たち(7?16)
 7節をご覧ください。「さて、過越の小羊のほふられる、種なしパンの日が来た。」とあります。イスラエルでは種なしパンの日になると過越の小羊をほふり、家族単位で過越の食事をします。この食事は、一つ一つ定められた順番があるそうです。その一つ一つが、イスラエルがどのようにしてエジプトの奴隷状態から贖われたかを思い出すように設定されています。例えば、クラッカーのような種無しのパンの間に、ピンク色をしたわさびのようなものを入れて食べるときあります。これは、イスラエルがレンガを集めていたときの、苦しみを思い出すものでした。また、ぶどう酒に指を浸して、その杯の下のところに十回振り掛けます。これは、エジプトに下った10回の災いを意味しました。こうして、神様がイスラエルに対して、何をして下さったのかを食事によって思い出し、神様の恵みを心に刻むものだったのです。
8-12節をご覧ください。「イエスはこう言ってペテロとヨハネを遣わされた。「わたしたちの過越の食事ができるように、準備をしに行きなさい。」彼らはイエスに言った。「どこに準備しましょうか。イエスは言われた。「町にはいると、水がめを運んでいる男に会うから、その人がはいる家までついて行きなさい。そして、その家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする客間はどこか、と先生があなたに言っておられる。』と言いなさい。すると主人は、席が整っている二階の大広間を見せてくれます。そこで準備をしなさい。」とあります。イエス様は、エルサレムに入城される時と同じように、主権的に働いておられるご自分を体験しながら過越の食事を準備するように暗示されました。彼らが出かけて見ると、イエス様の言われたとおりでした。それで、彼らは過越の食事の用意をしました(13)。
 14節をご覧ください。「さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。」とあります。日没の時間になると、過越の食事が始まりますが、その時間になってイエス様は使徒たちとともに食卓に着かれました。そして、使徒たちに言われました。15,16節をご覧ください。「イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」とあります。今までイエス様は使徒たちとともに共同生活をしてきました。当然、食事もいっしょにして来ました。いっしょに食事をするということはいっしょに交わることを意味します。イスラエルでは、互いに一つになることを示しています。しかし、今回の食事には特別な意味がありました。互いの交わりだけではなく、神様との交わりでもあるからです。神様と交わって一つになり、神様に結ばれている仲間同士が交わって、一つになります。イエス様は十字架の苦しみを受ける前に、弟子たちとこの過越の食事をすることによって一つになることを切に望んでおられました。また、イエス様は十字架の苦しみを受ける前に、最も大切なご自分の血による新しい契約について教えることをとても望んでおられました。では、イエス様が流される御血にはどんな意味があるでしょうか。なぜ、イエス様は過越の祭りの小羊としてほふられなければならなかったでしょうか。

?.イエス様の血による新しい契約(17-23)
 17、18節をご覧ください。「そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」とあります。ここで「神の国が来る」とは、イエス様がよみがえられ、天に上られ、将来栄光の姿で再び来られることを意味します。弟子達はイエス様が十字架につけられることを言われるたびに悲しくなりました。不安になりました。心も顔も暗くなりました。しかし、イエス様は力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来られます。その時、完全な神の国が建設されます。そこで弟子たちはイエス様が用意される小羊の過越の宴会に参加するようになります。そして永遠に愛するイエス様とともに生きるようになります。
イエス様は私たちがキリストの御血によってきよめられて神の国の宴会に招かれ、永遠の祝福を受けることを願っておられます。イエス様はそのために十字架につけられて御体が裂かれ、御血を流されるようになるのです。
 19節をご覧ください。「それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」とあります。イスラエル人は過越の食事の時、大きなパンを裂いて、分けて食べました。これはイエス様が十字架につけられご自分のからだが裂かれることを意味しています。ヨハネ6:51節でイエス様はご自分について次のように言われました。「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です(ヨハネ6:35)。」イエス様はいのちのパンです。誰でもイエス様に来る者は決して飢えることがありません。イエス様は霊的に飢えている私達に真の満足を与えられます。
