2005年マルコの福音書第10講

  あなたがたであの人たちに何か食べる物を上げなさい

御言葉:マルコの福音書6:30?44
要 節:マルコの福音書6:37すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさ   
い。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」

先週、私たちはイエス様がご自分の郷里では歓迎されませんでしたが、十二弟子を遣わして伝道活動を続けられたことを学びました。今日の御言葉はあの弟子たちが伝道旅行から帰ってきて報告した時、彼らにしばらくの休みを与えられたこと、また、彼らに牧者の心、使命感を持たせ、彼らを通して五千人を食べさせられた出来事です。この出来事を通して私たちはしばらく休むこと、牧者の心、使命感について学ぶことができます。今日の御言葉を通して私たちも牧者の心、使命感に燃えてこの時代の若者たちに食べる物を上げる霊的な指導者として成長することができるように祈ります。

?.あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい(30-34)
 30節をご覧ください。「さて、使徒達は、イエスのもとに集まって来て、自分達のしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」とあります。先週、学んだように、6:7節を見ると、イエス様は十二弟子を呼び、二人ずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになりました。イエス様は十二弟子を遣わされたのです。ところが、先ほど読んだ30節では使徒と呼ばれています。なぜ、使徒と呼ばれるようになったでしょうか。使徒とは「遣わされた者」の意味だからです。彼らはイエス様から遣わされて使徒の働きをしました。今回は弟子訓練として使徒の働きをしましたが、やがてイエス様は死者の中からよみがえられて彼らに聖霊を与えてくださいます。すると、彼らは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで遣わされて使徒の働きをします。その内容が新約聖書の使徒の働きです。その使徒の働きは今日まで続いています。でも、十二弟子が訓練として伝道旅行に行った時も素晴らしい福音のみわざがありました。12,13節を見ると、十二人は出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大勢の病人に油を塗って癒しました。彼らがキリスト教の人口が1%もない所、全くキリスト教を知らない人の所に出て行くときは恐れもあったでしょう。だれが自分たちの話を聞いてくれるだろうという不安もあったことでしょう。実際に、イエス様のことを知らない人々、霊的なことには全く無関心な人々に伝道する事はやさしくなかったと思われます。一生懸命に伝えても聞こうとしない人々のためにどれだけ苦労したことでしょうか。高慢な人々の前では足の裏のちりを払い落としたこともありました。何も持たずに出かけた彼らは自分の生活のために苦しんだ時もありました。しかし、そのような試練の中でも、彼らは福音の力を体験しました。あきらめないで伝道し、御言葉を教え続けた時、人々は悔い改めてイエス様を信じるようになりました。恐れないでただ、信仰によって福音を伝え続けると、驚くべき御業が起こりました。病弱な人々を苦しめている悪霊どもが出て行きました。また、大勢の病人に油を塗って祈ると、癒されるみわざがありました。それで、彼らは伝道旅行から帰って来ては、自分達のしたこと、教えたことを残らずイエス様に報告しました。ペテロは言いました。「イエス様!ヨハネと一緒に伝道することはいいですね。本当に多くの人々に御言葉を伝えました。悪霊を追い出し、病人を癒すこともしました。」トマスチームも言いました。「先生、僕は本当に疑い深い者です。でもアンデレと一緒に遣わされて良かったです。信仰の人、アンデレのおかげで、信仰の体験ができました。やはり、二人ずつ遣わされて良かったんです。信仰によってやれば何でもできますね。僕たちが信仰によって福音を伝えると、人々は悔い改めの涙を流しましたよ。」イエス様は、使徒たちの報告を聞きながら感動し、恵みを受けておられたでしょう。思った以上に実績を上げてきた使徒たちの伝道報告は長くなりました。特に、30節を見ると、使徒たちは「自分達のしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。」とあります。「残らず」という言葉は何を意味するでしょうか。「まじめに、几帳面にやった」ということでしょう。それはいいことです。でも、「残らずにやる」ということはゆとりがないということです。余裕がなくて「ストレス」をたまらせるようなことです。もし、私が一週間だけのことでも「自分のしたこと、教えたことを残らず皆さんに報告する」なら、皆さんはどうなるでしょうか。ストレスを受けるのではないでしょうか。そこで、イエス様は彼らに何を提案されましたか。
