2005年マルコの福音書第1講    
                             
イエス・キリストの福音ははじまりました

御言葉:マルコの福音書1:1?20
要 節:マルコの福音書1:1「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」

日本の春は、イエス様の十字架の死と復活をよく示しているような気がします。春は終わりの季節であり、始まりの季節であるからです。春にいろいろな事が終わりを告げす。そして新しい事が始まります。成長のための次のステップへ向かって行きます。本当に、日本の文化は、最高のタイミングで終わりと始まりを用意しているとつくづく思います。その象徴が「桜」といえるでしょう。華々しく咲く桜は始まりを祝福しています。新入生の学生だけではなく、新入社員の始まり、学校や職場で新年度を迎えるすべての人々の始まりを祝福しているのです。先週、私たちはイエス様が死者の中からよみがえられたことを学びましたが、そこにも、キリストの死によるこの世の終わりがあり、復活による新しい始まりがあります。キリストの復活によって人類の歴史はBC時代が終わり、A.D(Anno Domini:主の年)が始まりました。
神様はこの最高のタイミングに新たなマルコの福音書の始まりを用意してくださいました。しかも、福音の始まりを学ぶようにしてくださいました。不思議な神様の導きをつくづくと思います。どうか、神様の導きの中で私たち一人ひとり悔い改めによる新たな始まりがありますように祈ります。
マルコの福音書の著者マルコは、エルサレムに住んでいたマリヤの息子でした(使徒12:12)。聖書には多くのマリヤがいますが、イエス様の母マリヤ、マグダラのマリヤ、そしてヤコブとヨセの母などとは違うマリヤです。このマリヤは金持ちでありながら心の広い女性であり、キリストのためなら心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして仕えていました。それで、マリヤの家は、ごく早い時期にエルサレム教会の本部になっていたようです。ペテロが奇跡的に救出されたとき、まずマリヤの家に行ったからです。従ってマルコは献身的な母の信仰的な影響を受けることだけではなく、イエス・キリストの目撃証人たちの接触によって彼らの生きた信仰の影響を受けたはずです。また、マルコはバルナバのいとこ(コロサイ4:10)であり、伝承によるとペテロの通訳者でした。でも、彼の初期の信仰生活は弱かったようです。彼はイエス様が逮捕されそうになった時、自分も捕らえられそうになると、亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた青年です(マルコ14:51,52)。また、パウロの第一に伝道旅行に同行しましたが、途中で逃げ帰ってしまいました(使徒13:13)。しかし、彼はバルナバの優しい愛の指導、パウロの厳しい訓練、そしてペテロの強い影響力を用いられる神様の導きによって立派な信仰の人になりました。一番最初にイエス様のご生涯を書き記した福音書の著者として用いられるほどに偉大な神様のしもべになりました。また彼は偉大な宣教師でした。彼の名前はユダヤ人として「ヨハネ」でしたが、当時ローマの世界で通用されているギリシャ語の名前であるマルコとして知られています。それほどにローマ宣教、世界宣教を考えていたのです。そして、異邦人であるローマの人々がよく分かるように、彼らのために、この福音書を書き記しました。この福音書では、しもべとしてのキリストが前面に出て来ています。マルコの福音書10章45節をお開きください。この福音書の要節です。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 イエス様は、人々に仕える姿を取られました。そして、贖いの代価、つまり人々の代わりに犠牲になる道を歩まれました。したがって、マルコの福音書で私たちに仕えてくださるイエス様を見出すことができます。あわれみをもって、私たちの必要に答えくださるイエスを発見するのです。
 今日の学ぶ1章でのテーマは、「神の子イエス・キリストの福音の始まり」です。福音とは何なのでしょうか。どのようにして始まったでしょうか。どうか、福音の始まりとともに私たちの内側にも新しい始まりがありますように祈ります。

?.ヨハネによる福音の始まりの準備(1?8)
 1節をご一緒に読んでみましょう。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ。」「福音(ユアンゲリオン)」ということば、「良い知らせ」また「喜ばしいおとずれ」を意味しています。著者マルコは神の子イエス・キリストによって真に素晴らしいGood Newsが始まったことを宣言しています。
