2004年7ステップ第6講 

永遠のいのちへの水

御言葉:ヨハネ4:4-30
要 節:ヨハネ4:13,14“イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」”

先週、私たちはニコデモが夜、イエス様のみもとに来た時、イエス様が彼に言われたことを学びました。イエス様は彼に言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(3:3)。そうです。人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません。残念ながらニコデモはこの大切な真理を悟ることができず、新しく生まれることができませんでした。
今日はイエス様がサマリヤの女の人に出会って彼女が新しく生まれるように永遠のいのちへの水を飲むように助けられた出来事です。ニコデモと、この女の人は実に対照的な人物です。ニコデモはサンヘドリンの議員であり社会的な地位が高いのに対し、女は社会の除け者です。ニコデモはパリサイ人であり、道徳的に高い基準を持っていました。このサマリヤ人は男を追っかけ回している不道徳な女です。イエス様はわざわざこの女性に会いに行ってくださいました。ニコデモは自分の方から行きましたが、この女の人にはイエス様が行ってくださったのです。イエス様は高慢な人、知識のある人に対しては彼らから来ることを待っておられますが、身分の低い人、弱い人、寂しい人にはご自身の方から会いに来てくださる方です。イエス様はひとりのサマリヤの女の人に会いに行ってお話をし、神の賜物、神様のプレゼントを与えられました。渇き果てている彼女に永遠の命への水を与えてくださいます。エデン園から流れ始め、すべての生物を生えさせた命の水、イエス様を通して再現された永遠の命への水を飲ませてくださるのです。
この時間、聖霊が私たちに永遠のいのちへの水を飲ませてくださるように祈ります。私たちにさまざまな問題があっても、どのような渇きがあっても永遠のいのちへの水を飲むことができるなら、すべての問題は解決されます。それだけではなく、生ける水に潤される人生、まことの神様に礼拝して神様から祝福される人生を生きるようになります。それでは、私に会うために天から降りてきてくださったイエス様のお話を聞きましょう。

?。水を飲ませてください(1-9)
3、4節をご覧ください。「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」とあります。イエス様は、ユダヤを去ってガリラヤに行かれようとされました。しかし、サマリヤを通って行かなければなりませんでした。サマリヤの地域は、ちょうどユダヤ地方とガリラヤ地方の間にありました。でも、当時のユダヤ人はたいてい、サマリヤを通らずに、ヨルダン川の東側の道に迂回して、ユダヤ地方とガリラヤ地方を行き来していました。サマリヤ人とユダヤ人の間には深い敵対心があったからです。ユダヤ人はサマリヤ人を嫌い、同じようにサマリヤ人もユダヤ人を嫌いました。しかし、イエス様はサマリヤを通って行くことにされました。敵対関係の人たちがいる所を通ることはやさしくありません。私たち人間は会いたくない人がひとりだけいてもその場を避けて行こうとするものです。ちょっと遠回りしてもいやな人には会いたくないと思うのが人間です。しかし、イエス様は違います。イエス様は意図的にサマリヤを通って行かれました。ひとりの人に伝道するためです。伝道とはこういうことであることが分かります。好きな人だけに行くことではありません。いやな人にも会いに行きます。人々が嫌がることであっても人を助けに行くことが伝道であり、宣教です。それはイエス様がこの地上に来られた目的を成し遂げることです。「しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった」という御言葉から人間的な状況より神様のみこころに従われるイエス様の意思的な決断を感じられます。
5,6節をご覧ください。「それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。」とあります。ここで、私たちはイエス様の肉体的な状態を知ることができます。イエス様が疲れておられました。時が6時ごろでした。これを今の時刻に直すと、正午ぐらいになります。イエス様は喉の渇きと空腹を覚えておられたでしょう。そこにひとりのサマリヤの女が水をくみに来ました。中東地方での正午の暑さを経験したことがあるでしょうか。私はまだ経験していませんが殺人的な暑さだと言われています。それで、正午ぐらいになると人々が外に出て歩き回るようなことはほとんどないそうです。水を汲みに行くことも涼しい朝か夕方にしていました。ところがひとりの女性が現れてきたのです。そこで、イエス様とサマリヤの女との出会いが始まります。