 20節をごいっしょに読んでみましょう。「食事の後、杯も同じようにして言われました。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」」ここで私たちが注目しなければならない言葉は「新しい契約」です。新しい契約は古い契約を前提にしています。古い契約は神様が選ばれた民イスラエル人と結んだ契約です。神様はイスラエル人を選ばれ、神様の民として守るべき律法を与えられました。そしてそれを守るなら、祭司の王国、聖なる国民とすると約束されました。イスラエル人はそのとおりにすると言いました。それによって神様とイスラエル人の間には契約が結ばれました。しかし、彼らは神様の律法を守り切れませんでした。彼らは罪を贖うためにさまざまないけにえをささげなければなりませんでした。羊や牛などをほふって天幕の祭壇に注ぎださなければなりませんでした。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない」からです(ヘブル9:22)。どうしても犠牲の血が流される必要があるのです。それでイスラエルの民に自分たちが犯した罪の身代わりとして獣の血を流すようにされました(出24:6-8)。しかし、古い契約は獣の血によるもので不完全なものでした。獣の血は根本的に人間の罪を贖う力がありませんでした。
 それで神様は御子イエス・キリストをこの世に遣わし、キリストの血による新しい契約を結んで下さいました。この新しい契約は神様が新しいイスラエル、つまりイエス様を信じる人と結ばれる契約です。ですからこの契約は、限定された一民族ではなく、全世界のすべての民族や人種に拡大された契約です。また、古い契約は石の板に書かれた律法によるものですが、新しい契約は心の板に、すなわち聖霊が豊かに注がれることによって確かめられる契約です(エレ31:33)。古い契約は動物の血によるものですが、新しい契約はイエス様の血によるものです。イエス様の血は何の罪もない純潔な神様の御子の血として完全なものです。ですから罪の赦しの効力も完全であり、永遠です。ですからいつでも、どこでも、キリストの血による十字架の赦しの愛を信じて自分の罪を悔い改めるなら、罪の赦しを受けることができます。これは本当に大きな恵みです。最近、私はCBFの礼拝で出エジプト記の御言葉を教えていますが、贖いの儀式はとても細かくて、複雑です。私たちは守りきれません。しかし、イエス様の流された十字架の血を信じることによってすべての罪が赦され、贖われるのです。
 多くの人々が聖く、正しく、純粋な人生を送ることを願っています。しかし、心ならず常に失敗してしまいます。ユダのように金銭を愛する者になってしまいます。裏切られたり、裏切ったりしています。それは罪の奴隷、サタンの奴隷になっているからです。どうすれば、この奴隷状態から救われ、罪のエジプトから解放されることができるでしょうか。罪のエジプトであるこの世の汚れ、罪悪からでしょうか。どうすれば、人を憎しみ、無視し、嫉妬する生活、よくつぶやく奴隷根性から救われて聖なる国民として生きることができるでしょうか。それは人間的な努力によってはできません。いくら良い行ないを繰り返して行なっても、毎日修行をしても解決することができません。汚れた着物は洗濯するときれいになります。体もお風呂に入ればきれいになります。しかし、人間の内面にある罪は洗濯機で洗うことができません。お風呂に入ってもきれいにすることができません。罪はこの世の何によっても消すことができないものです。
それはただ神様の小羊であるイエス様の血によってのみ消すことができます。なぜならイエス様の血は神様の御子の血として罪によって汚れてない純潔な血だからです。ヘブル人への手紙の著者は次のように証ししました。「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:13、14)。キリストの血は私達をすべての罪の欲と罪悪な考えや習慣から離れさせる力があります。ですから私達がイエス・キリストの血の力を受ける時、段々聖なることを求めるようになり、純粋な神様の人として新しく生まれ変わるようになります。新しい契約はこのようにキリストの血によって結ばれたものです。誰も変えることができない一番確実で永遠なるものです。この契約は誰でもイエス・キリストの血を信じるならその人の罪を赦してくださるという神様の約束です。
イエス様が十字架につけられる時、一人の犯罪人がいました。彼はイエス様が自分の罪のために十字架につけられて血を流していることを信じました。すると、彼はその瞬間、救われてイエス様と一緒にパラダイスに入ることができました。これは聖書に記された事実です。神様の契約を信じる者には実際に起こることなのです。だれでも、キリストの血による贖いを信じるなら罪のエジプトから解放され、救われて聖なる神の国民となります。これがキリストの血による新しい契約です。
もう一度19b節をご覧ください。イエス様は「わたしを覚えてこれを行ないなさい。」と言われました。「覚える」とはその意味を新しく心に刻むことです。イエス様は恵みをよく忘れてしまう人間の罪悪な本性をよく知っておられます。それで、何度も覚えて行なうように言われました。信仰生活は受けた救いの恵みを覚えてその恵みを証しする生活です。私達が毎日救いの恵みを覚える生活ができるように祈ります。

 以上で私たちは私たちの罪を贖い、罪のエジプトから救うために、イエス様の肉が裂かれ、血が流されたことが分かります。何よりもイエス様は私たちがこの事実、十字架の恵みを覚えて記念することを願っておられます。どうか、私たちが日々、キリストの貴い御血による救いの恵みを覚えて感謝し、罪悪で淫乱な罪のエジプトから離れて聖なる国民として生きることができるように祈ります。