2004年ルカの福音書63講    
 
私たちのために苦しみを受けられたイエス様

御言葉:ルカ22:63-23:25
要 節:ルカ22:69、70「しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。

 先週、私たちはイエス様がオリーブ山に行ってひざまずいて祈られたことを学びました。私たちは弱いひとりの人間としてのイエス様の姿を見ることができました。弱い人間として十字架の苦しみを経験することはとても辛かったでしょう。イエス様も苦難と死の杯を取りのけてくださるように祈られました。しかし、それだけに留まらず、みこころのとおりになるように祈られました。苦しみと死の十字架を担うために汗が血のしずくのように地に落ちたほどに祈られました。この祈りによって人間的な欲望を乗り越え、全人類を救われる神様のみこころに従うようになりました。祈りによって奇蹟が起こったのではありません。隣の人々の心が変わったこともありませんでした。環境や状況が変わるようなことはなかったのです。しかし、イエス様ご自身に変化が起こりました。祈るとき、神様のみこころに従うことができるようになりました。苦しみと十字架を担える力が与えられました。
 祈りの夜を過されたイエス様はピラトのもとで苦しみを受けるようになります。今日の御言葉は、イエス様がどのように苦しみを受けられたかについて教えてくれます。イエス様はご自分に対する約束の御言葉をつかみました。それで、苦しみを受け、尋問される時にも神の国への望み、神の子としてアイデンティティをはっきりと宣言されました。
ここで、私たちは神様の約束の御言葉に対する信仰を学ぶことができます。また、イエス様が苦難を受けられる意味について学ぶことができます。

?.侮辱を受けられたイエス様(63-71)
ユダの裏切りによって逮捕されたイエス様は大祭司の家に連れて来られました。何の罪もないのに、イエス様は罪人として逮捕されて行ったのです。今の日本では罪のない人を逮捕することは法律違反です。ところが、イエス様は大祭司に対して何の罪もないのに逮捕されました。それだけではありません。
63、64節をご覧ください。「さて、イエスの監視人どもは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。」と聞いたりした。」とあります。監視人どもはイエス様をからかいました。からかわれることほどに耐えがたいこともないでしょう。
私は軍隊の時のある晩、からかわれたことが今も夢に見えます。自分より年下で体も小さい人たちに囲まれて「お前、てめえー、何でそんなに遅いの、亀よりも遅いよ。」などさまざまな悪口を浴びせられました。その夜は、悔しくて悔しくて眠れませんでした。今でもたまに夢に現われるほどですから、一度からかわれるものはひどいものですね。ところが、聖なる神の御子イエス様が罪人たちからからかわれました。罪のないイエス様が汚れている人々からたたかれました。人々は目隠しをして、「言い当ててみろ。今たたいたのはだれか。」と聞いたりしたのです。それだけではありません。また、そのほかさまざまな悪口をイエス様に浴びせました。イエス様が懲らしめられ、からかわれる苦しみは人間の想像を越えているものです。
なぜ、罪のないイエス様がこんな目に会わなければならなかったのですか。それは私たちの罪のためです。預言者イザヤはイエス様に関してこう書き記しました。「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。神様にそむくばかりで救われる価値のない私たちの罪のためにからかわれ、剣に刺されました。一日も平安に生きる価値のない私たちに平安をもたらすために懲らしめられました。険しいこの世で傷ついている私たちを癒すために鞭に打たれました。私たちの身代わりになって苦しみを受けられたイエス様に心から感謝します。
66、67a節をご覧ください。「夜が明けると、民の長老会、それに祭司長、律法学者たちが、集まった。彼らはイエスを議会に連れ出し、こう言った。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」とあります。イエス様を捕えた張本人はユダヤの宗教指導者たちでした。本来なら、誰よりもイエス様を待っていて歓迎するべき人たちです。ところが、その彼らがイエス様を攻撃し、逮捕する張本人になっていたのです。彼らはイエス様を議会に連れ出し、こう言いました。「あなたがキリストなら、そうだと言いなさい。」しかし、イエス様のお答えはどうでしたか。
67b-69節をご一緒に読んでみましょう。「しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょうし、わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。しかし今から後、人の子は、神の大能の右の座に着きます。」