彼女は人目を避けて水を汲みに行かなければならないほどにさびしい人でした。でも、イエス様が彼女に会ってくださいました。そうです。イエス様は私たちがさびしい時、私のところに来てくださいます。イエス様は険しい世の中で傷つけられた私たちのために、悩み、苦しんでいる私のために天から降りて来てくださいました。そして、イエス様はさびしい人に個人的に会ってくださいます。この間、日ごとの糧の御言葉にありましたが、神様はエリヤにも個人的に会ってくださいました。エリヤがエニシダの木の下で横になっていると、ひとりの御使いが彼にさわってくださったのです。神様は御使いを通してエリヤを励まし、力づけてくださいました。同様に神様はイエス様を通して私たちに出会ってくださいます。暖かい御手を伸ばしてさわってくださいます。私たちを理解し、愛してくださいます。励まし、祝福し、夢を与えてくださいます。天から降りてこられたイエス様は私たちに圧迫して教えるのではなく、丁寧に、謙遜に教えてくださいました。イエス様はサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」と言われました。彼女に頼まれたのです。すると、女の人はびっくりしました。彼女は自分のようにいやしい者にユダヤ人の男性が話しかけてくれるとは全く考えていなかったようです。そこで、彼女は言いました。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」彼女は今まで一度もユダヤ人から頼まれたことがなかったようです。ひとりの人間として扱われなかったのです。実際に彼女は人々から捨てられている女でした。正統なユダヤ人から見ると、本当に汚れている女でした。人々はこのような女性を無視し、遠ざけます。しかし、イエス様はそのように無視されているからこそ、もっと哀れむ心を持って助けようとされました。また、もっと丁寧に話しかけられました。弱い人、除け者にされている人に対するイエス様の態度に感動します。本当にイエス様は私のような人にもいつも丁寧に接してくださいます。また、私のレベルに合わせてくださいます。
イエス様は、井戸に水を汲みに来た人に「飲む水をください。」といって物質的なレベルから話を始められました。それを通して心の門をたたいておられます。イエス様は彼女のレベルに合わせて話し、助けておられます。ニコデモにはニコデモにふさわしく、助け、サマリヤの女にふさわしく助けておられます。相手のニーズをよく把握し、それとかかわることから始めておられます。でもイエス様が本論として話されたことは何でしょうか。

?。永遠のいのちへの水(10-18)
 10節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」」とあります。イエス様はニコデモに話される時は、直接に「新しく生まれなければならない」と言われました。でもこの女性には「新生」のことを「神の賜物」として分かりやすく話しておられます。「新生」、「救い」、「予定説」、「摂理」などのことばは、ある程度の知識を持っている人が分かりますが、「神の賜物」つまり「神のプレゼント」というようなことばはだれでも分かるようなことばです。また、イエス様はご自身に対しても分かりやすく説明しておられます。ご自分に対しても「救い主」とか「メシヤ」であることを強調しませんでした。「あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら」と丁寧に説明しておられます。イエス様がどんなに彼女の立場を理解し、配慮しているかが分かります。救われる方法についても親切に教えておられます。「あなたに水を飲ませてくれという者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。」と言われました。救われる秘密は自分のほうから求めることから始まります。イエス様について目が開かれて求める時、救いのみわざが始まります。そして求める人に生ける水が与えられます。救いがあるのです。「生ける水」とは井戸の水と違います。この女性が考えたのは井戸の水です。でも、イエス様が言われた水は「生ける水」です。イエス様はご自分が永遠に渇くことない生けず水を与えるとおっしゃいました。「生ける水」と言う言葉を聞くと、彼女の霊的な目が開かれたようです。彼女は今までの偏見を捨てていける水に関心を示します。
 11,12節をご覧ください。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」彼女は「生ける水」に関心がありました。でも、彼女は「生ける水」が、この世にあり得るかかと思いました。それで、彼女は、「この井戸は深いのです。どこから手に入れるのですか。」と言っています。ヤコブは、サマリヤ人にとっても偉大な人物でした。このヤコブよりも偉いのですか、と聞いています。彼女はまだ、イエス様に対して、批判的です。彼女は本能的に自分たちの先祖が飲んだし、自分と自分の子孫も飲むこの井戸よりももっと良い井戸があるのかと言っているのです。しかし、イエス様はなんと言われましたか。