31節をご一緒に読んで見ましょう。「そこでイエスは彼らに『さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。』と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである」(31a)。イエス様は自分たちのしたことを残らずイエス様に報告するために息を止めない弟子たちに「休み」を命じられました。「寂しい所へ行って、しばらく休みなさい」と言われたのです。「しばらく休みなさい」いい言葉ですね。その理由は何ですか。彼らがゆっくり食事する時間さえなかったからです。イエス様は伝道のために一生懸命に働いてきた弟子たちが報告のためにも食べる時間さえないほどに自分の仕事に夢中になっていることをご覧になりました。このまま続くと、倒れる人も現れてくるでしょう。人間は食べ物も、休みも必要なからだを持っているからです。そこで、イエス様は弟子たちに休みを提案なさったのです。ずっと休むのではなく、しばらく休むことです。イエス様は今の時間、弟子たちが食べなければならない、休まなければならないと思われました。
私たち人間には、しばらく休むべき時間が必要です。新しい力、新しいエネルギーを回復するためにしばらく休むことです。休みはしばらく休むことです。しかも寂しい所で休むことが効果的です。しばらく休むことによってもっと能率的な働きができます。こういう話があります。ある森の中で二人の労働者が朝から晩まで木を切って倒す仕事をやっていました。同じ道具である斧を盛って同じ時間に始めました。一人はお昼のとき20分位休む時間以外は一生懸命に斧で木を倒していました。ところが、もう一人はしばらく休む時間が四回もありました。ところが、仕事が終わってみると四回も休みながら働いた人がもっと多くの木を倒していました。それで、昼食の時間以外には休まずに働いた人が驚きながら言いました。「あなたは私より何倍も休んだのに、どうやってこんなに良い結果を得ることができたでしょうか。」すると、休みながら働いた人がゆっくり答えました。「あなたが良く見ていたなら、分かるはずですが、私は休みながら斧を磨いていたよ。そして、私はしばらく休んでからもっと力強く働くことができたので、あなたよりもっと多くの結果を出すことができたのです。」しばらく休むことは浪費ではなかったのです。もっと能率的な働きのために、もっと良い実を結ぶためにしばらく休むことは必要なのです。
32,33節をご覧ください。「そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。」とあります。弟子たちは、舟に乗って寂しい所へ行きました。彼らはイエス様が命じられたとおりにしばらく休むために舟の乗って行ったのです。ところが、多くの人々が、彼らよりも先に着いて彼らを待っていました。結局、弟子たちはどうなりましたか。
34節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。」イエス様は舟から上がられると、羊飼いのいない羊のような群衆を深くあわれみ、彼らを教え始められました。結局弟子たちの休みは終わってしまいました。弟子たちの休みはカペナウムからベッサイダまで舟に乗っている間だけになってしまったのです。本当にしばらく休んだことになりました。でも、この休みは弟子たちに必要な休みでした。必ずしも長い休みこそが休みではありません。本当はしばらく休むことが私たちの人生を潤してくれます。一休み、しばらくの散歩、しばらくの昼寝、十分休みであっても私たちの生活に余裕を与えてくれます。寂しい所、一人で祈れる所、うるさい雑音が聞こえない所でしばらく休むことは再充電になります。それはRecreation、新しい創造、新しい歴史を作り出す時間となります。イエス様はしばらく休むことによって羊飼いのいない羊のような群衆をあわれみ、助ける力を得られました。
ですから、私たちは無理にしてもしばらく休む時間をとる必要があります。電話のコードをはずして家族ともに交わりながら休む時間も必要でしょう。一緒に賛美しながら休むことができるなら、なんと素晴らしいことでしょう。本当に素晴らしい休みは霊的な交わりにつながる時ではないでしょうか。私はイエス様とともに休むことこそ、本当の休みになると思います。そういう面で安息日の礼拝は真の休みであると言えます。たまに礼拝の時にも携帯電話からピーピーとベールが鳴りますが、人生をそれほどにあわただしく生きなければならないでしょうか。礼拝の時だけでも、この世のさまざまなことから離れてイエス様と休むことができるように祈ります。できれば、教会にはいると携帯の電源を切って休むことができればいかがでしょうか。ここで、イエス様は言われます。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」イエス様と休むとき、たましいに安らぎがあります。そこから新しい力が沸いてきます。

?.あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい(35-44)