イエス様は彼らの心をよく知っておられました。イエス様は彼らのことを経験して来られたからです。イエス様が真理の言葉を語っても、彼らは信じようとしませんでした。むしろ、彼らはイエス様の言葉をイエス様を攻撃する口実に用いることしか考えませんでした。20章20節に「さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そうと、計った。」とあります。彼らはイエス様の御言葉を受け入れて悔い改めるどころか、イエス様の御言葉を繰り返して無視しました。そして今は神の御子イエス様を捕えて尋問しています。これこそ神聖冒涜罪です。彼らはイエス様に対して言い表せない罪を犯しているのです。聖なる神の御子なのに、汚れた人々に無視され、からかわれ、尋問される時にイエス様の苦しみはどうだったでしょうか。言い尽くせない恥辱に耐えられる力がどこにあったでしょうか。
69節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。「しかし、今から後、人の子は神の大能の右の座に着きます。」イエス様は苦しみを受ける中でもメシヤに関する御言葉を覚えて語っています。イエス様は屈辱的な尋問に対しても腹を立てたり、恐れたりしませんでした。むしろ、ご自分に関して預言された神様の約束の御言葉を彼らに語られました。イエス様はご自分が経験している苦しみを聖書の御言葉に基づいて解釈し、神様の約束の御言葉に頼りました。イエス様は私たちの罪のために苦しみを受け、十字架にかかって死なれます。しかし、それがすべてではありません。イエス様は、死者の中から三日目によみがえられます。それから、天に上り、神様の大能の右の座に着きます。このことは、詩篇110:1節に預言されています。「わたしがあなたの敵をあなたの足台にするまではわたしの右の座についていよ。」とあります。全能の神様はイエス様をご自分の大能の右の座に招かれるのです。そしてあらゆる権威、権力をお与えになります。すると、イエス・キリストの支配が、すべての敵をその足の下に置くまでに続きます。「すべての敵」中には、イエス様を信じなかった宗教指導者たちも含まれています。彼らは今イエス様を罪に定めていますが、やがてイエス様から永遠のさばきを受けるのです。彼らは間もなく、イエス様を十字架につけて殺しますが、イエス様はよみがえられ、神の大能の右の座に着かれるからです。そのときには、イエス様を受け入れて信じるどころか、排斥し、十字架につけて殺した彼らに永遠の罰が与えられます。その時、彼らは火と硫黄との燃える池の中にはいるようになります。
イエス様は、今、苦しみを受けてお体はずたずたにされています。回りは敵意に満ちた人たちに囲まれています。そんな状況の中でもイエス様は神様の約束の御言葉をつかんでおられました。ここで、私たちは予想される苦難を担うために祈るだけではなく、御言葉に頼ってそれを乗り越えて行かれるイエス様を学ぶことができます。また、神様の約束の御言葉に対する信仰を学ぶことができます。イエス様は聖書に書かれたすべての御言葉は必ず実現することを確信しておられたのです。
この間、宣教報告の時も話しましたが、イギリスUBFはただ御言葉を信じる信仰の上に立てられていると言われます。信仰の先祖であるPaul牧者が初めてイギリスUBFの祈り会に参加した時は、あまりにもみすぼらしいセンターに驚きました。まるで小さな倉庫のようだったからです。すべてのものがぼろぼろに見えました。またそこにはただ何人かの人たちが集っていました。ところが、彼らは祈るたびに千人の聖書先生養成と100のイギリスキャンパス開拓、世界中に宣教師を遣わすことのために祈りました。彼はもう一度驚き、ショックを受けました。そこにいる人たちは、皆気が狂っていると思いました。ところが、自分も彼らが祈っている聖書先生のひとりでした。そして、彼自身が御言葉の恵を受けていました。結局、彼は聖書先生のひとりになりました。今は主日礼拝にメッセージを伝える弁護士牧者になりました。
初期の東京UBFも考えてみると、ただ御言葉に頼っていたんだなあと思います。今は半地下であってもちゃんとしてセンターでありますが、最初は一つの部屋で1:1も、祈り会も、礼拝も行なっていました。ただ、神様の御言葉を信じて日本宣教を始めました。その時、マリロペス宣教師のお姉さんである米本恵さんはその部屋に聖霊の働きがあり、御言葉の恵があると言って自分の妹を連れてきてくれました。そして、マリロペスはそこで聖書勉強を始めて今はUCLAの信仰の母として世界的な宣教師になりました。PNGのマタイ・バイ宣教師は元々クリスチャンでしたが、UBFに来て、ここには御言葉が働いていると告白してUBF宣教師として自分の国に帰国し、キャンパスミッションのために働いています。ところが、いつからか、私たちは御言葉に対する単純な信仰が弱くなっていたのではないかと思います。去年、私は今年の方向、祈りの課題を決めるとき、何度も計算しました。過去の三年間、主日礼拝参加者の統計を分析して今年の目標を30名にしました。1:1の目標もいろいろ計算して21チームにしました。御言葉を信じて挑戦することより数学的な計算に頼っていたのです。私が神様の御言葉に対する信仰を失っていたことを悔い改めます。イエス様は苦難を受け、尋問される時、人間的な知恵に頼りませんでした。神様の御言葉に対する信仰から神様の大能の右の座につくビジョンを見ることができたし、十字架を背負って人類を救う使命を全うすることができました。