13節をご覧ください。「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」とあります。ヤコブの井戸の水は飲んでもまた渇きます。この水を飲む者はだれでも、また渇きます。先祖が与えられた井戸は瞬間的な渇きを解決してくれますが、また渇くのです。しかし、イエス様が与える水はどうですか。
 14節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」イエス様はサマリヤの女性に分かりやすいメッセージを伝えておられます。この水は先祖が飲んだ水とは違います。先祖たちから飲んでいる水はミネラルウォータでもまた渇きます。しかし、イエス様が与える水を一度飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。ここで、大切な真理を発見することができます。生ける水はイエス様が与える水なのです。ヤコブの井戸は人が掘り出したものであり、人が汲んで飲むものです。その水を飲むとまた渇きます。しかし、イエス様が与える水は、永遠に湧き出る水であって永遠に渇くことがない水なのです。ヨハネの福音書7章37、38節を見ると、祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は立って、大声で言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」イエス様は水です。生ける水です。イエス様を信じるとはイエス様を飲むことです。また、イエス様はパンです。ヨハネ6:35を見ると、イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」そうです。イエス様はいのちのパンなのです。ですから、イエス様を信じるということはイエス様を飲むことであり、食べることと同じです。多くの人々はイエス様を理解しようとするからよく分かりません。イエス様は私たちが理解する対象ではありません。信じる対象であり、イエス様を信じるということは食べること、飲むことなのです。イエス様が私のうちにはいって来られ、血と肉となってくださること、つまり、キリストが自分と一緒になっていることを認識して生きることが信仰です。信仰生活をしてもいてもいつも渇きを感じていることは自分の方から井戸を作って、自分の力で水を汲んで飲もうとしているからです。聖書を読んでも自分の方から知識を満たそうとするからです。しかし、イエス様は知識の対象ではありません。信仰とはイエス様が血と肉となっていることを経験することです。永遠のいのちへの水を飲むこと、信仰することとは客観的な真理ではなく主観的に経験することなのです。ヨハネの黙示録21:6節に「・・・わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる」と記されています。第一にいのちの水はイエス様が与える水ですが、第二に価なしに与えられる水です。だれでも、ただでいただける水、制限なく、与えられる水です。そして第三にこの水を飲む者はどんなときにも、決して渇くことがありません。この水は永遠のいのちへの水であって私たちを永遠のいのちの世界に導きいれてくれます。
 15節をご覧ください。「女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」この女性のイエス様に対する態度が変わっています。もう、軽蔑的で批判的な態度ではありません。今は積極的に求めています。自分も恵みを受けたい、救われたいと思うようになったのです。イエス様が与える水を飲んで渇くことがなく、生ける水で潤される人生を生きることを望んだのです。ところが、イエス様は彼女に驚くべきことを言われました。
16節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」イエス様はこの女性を次の段階に導いて行かれました。イエス様は彼女が全く考えもしなかった厳しい質問をされたのです。なぜ、そうされたでしょうか。この女性を縛り付けている過去の問題が解決されなければならなかったからです。過去の問題が解決されないまま明るい未来を迎えることは無理です。また、また、どんな病でも根本的な治療がなければ、また同じ病が繰り返されます。彼女は病の根源を隠して外科治療だけを受けようとしました。