 イエス様は舟でしばらく休むことによって力を得て羊飼いのいない羊のような群衆をあわれみ、彼らを教え始められました。弟子たちもイエス様に協力していたでしょう。そのうち、もう時刻も遅くなりました。35,36節をご覧ください。「そのうち、もう時刻も遅くなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」とあります。弟子達はお腹がすいていてグーグー鳴りましたが、がまんしていたようです。しかし、時刻も遅くなったので、それ以上がまんできず、イエス様と群衆との間に入り込んで口を開きました。「ここはへんぴな所で、もう時刻も遅くなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」彼らは自分たちに食べ物をくださいと言わないで群衆のことを心配していたようです。群集を深くあわれんでおられるイエス様の影響を受けていたでしょう。「自分さえ飯を食えばよし」ということではなく、人の食べる物を心配することは素晴らしいことです。特に弟子たちの提案は現実をよく把握した提案であり、合理的な提案でした。しかし、イエス様はこんな弟子達に何と命じられましたか。
37a節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」イエス様も現在の状況をよく知っておられました。ところがなぜイエス様は弟子達にこのように命じられたのでしょうか。それは羊飼いのいない羊のような群衆を深くあわれまれたイエス様の心、牧者の心を持たせるためでした。「牧者の心」とは「使命感」とも言えるでしょうか。弟子たちが霊的な指導者になるためには「使命感」を持たなければなりません。「使命感」とは自分がやらなくてもいいことを人のためにやることです。イエス様は舟から降りて弟子たちと一緒にもっと休むことができました。伝道のために一生懸命に働いた弟子たちと休むことは非難されることでもありません。むしろ、イエス様には少しも休む時間を与えないで自分たちの必要だけを求める群衆の方が悪いです。イエス様が群衆を深くあわれんで教えなくても、それは問題になりません。しかし、イエス様は群衆をご覧になって彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれんでくださいました。今、助けなければならないあわれな人たちだと思われました。ご自分のことより、群衆のことを深く考えられたのです。このように「使命感」とは自分の都合より人のことを考えることです。どうしても人を助けようとする心です。神様のために、人のために働こうとすることです。人の問題を自分の問題のように思います。人の悲しみが自分の悲しみとなり、人の痛みが自分の痛みとなります。それで、どうしても自分の方から助けようとするのです。それを「使命感」というのです。イエス様はその使命感に燃えておられました。ですから、もう時刻が遅くなっても、羊飼いのいない羊のような群衆を助けておられました。そして、弟子たちもそのような使命感を持つことを願われました。そこで、イエス様は言われました。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
イエス様は私たちにも言われます。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい」。イエス様は私たちが使命感を持って生きることを願っておられるのです。私たちはキャンパスに行って伝道しなくても問題になりません。実際に、私自身も一週間の生活を考えてみると、自分の生活だけでも忙しいから長く休みたいです。週末に長く休んでも非難されることではありません。わざわざB.Aのために、SBCのために兄弟姉妹たちを招かなくても、それは問題になりません。しかし、イエス様は私たちに「あなたがたであの人たちに何か食べる物をあげなさい」と言われます。キャンパスの兄弟姉妹たちに対する使命感を持つことを願っておられます。「私でなければだれが彼らに霊的な糧を与えるだろうか、私でなければ彼らは食べることができない、私でなければ彼らのたましいは滅んでしまう」という使命感を持つことです。そして、使命感を持っている人が神様の力を体験するようになります。?サムエル記17章を見ると、ダビデは使命感に燃えていました。ペリシテ人が戦いのために軍隊を招集した時、サウルとイスラエル人は彼らを迎え撃つために戦いの備えをしました。ところが、イスラエルはゴリヤテの前で何もできずただ恐れていました。そこに、ダビデは行きました。ダビデは兄たちにお弁当を届け、兄たちの安否を調べるために行きました。ですから、彼は戦わなくても何も問題になりません。しかし、少年ダビデは使命感に燃えていました。いける神の陣をなぶるゴリヤテを自分で倒さなければならない、自分でやらなければならないと思ったのです。そこで彼はゴリヤテに立ち向かいました。すると奇跡が起こりました。石一つと石投げによってゴリヤテを倒し、イスラエルに大勝利をもたらしたのです。イスラエルが大勝利をおさめたその日の夜、イスラエルの全国民がダビデを称えているその夜、ひとりで屈辱を味わっている人がいました。サウル王です。彼が「なぜ、私は何でできなかったのか、少年もできたのに、私は何でできなかったのか。」と思うと、本当に悲しくなりました。その悲しみは憤り、憎しみに変わるほどになりました。では、なぜ勝利はダビデのものになったでしょうか。能力でしょうか。腕の腕力でしょうか。いいえ。少年ダビデにはそういう能力、力もありませんでした。むしろ、サウルは美男で背の高い人でした。力ある人でした。武器もありました。王として軍事力もありました。ですから、サウルが勝利できなかった理由は能力ではなかったのです。