私たちも神様から与えられる御言葉に対する信仰によって現実的な苦難を乗り越え、神様から与えられた使命を果たすことができるように祈ります。神様は私に宣教要節として「できるものなら、というのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。」という御言葉をくださいました。私ももう一度神様からいただいた御言葉の上に堅く立ちたいと思います。数学的な計算よりも御言葉に頼って東京UBFの1:1、キャンパスミッションと世界宣教の使命を果たすことができるように祈ります。具体的にルカの福音書の御言葉が終わると、10月からは7ステップの御言葉を勉強して基礎から新しく出発しようとしています。神様が私たちに与えられた御言葉を思い出させ、また新しく深い御言葉を与えてくださるように、与えられた御言葉に対する信仰によって忙しく厳しい職場の十字架、生活の十字架を乗り越えて牧者の使命、宣教師の使命を果たすことができるように祈ります。
イエス様が心の中に御言葉をつかんだとき、この世の権力と権威を握っている宗教指導者たちの前でもはっきりしたアイデンティティを持つことができました。
70節をご覧ください。「彼らはみなで言った。「ではあなたは神の子ですか。」すると、イエスは彼らに「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです。」と言われた。」とあります。彼らはイエス様をごまかして言葉尻を得ようとしました。イエス様を訴える口実を得ようとしたのです。イエス様はそのような彼らのたくらみを見抜いておられました。それでも、イエス様ははっきりとご自分が神の子であることをはっきりと告白しました。イエス様は嘲られても神の子としてのアイデンティティを失っていないことがわかります。ですから、イエス様はご自分のいのちが脅かされてもご自分が「神の御子」であることをはっきりと告白されたのです。イエス様はイエス様に従うすべての人が「イエス様は神の子」であると告白することを願っておられます。信仰告白は救いにかかわる大切な事です。パウロはテモテに言いました。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白を持ってあかしされたキリスト・イエスの御前で、あなたに命じます。私たちの主イエス・キリストの現われの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい。」(?テモテ6:12-14)。私たちはキリストの血潮によって救われた者としてアイデンティティを持ってイエス・キリストの現われの時までイエス様が告白したように「イエス・キリストは神の御子」であると告白しなければならないのです。
イエス様が「神の子」であると明らかに告白したとき、どんなことが起こりましたか。71節をご覧ください。「すると彼らは「これでもまだ証人が必要でしょうか。私たち自身が彼の口から直接それを聞いたのだから。」と言った。」 ユダヤの議会が、イエス様を死刑にすることを決めるようになりました。神様に愛された、選ばれた民イスラエル、しかも彼らの指導者たちがが、約束のメシヤを殺す決断を出したのです。こうして、サタンは働いています。まず、一番近しい12弟子の中で働き、次に同胞のユダヤ人の中で働きました。そして、次は、異邦人の中で働く様子を見ることができます。

?.ピラトの前で尋問されたイエス様(23:1-25)
1節をご覧ください。「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。」とあります。この彼らとは、ユダヤ人議会のサンヘドリンの議員たちです。彼らは罪のないイエス様を逮捕して宗教裁判をした後に、ローマ帝国の世俗の裁判所のピラトにイエス様を連れて行きました。そしてイエス様について訴え始めました。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」と言っています。ここで、彼らはイエス様に対して三つの罪を取り上げています。一つ目は、国民を惑わす罪です。二つ目はカイザルに税金を納めなかったことです。そして三番目は自分が王キリストだと言って皇帝に反逆しているということです。これらの三つはみな偽りの告訴です。確かにイエス様は、神殿にいる商売人を追い払ったことがあります。