私は高校3年の時、栄養失調による肝炎を患ったことがあります。当時、私は自炊生活をしていましたが、痩せ続けていく私を心配して田舎から母が来てご飯を炊いてくれました。薬も買ってくれました。すると、ちょっと良くなりました。それで大学の受験をし、入学しました。しかし、根本的な治療がなかったためにまた、肝炎の症状が表れて一日中、疲れている生活をしていました。体全体から力を無くし、生きる意欲さえ失ってしまいました。しかし、イエス様を信じて心の中を満たしていた不平不満、つぶやき、情欲の罪を悔い改め、救われると根本的な治療ができました。キリストによって癒されて元気になりました。救いは人を根本的に癒すことです。イエス様はこの女性の過去を癒すことを願われました。そのために「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言われました。彼女はびっくりしました。
17、18節をご覧ください。「女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。 」イエス様は、このことばを持って彼女のかぶっていた仮面をはずされました。信仰はここから始まります。私たちが過去を告白して清算し、悔い改める時、生ける水を飲むことができるのです。そこに救いがあります。おそらくイエス様が最初から「夫を呼んで来なさい」と言われたなら、彼女は逃げてしまったでしょう。しかし、今は逃げることができませんでした。イエス様に捕まえられています。彼女は、自分の内側で起こっていることをみな見通しておられることを知りました。そして、イエス様が話されていた「生ける水」の意味も理解したでしょう。それは、私の心を生き返らせてくれる水なのだ、ということです。彼女は、神への渇きを、男性との関係で満たそうとしていました。この人とさえいれば幸せになれると思って結婚しました。でも、井戸の水を飲むようにまた渇いてしまいました。五回も結婚しましたが、すべてを誤解していたことが分かりました。夫を通しては決して満たされることができませんでした。彼女はそのことに気づいたのかもしれません。ですから、彼女はイエス様から傷だらけの夫の問題を言われても逃げることなく、イエス様の御言葉に耳を傾けました。多くの人はイエス様の御言葉によって恥ずかしい自分の過去が現れると逃げます。自分の罪を告白して悔い改めるより逃げ回ります。すると、内面の根本的な治療を受けることができません。生ける水を飲むこともできません。過去の痛みが癒され、永遠に渇くことのない生ける水を飲んで救いの祝福をいただけるためには逃げることなくイエス様との関係を保つことです。サマリヤの女の人は逃げることなく、イエス様に礼拝について質問して行きます。

?。真の礼拝(19-30)
サマリヤの女性はイエス様に出会ったとき、サマリヤ人も、女性も馬鹿にするユダヤ人の男として誤解しました。しかし、イエス様との1:1を通してイエス様について少しずつ目が開かれてきました。恵みを受けてきました。すると、イエス様は決定的な瞬間に夫の問題にメスを入れました。彼女を根本的に治療して癒し、生けず水を飲ませるためでした。彼女が恥ずかしい過去、隠しておきたい過去を告白し、悔い改めることによってもっと霊的な目が開かれるようになるからです。実際に、彼女がイエス様を最初に見た時はユダヤ人の男として見ましたが、次はヤコブよりも偉い人ではないかと思うようになり、今はヤコブのような人ではなく、預言者だと思うようになりました。
 19,20節をご覧ください。「女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」とあります。彼女の心に礼拝したい心がありました。そこで、イエス様は彼女に礼拝について教えてくださいました。
21-24節を読んでみましょう。「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
イエス様は礼拝について混乱している彼女に「礼拝は場所が大切なことではない、山で礼拝しても、エルサレムで礼拝してもかまいません。それは核心ではない」と教えておられます。このみ言葉をよく考えてみると、礼拝において雰囲気とか、形式とかは大切なことではないことがわかります。それらは礼拝の過程に過ぎないものであって本質ではありません。
真の礼拝は「だれに礼拝するか」ということです。「天幕でも、宮殿でも主なるイエス様を迎え入れている所なら神の国です。」場所、雰囲気、制度、形式などが礼拝の本質になりません。真の礼拝は神様に礼拝することです。神様に礼拝をささげるのです。ところが、私たちは礼拝するのではなく、受けようとします。多く受ければ良くて、あまり受けるものがなければ嫌がります。賛美やメッセージを通して恵みを受けなければご飯でもおいしく食べたいと思います。でも礼拝において大切なことは「神様に何をささげるか」ということです。それで、礼拝の時に献金をささげます。お金は大切なものです。大切なものだからお金があるところに心もあります。その大切なものを神様にささげることは本当に貴いことです。また、時間をささげます。ですから、神様に礼拝することを大切に思っている方は土曜日の夜から準備します。シャワーをして体をきれいにすることだけではなく、服装も平日よりもっときれいなものにします。人から言われたからではなく、義務的にすることでもありません。神様を愛するから、もっと心から礼拝したいからそうするのです。