旧約聖書の最初の書、「創世記」の一章一節に「初めに、神が天と地を創造した」とあります。聖書は神様によって世界の、そして歴史の始まりがあったことをはっきりしているのです。二節に「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」とあります。つまり暗黒というか、からっぽ、虚無とでも言うでしょうか、そこから時間の流れが始まるようになったのです。その時、神様が「光があれ」と仰せられると光がありました。このようにして光り輝く宇宙、素晴らしいこの世界の歴史が始まりました。そして、神様はこの世界の主人公として人を造られ、「アダム」と名づけてくださいました。アダムはそこで自由に神様と交わり、永遠に幸せな人生を生きることができました。ところが、アダムは不従順によって神様の御前に罪を犯してしまいました。その結果、アダムとその子孫は罰せられて生きている間はこの世で汗をかきながら苦しみ、死後には神様にさばかれる存在になってしまいました。アダムにあってすべての人が死んでいるものになりました。人間社会はますます堕落し、暗く悲しいニュースばかり多い世界になってしまいました。この世界の環境は神様が創造されたものですが、その中に住んでいる人間の内面には神様が光を創造する前の暗黒、暗やみに支配されるようになってしまったのです。哀れみ深い神様はこんな人間を哀れんでくださいました。ご自分のひとり子イエス・キリストによって新しい歴史を始められたのです。イエス・キリストはすべての人々に仕えるしもべとしてアダムにあって死んでいるすべての人々イエス・キリストによって生かされるいのちのみわざを始められました。これが「Good News」「素晴らしい知らせ」、「喜ばしいおとずれ」、「福音の初め」です。そこで、マルコは「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」を宣言しています。では、この福音はどのようにして始まりましたか。一章の御言葉には、福音の準備、福音の伝達者、福音の約束、そして福音を受け入れて新しい人生を始めた最初の弟子たちについて学ぶことができます。
2?4節をご覧ください。「預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。」とあります。ここで、福音は人が作り出すことではないことを明らかにしています。もし人が福音を作り出したら、それは堕落した人間の考えや文化の一部でしかないでしょう。しかし、神の子イエス・キリストの福音は、それを備える者から預言されていました。福音はイエス・キリストによって本格的に始まりますが、その備えをするバプテスマのヨハネの活動から預言されているのです。そして、ヨハネは預言者イザヤによって預言されたとおりに、荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。悔い改めとは、向きを変えることです。ヨハネが悔い改めのメッセージを説いたとき、どんなみわざが起こりましたか。5節をご覧ください。「そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」とあります。悔い改めの説教を聞いて、大勢の人が来て、罪を告白しています。そして、この動きは全国親模になっています。ヨハネの力あるメッセージによって驚くべき悔い改めのみわざが起こりました。では、どうしてヨハネの説教にはそれほどの力があったのでしょうか。
6?8節を読んでみましょう。「ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」 ここで、私たちはヨハネから力ある神様のしもべになる秘訣を学ぶことができます。神様のしもべは言葉や口先によって力あるしもべになるのではありません。行いが伴わない人の言葉はやかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。しかし、真実と行いによって愛を実践している人、謙虚な人の言葉には重みがあり、権威があります。バプテスマのヨハネは悔い改めのメッセージを伝えることだけではなく、悔い改めにふさわしい生活をしていました。彼は実に質素な生活、シンプルな生活をしていました。多くの人々は食べ物や見せるものに力を入れていますが、彼は荒野では簡単に手に入れることができるラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締めました。食べ物も今は自然食品として高いものになっていますが、当時荒野ではどこでも簡単に食べられたイナゴと野蜜を食べていました。このような生活だけではありません。彼は謙虚な心を持っていました。自分のメッセージを聞くために全国から人々が集まってくる時、ヨハネの人気が絶頂に達しているその時にも、高ぶることなく、謙遜にイエス様を紹介しています。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」本当に素晴らしい証です。彼はイエス様が自分よりもさらに力のある方であると証ししました。自分はかがんでイエス様のくつのひもを解く値打ちもないと言いました。靴のひもを解くのは奴隷の仕事でした。ですから、ヨハネはイエス様と比べると自分は奴隷の役割にもふさわしくない、と言っているのです。また、彼はイエス様と自分の身分が違うだけではなく、その働きも違うことを言いました。自分は悔い改めた人に水のバプテスマを授けますが、イエス様は聖霊のバプテスマをお授けになる方であると証ししたのです。
聖霊のバプテスマは根本的に罪を赦すものです。聖霊は人の生命、人自身と心を清めることができます。どんなにひとい罪も赦してくださいます。また、聖霊のバプテスマは、私達を新しく生まれさせます。このようにバプテスマのヨハネは悔い改めのバプテスマを授けることによって、イエス様の道を用意しました。

?.福音の始まり(9?20)