私たちは何かできないと、自分には力がない、実力がない、賜物がないといいます。環境が良くないと思います。しかし、失敗の原因は能力にあるのではありません。使命感がないからです。あれこれの条件や環境だけを考えると何もできません。特に少しでも自分に有益になることだけを求めてやろうと思う人は、決して神様の力を体験することができません。しかし、ダビデのように、神様のために、人のために自分でやらなければならないと思う使命感を持っている人は神様の力を体験することができます。奇跡を体験することができます。ですから、イエス様は弟子たちが使命感に満ちた人になることを望んでおられました。それで、「あなたがたであの人たちに何か食べる物をあげなさい。」と言われたのです。頭で計算することより自分たちでやろうとする使命感を持つように助けてくださいました。
では弟子達はイエス様が「あなたがたで、あの人達に何か食べる物を上げなさい。」と言われた時、どのように受け取りましたか。37b節をご覧ください。「私達が出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人達に食べさせるように、ということでしょうか。」44節には男が五千人とあるので、女と子供をいれると、もっと多くなります。それだけの人のためにパンを買うというのは、大変なことです。一デナリは一日の労働賃金でした。二百デナリは半年分以上の給料にあたります。ところが貧しい弟子達にこんな大金があるはずがありません。またそんな大金で食料を求めるのは、よほど前から準備しておかなければ、突然町に買いに行っても買える物ではありません。ですから弟子達の答えは群衆を食べさせることができないということです。
 それではイエス様は二百デナリだけを考えながら絶望している弟子達にどんな方向を与えられましたか。38節をご覧ください。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」このみ言葉を通してイエス様が弟子達に教えようとされることは何でしょうか。それは信仰の行動を要求する御言葉です。イエス様は弟子達に「行って見て来なさい。」と言われました。弟子達は持ってない二百デナリだけ考えて何もしませんでした。頭でできないと考えて何もしないことと出来る可能性を捜して行動することとは全然違います。使命感に燃えている人は行動します。信仰も、使命感も理論ではありません。私達が1:1羊を得ようとしますが、そのためには現場であるキャンパスに行って見なければなりません。ヤコブ2:14はこのように言っています。「私の兄弟達。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救う事が出来るでしょうか。」
弟子達は行って五つのパンと二匹の魚を持って来ました。これは一人前の食事に過ぎないものです。でも自分たちで行って持って来たものです。ほんとうにみすぼらしいものでも自分たちでイエス様に持って来ると驚くべき奇蹟が起こります。五つのパンと二匹の魚ぐらいは誰でも持っているものです。ところが問題はこれを主に持って来るかどうかの問題です。足りなくてみすぼらしいものでも自分の祈りと真心、時間を主に捧げる時、主はそれを大きく祝福して下さいます。
 弟子達が五つのパンと二匹の魚を見つけて主に捧げた時、イエス様はそれを取り、天を見上げて祝福を求められました。これは神様への感謝の祈りです。そしてパンを裂き、人々に配るように弟子達に与えられました。また、二匹の魚もみなに分けられました。その結果、どんな大きな御業が起こりましたか。42節をご覧ください。「人々はみな、食べて満腹した。」とあります。私たちも礼拝の後にある食事の時は「お替り、お替り」としながら食べますが、人々はみな満腹しました。それでも、食べた残りが十二かごにいっぱい取り集めたほどになりました。ことは神様がどんなに豊かに祝福してくださったかがわかります。男だけで五千人である群集だから女と子供を入れると一万人を越えると思われる多くの人々をイエス様は五つのパンと二匹の魚を持って食べさせられました。このイエス様は天と地を創造された全能なる神様です。この神様は私達のささげる小さな祈りや信仰も祝福して下さり、この国のキャンパスの兄弟姉妹達を満腹させることが出来る方です。ですから、私たちはイエス様とともにしばらく休みの時間を持ちながら、自分で兄弟姉妹たちに仕える時、驚くべき神様の力を体験することができます。奇跡は起こります。それは使命感に燃えている人々に起こります。

 結論的に、イエス様が羊飼いのいない羊のようにさまよっていた私たちを深くあわれみ、御言葉を教えてくださり感謝します。御言葉によって私たちを救い、真の休み、平安を与えてくださり感謝します。どうか、私たちがイエス様とともに休む時間を大切にしながら力を得て使命感に燃えている人として生きることができるように祈ります。特に自分でキャンパスの若者たちに何か食べる物を上げようとする使命感に満たされるように祈ります。その使命感によって兄弟姉妹たちをB.A、SBCに招き、神様の奇跡を体験することができるように祈ります。