でも、いくら、よく準備しても礼拝の対象が間違っていると真の礼拝ではありません。神社に行く人も、お寺に行く人も、そういうところに行く時は心も服装も整えて行きます。真の神様に礼拝することが大切なのです。この問題に対してイエス様は短いですが正確な答えを教えてくださいました。「救いはユダヤ人から出るのですから」と言われました。真に礼拝すべき方は異邦人から出るのではありません。ユダヤ人から出るのです。聖書はそのように教えています。「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの子孫」(マタイ1;1)。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」(使徒4:12)アブラハムの子孫、ダビデの子孫として約束されたイエス様だけが真の礼拝の対象なのです。また、重要なことは霊とまことによって礼拝することです。霊によってささげる礼拝は聖霊によってささげる礼拝です。肉体や理性によってささげる礼拝ではありません。真の礼拝は私たちの霊によってささげるのです。聖霊の助けによって賛美し、神様を考えます。霊によって祈り、霊によって礼拝する時、 本当に霊的世界が開かれます。まことによって礼拝することは真理の御言葉によってささげる礼拝です。御言葉に満ちている礼拝、御言葉に基づいた礼拝、御言葉によって恵まれる礼拝です。私たちがこのように礼拝する時、神様の驚くべき恵みと力が臨まれます。渇いている心が潤されます。聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。
礼拝について教えられた女の人にイエス様に言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」意外に彼女はメシヤに関する知識を持っていました。この女性は、外見の姿とは異なり霊的な理解が深い人です。メシヤを、いっさいのことを知らせてくださる方として捉えています。私たちは、とかく学者の言うこと、知識のある人の言うことに同調してしまいます。しかし、神の知識はときに子どもたち、八百屋のおじさん、あるいはサマリヤの女のように風俗で働いている人などにも示されるのです。神様の道は私たちの道と異なり、神様の思いは、私たちの思いをはるかに越えています。
そこでイエス様は言われました。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」イエスははっきりと、ご自分がキリストであることを告げておられます。これは非常に稀なケースです。イエスは、ユダヤ人に、「あなたがキリストであるかどうか、はっきりとおっしゃってください。」と言われた時も、直接的にお答えにはなりませんでした。けれども、イエスは、ご自分をご自分として、つまり神の子キリストとして受け入れる用意のできている人にははっきりと告げられます。
27-30節をご覧ください。このとき、弟子たちが帰って来て、イエス様が女の人と話しておられるのを不思議に思いました。しかし、だれも、「何を求めておられるのですか。」とも、「なぜ彼女と話しておられるのですか。」とも言いませんでした。ふたりの関係が女と男の関係ではなく、キリストと礼拝者の関係であり、もはやそこは聖なる所、敬虔な所になっていたからです。キリストに出会った女の人は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言いました。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」本当に素晴らしい光景です。彼女は夫の問題で悩まされていた暗闇の世界から驚くべき光の世界に移されています。彼女の顔は光り輝いていたでしょう。祈る女性、伝道する女性の姿は美しいものです。本当にキリストの恵みを証する女性の顔には輝きがあり、言葉には力があります。町の人々は、彼女のあかしを聞いて町を出て、イエス様のほうへやって来ました。ニコデモはイエス様のお話を聞いても素直に受け入れなかったとき、暗い顔つきをして寂しく自分の家に変えるしかありませんでしたが、この女性はイエス・キリストに出会って暗闇の世界から驚くべき光の世界で生きるようになったのです。
本当に、素晴らしい人生は私たちに会って仕えるために天から降りて来られたイエス・キリストに出会った人生です。私たちが日々永遠のいのちへ水を飲み、霊とまことによって真に神様に礼拝する人、キリストを証する人として生きるように祈ります。