9節をご覧ください。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。」とあります。イエス様は罪のない方ですから罪を悔い改めた人に授けるバプテスマを受ける必要がありません。しかし、イエス様はヨハネからバプテスマを受けるためにナザレからヨルダン川まで来られました。なぜそのようになさったのでしょうか。マタイ3:15を見るとイエス様は、バプテスマを授けることを遠慮するヨハネに「このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」と言われました。これは神様の御旨に従うことを意味します。イエス様は十字架の死をバプテスマにたとえられました。イエス様はヨハネからバプテスマを受けることによって、神様の御心である苦難と十字架のメシヤの道を行くことを決心されました。イエス様が水から上がられた時、どんな驚くべきことが起こりましたか。
10,11節をご覧下さい。「そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」とあります。御父は、イエス様を「わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と呼ばれています。神様はイエス様を神様の御子として認めてくださいました。神様は御心に従って十字架の道を歩もうとされたイエス様を喜ばれました。イエス様は神様によって御子として認められ、祝福されて公生涯を始められたのです。
先週、早稲田大学の入学式がある日にキャンパスに行ってみると、総長によって早稲田大学の学生として認められ、教職員と先輩や家族などの祝福を受けて新しいスタートをしていました。そして、彼らは数々のサークル勧誘によって誘惑されていました。これからも彼らはサークル勧誘だけではなく、長い人生の中で多くの誘惑を受けるでしょう。それらの誘惑をどのようにして乗り越えて行くことができるでしょうか。イエス様から学んでみましょう。
12、13節をご覧ください。「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」マタイの福音書を見ると、この時、イエス様は40日間断食されたので、体は極度に疲れている状態でした。このような状態でイエス様はサタンの誘惑を受けられました。なぜイエス様は福音の御業を始める前にこのような誘惑を受けられたのでしょうか。それはイエス様がサタンに支配されている人々を救うためにこの世に来られたからです。アダムはサタンの誘惑に負けてその奴隷になりました。サタンの奴隷となった人々は心ならず罪を犯します。誰もこのサタンから救うことができませでした。イエス様は人々をサタンから救うために来られたので、サタンとの戦いは避けられないことでした。また、人間を救うためにアダムの失敗を挽回しなければなりませんでした。それでイエス様はサタンの誘惑を受けられました。マタイの福音書を見ると、イエス様は記された御言葉によってサタンの誘惑を打ち破られました。御言葉こそさまざまな誘惑に打ち勝つ力です。
 私たちは何かを始めようとするとき、心から決断しますが、サタンの誘惑から逃れることはできません。神様の栄光のために、何か新しく決断して始めようとすると、サタンはそれを妬んでどうしても妨害しようとするからです。サタンは信仰によって生きようとする人に将来に対する恐れを植え付けます。信仰によって新しく伝道し、弟子養成に励もうとすると、今までの失敗を思い起こさせたり、困難なことにぶつからせたりして心を弱くさせます。しかし確かなことは、私たちがサタンの誘惑に打ち勝たれたイエス様に頼り、神様の御言葉に頼る時、どんな誘惑にも打ち勝つことができるということです。そして、そのような誘惑に打ち勝った時、私たちはより強くなり、りっぱな信仰の人として圧倒的な勝利者の人生を生きるようになります。
 イエス様がサタンの誘惑に打ち破り、本格的に福音の御業を始めようとされましたが、サタンは、また衝撃的な事件が起こしました。14a節をご覧下さい。主の道を備えてくれたヨハネが捕らえられたのです。ヘロデ王はヨハネを捕らえ、牢に入れました。なぜ彼はヨハネを捕らえ、牢に入れましたか。マルコ6:17,18節を見ると、ヘロデは、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤを自分の妻としました。誰もこのような彼の罪を指摘できませんでした。しかし、ヨハネはヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と彼の罪を指摘したのです。それでヘロデ王はヨハネを捕らえ、牢に入れました。これを見ると、その時代がどれほど腐敗した闇の時代であったかがわかります。指導者ヘロデ王は残酷で淫乱な人でした。そのような指導者に支配されている民は苦しむしかありませんでした。彼らには何よりも政治的な自由が必要に思われます。
 しかし、その時、イエス様は、どこで何をしておられましたか。14b、15節をご覧下さい。「イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』」イエス様は血肉の戦いではなく、霊的な戦いをされました。暗闇の時代を福音によって照らそうとされました。福音を宣べ伝えることによって時代の問題を克服し、人々に神の国を与えようとされたのです。そこで、イエス様は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。「時が満ち」とは、神様が創世記から準備しておられた人類の救いの時が満ちたという意味です。神の国は神様が治める国です。貧しい人々にとって一番必要なのは、パンではないかと思われます。また植民地のイスラエルの民にとってローマからの独立こそ急がなければならない問題ではないかと思います。しかし、彼らに一番必要なのは神の国です。ローマ14:17節をみると、「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」イエス様は私たちに義と平和と喜びの国、神の国を与えるために来られたのです。では誰がこの神の国を所有することができますか。
イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われます。悔い改めて福音を信じる人が神の国を所有することができます。他の方法によっては神の国を所有することができません。平和と喜びの人生を始めようとするなら、悔い改めがなければならないのです。神の国の民として、祝福と恵み、平安と喜びを享受する人生を始めるためには必ず悔い改めることが要求されるのです。何ごとでも始めることは大切なことですが、本気で悔い改めることがなければ、本当の始まりもできないでしょう。本気で悔い改める時、新しい人生が始まります。教会が悔い改める時、新しいみわざが始まります。平和と喜びの教会に変えられて行くのです。国をあげて悔い改めると、新しい歴史が始まります。ローマカトリックの法王が天に召されましたが、彼は始めてのポーランド出身の法王でした。そして、彼が祖国ポーランドに訪れ、悔い改めの福音を伝えた時、ポーランドの歴史が変わりました。共産主義が崩れ、そこから始まって旧ソ連を初め、東側の国々の共産主義が崩れて行きました。悔い改めの福音には世界を変える力があるのです。
もし、皆さんの中には何もかもうまくいかないと思っている方がいないでしょうか。マンネリ化している生活の中であまり感動もなく、喜びもない生活、熱くも冷たくもない生ぬるい生活が続いている、春になって眠くなるばかりだと思っている方はいないでしょうか。もし、そういう気持ちが続いているなら、いつ本気で涙を持って悔い改めたのかを思い出してみてください。本当の意味で悔い改めがなければ、新しい始まりも、心の平安も喜びもないでしょう。本気で悔い改める人に神の国の祝福が与えられ、新しい歴史が始まるからです。悔い改めと福音を信じることは同時に起こります。悔い改めて福音を信じる時に罪の赦しの恵みを受けます。死の世界からいのちの世界に移されます。これは自由に選択してもいいようなことではありません。必ず悔い改めて信じなければならないことです。神の国を所有するために大金を払う必要も、苦行する必要もありません。悔い改めて福音を信じる時に神の国を所有し、真に幸せな、新しい人生を始めるようになるのです。
イエス様は悔い改めて福音を信じるようにメッセージを伝えることだけではなく、弟子養成のみわざも並行してなさいました。イエス様は弟子をつくるためにガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になりました。彼らは漁師でした。イエス様は彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」イエス様は「わたしについて来なさい」と召されましたが、その召されとともに「人間をとる漁師にしてあげよう」という十分な約束を付けして召しておられます。それに対する彼らの反応はどうでしたか。18?20節をご一緒に読んでみましょう。「すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。」素晴らしい光景です。イエス様に召された者たちは、何の疑いもなく応じました。シモンとアンデレは、すぐに網を捨てて従いました。ヤコブとヨハネは、父と雇い人たちを残して従いました。最初に弟子となった、これらの四人は、バプテスマのヨハネの活動を通して、イエス・キリストをすでに知っていたでしょう。少なくともシモンとアンデレは、バプテスマのヨハネの紹介で主イエスを知ったのです(ヨハネ1:40、41)。いずれにしても彼らは、イエス様のお言葉に対して、即座に何の妥協もなしに従いました。それによって彼らは2000年間続いて来たし、これからも続いてキリストに従う弟子たちに本当に素晴らしい模範を残してくれました。福音を信じて悔い改めた人は、このように生活の中で現われます。生活の方向、人生の方向が変わっていくのです。

 以上で、福音はまず、宣教あるいは宣言という形で現われたことが分かります。ヨハネが悔い改めを宣べ伝えたように、イエス様も悔い改めを宣べ伝えました。さらに、福音を信じなさいと言われています。福音を信じることと悔い改めることが、いっしょになっています。実は、この2つは、切っても切り離せない関係にあるのです。私たちはとかく、「信じているけれども、みことばを行なうことはできない。」と言います。しかし、本当は、みことばを信じていないのです。本当に信じているのなら、それを自ずと行なっているはずです。ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネはイエス様の御言葉を聞いて行ないました。彼は向きを変えて新しい人生を始めたのです。本当にイエス・キリストを信じる者には、このような悔い改めが伴うのです。この福音書の著者マルコはそのことをよく経験したことでしょう。彼は裕福な家庭で生まれ育ち、弱い者でしたが、悔い改めて福音を信じ、イエス・キリストの福音を宣べ伝える人生に変わりました。悔い改める生活を通して神様の立派なしもべとして成長しました。新学年度、新年度を始める私たちに悔い改めがありますように祈ります。神の子イエス・キリストの福音が始まった時、全国的に起こった悔い改めのみわざが、私から始め、東京UBF,この日本に起こるように祈ります。それによって真に神の国の平和と喜びを所有し、圧倒的な勝利者の人生を生