しかし、それは、国民を扇動したのでなく、神様に立ち返らせるためでした。カイザルの納税については、イエス様がはっきりと「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」と言われました。そして、反逆罪にについてですが、確かに、イエスはご自分がユダヤの王であると認められました。3節をご覧ください。「するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。」とあります。イエス様はご自分がユダヤの王であるとお認めになったのです。しかし、それは、ローマ帝国を覆すための王ではありません。ヨハネの福音書で、イエス様はピラトにこう答えられています。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。(18:36)」ですから、イエス様はこれらについて何の罪も犯しておられません。ただ、ユダヤ人指導者たちが偽りの告発をしているだけです。そのことはピラトも証ししています。
4節をご覧ください。「ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。」とあります。宗教的なことに関してはかれこれと言わない事にしていたピラトが「イエス様には何の罪も見つからない。」と言っているのです。しかし、彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」と言いました。彼らは「民を扇動している」と言い張っていますが、この指導者のほうが扇動しているのではないでしょうか。ピラトは、指導者たちの扇動によって問題が生じるのを恐れて、ヘロデに責任転嫁しようとしました。
6、7節をご覧ください。「それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。」とあります。
 ピラトは、イエス様に何の罪も見出されないのを知った時点で、裁判官としての務めを果たし、イエス様に無罪の判決を下すべきでした。けれども、ヘロデに裁判をゆだねたところに、ピラトの弱さと罪があります。ピラトは真理だと分かっていても自分の身を守るために真理を曲げてしまいました。平気で人を殺すことをも許してしまう人間でありました。結局、彼はイエス様には明らかに罪がないとわかっているのに死刑にまでも許してしまいました。その最初のきっかけが、この責任転嫁でした。私たちは自分が果たすべき責任を果たさないとき、イエス様を十字架につけることになります。ヘロデはどうでしたか。
 8節をご覧ください。「ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。」とあります。ヘロデは、イエス様を人気タレントのようにしか考えていません。単なる好奇心からイエス様に会いたいと思っていたのです。本来なら、ユダヤ人の王として、ユダヤ教を知っているヘロデは、きちんとこの問題をさばくべきでした。しかし、彼は自分の好奇心を満足させるような機会としか見なかったのです。それで、いろいろと質問しました。しかし、イエス様は彼に何もお答えになりませんでした。イエス様が一言もお答えにならなかったのは、「あの狐」のような彼の質問に答える価値がなかったからでしょう。罪と欲望の中にはまって、悔い改める余地の残されていないような人物に対して、イエス様は何もお答えになりません。すると、祭司長たちと律法学者たちは立って、イエス様を激しく訴えていました。ヘロデは自分の好奇心を満たすくらいしか考えていないのに、祭司長と律法学者は真剣に訴えています。ヘロデが、彼らの顔つきを見ると、とても険しくてそのままではいけないと思ったでしょうか。ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエス様を侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返しました。この日、ヘロデとピラトは仲よくなりました。それまでは互いに敵対していたのにイエス様のことで仲良くなったのです。
おそらく、ヘロデは、自分が見たいと願っていたイエス様を連れてきてくれたことで、ピラトに好感を持つようになったでしょう。また、ピラトの方は、異邦人としてユダヤ人とうまくいっていなかったと思います。しかし、この問題のおかげで、ユダヤ人の王と関係性を結ぶことができて良かったと思うようになったでしょう。それで二人は仲良くなりました。
これは、イエス様を受け入れない者たちの姿です。お互いに敵対していますが、イエス様が殺されるという重大な問題に対して軽くあしらうことでは一致しているのです。ある人はピラトのようになるでしょう。「イエス様は正しく、真理ですが、キリスト教に足をつっこんだら、面倒くさいことになる。自分は大きな決断をしなければならないのだろうが、日々の生活を乱されたくない。」また、ある人は、ヘロデのようになります。「なんだ、何か面白いことでも見たり、聞いたりすることができると思っていたのに、…つまらないの。キリストには、軌跡があり、癒しがあると聞いていたのに、自分には何も起らない。」と思います。こうして、イエス様に対して批判的になると、ピラトとヘロデのように仲よくなるのです。
13-16節をご覧ください。「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」」とあります。
 ピラトは、イエス様に無罪の判決を下しました。けれども、一つ重大な過ちがあります。懲らしめたうえで、釈放することです。先ほど、彼は、「この人には、何の罪も見つからない。」と告白しまし。それなのに、ここでは、「死罪に当たることは、何一つしていません。」と言い変えています。この時点で、彼は、ユダヤ人の圧力に屈していたことが分かります。総督ピラトはローマからユダヤに派遣されており、ユダヤ国内で最も位が高く権力のある立場でした。ですから、彼が無罪を認めたことは、それが通るはずです。しかし、ピラトはユダヤ人と妥協してしまったのです。何一つ罪のないことを知っていたのに、少し不正になってでもユダヤ人の心をなだめようと思ったでしょう。ピラトは、罪のない方に刑罰を与えると言う不正を犯しました。彼自身の思いでは、少しだけは、まあいいだろう、というのがあったと思います。けれども、事態はどんでもない方向に向かって行きました。妥協することはこういうことです。いつも初めは小さく見えてもどんどん大きくなり、大きな問題を引き起こしてしまいます。パウロは、「ほんのわずかなパン種が、粉のかたまり全体をふくまらせることを知らないのですか。(1コリント5:6)」と言いました。 結局、ピラトはどうしましたか。
18、19節をご覧ください。「「しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。」とあります。ピラトの無罪宣告が全く効力を発することができませんでした。バラバは本当に死罪に該当する者です。今の言葉でいうなら、彼は、都の東京でテロを起こしたテロリストです。それなのに、妥協して弱くなっていくピラトを見ている人々は無罪のイエス様ではなく、テロリストのバラバを釈放するように叫んだのです。でもピラトは、イエス様を釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけました。しかし、人々はどうでしたか。
 21-23節をご覧ください。「しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」とあります。ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。とあります。本当に悲しい悲劇が描かれています。法の正義よりも、民衆の声が優先されました。
24、25節をご覧ください。「ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」
 恐ろしいことが起こりました。人々は、何の罪もない方をおとしめて、社会の危険人物を釈放させることを願いました。そして、イエス様の十字架刑が決定されてしまいました。イエス様が地上でなさったことは、そんなにも酷いことだったでしょうか。いいえ、イエス様はピラトが最初に告白したとおりに何の罪も犯しませんでした。多くの人々をいやしました。悪霊を追い出されました。渇いている人々に生ける水を飲ませ、良い知らせをもたらした方です。それなのに、彼らはイエス様をなぶりものにし、テロリストのような人物を引き上げました。これが世の姿です。
人々は良いもの、正しいものが低め、自分の有益になるものだけを高めます。光よりも暗やみを愛します。使徒ヨハネは言いました。「そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。(ヨハネ3:19)」

結論的にイエス様はこんな私たちを救うためにピラトのもとで苦しみを受けられました。罪人たちにからかわれ、嘲られました。真の光が来ても受け入れなかった私たち、神様にそむいている私たちを救うために苦しみを受けられたのです。神の子ですが、完全な人間として生きておられたイエス様にとってその苦しみはとても重く、辛いものでした。でも、イエス様はそれを担うために汗が血のしずくのように血に落ちるほどに祈られ、神様の御言葉を信じたので苦しみを受けることができました。そして、イエス様がそのようにしてピラトのもとで苦しみを受けられたことによって私たちは救われて神様の子どもとして身分を回復することができました。私たちのためにからかわれ、嘲られ、尋問される苦しみを受けられたイエス様の恵を心から感謝します。私たちも救いのみわざのために、イエス様の祈り、御言葉に対する信仰を持って与えられた使命を担うことができるように祈ります。